2-10 美濃攻め・西濃攻め後の大柿落城

 

織田信秀が三河で今川勢と小豆坂の戦いを行った1548(天文17)年、美濃戦線では大きな変化が生じます。一度は斎藤道三を撃退したものの、尾張国内では清須衆が離反、それでも谷汲まで深く侵攻したものの、最終的に大柿を斎藤道三に奪い返されて、同年末までに美濃から撤退します。

このページでは、この年、信秀の美濃からの撤退にいたる過程を確認します。

 

 

1548(天文17)年8~11月、織田信秀は美濃で攻勢

1547(天文16)年夏にも織田軍の美濃攻め

小豆坂の戦いの前年、信秀は三河では松平広忠を「からからの命」に追い込みました。その同時期に、美濃では織田軍による美濃攻めが行われていたようです。以下は、『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』(勝俣鎮夫氏 執筆部分)からの引用です。

天文16年(1547)夏、織田氏の蜂須賀など江南勢は関〔現関市〕方面に進出し、土岐次郎〔頼充〕は蓆田〔むしろだ-現本巣市・北方町の一部〕辺まで入り込んで、国内各所で戦が展開した(「実相院縁起」「豊後臼杵稲葉文書」)。

関市方面と本巣市方面は、岐阜市から見れば東と西、全く方向違いです。呼応して戦乱となったものの、斎藤道三は「この侵入軍を撃退」(同書)したとのことです。このときの記録に、信秀の名が出てきていないとしたら、信秀は三河攻めで忙しすぎて、実際に美濃には出陣しなかった、ということかもしれません。

関と本巣で、道三に2正面作戦を強いる、という効果はあります。しかし、関への進出には、木曽川のほか、山も一つ越えなければなりません。完全な突出です。侵入も大変ですが、撤退はもっと大変でしょう。潰されて当然の無理な作戦であったように思われますが、いかがでしょうか。

天文17年8月、信秀は西濃、揖斐川・根尾川方面で攻勢

翌1548(天文17)年になり、信秀は、三河では、3月の小豆坂での今川本隊との戦いを何とかしのぎました。同年8月以降、信秀は美濃でまた攻勢に出て揖斐川・根尾川方面に進攻します。

まずは、同年8月の 『信長公記』 には記述のない戦いについて、以下は、横山住雄 『織田信秀の系譜』 からの要約です。

史料〔谷汲長瀬の長山寺所蔵〕によれば、信秀の本隊は西濃揖斐川方面を北上し、谷汲まで兵を進めていった。これが〔天文17年〕8月のことで、一族の織田治郎が討死にしたものの、8月25日の饗庭城合戦(大野町相羽)では鷹司康門らが討死して信秀方が勝った。戦線はこのあと一時膠着状態。

1548(天文17)年の8月といえば、三河での小豆坂の戦いからわずか5ヵ月後です。信秀は、相変わらず2正面作戦を継続しています。また、この8月の美濃への攻勢では、少なくとも饗庭城まで進出しました。その後はさらに谷汲方面まで進めていることからすると、一時的に進出して即撤退したわけではなく、占領を継続したのでしょう。とすると、この揖斐川方面は完全に突出部となったと言えそうです。

信秀は、相変わらず、軍事の常識に反する2正面作戦展開を行っていた、と言えるように思います。

11月上旬からの斎藤道三の大柿城攻めに、信秀は17日から茜部攻めで対抗

8月来の織田側の動きに対抗するためか、11月になって斎藤道三は大柿を攻めました。これについて、以下は 『信長公記』(首巻6)からの引用(一文を意味の区切りに従って分割)です。この記事には年号の記載がなく、同書の角川文庫版および新人物文庫の現代語訳版とも、1548(天文16)年の事と推定していますが、横山住雄 『織田信秀の系譜』 は、後述の理由から、天文17年と考えるべき、としています。

● 霜月〔11月〕上旬、大柿の城の間近まで寄せて、斎藤山城道三が攻寄るとの由、〔信秀への〕注進が切々だった。
● それならこちらからも攻めようと言って、霜月17日、織田備後守〔信秀〕殿、後巻〔うしろまき=敵の後方から攻囲〕として、また憑み(たのみ)勢をして、木曽川・飛騨川、大河を舟渡しで越して、美濃国へ御乱入、
● 竹が鼻〔羽島市竹鼻〕に放火して、あかなべ口〔岐阜市茜部〕へお働き候て、所々に煙を揚げたところ、道三が仰天し、〔大柿への〕攻撃をゆるめ、井の口居城へ引き入った。

