前々ページでは、桶狭間合戦に至るまでの今川・織田両軍の準備状況や兵力などを、前ページでは、桶狭間合戦の経過の詳細を確認しました。ここでは、桶狭間合戦の総括として、義元の敗因および今川軍の撤退状況などを確認したいと思います。
信長の勝因ではなく、義元の敗因としているのは、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」、信長の勝ちは不思議の勝ちの一つであり、この合戦の勝敗の最大の決定要因は義元側の不手際にあったと思われるからです。
● このページの内容 と ◎ このページの地図
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勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
信長の勝因 - 藤本正行氏の説
藤本正行 『信長の戦争』 は、桶狭間合戦を次のように総括しています。以下は、同書からの要約です。
● 合戦当日の昼には、中嶋砦から東方の丘陵に、今川軍の一部(前軍)が進出し、善照寺・中嶋砦を制圧すべく、北西に向かって布陣、その背後(東方)の桶狭間山には義元の旗本が布陣していた。信長は、中嶋砦から東進して前軍に正面攻撃をかけた。この前軍が簡単に崩れ、義元の旗本も退却を始めた。追撃中に敵の旗本を捕捉した信長は、ここではじめて義元に狙いをつけ、ついに倒した。
● 義元には、価値は低いが明確な第一目標(付け城)と価値こそ高いが不明確な第二目標(信長の主力)とがあった。信長(第二目標)が戦場に介入してきた時点で今川軍は気づいたものの、目標の切替ができぬままに強襲を受けて惨敗した。(ミッドウェー海戦での日本海軍の惨敗と類似)
● 敵は労兵との信長の誤解を真に受け、部下たちは勇戦奮闘した。信長は、疲労した敵部隊を選んで叩こうとした。高望みをしなかったことが、結局は大勝利につながった。
● 今川軍の布陣状態から、義元の油断や無能という結論は引き出せない。信長不在の前提で作戦を進めてきた虚を衝かれ、前軍が粉砕されたとき、義元の旗本は健在であった。義元自ら旗本を指揮して、付近の今川軍が駆けつけてくるまで持ちこたえれば、勝負はあるいは逆転したと思われる、現実には、義元は旗本に守られて退却を開始した。義元や重臣たちが、“金持ち喧嘩せず”という、ごく常識的な判断にしたがった結果であろう。
この整理は、『信長公記』 の記述に合い、地図に見る現地状況にも良く適合しており、大変に説得力があると思います。ただ、「義元の油断や無能という結論は引き出せない」という点にだけは、本歴史館は同意いたしかねます。義元の側に敗因があったことが、この合戦の勝敗を決めることになった、と思われるためです。
負けに不思議の負けなし - 義元の敗因こそ重要
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と言われます。プロ野球の野村監督が引用して有名になった格言です。桶狭間での信長は、将兵への訓練、多数の合戦を通じての実戦経験、戦場における優れたリーダーシップと素早い決断など、おそらくは今川軍に勝る条件をいくつか持っていたと思われます。しかし、兵力は余りにも劣勢で、勝利の条件が十分に整っていたわけではありません。明らかに、「勝ちに不思議の勝ちあり」の一例で、運が味方したのだと思います。
一方、「負けに不思議の負けなし」なので、本合戦の勝敗の理由を考えるには、義元側の敗因を考察するのが適切と思われます。今も迂回奇襲説や、その派生形である別動隊迂回奇襲説などが絶えないのは、信長の勝ちが必然的であったと説明したいという意図から、義元側の負けの原因追及が不十分になっている論者が少なくないためではないか、という気がしています。
しかし、桶狭間合戦の多くの論書は、義元の敗因を論究していない
実際に桶狭間合戦に関する多くの論書を読んで、一番不思議に感じることは、それらの論書に共通して、信長方がどう動いたかには多大かつ詳細な関心が払われているのに、戦闘相手である今川方については、義元の本陣の場所以外は、ほとんど論究されていないことです。
