3-7 稲生合戦と側室

 

前ページで確認しました通り、1556(弘治2)年4月、信長の良き支援者であった舅・斎藤道三が長良川合戦で討死しました。すると、その影響はすぐに尾張国内に表れ、反信長派の動きが一気に活発化、家臣の離反もあり、信長の勢力範囲が急激に縮小します。しかし信長は、4ヶ月後の同年8月に稲生合戦で信勝派を破り、支配地域を回復しただけでなく、信勝に対する優位性を確立します。

道三の死は、そればかりか信長の個人生活にも影響を与えたらしく、信長は側室を持ちます。このページでは、舅・道三の死後数か月間の激変の過程を見ていきます。

 

 

道三死後2か月の大変化、信長は那古野城・守山城を失う

1556(弘治2)年5月、林佐渡守兄弟の信長からの離反

道三の死から1か月、信長の第一家老として最も有力な家臣であり那古野城主としていた林佐渡守と、その弟の美作守が、信長から離反します。以下は、『信長公記』(首巻18)からの要約です。

● 信長の一おとな〔家老〕林佐渡守・その弟林美作守・〔信勝配下の〕柴田権六が申し合わせ、3人で信勝を盛り立てようとして、既に逆心に及ぶとの風説が出ていた。
● 信長は5月26日に、〔喜六郎横死事件後守山城主とした〕安房守〔秀俊〕とただ二人、清須から那古野の林佐渡守のところへ来た。良い機会であり切腹させろと弟の美作守は言ったが、佐渡守は三代の恩のある主君を手に掛けることは出来ないとして、信長を帰した。一両日過ぎてから、反旗を立て、荒子・米野・大脇の城も一味となって信長の敵となった。

林佐渡守が信勝派に転じたことで、信長は那古野城を失っただけでなく、林兄弟の所領であった荒子・米野・大脇なども支配下から抜けることになりました。林兄弟からすれば、道三の後ろ盾を失った信長に先はない、と考えて、公然と離反の行動を行った、ということであったのでしょうか。

信長の第一家老の林佐渡守(秀貞)と美作守の兄弟は、天文23年1月の村木砦の戦いのさいに不平を言って出陣に不参加だったという前歴があります(「第3室 3-4 村木砦の戦いと西尾(八ッ面)出陣」)。後年、大軍団を配下に置いた信長なら、その時点で即座に処分していたと思いますが、この当時はまだ弱小勢力、林兄弟の兵力もあてにしていたので、簡単に切るわけにはいかなかった、ということでしょうか。林佐渡守は、那古野城主にしてもらっていたわけですから、信長の人格には大いに不満があったとしても、処遇について不満を言える立場ではなかったことが、那古野城訪問時の信長の命を助けた理由だったのかもしれません。

なお、信長と林佐渡守兄弟との関係について、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」は、下記の推測を行っています。

● 清須城乗っ取りおよびその後の処理について、林に諮ることなく信長が勝手に信光と決めたのは、信長の一長としての林の面目丸つぶれ。林兄弟が、〔その〕本拠地近く那古野城に入ってきた信光への警戒心を高めるのは必然。
● 信光の死は、林兄弟が仕組んだ可能性。信光死後は林秀貞〔佐渡守〕が那古野城主。信長が林を宥めるには適切な処置。
● あえて信長が那古野城に出向いたというのは不自然。信長の胆力強調の潤色では。信長が林兄弟に、彼らが到底受け入れることができない何らかの屈辱的要求を突き付けたがために、彼らが信勝派に走ったというのが真相であろう。

この推測は、史料の裏付けを挙げられておらず、憶測と言うべきかもしれません。元々信長は家老・家臣に諮らずに自分で決める性格であったと思われること、林兄弟は清須城乗っ取りの3ヵ月前の村木砦の戦い時点で、しかも出陣直前の重大な時期に信長に不満を示していること、にもかかわらず信長は林佐渡守を処分せず、信光死去後は那古野城主にしていること、などからすると、林兄弟の離反の原因は、上記の村岡説とは異なり、林兄弟への処遇問題よりも、信長のもともとの人格問題にあったように推量されるのですが、いかがでしょうか。

1556(弘治2)年6月、守山の家老反逆事件で、守山城は信勝派に

この状況下でさらに、喜六郎横死事件後に信長が据えた守山城主・安房守秀俊が家老から反逆され、腹を切らされる、という事件も起こりました。再び、『信長公記』(首巻18)からの要約です。

● 守山城中では、坂井喜左衛門の子・孫平次を安房守の若衆として比類のない出世、一方角田新五は侮蔑されたことから無念に思い、守山城中の兵の修繕工事と言って工事中の土居の崩れた所から兵を引き入れ、安房守を切腹させた。岩崎の丹羽源六らと組み、城を 堅固に固めた。
● 〔信長は〕織田孫十郎が久しく牢人していることを不憫に思い、赦免して、守山城主にした。

