4-15 創作物・偽書とその批判

 

このページは、実際には歴史小説であったり偽書であったりしているのに、史料として扱われることもある著作と、それらが史料ではないことを指摘している研究書についてです。

 

 

偽書、または史料もどきの創作物と、それを指摘した研究書

例えば、司馬遼太郎氏の 『国盗り物語』 といえば、誰もが、それは「歴史小説」であって史料ではない、と知っています。NHKの大河ドラマも、やはり創作物である「歴史ドラマ」であるとはっきりしています。ほとんどの方は、歴史小説も歴史ドラマも、どこまでが史実で、どこからフィクションなのかが明らかではないだけで、必ず創作・フィクションが入っている、と分かった上で楽しんでいます。一部に、フィクション部分も史実だと信じている方がおられるかもしれませんが、そこまで史実だと信じられる小説やドラマを作った作者は、大したものです。

一方、実際には歴史小説であるのに「史料」であると思い込まれているものは、思い込みが正される必要があります。ましてや、史料と思い込まれるように意図を持って古文書の体裁で書かれたものは悪質であり、偽書として批判される必要があります。

ここでは、実質的に歴史小説であるのに、長年「史料」だと思い込まれてきたものの一つとして 『甫庵信長記』 を、史料の体裁をとった偽書として 『武功夜話』 を、そしてそれらが史料ではないことを指摘した研究書を取り上げ、内容を紹介いたします。

 

小瀬甫庵 撰・神郡 周 校注 『信長記』 上・下 現代思潮社 1981

いわゆる 『甫庵信長記』 です。国会図書館のデジタルコレクションからは、江戸時代に出版されたものをインターネットで読むことができますが、校注がないので、やはり、読むにはこの現代思潮社版を、古書で入手するか図書館で借りて、ということになると思います。

本書について、「小瀬甫庵 撰」とあるのは、本書が、太田牛一の 『信長公記』 が「粗記」であり「漏脱なきに非ず」で「重撰」した(本書の「記」)、という建前であるからと思われます。しかし、実際には 『信長公記』 にフィクションを大幅に追加した歴史小説でした。

『甫庵信長記』 の出版時の事情について、すぐ下に挙げています藤本正行 『信長の戦争』 は、下記の指摘を行っています。

甫庵が 『甫庵信長記』 を刊行したのは、林羅山の序文の年紀により、慶長16年 (1611) 12月頃と考えられる。一方、〔『信長公記』 の著者である太田〕牛一の消息が途絶えるのは、その前年の慶長15年 (1610) である。この事実ははなはだ暗示的である。あえて忖度すれば、牛一は慶長15~16年頃に死去し、それを好機として甫庵は 『甫庵信長記』 を刊行したのではあるまいか。

そのほか、『甫庵信長記』 の多くの問題点については、すぐ下の藤本正行 『信長の戦争』 の説明をご参照ください。

本歴史館では、以下の各ページで、太田牛一の 『信長公記』 と 『甫庵信長記』 の記述を比較し、『甫庵信長記』 がどれだけフィクションを付け加えているか、確認しています。

● 稲生合戦 (「第3室 織田信長 3-7 稲生合戦と側室」)

● 浮野合戦 (「第3室 織田信長 3-8 岩倉落城・守護追放・信勝殺害」)

● 桶狭間合戦 (「第3室 織田信長 3-10 桶狭間合戦 1 合戦の準備」)

● 同 (「第3室 織田信長 3-11 桶狭間合戦 2 合戦の経過」)

実際に両者の記述を読み比べてみると、『信長公記』 は史料だが 『甫庵信長記』 は歴史小説だ、とご理解いただけると思います。

 

藤本正行 『信長の戦争 - 『信長公記』に見る戦国軍事学』 講談社学術文庫 2003
(初刊 『信長の戦国軍事学』 JICC出版局 1993)

信長の戦争』 カバー写真

信長の生涯に関する史料として高く評価されてきた太田牛一の 『信長公記』 は、信長の軍事面でも活用されるべきことを指摘し、桶狭間合戦を始めとする信長の合戦の見方を全く変えることになったのが本書です。当然のことながら、『甫庵信長記 』批判の書でもあります。