今川軍は、桶狭間方面に展開していた2万人近くを具体的にどう配置・活用していたのかについては目もくれず、信長の2千人の動きにだけこだわって、信長の勝因を説明することには無理があるように思います。今川方の2万人近くの動きの中にこそ、今川方の敗因があったのではないでしょうか。また、今川方の敗因分析を行うことで、信長が拾うことができた幸運がどこにあったのかも、明確になると思われます。
その点で、前ページまでにご紹介してきた陸軍参謀本部による分析(『日本戦史・桶狭間役』)は、さすがにプロの軍人の合戦分析であり、内容がどこまで史実を反映した適切なものになっているかは別にして、手法としては大いに学べるものだと思います。陸軍参謀本部は、少なくとも両軍それぞれの動員兵力とその展開について分析し、信長軍2千人が相手にしたのは、義元本軍5千人だけで、実際の兵員数差ははるかに小さかったことを明らかにしました。誠に僭越ながら、桶狭間合戦に関する多くの論者は、改めて陸軍参謀本部のこの分析部分を読み直していただきますと、新しい発見が得られるのではないかと思います。
桶狭間合戦での今川義元の敗因
桶狭間での戦闘経過から見た、義元の直接の敗因
義元の敗因を考えるため、前ページの桶狭間合戦の地図を再掲します。ただし、ここでの説明のために、地図上の中島砦の東方に「X」という地点だけ、加えてあります。
この日義元は桶狭間で何をしようとしていたのかを改めて考えてみますと、尾張侵攻のミニマム主目的である那古野城奪回のステップとしての、鳴海・大高両城の信長方封鎖からの解放でした。そのうち、鷲津・丸根2砦の攻略と大高城の解放については、すでに合戦の日の朝に達成していて、残る丹下・善照寺・中島3砦の攻略と鳴海城の封鎖からの解放が、次の課題となっていました。
そこでまずは、この地図を眺めながら、戦闘の経過を作戦遂行の観点から再検討した時に浮かび上がってくる、直接の敗因についてです。原因が発生した時系列順に見ていきたいと思います。
① 5砦攻略を、大高作戦(2砦)と鳴海作戦(3砦)に分けたこと
義元の敗因の一つに、すでに「第3室 3-10 桶狭間合戦 1 合戦の準備」のページでも述べましたように、5砦を一斉攻略しなかった作戦選択の誤りがあったように思われます。
織田方の5砦の守兵は、合計で1000~1500程度、信長はまだ来ていません。一方、義元は桶狭間方面に2万人近い兵力を引き連れて来ていました。合戦の当日早朝、信長の野戦軍到着前の時点では、織田方の守兵の10~20倍もの大兵力であり、5砦の同時一斉攻撃を行ってまだ有り余る力がありました。そうしていたなら、信長が熱田で南方を眺めた時には、2本だけでなく5本の煙が見えていたのではないか、すると信長はその時点で、5砦救援の考えは捨て、熱田や那古野・清須を守るためにどうするか、戦術の再検討に入っていたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
② 鳴海作戦で重要なX点への兵の配置がまだ行われていなかったこと
もちろん、まずは大高作戦を実行して織田側の出方を見て、次に鳴海作戦にとりかかることも不適切とは言えません。ただし、大高作戦を鳴海作戦に先行して実施することにしたのですから、鳴海作戦はできれば戦わずして勝つ方向で兵を配置するのが適切であったのではないでしょうか。そのためには、大兵力による3砦同時攻略の準備を織田方に見せつけ、無理な戦いはやめて退こうと思わせることが重要であった、と思われるのですが。
大高作戦に続く目標となるのは、必然的に、鳴海作戦、すなわち、善照寺・中島・丹下の3砦の攻略と鳴海城の救出にあったはずです。早朝までに大高作戦を成功裏に果たしたわけですから、引き続きその日の午前中には鳴海作戦用の兵員配置に取り掛かるのが適切だったのではないかと思います。
鳴海作戦のための具体的な兵力配置ですが、今川方は、中島砦・善照寺砦を南西方から臨むR点をすでに押さえていました。これに加え、上の地図上で、両砦に対し、南東方から臨むX点や、東方から臨むP点の西側などにも配置を済ませていたなら、3砦に対し北側に逃げ道を残した上で圧力をかけられます。配置を早く行って織田軍に見せつけていれば、そもそも織田側からの攻撃を抑止出来ていたのではないかと思われるのです。つまり、鳴海作戦用の迅速な配置は、翌日の作戦実行のための迅速で漏れのない準備のみならず、織田軍からの反攻の抑止ともなる、一石二鳥の方策であった、と思われます。