守山城で家臣・角田新五による安房守切腹・籠城事件があり、その後信長が孫十郎を赦免して城主にした、という記事です。まず、角田新五が起こした事件がいつの事であったのか、『信長公記』 には全く書かれていません。角川文庫版の注記には、弘治2年6月、とあり、それに異を唱えている研究書はとくにないようなので、この注記を尊重し、林佐渡守兄弟の離反の翌月の事件、としておきます。

「第3室 3-5 信勝との反目と喜六郎横死事件」のページで確認しました通り、1555(天文24)年6月(または7月)の喜六郎横死事件の際、時の守山城主・織田孫十郎が逐電して牢人したため、信長の異母兄・安房守秀俊を後任の守山城主としました。その際に協力してくれた家老坂井喜左衛門と角田新五の二人のうち、坂井だけを優遇して角田は冷遇したのですから、事件の原因は、家老への配慮を著しく欠いていた安房守自身であったと言えそうです。安房守の守山城主は、1年しか続かなかったことになります。

この角田新五による安房守切腹・籠城事件事件の結果、守山城が一時期信勝派に転じたことについて、以下は、上掲・村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」からの要約です。

● 重要なことは、この事件により、守山が一時信勝派に属することになったという結果である。
● 事件時に角田新五が組んだ岩崎の丹羽源六は、『丹羽氏軍功録』 によれば、天文20年ころから信長と対立していた岩崎城主丹羽氏識の子が丹羽氏勝で、幼名は源六郎。一貫して反信長の立場。
● 角田の籠城をいつの時点で破って、信長が織田孫十郎を再度守山城に入れたか、おそらく稲生の戦いで角田が戦死後のこと。

『信長公記』 の稲生合戦の記事中に、信勝方の戦死者の一人として角田新五の名が挙げられており、この見方は適切と思われます。安房守に反逆した角田新五は、安房守をバックアップしてきたのが信長だったため、敵の敵は味方で、信長に対立する信勝傘下に入った(あるいは信勝との打合せの上で安房守に反逆した)、ということであったのでしょうか。信長は、道三の死後2ヵ月ほどの間に、那古野城も守山城も失い清須城が残るだけになってしまった、と言えそうです。

おそらく稲生合戦後に、信長は守山城主を孫十郎に戻しました。信長は、もともと喜六郎横死事件は喜六郎本人の振る舞いに原因があった、と考えていたわけですから、旧城主・孫十郎は不幸なとばっちりを受けたようなものと思って復活させた、と推測されます。復活させれば孫十郎は信長に感謝して確実に信長派になるでしょうし、旧城主の復活は守山城の家臣にとっても受け入れやすい決定であった、のではないでしょうか。

岩倉の織田伊勢守も反信長を明確化

この時期、岩倉の織田伊勢守も、反信長の姿勢を明確にして対抗を開始します。再び 『信長公記』(首巻31)からの要約です。

● 尾張国半国〔上4郡〕の主・織田伊勢守は、美濃の義龍と申し合わせ、〔信長への〕敵対を明らかにし、清須の近所、下の郷〔現清須市内、清須城の北方〕の村に放火。信長は直ちに岩倉口へ兵を送り、岩倉近辺の知行所焼払い。
● このようなことで、下郡の半国も敵になった。

この記事にも、時期の明示が全くありません。ただし、『信長公記』では、長良川合戦時の、信長の大良からの撤退の記事にすぐ続いて書かれていますので、やはり道三の討死後間もなく起こった事件であったのであろうと思われます。

この記事に続いて、『信長公記』 にはもう一つ、岩倉方との敵対に関する記事(首巻32)があります。その要約です。

● おり津〔下津〕の郷に正眼寺、しかるべき構えの地。上郡・岩倉が砦に仕立てるとの風説あり。よって清須の町人どもを駆り出し、正眼寺の藪を切り払おうとして軍勢を出したとき、町人が数えてみたら騎馬の武士は83騎だけであった。
● 敵方より人数を出し、たん原野〔不詳〕に3千ばかり配置した。その時、信長は駆けまわって町人たちに竹やりを持たせ、背後を取り繕って足軽を出してあしらった。

信長配下の人数が少なかったことを主題とした書き方になっているので、道三の死および岩倉方の敵対姿勢明確化の後で、信長配下の勢力が最も縮小した、稲生合戦の前のことであったのではないかと推測しますが、いかがでしょうか。

