3-2 政秀の諌死・道三との会見・赤塚合戦

 

前ページでは、父・信秀が亡くなってから1年ちょっとの間に、信長には、①道三が信長を気遣って書状、②義元は八事まで出兵、翌年に入り、③平手政秀の諌死、④富田で斎藤道三と会見、⑤鳴海の山口父子との赤塚合戦、という順序で事件が起こったこと、そのうち、信秀の死の年のことであった、①道三の書状と、②今川の八事出兵について確認しました。

このページでは、信秀の死の翌年、すなわち1553(天文22)年に起こった事件である、③平手政秀の諌死、④斎藤道三との会見、⑤赤塚の合戦について、詳細を確認していきたいと思います。

 

 

1553(天文22)年 閏1月、平手政秀の諌死

平手政秀の諌死に関する 『信長公記』 の記事

平手政秀の諌死については、『信長公記』(首巻9)の信秀の葬儀の記事にすぐ続けて、下記の内容の記事(現代語化して要約)があります。

平手中務丞〔政秀〕には3人の息子があり、惣領の五郎右衛門は駿馬を所持、信長はこれを所望したが、断られたので、信長の遺恨浅からず、主従不和となる。そのうちに中務丞は、信長が真面目ではないことを悔やみ、盛り立てる甲斐がないので、生きていても仕方ない、と言って割腹自害した。

この 『信長公記』 には、政秀の長男と信長の間にトラブルがあったこと、政秀が割腹自害したこと、この2つの事実だけが書かれています。

政秀の人物と「諌死」の状況

平手政秀と言えば、那古野城で信長が独立して以来の守り役であっただけでなく、優れた戦略家であり外交官でもありました。横山住雄 『織田信長の系譜』 には、平手政秀についての論考があり、それが「諌死」であったことにも触れられています。以下は同書からの要約です。

● 天文2〔1533〕年に飛鳥井雅綱・山科言継が勝幡城を訪れた時、若い信秀を輔弼して政秀が活躍していた(『言継卿記』)。「平手系図」によれば、この時政秀は42歳ほど、また天文22〔1553〕年に62歳で亡くなったとある。
● 天文9〔1540〕年に伊勢神宮外宮造営をめぐって宮司との書簡の往来。天文12年〔1543〕に皇居修理に信秀が4千貫文を拠出時は、名代として政秀が上洛。天文18〔1549〕年には、信秀の献策で信長と道三の息女との婚儀など。
● 天文21〔1552〕年3月に信秀が世を去っても、信長は非常識。困り果てた政秀は所領の志賀村(名古屋市北区)に退隠、天文22年閏正月13日の暁、切腹。信長は那古野城から裸馬に乗って駆けつけた。まだ政秀には意識があり、床を下りて信長に忠告、信長はこれを了解したという。信長は大いにその死を悼み、沢彦〔たくげん〕和尚に命じて葬儀、信長は大声で泣いた。政秀寺を建立して沢彦に法灯を守らせた。(名古屋市史・人物編)
● 政秀寺開山となった沢彦は、①信秀のために信長の名を選んだ、②信長のために岐阜の名を選んだ、③朱印の文「天下布武」を選んだ。(名古屋市史・寺社編)

「諌死」という言葉は、平手政秀のためにあったのかと思うほど、効果を発揮した諌死であったと言えるようです。

 

4月前半、斎藤道三との会見

道三との会見に関する 『信長公記』 の記事

信長の舅である斎藤道三は、前ページで見た信秀死去3ヶ月後の手紙からも分かるように、婿である信長を気にかけています。一方、尾張と三河の国境は、前年の今川の八事への出兵もあり、平穏が継続するとは考えにくい状況にあります。そんな中での信長と道三の面会です。以下は、『信長公記』(首巻10)の、良く知られている記事の要約です。

