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● ようこそ、インターネット歴史館へ (館長よりごあいさつ)
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ようこそ、インターネット歴史館へ (館長よりごあいさつ)
本歴史館は、織田信長による尾張統一がテーマです
「地図で知る 織田信秀・信長の尾張統一 インターネット歴史館」にお立ち寄りいただき、ありがとうございます。当館は、織田信秀・信長父子が、いかにして尾張国の統一を成し遂げたのか、その過程を、可能な限り史実に基づいて理解することを目的に制作した、私設歴史館です。
なぜテーマが織田信長の尾張統一なのか。それは、信長の後年の天下統一過程は良く知られているのに対し、同じ程度の年月を要した尾張統一の過程は、世間にあまり理解されてはいないように思われるからです。少なくとも本歴史館の館長自身、たいして知らずにおりました。
織田信長の尾張統一は、父の織田信秀抜きでは語れません
なぜ信秀・信長父子なのか。それは、尾張の統一は父子2代をかけて成し遂げられたことであるからです。
信秀は、尾張南西部の地方領主の地位から出発して、尾張一の戦国武将まで勢力を拡大しましたが、生涯、「守護の家臣の重臣」にとどまりました。しかし、父・信秀の勢力拡大があったればこそ、子・信長は、守護代を滅ぼし守護を追放し尾張国内の他勢力も打ち破り、尾張の戦国大名となりました。
ないのなら 作ってしまえ 歴史館
本館の館長は、旧尾張国・名古屋の住人です。名古屋やその近辺には、当然ですが、信長やその関係者にゆかりの地が各所にあります。そうした場所を散歩で訪れているうちに、自分は信長の尾張統一の過程をあまりにも知らない、と気づきました。
もうひとつ、旧尾張国内には、勝幡・那古野 (名古屋)・清須・小牧と、信長自身が居城した場所が4か所もありながら、その尾張統一の過程の全体像を分かりやすく説明してくれている博物館や資料館などの施設がないことにも気づきました。
本歴史館の展示物は、織田信長、織田信秀に関する地図
こうして作った信秀・信長の尾張統一の過程が分かる地図は、皆さんのお役に立つかもしれない、それならまだ存在していない施設の代わりに、信秀・信長に関する地図を展示物にしたインターネット歴史館を作ってみよう、と考えた次第です。
どんな地図かというと、こんな地図です。
例1: 「那古野城と名古屋城」の地図
織田信秀・信長が居城とした那古野城と、江戸期~現在の名古屋城の関係を示した地図です。Google Mapの航空写真に、情報を書き加えています。書き込んである情報は、どういう資料に基づいているのか、詳しくは「第2室 織田信秀 2-4 那古野城の奪取」のページをご覧ください。
例2: 桶狭間合戦の地図
国土地理院のデジタル標高地図という、高低差がわかる地図に、情報を書き加えています。どういう資料に基づいてこの地図を作成したのか、またそれぞれの記号や番号は何を意味しているのか、この地図から読み取れることは何か、詳しくは「第3室 織田信長 3-11 桶狭間合戦 2 合戦の経過」のページをご覧ください。
本歴史館の第1室・第2室・第3室では、それぞれのトップページ以外の各ページに、こうした地図を必ず1枚~数枚、展示しています。本歴史館の地図とその説明が、少しでも皆様のお役に立ちましたら、誠に幸いです。
なお、本歴史館の館長は、単なる好事家であって、プロの研究者ではありませんので、本歴史館の記述には誤りがある可能性が十分にあります。そうしたご指摘は大歓迎です。
本インターネット歴史館について、ご指摘・コメント等ありましたら、ぜひ下のEメールアドレスあてにお知らせください。(ただし、スパムメール対策の表示をしています。下のアドレスをコピー・貼付け後、★を@に修正して下さい。)
→ rekishikan★nobunagamaps.com
地図で確認する信長の尾張統一 インターネット歴史館
館長 敬白
本歴史館での引用や地図などについての原則
本歴史館では、多数の地図を掲載しています。また、史料や研究書から多くの引用を行っています。そうした地図の作成・掲載や引用については、下記のルールで行っています。
1. 史料や研究書で、歴史的事実(史実)をできるだけ確認
信長ほどの有名人であれば、昔から小説も多数書かれ、NHKの大河ドラマにも何度も取り上げられています。歴史小説や大河ドラマは、一応の史実に基づいているとはいえ、多くの虚構を含み、史実と虚構は区別されずに語られています。虚構部分まで史実として信じられ、それが常識化していることも少なくありません。 インターネット上では、そうした伝説や虚構に基づく記述も多く出回っています。
一方、史料 (古文書や城跡など) の発掘・再発見がどんどん進んで、新たな歴史的事実が確認されています。本館では、必ず信頼性の高い史料や研究書等(信頼性の高い史料に基づいて論考を行っているもの)による歴史的事実の確認を心がけ、史料の裏付けのない読み物や伝説には頼らないようにしています。