後で地図を見ていただきますが、正眼寺や下之郷は清須城に非常に近く、清須からすると、末盛の信勝よりも岩倉勢の方が脅威が大きかったかもしれません。

道三の死後2か月ほどで、信長は四面楚歌状況に陥った

信秀の死後、弟信勝との分割相続から出発した信長ですが、道三からの支援と信光との連携のおかげで、信長は立場上は下郡の守護代になり、清須城・那古野城を領し守山城を配下に置き、三河に出陣できるところまで体制を拡げていました。

ところが、道三が亡くなると、その状況は即座に一挙にくつがえり、岩倉の上郡守護代である織田伊勢守も弾正忠家内の信勝派もすべて信長の敵になり、しかもとくに岩倉勢からは圧力を受けていた、という状況になったようです。道三の死の直後4か月ほどの期間が、若き信長が最も厳しい状況におかれた時期であった、と言えるかもしれません。

とはいえ、信秀の死の直後の状況と比べると、この時点の信長には、二つの点で有利さがあった、と言えるように思われます。ひとつは、この時点では今川は三河で防戦するのが精一杯で、尾張まで出てこれる状況ではなかったこと。信長は、当面の敵を尾張国内の反対派に絞ることが出来ました。

もう一つは、この間に、信長と配下の将兵が積み重ねてきた、戦闘での豊富な実戦経験です。赤塚合戦、深田・松葉両城争奪戦、村木砦の戦いなどの戦闘を行うことで、信勝派や岩倉勢とは比べ物にならない、豊富な実戦経験を身に着けていました。信長のリーダーシップとこの実戦経験が、信長の活路を切り開き、状況を一挙に再転換させた、と言えるかもしれません。

 

道三の死の直後、信長包囲網の地図

地図で見る、道三の死の直後の信長の四面楚歌状況

ここまで確認してきました、道三の死から数ヵ月の間に起こった、反信長の動きについて、地図上で確認したいと思います。下の地図で、信長方は茶色、信勝・伊勢守の反信長方は青色、信勝側に転じた城を紫色、両者の争いの対象を橙色で表示しています。

1556(弘治2)年 道三死後の信長包囲網と稲生合戦 地図

まず、林佐渡守・美作守兄弟の離反によって、那古野城・大秋城・米野城・荒子城が、信長方から反信長方に転じました。こうして地図で見てみますと、林兄弟の持っていた地域の広大さがよく分かります。また、守山城を信長が確保できるかどうかは、末盛に対する牽制に非常に大きな影響があったことがよく分かります。

一方、岩倉勢が砦を作ると噂になった正眼寺ですが、当時は下津にあり、清須城からは北におよそ4キロ、岩倉からは南西におよそ4キロと、ほぼ中間点にありました。この寺は江戸期になってから現在地である小牧市三ツ渕に移転しています。岩倉勢が放火した下之郷はさらに清須に近く、上の地図は、清須市への合併前の旧春日(はるひ)町下之郷の概略地域を示していますが、清須城からは北に2キロもない場所でした。

道三の死からほんの2ヵ月ほどの間に、この地図上の多くの地点が、茶色の信長側から紫色になって信勝側に転じ、またの橙色の係争地が出現していたことになります。この時、信長は深刻な危機を迎えていたことは間違いありません。林兄弟の離反から稲生の戦いまで3ヵ月と空いたのは、その間、兵力では劣る信長側が、反信長勢力から確実に勝ちを得るのに、どういう手が打てるか、いろいろ考えていた時期であったのかもしれません。

そうした状況の中、信勝が信長の持っていた篠木三郷を押領、それに対し信長が名塚砦を作ろうとしたことから稲生合戦が起こります。稲生合戦直前の信長は、まさしく危機的状況にあったようです。

 