本書中では、『甫庵信長記』について下記が指摘されています。
• 『甫庵信長記』の成立事情と、『総見記』を始め参謀本部『日本戦史』への悪影響
• 桶狭間合戦での義元上洛説・信長奇襲説の創作
• 美濃攻めでの「秀吉の墨俣一夜城」の根本史料となったとの「錯覚」
• 長篠合戦での鉄砲3千丁・3段撃ち「新戦術」説の発端

本書の全体について、詳しくは、「第4室 1-1 『信長公記』 とその研究書」のページをご参照ください。

 

 

 

 

 

 

 

吉田蒼生雄 全訳 『武功夜話 ー 前野家文書』 本巻4・補巻1 新人物往来社 1987~88

下に挙げている 『武功夜話』 批判の書が何冊か出るまでは、新史料として大変にもてはやされたようです。批判書が出て偽書であるとの認識が広まった現在でも、他の史料にはみられない記事があるという理由で、一部に本書を擁護するような記述が見られます (他の史料にはみられない話が書かれているのは、全ての歴史小説=創作物に共通する特徴だと思うのですが)。

本歴史館で参照している小和田哲男氏や横山住雄氏の著作中にも、『武功夜話』 から引いている箇所があり、気になりますので、ここに取り上げたいと思います。

『武功夜話』 の元である「前野(家)文書」は、「武功夜話」と題されている文書のほか、他の文書類を含むもので、その全体について 『武功夜話』 の書名で出版されました。元となった「前野文書」については、しばしば「愛知県江南市の吉田家の古い土蔵が伊勢湾台風で崩れたために発見された」と紹介されています。しかし、この新人物往来社刊行の 『武功夜話 1』 の「はしがき」を見ますと、それは正確ではないようです。

以下は、本書の「はしがき」(「前野文書」の所有者の弟であり本書の「訳者」である吉田蒼生雄氏による)からの、本書出版の経緯に関する説明の要約です。

● 〔訳者の〕父は、生前に、土蔵に保管されている夥しい古文書を気にかけながら、整理できないまま病に冒され、昭和30〔1955〕年、世を去った。
●生前、私たち兄弟に、先祖のことや古文書のこと、祖父から聞いた聞き伝え等を、折につけ話してくれた。
● 昭和34〔1959〕年、伊勢湾台風のため、土蔵の壁が崩れ落ちてしまい、土蔵内を整理したとき、生前の父の願望を思い出した。
● 10年ぐらい前〔1977年ごろか?〕から兄が整理にかかり、古文書の中から「武功夜話」等を解読し出版する運びとなった。
● 私は、昭和28〔1953〕年に前野の地を離れ、本業の寸暇を浅学に鞭打って10年、解読に努め前野家文書「武功夜話」として、ここにようやく完成した。

つまり、『武功夜話』 を出版するに至った経緯は、下記であったとのことです。
● 訳者一家は、元々、夥しい古文書の存在を知っていた、また、元々は前野姓で戦国武将の末裔、との言い伝えを、父から聞いて知っていた。
● 伊勢湾台風時に土蔵が崩れ落ちたことが、土蔵内にあった文書の整理を進める機会となった
● 実際の整理は、出版に先立つ10年ほど前・1977年ごろに、訳者・吉田蒼生雄氏の兄・龍雲氏が開始し、訳(書き下し)は、1977年ごろから1987年にかけて、吉田蒼生雄氏によって行われた。

また、この「前野文書」の成り立ちについては、同じく「はしがき」の中で、吉田蒼生雄氏は下記のように説明しています。(分かりやすくするため、「はしがき」の記述を整理・一部の順序を並べ替えて要約しています。)