鳴海作戦のための兵力は、十分にあったと思われます。前ページで見ましたように、参謀本部は、今川軍のうち約5000余が、清須方面前進兵であったとしています。実際のところ、大高作戦を遂行する時点では、清須方面への前進はまだ不要、それよりも鳴海作戦を確実に実施することの方が重要であり、この5000余を先にX点やP点に配置しておくのが適切であったように思います。
R点に加えX点・P点にも今川方の兵が展開しているのを見れば、信長側からの攻撃は明らかに無謀となるので、信長であっても、まずは突出点化していて包囲される可能性が高い中島砦からは兵を引いたでしょう。すると、翌日は順調に鳴海作戦を実施できていたでしょう。たとえ、上記の5000余は存在しなかったとしても、義元本軍の5000余の中からX点・P点配置兵を出すことは十分に可能だったと思われます。
19日の昼間、義元は、善照寺砦の東方方面、おそらくはX点・P点方面に、部隊を配置しようとしていた可能性もあるようです(藤本正行 『信長の戦争』 が指摘している「蓬左文庫所蔵の江戸期の戦場絵図」)。これが事実であったとしたら、今川軍の鳴海作戦のための配置は遅すぎた、もっと早い時間に、織田方から見える位置に出ているのが適切であった、と思われます。
③ 信長軍の中島砦からの出撃に対し、R点部隊が動かなかったこと
実際に信長軍が中島砦から出撃したとき、上の地図上のR点の今川部隊はなぜ攻撃を仕掛けなかったのか、これが最大の疑問です。R点の今川部隊には、信長軍の中島砦からの出撃は、確実に明瞭に見えていたはずです。
中島砦を出た信長軍は、上の地図上の1~4の方向へ進みました(雨を背に受けました)。『信長公記』 だけでなく 『三河物語』 も書いているように、今川軍からは実際に信長軍の動きが見えていました。このとき、R点の今川部隊は、進撃中の信長軍の側面を、または通り過ぎた信長軍を後方から、攻撃できます。圧倒的に有利な位置にいるのに、なぜ信長軍を攻撃しなかったのか、誠に不思議です。R点の今川部隊は、その日の早朝に鷲津・丸根両砦を攻略した部隊であったとしても、信長が熱田で立ち上る2本の煙を見てからすでに5時間ほどは経過しており、それなりの休息は取れていたのではないでしょうか。
その日早朝に鷲津・丸根両砦を攻略した今川部隊は、乱取りに行っていて戦場にはいなかった、という「乱取状態急襲説」がありますが、それについては、「第4室 4-9 桶狭間合戦に関する資料・研究書」の中の黒田日出男 『『甲陽軍鑑』 の史料論』 の項をご参照下さい。今川兵が乱取りに出ていた可能性は低く、またもし一部の兵が乱取りに出ていたとしても、今川の敗因を乱取りのせいにするのは無理があると思います。
今川方の事前の軍議では、信長自身が応戦してくるケースを想定しておらず、その場合の方策は何も検討されていなかった、という可能性もありそうです。しかし、もともと戦場では、ビジネスの世界と同様、想定外の展開が生じるのはよくあること。事前には想定されていなかったとしても、即座に効果的な対応を行っていけるか否かが、勝敗を決します。織田軍の攻撃に対し、なぜR点部隊を使わなかったのか、これが今川義元の最大の敗因であったように、また信長が勝ちを拾えた最大の理由であったように、思われます。
もちろん、信長は運だけで勝った、と申し上げているわけではありません。上述の通り、将兵への訓練、多数の合戦を通じての実戦経験、戦場における優れたリーダーシップと素早い決断など、今川軍に勝る条件をすべて上手く活用できたので、今川側のスキを上手くついて前線を打倒し、今川軍を崩壊に追い込むことが出来たのです。ただし、基本的に多勢に無勢、今川軍にスキが生じなければ、勝てなかったことに間違いはないので、信長の勝ちは、当然の勝ちではなく不思議の勝ちであった、と評価するのが適切であろうと思うのですが、いかがでしょうか。
背景にあった義元の敗因 - 意思決定の緩慢さ
上述の敗因、とくにX点への配置遅れや、R点部隊による絶好の攻撃機会の見逃しが発生した背景には、今川軍の意思決定の緩慢さがあったように思われます。この点については 『三河物語』 中に記述があります。以下は、その要約です。