1556(弘治2)年8月、信長は稲生合戦で信勝派に勝利

信長 対 弟・信勝派の決戦、稲生合戦

林兄弟が信長との敵対に踏み切ったのは弘治3年5月の末、それから3か月して、ついに信長対信勝派の合戦が行われます。再び 『信長公記』(首巻18)からの要約です。

<合戦前>
● 〔信勝は〕信長の知行地・篠木三郷を押領。
● 〔信勝は〕きっと〔庄内川の〕川際に砦を構え、川東の所領も押さえるだろうから、その前にこちら〔信長側〕が砦を作ろうとの由で、8月22日、小田井川(庄内川)を越し、名塚という所に砦を作り、佐久間大学を入れ置いた。
<合戦>
● 翌日23日は雨が降り、川の水かさが増した。砦の普請が完成前と知っているせいか、柴田権六〔勝家〕は千人ほど、林美作は7百ばかり引率して出陣して来た。
● 8月24日、信長も清須から人数を出し、川を越えて敵の足軽に攻めかかる。
● 柴田権六は稲生の村外れの街道を西向きに、林美作は南の田から北向きに、かかって来る。信長の人数は7百は超えない。
● 8月24日午刻〔正午ごろ〕、まず柴田権六方に過半が攻めかかる。さんざんに叩き合い、柴田権六は山田治部左衛門の首を取ったが自身も手負いとなって逃げる。信長側も損害を出し、信長の御前まで逃げて来て、もみ合う。ここで信長が大音声で怒るのを見て、敵もその御威光を恐れて立ち留まり、終に逃げ崩れた。
● 次に信長は南に向かって、林美作に攻めかかる。信長自身が林美作にかかり合い、つき伏せて首を取った。柴田・林の両勢とも追い崩し、清須に帰陣した。翌日首実検で、歴々首数は450余りであった。
<合戦後>
● この後は、那古野〔林佐渡守〕・末盛〔信勝〕とも籠城。信長勢はこの両城の間にときどき押し入って町口まで焼払った。
● 信長の母〔土田御前〕は末盛の城に信勝と同居、清須から人を召し寄せてお使いとして詫び言を伝えさせた。信長は皆を赦免、信勝・柴田権六・津々木蔵は墨衣にて母親が同道し、清須でお礼を述べた。林佐渡守も赦した。

信長は、林兄弟離反後の2ヵ月の間、作戦を考えたのでしょう。林兄弟所領の城を一つ一つ取りに行くことはせず、野戦で一挙に片を付ける方策を選んだように思われます。名塚に砦を作ったのは、そのステップとして、信長が信勝側の機先を制して合戦の地を決めた、ということだったのかもしれません。信長は砦の建築に取り掛かった時点で、合戦になることを見込んでいたと思われます。案の定、柴田権六と林美作が兵を出してきました。

稲生合戦での信長の動員力は、赤塚合戦をも下回る700ほどに過ぎませんでした。しかし、この700が敵の1700を打ち破ります。信長の大音声での怒り、というのは、家臣たちからすると余程怖かったのでしょうか。信長自身が林美作の首を取った、というのは、そこまで乱戦であったというより、強い恨みを持っていて自ら取りに行きたくて仕方なかった、と推測するのですがいかがでしょうか。

信勝らが「墨衣にて」(=僧衣を着て) というのは、戦国時代の「わびごと・降参の作法」であったようです。村が領主や守護に対し、あるいは大名が他の大名に対し謝罪や降伏の許しを請う場合、村の代表者や大名が、寺に入って髪を剃り入道して、名も法名に改めてから、ひれ伏して助命を請い、贈り物や人質を差し出す、というのが、当時の降参の儀礼であったとのこと (藤木久志 『戦国の作法』)。 現代にも一部残る、「頭を丸めて謝る」という行動形の起源となった習俗のようです。

この合戦の結果、信勝に対する信長の優越が明確になりました。横山住雄 『織田信長の尾張時代』 によれば、信勝は、この稲生の戦いでの敗戦後の弘治3年の書状・判物では、「達成」の名は使わず、「織田武蔵守」あるいは「武蔵守信成」という名を使っていたようです。降伏をして許されたのですから、当時の作法からすれば、本来は法名に変えなくてはいけないようにも思うのですが、対外的には少なくとも「達成」はやめた、ということだったのでしょうか。

稲生合戦の関係地

稲生合戦の原因となった「篠木三郷」についてですが、元々平安時代に成立した「篠木荘」は、現在の春日井市の中部~北部(明治期の篠木村・高蔵寺村・坂下村)と一部小牧市域(同・大草村・大野村)まで含む広い領域であったようです(『春日井市史』)。

上掲の信長包囲網の地図では、元の篠木村・高蔵寺村・坂下村の概略位置を示しています。信長の時代の「篠木三郷」が、「篠木荘」の全域とぴったり一致しているかは分かりません。この篠木三郷は春日井郡にあるので、本来は上4郡の岩倉・織田伊勢守の領域のはずなのですが、なぜか信秀~信長の所領となっていました。清須城と篠木の間の交通の維持のためには、守山城の確保が重要であることがよく分かります。

名塚砦については、「所在地は白山社境内とされるが、城館に関連する遺構はみられない。白山社は慶長19年(1614)にこの地に移転してきたという」(『新修名古屋市史 資料編 考古2』) とのこと。ひょっとしたら、砦の資材を運び込んだだけで、建築に取り掛かる前に合戦になってしまったのでしょうか。

白山社の移転については、江戸時代後期の地誌 『尾張徇行記』 に「コレ〔白山社〕ハ庄内川内畠間ニアリ、慶長19年寅年引移ル」とあり、大正時代の 『西春日井郡誌』 に、「名塚の地は、慶長19年庄内川原の中より此に移転したるものなり。城址も旧地の方ならざるか、後日の考証に待つ」とあります。名塚砦は、もしも現・白山社境内ではなかったとしても、やはり庄内川南岸の名塚の地内、庄内川堤防のすぐ北側にあったと思われます。