● 「武功夜話」等は、当家16代吉田孫四郎雄翟 (かつかね) が編纂。
雄翟は、天正12〔1584〕年、織田信雄家臣・小坂助六雄善 (かつまさ) の長男、尾張国丹羽郡前野村(現 江南市前野)生まれ。
15歳の時、関ケ原の合戦に父雄善とともに、福島正則幕下となり初陣。
雄善の父、すなわち雄翟の祖父・小坂孫九郎雄吉 (かつよし) は、『信長公記』 の作者・太田牛一と昵懇の間柄であった。
● 慶長7〔1602〕年、父雄善は、松平忠吉の家臣の時、清須城中で不祥事をおこし、浪人となって前野村に蟄居。
雄翟は、前野村に帰り、親の跡を襲い庄屋職、小坂姓から吉田姓に変える。
● 親・雄善は、隠世の日々、古文書を整理して一書となすために執筆していたが、慶長10〔1605〕年に他界。
雄翟がその後を承け次ぐ。雄翟の娘・千代が編纂を手伝う。
雄翟は、明暦4〔1658〕年、73歳で死去。千代は寛文7〔1667〕年、キリシタンで殉教。

これからすると、原典の「前野文書」は1602年頃から、それ以前の古文書を見ながら書き始められ、その後60年ほどにわたって子・孫まで受け継がれつつ書かれていった、という説明です。その説明通り、本当に江戸初期に書かれたものであるなら、確かに価値があるでしょう。

そこで、本歴史館の対象期間について、『武功夜話』 を読んでみました。信長の岐阜入りまでの期間は、『武功夜話1』 中の「武功夜話」第1巻~第3巻と第4巻の冒頭のみですが、方々に突っ込みどころが多く、また記録というよりは余りにも描写的な文体でもあり、偽書、あるいは史料の体裁をとった歴史小説、という印象しか持てませんでした。

本歴史館の本文中では、「第3室 織田信長 3-7 稲生合戦と側室」のページ中で、『武功夜話』 の稲生合戦の記述は 『甫庵信長記』 の記述を前提にして、それををさらに盛っていて、明らかに無理な舞台設定になっていることを指摘しました。

以上の出版の経緯や、「前野文書」の成立の事情をご理解いただいた上で、更に、下に挙げました 『武功夜話』 批判の2書の内容を読んでいただくと、『武功夜話』 が、史料としてはいかに怪しい本であるかを、よくご理解いただけるのではないか、と思います。

 

藤本正行・鈴木眞哉 『偽書 『武功夜話』 の研究』 洋泉社 2002

『偽書 『武功夜話』 の研究』 カバー写真

昭和62 (1987) 年に 『武功夜話』 が刊行されると、同書の主人公である前野長康とその一族が信長や秀吉に仕えた関係から評判となり、NHKや朝日新聞などで第一級の史料と喧伝され、多くの作家が 『武功夜話』 をネタにした時代小説を執筆、大河ドラマの原作にもなっただけでなく、大学教授を含む歴史研究者のなかに 『武功夜話』 の史料価値を高く評価する方々もいた。ところが、実際に読んでみると、偽書の可能性があるので研究する (ここまで、本書の「まえがき」) ー というのが本書の目的です。

本書の冒頭で、『武功夜話』 の特徴として、下記の7点が指摘されています。

① 戦国時代らしくない文体で書かれている
② 戦国時代らしくない用語や表現が散見する
③ 戦国時代らしくない発想 (価値観) で書かれた記事がある
④ 登場人物の官職をしばしば誤記している
⑤ 年紀が必ずしも正確ではない
⑥ 同じ 『武功夜話』 所収の記事間にしばしば矛盾がみられる
⑦ 良質史料のよる裏付けがなく、良質史料と矛盾する記述がみられる

上記の①~⑦の特徴については、本書中に具体的に多数の指摘がなされていますが、詳細は省きます。

とくに決定的と感じられたものだけを上げれば、「⑦ 良質史料と矛盾する記述」の1例として、『武功夜話』 は濃姫の輿入れを弘治2 (1557) 年春3月としていること。それでは、道三は翌月に義龍と戦って敗死する斎藤家のゴタゴタの最中となるし、また結婚後しばらくしての富田聖徳寺での信長と道三との会見の事実からしても、この記述は誤り、と指摘した上で、前野一族が出入りしていた生駒屋敷に信長も出入りしており情報が得られた、という状況設定を維持するために、濃姫の輿入れの年代をずらし吉野は生駒屋敷に居つづけることになってしまった、という「武功夜話」の作者の事情が推測されています。この点からだけでも、『武功夜話』 が極めて怪しい書き物であることが分かります。