● 4月下旬のこと、斎藤道三から、富田の正徳寺での会見の申し越し。聟殿は「大だわけ」との評判に、対面して善悪を見極めるため。信長も遠慮なく受けて、木曽川・飛騨川、大河舟渡し打越し出た。
● 道三は町はずれの小屋に隠れて、信長の行列を覗き見。信長は髪は茶筅髷、湯帷子を袖脱ぎ、大刀・脇差は藁縄で巻き、麻縄を腕輪に、腰には火打ち袋と瓢箪〔=大うつけスタイル〕。お供の衆を7~800人ほど、柄3間半の朱槍500本、弓・鉄砲500挺。
● 宿舎の寺に着くと、髪を折り曲げに結い、褐色の長袴、小刀〔=まともな身支度〕。互いに盃をかわし、対面は滞りなくお開きに。道三が帰るのを信長は20町ほど見送り。その時、斎藤勢の槍は短く、信長勢の槍は長く。道三は面白くなさそうな顔。
● 家臣の「上総介はたわけにて候」に、道三は「山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内(自分の子供が、たわけの家来になることもありそうだ)」。

信長軍の兵力と兵器の状況

お供の衆7~800人と、槍500本・弓鉄砲500挺では数が合いませんが、1000人以下の人数であったことは分かります。また、この文章からは、この当時の主力兵器が、槍と弓と鉄砲であったことも良く分かります。

鈴木眞哉氏の著書( 『鉄砲と日本人』・ 『刀と首取り』 など)によれば、戦国期(応仁の乱~島原の乱)の軍忠状に現れた負傷原因を集計すると、矢疵・鉄砲疵・石疵という遠戦用武器 (飛び道具) によるものが負傷件数全体のほぼ4分の3、接近戦での負傷 (鑓疵・刀疵等) は4分の1以下のみでそのうち鑓疵が大多数、刀は主力兵器ではなく最後の首取り用の道具であったようです。

『信長公記』 のこの記事では、弓・鉄砲は合算されていて、鉄砲が何挺あったのかが明確でないのはちょっと残念です。弓と鉄砲が合算されてしまっているのは、どちらも飛び道具であったというだけでなく、戦場で統合的に運用されていたためであるかもしれません。『雑兵物語』 にも、「鉄砲2挺の間へ、弓1人づつ突っ立ち、〔鉄砲の〕玉薬込めの間を、〔弓を〕はじきめされよ」とあり、速射ができない鉄砲の欠点を補うように、鉄砲と弓が統合的に使われる場合があったようです。

ついでに申し上げれば、火縄銃が使われだしたとき、日本ではこうして弓と火縄銃の双方が使われたのに対し、ヨーロッパでは、イギリスを除いて、すぐに弓は使われなくなってしまったとのこと。そもそも弓に慣れ親しむ文化がなく、弓の技術進歩もなかったためのようです。この点、詳しくは、「第4室 4-14 戦国当時の日欧の軍事比較」のページをご覧ください。

信長は、槍の研究の成果として、柄の長さは3間半に統一したようです。鉄砲だけでなく、3間半の槍も新兵器であったと言えそうです。鉄砲はもちろん、3間半の槍も長さが長い分、使いこなすには訓練が必要だったでしょう。信長軍は、槍と弓と鉄砲の訓練にも励んでいたものと思われます。行軍の姿を見ただけで、道三はその訓練度の高さを理解できたのかもしれません。

道三は、表面の形式より中身の実質、行軍の時は行軍に一番都合の良い服装に、面会の時はそれなりの衣装に、という信長の目的合理主義の強さや、新兵器の採用度、兵の訓練度などを総合的に高く評価して、「山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内」という発言になったのではないかと推測されます。道三自身もメンツにこだわらない目的合理主義者であったのかもしれません。

道三との会見時期は、天文22年4月

『信長公記』 中のこの道三との会見の記事は、ただ「4月下旬の事に候」とあるだけで、年号は入っていませんが、信秀の死(天文21年3月)の記事と、天文22年4月17日と書かれた赤塚合戦の記事との間に置かれています(角川文庫版 - なお新人物文庫版は、記事の並べ方が角川文庫版から変えられています)。