稲生合戦に表れた、信長の軍事研究・訓練の成果と、リーダーとしての能力

稲生合戦では、合計1700人の柴田・林勢に対し信長側は700人、わずか4割の兵力で、常識的には圧倒的に不利でした。桶狭間以前の信長の最大の危機であったように思われます。それでも信長方が勝利したのは、偶然の要素も多少はあるにせよ、基本的には、「大うつけ」時代からの軍事研究と兵および自身への訓練の成果と思われます。

『信長公記』 の記述からしますと、信長勢は、先に柴田勢、その後林美作勢と戦っています。非常に単純化すれば、まずは「柴田勢1000」対「信長の700」、その後「林美作勢700」対「信長の700マイナスアルファ(損傷分)」の戦いとなりますので、兵力差はさほどは大きくありません。柴田勢と林美作勢の連携の悪さを突いて、別々に戦うことができたおかげで、信長側の勝利が得られた、という可能性が高そうです。

また、信長自身の大音声や、自ら林美作守と戦い首を取るような行動が、信長軍の全軍の士気を高め、敵軍の士気を削いだのでしょう。信長は、適切な状況判断と行動が行えるリーダーであったため、兵が日ごろの訓練の成果を発揮できた、とも言えそうです。

一方、信勝派側の敗因は、柴田勢と林美作勢の連携の悪さにあり、その主因は、信勝自身が出て来ず総大将がいなかったため、と言えるように思われます。総大将が1700人を有機的に活用していれば、わずか700の信長勢を圧倒できたでしょう。あるいは、林佐渡守の参加や、岩倉の織田伊勢守からの援軍獲得など、もう少し事前の準備を行っていれば、おそらく信長に勝てていたでしょう。信長と信勝の武将としての能力差が、この合戦の結果に表れたように思われます。

父・信秀の家臣で信勝についた、あるいは一旦信長についたのに離反した人が多かったのは、信長の「大うつけ」行動に加え、当時から人格上の問題があったため、という可能性が高そうです。しかし、現代の企業でも、人格者必ずしも優れたリーダーとはならず、むしろパワハラ型で人格的には問題があるが仕事はできるという人の方が、リーダーとして業績を上げるのはよくあることです。稲生の戦いの信長は、強いリーダー能力を発揮することで、自ら危機を乗り越えた、と言えそうに思いますがいかがでしょうか。

 

稲生合戦に見る、歴史小説 『甫庵信長記』 のウソ、偽書 『武功夜話』 の大ウソ

稲生合戦が示す、史料としての 『信長公記』 と歴史小説としての 『甫庵信長記』

蛇足ながら、ここで、『信長公記』と、歴史小説である 『甫庵信長記』、偽書と評されている 『武功夜話』の3書の稲生合戦に関する記述を比較してみたいと思います。3書の違いは、この稲生合戦についての記述を比較するだけで明らかになります。

まずは『甫庵信長記』について見てみます。

『信長公記』 は信長の家臣で実戦経験のある太田牛一による記録でした。『甫庵信長記』 は、豊臣秀次らに仕えた儒医・小瀬甫庵が、『信長公記』 の漏れを補記した、と主張するものでしたが、実際には 『信長公記』 を大幅に書き換えた歴史小説でした。上に『信長公記』の内容はすでに要約しました。そこで、『甫庵信長記』 はどう記述しているか、以下にその内容を要約いたします。

● 信長は、清須の東、名塚村に要害をつくり佐久間大学を入れておいた。
● 8月21日から大雨が続き小田井川の水がおびただしく増水したので、良い時節と思い、24日の朝、柴田権六が千騎、林美作守も千騎を出して名塚城に押し寄せた。
● 狼煙をみた信長は、小田井川に着いたが、水は堤を超えるほどに増水し滝波を打っていて、川を渡れない。しかし合戦の声が聞こえるので、意を決して自ら馬を進めて川に入ると、家臣も我先にと従う。意志の強さで難なく渡りきる。
● 柴田権六も林美作もこれを見て信長勢に寄ってくる。信長は700騎を二手に分け、それぞれに当たらせる。少数勢の信長側が奮戦、林美作を討取り、柴田権六も信長の大音声に士気を喪失して逃げ出す。