また「② 戦国時代らしくない用語や表現」に関連し、戦時中の「戦陣訓」を想起させる「虜囚の辱め」の語、旧帝国陸軍の「戦闘詳報」などに近い印象を与える記述箇所、「鉄砲隊」など幕末以降に普及した軍事用語としての「隊」の使用、絵図中での高さ・深さなどについての近代的表示や軍隊の動きの矢印表示、明治20年代の軍歌 「日清談判」 中の「城下の盟」の語などを指摘しています。「『武功夜話』 の成立に、戦前の軍隊経験者か、少なくともその方面の知識を持っている人間がかかわっていると考えられる」と推測しています。

本書全体、非常に説得力のある指摘がなされていると思われます。『武功夜話』 に関心のある方はぜひお読みください。なお、以下は、本書を読んだ結果、本歴史館が思いついたことです。

「前野家文書」の所有者の弟・吉田蒼生雄氏による訳業は77年頃から、「前野家文書」中の 『永禄墨俣記』 が墨俣町によって発行されたのが1978年、『武功夜話』 の新人物往来社による刊行は1987年。

一方、藤本正行氏が、桶狭間合戦について 『信長公記』 に基づき信長の迂回奇襲ではなかったことを指摘した論考を発表したのが1982~84年、「永禄9年・墨俣一夜城説」は1907(明治40)年に成立したことを指摘した論考を発表したのは1985年、他の論考も含めそれらが1冊にまとめられて 『信長の戦争』(初刊時は『信長の戦国軍事学』) が刊行されたのは1993年。

つまり、『武功夜話』 の出版は、藤本氏の見解が世間に広まり受け入れられるのに少し先を越してしまった、と言ってよさそうです。もしもこの先行がなければ、『武功夜話』 の「作者」も出版社も、刊行を踏みとどまったのではなかろうか、と思うのですが、いかがでしょうか。

本歴史館では、以下のページで、本書からの引用等を行っています。

第2室 織田信秀 2-11 道三との和睦、信長の結婚・濃姫

第3室 織田信長 3-14 森部・十四条合戦 - 美濃攻めの開始

 

勝又 公 『「武功夜話」異聞 ー 偽書『武功夜話』の徹底検証』 批評社 2008

『「武功夜話」異聞』 カバー写真

『武功夜話』 が偽書であることを指摘した本として、もう1冊上げておきます。

本書の著者は、愛知県扶桑町に在住の郷土史家・歴史研究者です。下の地図に示されている通り、『武功夜話』 の元となった「前野文書」の発見地は、江南市の中でも隣の扶桑町に近い地域でした。本書は、同じ地域の郷土史家同士の付き合い・コミュニケーションなしには知り得なかった情報も反映されている点で、上掲の『偽書 『武功夜話』 の研究』 にはない指摘が含まれています。

例えば、前野文書が「発見」された当時の地域の歴史愛好家仲間の反応として、著者は以下のように書いています。

1987年に全訳本が発刊された 『武功夜話』 であるが、それ以前、尾北 (尾張北部) 地方の歴史愛好家の間で一時、『武功夜話』 を含む前野家文書が話題に上った。当時は、「それ程のものが今になって発見とは一体どういうことなのか」、「先祖に名を揚げた武将があった家柄だとは今まで誰も耳にしたことがないのに」という懐疑的な評判もあって、半信半疑のまま経過した期間がややあった … (同書 「はじめに」)

上述の 『武功夜話』 の「はしがき」に記された出版の経緯と読み比べてみると、この地元歴史愛好家の反応はまことに対照的です。

著者は本書で、『武功夜話』 中の「前野氏系図」が他家からの剽窃であることを始め、多数の問題点の指摘を行っています。そのうちで、特に大きなポイントは、以下の2点と思われます。