後で地図で確認しますが、当時はまだ天正大洪水前で国境としては尾張国側にあった竹が鼻に放火したのは、木曽川の枝川が竹ヶ鼻の南を流れていて、竹ヶ鼻は実質的に斎藤道三側の支配領域に属していたため、と思われます。

この8月から11月の動きの全体を整理しますと、
① まず信秀側が揖斐川方面突出部を作った
② 道三側はその突出部の側方に攻撃を仕掛けた
③ それに対抗し信秀側は道三側の後方を攻撃した
④ 挟み撃ちを恐れた道三側が稲葉山城に撤退した
という流れであったようです。

信秀側も道三側も、互いに相手の弱点を攻撃しています。軍事的には適切とは言えない信秀の2正面作戦ですが、この時点までは一応機能していた、と言えるように思います。

 

1548(天文17)年11月、尾張国内で清須衆が離反

美濃攻め中の信秀の留守に、清須衆が信秀の古渡城付近で放火

こうして、美濃への攻勢を強め、また斎藤道三の反撃も退けた信秀でしたが、信秀の美濃攻め中の留守を突いて、清須衆が信秀の古渡城に兵を出すという事件が発生します。再び、『信長公記』(首巻6)からの引用です。上の美濃反撃にすぐ続きの文章です。

霜月〔11月〕廿日、この〔美濃攻めの〕留守に尾州のうち清須衆、備後守〔信秀〕の古渡新城へ出兵し、町口に放火して、敵対行動を行った。かくのごとくしているうちに、備後守が帰陣した。これより軍事行動に及んだ。… 翌年秋の末、互いに譲歩して和約し抗争は終わった。

『信長公記』は、この記事にも年号を書いていません。これに関して横山住雄・上掲書は、清須衆離反と上の美濃反撃記事とは一体の記事として、「道三の大柿城攻めに対応して出兵した信秀の留守中に、清須衆が信秀の古渡新城へ兵を出し」た、と理解、一方、史料から「少なくとも天文17年3月までは信秀と清須の守護や守護代との緊密な関係は続いていることが確認されるので、清須衆離反はこれ以前ではありえない、まずは天文17年11月の事件と考えるべきだろう」としています。また、そうであれば、美濃攻めの状況について、8月の揖斐川方面での攻勢に関する史料の記事とも「矛盾が生じない」とみています。本歴史館も、この横山説に従っています。

清須衆の離反は、斎藤道三の策略

では、清須衆はなぜ信秀に敵対するようになったのか、以下は再び、横山住雄・上掲書からの要約です。

清須衆離反の背後には斎藤道三の策略があることは疑いのないことで、道三が清須衆に密使を送って蜂起を促したらしい。信秀は天文13年9月の大敗に続いて、又しても道三の策略にしてやられたのである。

道三の策略は「疑いのないこと」と記述されているものの、その根拠となる史料は何も挙げられていません。状況からは、確かに道三の策略が大いに疑われるところですが、史料が無いのであれば、決めつけるわけにもいかないかもしれません。

「第2室 2-7 美濃攻め・大柿城奪取と5千人討死」のページで確認しました通り、自前の作戦であった三河侵攻とは異なり、美濃攻めについては、信秀は尾張連合軍の総大将に任命されてしまっただけと思われます。現に、11月17日からの道三への反撃戦も、「たのみ勢」を行って出陣しています。「信秀軍」ではなく「尾張連合軍」であって、総大将に絶対的な指揮権があるわけではないところを、道三につけ込まれた、という可能性は確かにありそうです。

この清須衆離反の結果は、道三側からすると、信秀は一旦美濃から尾張に帰らざるをえなくなったという短期的な効果を得た、と言えそうです。

清須衆離反にもかかわらず、11月末~12月4日、信秀は美濃谷汲まで侵攻

とはいえ、清須衆離反によって、尾張連合軍が即座に弱体化したわけでもなく、むしろ12月初めにはさらに侵攻を進めます。再び、横山住雄・上掲書より、8月の揖斐川方面攻勢と同じ史料に基づく記述の要約です。

〔饗庭城合戦から〕3ヵ月後の11月晦日からの牧野合戦(谷汲中学校付近)では12月4日までの5日間に亘る激戦となり、再び美濃勢は負けて多数の武将が討死し、ついにその東方2キロにある鷹司氏の本拠長瀬城も落城。こうして大垣から谷汲に至る根尾・揖斐川以西の地はほとんど信秀の手中に帰すかに見えた。