『信長公記』 と 『甫庵信長記』 を対比してみると、下記のような相違点に気付きます。

  『信長公記』 『甫庵信長記』
砦の工事 8月22日から砦の工事に着手、
まだ建築中の24日に合戦
名塚砦は既に完成済み
雨降り 23日の1日だけ
川は増水 (川の表十分に水出で候)
大雨が3日間(21日から)
川の水がおびただしく増水、水は堤を超えるほど
林・柴田の出兵 完成前の砦を叩こうとした 良い時節と思い (=川の増水で援軍が来られないとみて)、押し寄せた
両軍の兵力 信長は700を超えない
敵は柴田1000、林700の
合計1700
信長は700
敵は柴田・林各1000で
合計2000
信長軍の戦闘 まず柴田、次に林と個別撃破 700を二手に分け、2000に同時に対戦

信長側の状況がよりドラマティックになり、また信長軍の強さが強調されるよう脚色されている、と見るのが適切ではないでしょうか。しかし、脚色の結果は、どう見ても現実的には思えない内容に変わってしまっています。

『甫庵信長記』 の記述の非現実性

とくに明らかな相違点は、①砦は建設中か完成済みか、②川の増水の程度、③兵力を集中したか分けたか、の3点です。

① 砦の建設状況について

『信長公記』 の稲生合戦は、名塚砦の建設着手後3日目の事件です。柴田・林は、完成されると厄介になるので素早く叩こうとした、というのも当然の発想です。建設着手当日に気づき、2日目は雨だったので、合戦は雨が上がった3日目になった、と理解できます。

それに対し 『甫庵信長記』 は、柴田・林は砦の完成まで手出しせず、川が増水して信長が援軍に駆け付けられない状況となったので動いた、と読めます。確かに、増水で援軍は来ない、という状況は分かります。しかし、完成してしまうと防御力は上がってしまうので、『信長公記』 のように、完成する前に叩く方が楽だと思うのですが。

② 川の増水問題について

『信長公記』 では、敵地に張り出して砦を建設中なので、必要な人員・資材を素早く搬入する必要があり、川には舟橋がかけられていたかもしれません。少なくとも川に縄を張るなどの対策はされていたでしょう。そうであれば、1日分の雨によるわずかな増水程度なら信長軍は難なく川を渡れます。

一方、『甫庵信長記』 では、増水が堤を超えるほど。その状態で、信長軍は川を渡れたかどうか。この問題を考える上で参考になるのは、水害関連の実験結果です。底が平面のプールで人が毎秒1メートルの流れに逆らって水中を歩けるのは、水深が膝下までの場合だけ、腰下までなら踏ん張って立っていることはできるが、それを超えると流されてしまう、という実験結果があるようです。

堤を超えるほどの増水なら、川の最深部の水の深さは、いくら浅くても1メートルはあったと思われます。すると、水深は完全に人の腰の高さを越えますし、馬でも当時は背が低い日本馬なので渡河は困難だったと思われます。たとえ騎馬の信長や武将たちはなんとか川を渡ることはできたとしても、重い軍装をつけた足軽や軍装品を運ぶ従者たちは、徒歩や泳ぎで川を渡ることは無理で、渡ろうとした者は皆流されてしまったでしょう。堤を越えるほど増水した川を、信長を筆頭に700人もの人が、意志の強さだけで渡ったというのは、全く現実性がなく、ホラ話としか考えられません。

③兵力を集中したか分けたか

ただでさえ少ない兵力を二つに分けて、倍以上の兵力の相手に2正面合戦を行って勝った、というのは、明らかにホラ話です。実際に合戦経験のある太田牛一と全く違い、小瀬甫庵には戦闘経験などなく、そのために戦闘経過の記述が空想的になった、ということではないかと思われます。

『信長公記』 は家臣による見聞記録であり史料ですが、『甫庵信長記』 は出来があまりよろしくない歴史小説、と言えるだけの差が、この稲生の戦いの記述にも表れているように思います。本歴史館では、『甫庵信長記』 や江戸時代のその派生著作物、それをベースに記述されたものは、史料・研究書とは扱わないことにします。

『甫庵信長記』 をさらに盛って、もっと現実離れさせた 『武功夜話』

蛇足の蛇足ですが、ホラ話の『甫庵信長記』を更に盛って、もっと現実離れさせたのが、偽書であるのに未だに一部の人が史料扱いしている 『武功夜話』 です。

『武功夜話』 での稲生合戦の舞台設定は、以下のようになっています。(「武功夜話」巻2・「尾州下の郡川沿い稲生出入の事」より、適宜現代語訳で要約)

● 佐久間大学は、名塚に砦を堅固に構え、500有余人が在番。
● おりから連日大雨。このため小田井川(庄内川)の堤が切れ、名塚砦は浮き島のごとき様態になって、3日ほど経過。
● 信長が雨中の悪路を名塚へ出馬。2町ばかり下流の浅いところを川越。
● 名塚より稲生まで12, 3町の間、連日の大雨のため高水、田畑に水溢れ畦道は臍脛(へそすね)まで浸り、泥土は馬足を埋めて難行。そこで馬を乗り捨て、徒歩に。
● 前野党〔『武功夜話』 の記述者の先祖の一団〕は、稲生原の乾(いぬい=北西)方から打ちかかったが、すでに布陣の末盛方は、我らより高所に陣取って見下げていた。