● 丸根・鷲津両砦の攻略を決定するのに「やや久しく〔時間をかけて〕評定」
● 大高城への兵粮入れ後も「長評定」
● 大高城を守ってきた鵜殿長持の交代者として松平元康を決めた時も「やや久しく」評定
● ぐずぐずしていて決断が遅れた間に、敵の徒歩の兵は早くも数人ずつ山に登り始めるので、義元軍は我先にと逃げ出した。
● 義元はそんなことも知らずに弁当を食べていた
これが事実なら、3砦攻略の配置が遅れたのも不思議ではなくなります。とりわけ、信長が兵を率いて現れているのに長評定、では、R点の部隊を使うという機敏で適切な対応が取れなかったのも当然です。また、今川軍内の連絡も、きわめて悪かったようです。織田軍の動きは見えていたのに、対応方針が決められず、前線の今川兵は逃げ出した、と書かれています。この 『三河物語』 の記述は、『信長公記』 の記述とも矛盾がありません。
『三河物語』 の作者、大久保彦左衛門は、この桶狭間合戦の年に生まれていますので、自身の親世代の人たちから聞いた話であったと考えられますが、何と言っても、今川義元が討ち取られ松平元康 (家康) が岡崎に戻れることになった重大な合戦のことですから、この合戦に実際に参陣した親世代の人たちから何度も繰り返し聞かされてきたのではないか、と思われますが、いかがでしょうか。
『三河物語』 を素直に読めば、今川方は、戦場に現れた信長の兵力は5千よりはるかに少ないと把握していたのに、迅速に対応方針を決められず、また、今川軍内の相互連絡も悪く、結局、信長から攻撃を仕掛けられて、今川方が逃げ出すことになってしまった、と理解できます。
今川軍の長評定の根本原因は、軍師の不在
今川軍は長評定ばかりで、各部隊間の連携・連絡も悪く、結果として信長軍からの攻撃を許し戦線が崩れてしまう原因を自らつくりだしてしまったようですが、全体を掌握して適切な判断を迅速に下す有能な軍師がいなかったことが、その根本原因であったようです。義元は、部下の各将の意見をよく聞く民主的なリーダーだったのかもしれませんが、状況により即断即決が必須となる軍事判断には、民主的手法は不適切でした。
参謀本部 『日本戦史・桶狭間役』 は、今川の敗因として、義元は「豪邁にして大志あり、しかれども剛愎猜忌〔片意地で猜疑心が強い〕、将士を恤れまず〔あわれまず=思いやりを欠く〕、かつ累世の富強をたのみ驕傲」という通俗的な見解も挙げてはいますが、その前に、太原崇孚(雪斎)が弘治元年(1555)に亡くなって以後、今川の帷謀を参画する者がなかった点を挙げています。
太原崇孚(雪斎)の死と、桶狭間での今川義元の敗因との関係について、以下は現代の主要な研究書からの引用です。
横山住雄 『織田信長の尾張時代』
太原も寿命には勝てず、弘治元年(1555)閏10月10日に、60歳で富士市の善得寺で亡くなった。義元は、三河で勝ち続けたのは自分の力だと思ったであろうが、すべて太原の直接指導によるところであった。その過信が、太原没後4年半の桶狭間大敗へとつながった。
小和田哲夫 『今川義元 知られざる実像』
歴史に「もしも」はないが、あえて言えば、雪斎があと5年長生きしていれば、桶狭間において今川義元は…無残な死に方はしなかったのではないかと思う。うまくすれば今川義元は京都まで上れたかもしれない。雪斎はそれほどの人物であった。
太原崇孚(雪斎)の存在は、今川軍にとって非常に大きかったようです。雪斎太原崇孚に代わる軍師を持てなかったことが、桶狭間の今川軍の敗北の条件を作り出してしまったようです。やはり、「負けに不思議の負けなし」なのだと思います。
織田軍の戦後処理
海西郡荷之上の服部左京助による海上からの攻撃を撃退
桶狭間合戦では、連動して海上からの攻撃もありました。以下は、『信長公記』(首巻24)からの要約です。
● 河内〔海西郡〕二の江〔荷之上〕の坊主、鯏浦〔うぐいうら、弥富市〕の服部左京助、義元への支援として、武者舟千艘ばかり、大高の下、黒末川口まで乗り入れた。
● たいした働きもなく、帰途に熱田の湊へ船を寄せ、遠浅の海中から下り立って、町口へ火をかけようとしたところを、町人たちが寄り集まって数十人を討ち取ったので、仕方なく河内へ引き戻った。