2. 研究書や史料からの引用
引用をする際、短い語句ならそのまま引用していますが、長いものは要約引用、つまり内容を要約して紹介しています。実際には、要約引用の箇所が圧倒的に多くなっています。また、史料の文章そのままでは分かりにくい場合は、原文の漢字を「ひらがな」にしたり、逆に「ひらがな」を漢字にしたり、漢字を現在の当用漢字にしたり、あるいは、現代語訳を行っています。要約や現代語訳が適切ではない場合は、すべて本歴史館に責任があります。
引用している箇所は、短い文章なら本文中に「 ・・・ 」と、カッコ付きで表示していますが、長い文章はすべて、下記のように別段落で色付けで表示しています。地図をほぼそのまま引用している場合も、同様に色付けで表示しています。
(引用している文章、
あるいは、地図等でほぼそのまま引用している場合)
なお、引用・要約を行った研究書等の著者と著作名は必ず明記していますが、その研究書の本文が典拠としている史料名やページ数までは記しておりません。その代わりに、本館の第4室で、本歴史館が参照した研究書等の詳細情報を記載しています。また、引用・要約中の〔カッコ内〕は、本歴史館による注記です。
3. 地図について
本歴史館の主要展示物は地図です。その大部分は、史料および研究書等をより良く理解するため、本館館長が、Google、Yahoo、あるいは国土地理院などの地図・航空写真の上に、史料や研究書にある情報を記入して作成したものです。記入内容や位置に誤りがある場合は、すべて本館館長に責任があります。 研究書等から地図をそのまま引用しているものもありますが、その場合は、出典を明記しています。
4. 内容の追記や修正などについて
本歴史館の館長が、内容を修正する必要に気づいたら、随時内容の追記や修正を行う可能性があります。また、修正履歴は、記載しません。その点はご理解いただきますようお願いします。
歴史館の各室へ
館内案内
本歴史館の全体構成を整理しています。本であれば、「目次」にあたります。また、本歴史館の全ページについて、各ページの簡単な内容紹介も行っています。
ここは飛ばしていただいて、第1室~第4室に直接飛んでいただいても、全く構いません。一方、ここから、どのページを見たいか決めていただくこともできます。
第1室 戦国尾張 ー 織田信秀・信長時代の尾張国
織田信秀・信長の時代、尾張と美濃の国境は、現在の愛知・岐阜の県境よりずっと美濃国(岐阜県)側に食い込んでいた、ということはご存知ですか? あるいは、信長の父・信秀は「守護の家臣の重臣」である地方領主の一人に過ぎなかったことは?当時の尾張国の領域や体制をあらかじめ知っていないと、信秀・信長の行動を十分に理解できない場合がありますので、まずはその時代の尾張国の状況を確認します。
なお、第1室には、下記のページがあります。
第2室 織田信秀 ー 尾張一の戦国武将
織田信長が天下統一に踏み出せたのは、そもそも尾張を統一できたから、ではなぜ尾張統一が出来たのかといえば、父・信秀が「守護の家臣の重臣」にすぎない地方領主の地位から出発して、一代で尾張一の戦国武将になったから、でした。信長の父・織田信長の事績を確認します。
なお、第2室には、下記のページがあります。
第3室 織田信長 ー 15年で尾張を統一
父・信秀が亡くなった時の信長は19歳、尾張を統一し美濃攻めも行って岐阜に移った時が34歳、本能寺の変で亡くなったのが49歳。信秀の死から自身の死までの30年間のうち、尾張統一と美濃進出には、その半分の15年間を要しました。織田信長はどのように尾張を統一し美濃に進出たのか、その過程を確認します。
なお、第3室には下記のページがあります。
第4室 資料室 ー 織田信秀・信長の史料・研究書等
本歴史館を制作するにあたり、どういう研究書や史料を参照したのか、それぞれどういう内容のものであるのかを、ご紹介しています。史料、と言っても、古文書などは全く読んでおらず、ごく基本的な『信長公記』や『三河物語』、『雑兵物語』などだけで、あとは全て研究書に頼りました。皆様の読書案内としてもお役に立てていただくことを、願っております。
なお、第4室には下記のページがあります。
よろしければ
お暇があれば、こちらもご覧ください。
もしも、本歴史館が少しでもお役に立った、と感じていただけたなら、ついでにこちらも覗いてみてください。ひょっとしたら、何かのお役に立つかもしれません。
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実は、戦争目的の実現では大失敗、世界的な観点からは、東アジアの状況に日露戦争を大きく上回る影響を与えたと言われています。
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