まず、『信長公記』 では未完成、『甫庵信長記』 では完成済の名塚砦に、なんと500有余人もが詰めていた、という事になっています。次に、堤を超えるほどの増水どころか、何と堤防決壊で砦は浮島のごとき状態であったことにされてしまいました。

林兄弟も離反して四面楚歌状態だった信長に、砦だけで500有余人もの動員力が本当にあったのか、とか、なぜ稲生合戦に岩倉方の前野党が参加しているのか (稲生合戦の記事を 『武功夜話』 に加えるために無理やり参加したことにしたとしか思えない)、などという、それだけで作り話と疑える点はさておき、合戦当日は水害で砦は浮島状態だっという「武功夜話」の舞台設定は、現実的にありえないことを、すぐ下の地図で説明します。

名塚が水害で浮島状態、はありえなくはないが、よほどの豪雨のとき

稲生合戦の実際を理解するためには、先に当時の庄内川の状態を理解しておく必要があるように思われます。というのは、当時の庄内川の状況は、現在の状況とはかなり異なっていたためです。

稲生合戦ー地形図

この地図は、国土地理院の治水地形分類図に、現在までの庄内川及び関係河川の変遷と、稲生合戦に関連する情報を書き込んだものです。

まず、庄内川についてですが、建設省中部地方建設局 庄内川工事事務所 『庄内川流域史』 の内容を整理してみると、稲生合戦当時は以下の状況になっていました。

● 名塚・稲生の1.5キロほど上流で、大山川が庄内川に流れ込んでいた。
← 江戸時代の1787(天明7)年に新川が開削され、大山川は新川に流れるように付け替えられた。
● 現在は庄内川と平行になってから合流している矢田川は、以前は稲生のすぐ北西で庄内川と直角に近い角度で合流していた。
← 両河川に挟まれた川中村は水害が多く(明治・大正の57年間に7回も)、1932(昭和7)年に矢田川の付け替えが行われた。
● 名塚の対岸側 (現・庄内緑地公園) は、庄内川・矢田川の合流のための遊水帯・氾濫原が自然に出来たと見られる。
この氾濫原は対岸側の村々の所有、その大部分は、中小田井村の境界内、残りは上小田井村・下小田井村の境界内 (明治中期の地図)。中小田井村がこの氾濫原を先行的に農耕地として利用していたと考えられる。

わずか1.5キロ程度の間で2つの川が合流しているのですから、豪雨時にはたしかに水害を起こしやすい地形でした。矢田川側は、本流である庄内川の増水によって流れがせき止められたり逆流したりする、バックウォーター現象が発生しても不思議はない地形であったこと、間違いありません

ただし、庄内川の本流は、もしも大増水する場合、まずは現・庄内緑地公園の遊水地が水没して増水レベルは抑えられます。『武功夜話』 の言うように名塚砦が浮島のようになるためには、遊水地が水没した上でさらに大きく増水するほどの、激しい豪雨が必要でした。加えて、バックウォーターが発生したとしても、矢田川の堤が、北岸・川中村側ではなく、南岸・稲生村側で氾濫または決壊する必要がありました。

庄内川の遊水地が水没後も増水するほどの豪雨となってバックウォーター現象が起こり、稲生村のすぐ東側あたりの矢田川の南岸側で氾濫か決壊が起こったという場合しか、名塚砦が浮島になることはない、ということになります。そうなる可能性はゼロではありませんが、現実性は低いのです。

合戦の直前にそんなとんでもない豪雨があったなら、そもそも 『信長公記』 に記録されていなかったはずは無いと思いますが、書かれていません。

大水害なら、両軍は来られず、合戦は成り立たなかった

『武功夜話』 の言うように、もしも名塚砦が浮島状態であったなら、もう一つ、大きな問題がありました。そんな状況下で、両軍がどうやって名塚まで来れるか、という問題です。

バックウォーターで矢田川が氾濫し名塚砦が浮島になった原因は、庄内川が遊水地まで水没して大増水だったことです。信長側が、大増水している庄内川を渡河するのは無理だったでしょう。『武功夜話』 の言う2町ばかり下流は、川幅が細くなっているので、水位はむしろ上がり流れは早くなるはずで、無理して渡れば流されていたでしょう。

そればかりか、林・柴田側も、来れていなかったでしょう。名塚砦には、東から来る場合は堤防の氾濫・決壊箇所付近を通らざるを得ず、南から来る場合でも、臍脛まで水没している低地を通らざるを得なかったためです。