「二の江とは弥富市の荷之上のことで、ここに一向宗の荷上山興善寺があり、地元鯏浦の服部左京助と組んで自治を進めていた」(横山住雄 『織田信長の尾張時代』)とのこと。「第3室 3-8 守護追放・岩倉落城・信勝殺害」のページで見ましたように、親今川の服部左京助に与したことが、尾張守護・斯波義銀の追放の原因となりました。服部左京助は、桶狭間合戦でも、義元に協力しようとしたようです。信長と河内の一向宗との対立は、後年の長島一揆鎮圧まで続きました。
この服部左京助の武者舟について、『新修名古屋市史2』(下山信博氏 執筆部分)は、「今川勢と合流を果たしていたならば、熱田などの沿岸の襲撃や、河川・潟などの多い尾張国内への侵攻に際して人馬・物資の輸送に貢献したであろう」と見ています。
今川軍の戦死者は3000人
今川軍の戦死者について、以下は『信長公記』(首巻24)からの要約・抜粋です。
● 信長は、御馬の先に今川義元の首をもたせ、日のあるうちに清須に戻り、翌日首実検を行った。首数3千余。
● 義元の同朋衆の一人を生け捕りにしていたので、首の一つ一つを誰々と言うのを書きつけた。
『信長公記』 は首数3000余としていますが、小和田哲夫 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付く』 は、他の史料から、2500人から3000人が討死、そのうち武将は500ほど、と見ています。今川軍は織田軍の兵力を上回る数の戦死者を出してしまった、ということになります。戦線が崩れて逃げ出した側は追いかけられて戦死者が激増する、という典型例でしょう。
今川勢の尾張からの撤退
今川義元が討ち死にしたことで、今川勢は尾張から撤退します。『信長公記』(首巻24)は桶狭間合戦の記事を次の文章で結んでいます。
去て、鳴海の城に岡部五郎兵衛立て籠もり候。降参申し候間、一命助けつかはさる。大高城・沓掛城・池鯉鮒〔知立〕の城・鴫原の城、5か所同時に退散なり。
このうち、鳴海の岡部五郎兵衛(元網)の立て籠もりについて、以下は小和田哲夫 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付く』の要約です。
● 義元の首だけは、〔首実検に立ち会った〕同朋衆・権阿弥に持たせ、駿府に送り返されている。
● そのいきさつ、『武徳編年集成』 の記述。尾州愛知・春日井・知多3郡の諸城を守る今川方皆逃亡したが、鳴海の城だけは岡部五郎兵衛が固く守り続けた。今川の元老が退去を諭したが、言うことを聞かない。信長は岡部の望みに応じ、僧10人に義元の首を持たせ、権阿弥をつけて鳴海に遣わし、ようやく城を得た。
● 岡部が、「義元の首を返してくれるまで籠城を続ける」といっていたことがわかる。
● 大久保彦左衛門忠教も 『三河物語』 の中で岡部元網を絶賛している。
● 桶狭間から持ち去られたのは首だけ、残る遺骸は義元の家臣たちによって駿府に運ばれることになった。時期が時期だっただけに、駿府まで運ぶことは無理だったのであろう、三河牛久保の大聖寺に埋葬することになった。これが「義元の胴塚」。
当時、動員可能兵力がまだ少なかった信長は、戦力の浪費を避けるため、話し合いで尾張国内の今川勢を撤退させようとしたものと思われます。しかし、鳴海の岡部五郎兵衛以外は、信長勢が動く前に、今川勢自ら見切りをつけて逃げ出した、ということであったようです。
今川勢が撤退した5城の地図
一応ご参考までに、『信長公記』 中で、今川勢が撤退した城としてあげている5城の地図です。
大高・鳴海両城は名古屋市緑区、沓掛城は豊明市、知立・鴫原(重原)両城は知立市にありました。長きにわたり織田対今川の係争地であった尾張・三河国境地域から今川が手を引いた、ということになりました。
1558(永禄元)年11月までに、信長は守護・斯波義銀を追放、岩倉勢を滅ぼし、弟・信勝を切腹させて、尾張の中心部を勢力下に置く戦国大名となりました。その1年半後の1560(永禄3)年5月の桶狭間の合戦では、運が味方して、長年尾張に脅威を与えてきた今川義元を討ち取ることができました。これにより、信長を取り巻く状況は大変化しました。
その新状況の中で、次は、桶狭間合戦後の徳川家康との同盟について確認します。