牧野合戦・長瀬城落城が天文17年11月末から12月初めであったことは、史料から確実です。そこで、清須衆離反は同年11月20日とする横山説が正しいとすれば、信秀は一旦美濃から尾張に帰ったものの、清須衆への対抗策を措置して即座に美濃に引き返し、戦果を上げた、ということだったと思われます。ただし、揖斐川・根尾川方面の突出部は、ますます突出の程度が甚だしくなってしまいました。

 

1548(天文17)年12月、美濃は急変、大柿落城・美濃撤退

信秀は美濃を喪失

12月初めには深く谷汲まで進出していた信秀ですが、その直後に形勢が急変、12月末までに斎藤道三は大柿城を奪回、信秀は美濃を失ってしまいます。以下は、再び横山住雄・上掲書からの引用です。

『美濃諸旧記』に、「是に依って道三再び出馬〔出陣〕し候、終に〔大柿城の〕織田播磨守を攻出し、大垣の城を受取りて〔奪取して〕竹腰を入れ置きけるなり」と書かれている通り、道三は大柿城を奪回することに成功し(昭和5年・旧大垣市史)、逆に信秀は天文13年以来の美濃の領土を全く失うに至った。… 信秀は、天文17年12月に至って清須離反と同時に美濃から完全にしめ出され、対美濃戦略は振り出しに戻ってしまった。

本書には、信秀がいつどのようにして大柿・美濃を失ったのか、具体的な記述はありません。もしも実際に天文17年12月に失ったのなら、長瀬城の攻略後に情勢が急転した、ということであったのでしょう。情勢の急な激変ですが、大柿から谷汲まで長く伸びきった兵站線を上手く突かれた、ということであったように思われます。

事態急転の原因として、清須衆離反の中期的な効果が表れ、尾張連合軍が弱体化したため、という可能性は確かにありそうです。しかしそれ以上に、2正面作戦および揖斐川・ 根尾川突出部という軍事的な無理が遂に顕在化した、と評価するのが本質的には適切という気がいたします。

 

1548(天文17)年の織田信秀の美濃攻め地図

谷汲へは著しい突出

ここまで書いてきたことを、地図の上で確認したいと思います。下の地図を見ていただくと、信秀の作戦の軍事的な無理さ加減がご理解いただけるのではないでしょうか。例により、この地図では、当時の濃尾国境の概略位置も示してあります。

織田信秀の美濃攻め~美濃喪失 地図

元々大柿の領有自体が、濃尾国境から突出していましたが、1548年8月、信秀は大柿→饗庭城へと北方に侵攻を拡大します。大柿城から饗庭城までは直線で約10キロ、突出が拡大します。道三からすれば、大柿~饗庭突出部への側面攻撃は容易なので、11月上旬に攻めに行った、というところでしょう。

大河を渡河した竹鼻・茜部攻め

これに対し信秀は、井口に対し南方から迫るラインで、竹ヶ鼻から茜部へと反撃を仕掛けます。「第1室 1-2 国境と木曽川の河道」で確認しました通り、当時の木曽川は現在の河道とは異なり、境川筋の古木曽川と何本かの枝川を流れていて、枝川の中でも及川~日光川の枝川と、逆川~佐屋川の枝川は本流並みに大河化していたようです。信秀軍は、日光川と逆川を渡って竹ヶ鼻に進出、さらに境川を渡って茜部に出た、と推測されます。

竹鼻と茜部 地図

井ノ口へは茜部からわずか5、6キロ、道三としては井ノ口が攻撃されるのは困るので、一旦稲葉山に引いたというところでしょう。一時的に撤退しても、とにかく大柿~饗庭突出部への側面攻撃は容易なので、相手が引き揚げたらまた出ればよいくらいの割り切りで、兵力の損失防止を優先したのではないかと推測します。

ところが信秀は、井ノ口に引き上げた道三は追わず、大柿~饗場のラインを伸ばして、さらに谷汲長瀬城へと北方への侵攻を続けます。大柿城から長瀬城までは直線で20キロ近くもあります。極端な突出であり、道三側からの側面攻撃を一層容易にする愚策であったように思われます。何しろ相手は戦上手の道三です。近江勢との連携もあり、挟み討ちも可能です。この無理がたたって、12月に入るとあっという間に大柿と美濃の全てを失うことになってしまった、ということだったのではないかと推測しますが、いかがでしょうか。

 

 

美濃を失った信秀は、道三に対する戦略を全面転換します。次は道三との和睦と、その証としての信長の濃姫との結婚についてです。