林・柴田側が大雨が降り出す前から布陣していれば別ですが、その場合には連日の大雨の間、大人数の兵は雨に打たれっぱなしで、寝るに寝られず体は冷え切り、やはり合戦どころではなかったでしょう。

結局、名塚砦が浮島になるような水害状況では、両軍とも砦に近づけず、合戦は成立していなかった、と見るのが適切と思われます。『武功夜話』 は、『甫庵信長記』 以上に話を盛ったため、舞台設定のやり過ぎになりました。

『武功夜話』 の作者は、庄内川・矢田川の改修の歴史を知らなかったのでは

『武功夜話』 の記述についてもう一つ、合戦場所に関して申し上げれば、名塚と稲生は隣同士の村でした。名塚から、『武功夜話』 の言う通り12、3町も行くと、稲生を完全に通り越して、矢田川の南岸、おそらくは氾濫・決壊地点の先あたりまで進んでいくことになります。

また、稲生原の北西方から打ちかかったなら、上の地図が示す通り、自然堤防上の名塚村から低地の稲生原に打ちかかることになるので、末盛方が「我らより高所」にいたということはありえません。作者は、稲生原という地名のイメージから、多少なりとも微高地になっている、と思い込んだのかもしれません。

『武功夜話』 の記述が現実にはありえない状況であることは、こうして地図と照らし合わせて確認すると明白になります。

 

信長が生駒氏の女を側室としたのは、1557(弘治3)年の道三の死後

斎藤道三の死は、信長の個人生活にも影響を与えた可能性があるようです。信長の側室について、以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』からの要約です。

● 信長の嫡子信忠、二男信雄は側室の吉乃(吉野)が生んだ。信忠の誕生は弘治3年(1557)であるから、信長が吉乃を側室に迎えたのは、少なくともその前年・弘治2年だろう。
● 天文18年(1549)に濃姫を正室に迎えたが、それから7年間嫡子が生まれず、また道三の討死で、側室を迎えても道三に遠慮する必要がなくなった。

「吉乃(吉野)」という名前は、偽書 『武功夜話』 以外には出てこないので、「生駒氏の女」とするのが適当であることは、「第2室 2-11 道三との和睦 - 信長の結婚・濃姫」のページで確認した通りです。弘治3年は、信長にとって、3月には三河に出陣、4月には美濃への出陣と道三の死、その後8月の稲生合戦まで厳しい状況に置かれていた時期です。勝手な推測ですが、稲生合戦で一息ついて心の余裕ができたことで、側室を持つ気になったのかもしれません。

生駒氏の娘は、当時は生駒氏の館にいたとされています。その館は、上の「信長包囲網」の地図上に緑色の点で示しました。現在の愛知県江南市、すなわち岩倉方の領内で、岩倉城から4キロ近く真っすぐ北上したところでした。岩倉方が信長への敵対姿勢を明確にしていた時期に、側室に会うために岩倉方の領内をしばしば訪れていた、というのは、少々分かりにくい話ではあります。

3年前、第一子のときは、濃姫の嫉妬が激しかった

なお、横山住雄・上掲書には、信長にはほとんど知られていない第一子がいたことも書かれています。再び、同書からの要約です。

● 信長には、嫡男・信忠の生まれる3年も前〔天文23年5月5日〕に第一子・信正が生まれていたことは、ほとんど知られていない。京都市左京区の見性寺は、信正が建てたという。ここには信正の位牌があり、銘文が書かれている。
● 〔その銘文から〕信正は那古野城内で生まれたが、正室・濃姫の嫉妬からいることができず、信長家臣の村井貞勝が自分の子として育て、永禄9年に元服すると村井重勝と名乗った。濃姫の嫉妬がおさまり、吉乃が永禄9年5月に没後、同年11月に母の直子〔塙氏〕と共に古渡の新造館に入った。
● 信正は出世を望まなかったがゆえに、天寿を全うした(享年94歳)。

1553(天文22)年から翌1554(天文23)年にかけては、清須衆のクーデターが発生して清須衆と争う一方、村木の戦いも行った時期でした。清須城を乗っ取った直後に、この第一子が生まれたということになります。いくら濃姫に子が生まれないからと言っても、信長を支援してくれていた道三が生きているうちは、公然と側室を持つことはできなかった、ということだったのでしょうか。

 

 

ここまで、斎藤道三の死の直後の反信長派の急拡大と、稲生合戦での信長の勝利による信勝への優越の確立まで見てきました。次は、永禄元年1558(永禄元)年に信勝を殺害して、旧弾正忠家を完全掌握するまでの、その後の過程を確認していきたいと思います。