① 木曽川の流路問題
『武功夜話』 に含まれる「永禄寅年 (9〔1566〕年) 前野将右衛門長康花押付 尾張地方絵図」が描いている木曽川本流は、天正大洪水後の流路、しかも、昭和5〔1930〕年竣工の境川放水路まで描かれている。本文中にも「小越〔現・一宮市起〕渡り」とあるが、天正大洪水前には、起渡りはありえず、史実ではない。

(木曽川の流路問題について、詳しくは、「第1室 1-2 国境と木曽川の河道」のページをご覧ください。)

② 昭和29 (1954) 年の町村合併によって生まれた合成地名問題
『武功夜話』 中に「富加」という地名が記されているが、富加は、昭和29年の富田村と加治田村の合併で誕生した合成地名、うち富田村も、実は明治30 (1897) 年の5ヶ村合併による新地名で、それ以前には「富田」もなかった。

(現富加町にある加治田城・堂洞砦については、「第3室 3-16 犬山落城と中美濃進出」のページをご覧ください。)

本書には、更に、『武功夜話』 の実際の作者の推定に関する記述もあります。以下はその箇所からの抜粋です。

大照寺〔愛知県小牧市東田中〕の西隣の旧家前野森一家は、前野小兵衛定永の後裔で、佐々成政の城代家老であった小兵衛定永は成政の天正15年の肥後転封に伴い、金子50両と備前長船の銘刀を拝領して帰農。体に数十ヶ所の刀・矢傷を負っていた小兵衛は縁側で薬をつけ手当していたとの家伝と定永居士の菩提は手厚く今に護持されている。…

昭和24 (1949) 年夏、二人の郷土史家が小兵衛のことを聞きたいと大照寺と前野家を訪問して、寺の古記録や過去帳などを調べたが、従来の伝承以外には何も目新しいことは判らなかった。二人の郷土史家は、帰り際に、「一度遊びに来て下さい。書き纏めておきますから」と言って帰ったという。…

某郷土史家の一人は博識堪能で能筆家、『武功夜話』 の作者ではないかと噂される人物であることからすると、折角、小兵衛の伝記として纏めようとしたのにとんと来訪が無いのでふて腐れて 『武功夜話』 に取り込んだものではないかと思えるのである。

これも、同じ地域の郷土史家同士の情報交換がなければ出来なかった推定でしょう。著者は本書中で、「某郷土史家」で「『武功夜話』 の作者ではないかと噂される人物」の名前の公表まではしていませんが、本書を読むと見当がつきます。

ご参考までに、下は、本書に出てくる関係地の地図です。『武功夜話』 に登場する前野氏の所領地は、前野文書の「発見地」である旧丹羽郡「前野」ではなく、旧葉栗郡「前野」であった可能性が大きいようです。

『武功夜話』 関係地 地図

一方、著者によれば、「前野文書」が「発見」された吉田家について、「発見」時の当主の父は江南市に合併する前の古知野町の町長だった人、祖父は古知野町に合併する前の旭村の村長だった人で、地元の名家であったとのこと。しかし、大正14 (1925) 年発刊の 『古知野町誌』 の「前野小兵衛」に関する記述にも吉田家との関係は何ら示されていないので、著者は、「大正期に 『前野氏系図』 が存在したとは考え難い。『前野氏系図』 と 『武功夜話』 は相関関係にあり、『武功夜話』 に、昭和29年成立の合併地名「富加」が書き込まれていることと、『前野氏系図』 の捏造時期はほぼ同時期であったと見なして間違いないだろう」と推定しています。

『武功夜話』 は、史料であると嘘はつかず、歴史小説ですと言って発表していたら、ここまで話題にはならなかった一方、よく出来た仲々面白い小説だとして正当な評価が得られた可能性もあるように思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

このページが、本歴史館の最終ページです。本歴史館にお立ち寄りいただき、誠にありがとうございました。