この面会について、村岡説(「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」)は「天文22年4月上旬」、横山説(『織田信長の尾張時代』)は「同年〔天文22年〕4月」と見方が一致しており、両者とも 『信長公記』 通りの「4月下旬」とはしていません。ただ、4月の「下旬」ではない根拠も書かれていません。ただし、天文22年の4月下旬、赤塚合戦の直後に兵7~800を引き連れての会見があった、とは考えにくそうに思えます。

本歴史館は横山説に従い、この道三との会見の直後、同じ月に赤塚合戦が行われた、としています。この会見中に、道三から、今川勢との対抗方針を取る信長を支持する言葉が出たものと推測されます。

会見の前提条件となった、信長と道三の緊密な関係

横山・上掲書は、道三から信長家臣佐々隼人佐あて(おそらく天文22年)4月7日付の手紙も紹介、道三の家来が那古野への行き帰りに世話になる緊密な関係にあることが示されています。

こうした緊密な関係が成り立つ前提として、まず信長と濃姫の夫婦関係が良好であり、道三には濃姫から信長を褒める手紙が多く来ていたために「大うつけ」とは思っていなかった、信長の方も濃姫から道三のことをよく聞いていたので過剰な警戒心は持っていなかった、という推定が成り立ちそうに思われるのですが、いかがでしょうか。

道三との会見を行った「冨田の正徳寺」の所在地

信長と道三が会見を行った「冨田の正徳寺」はどこにあったのか、地図で確認をしておきたいと思います。下の地図は、『尾西市史・通史編上巻』 の記述を参考にして作成したものです。なお、「正徳寺」ではなく「聖徳寺」が正しいようですので、以下は「聖徳寺」と書きます。

地図上で、例によって青い太線で表示しているのが、当時の尾張・美濃の国境であり、木曽古川の位置です。下の地図にある現代の木曽川の河道は、当時そこには大河はなかった、と理解して地図を眺めてください。

織田信長 尾張国冨田正徳寺(聖徳寺)での斎藤道三との会見 地図

会見の行われた冨田の聖徳寺は、稲葉山城からは15キロほど、那古野城からは20キロほどの距離でした。おおむね中間と言える場所が選ばれたように思われます。左側の小さい四角部分を拡大したものが、右側の大きな四角内です。

信長との会見の日、道三は商家の番頭に化けて信長一行を観察した、との言い伝え

『尾西市史』 には、信長と道三の会見についての旧冨田村での言い伝えが載せられています。以下は 『尾西市史』 からの要約です。

斎藤道三が〔信長を〕隙見したのは、絹屋という商家の店頭で、道三はここで番頭に化けて坐っていた

この絹屋の店は、上の地図に示した浄慶寺の門前にあったようです。

冨田・聖徳寺は、戦乱と天正の大洪水の被害を受けた

冨田の聖徳寺は、その後、戦国の戦乱と天正の大洪水で大きな被害を受けたようです。以下は、聖徳寺について、まずは 『尾西市史』 の要約です。

● 寺伝によれば、鎌倉時代初期に親鸞が尾張国葉栗郡大浦(現羽島市正木町大浦)に創建、 1500年代に入り洪水で流出したため中島郡刈安賀(現一宮市萩原町富田)に移転、のち大浦に復帰、さらに永正14〔1517〕年に中島郡富田(現一宮市冨田)に移転。ただし、天文12〔1543〕年まで苅安賀に所在、あるいは天文9〔1540〕年まで大浦所在、の史料もある。
● 信長は舅斎藤道三と会見、この冨田正徳寺尾西市〔現一宮市〕冨田所在とするのが定説だが、苅安賀地内の富田(現一宮市萩原町富田方)とする考え方もある。
● 天正12年(1584)の小牧長久手戦の際、羽柴秀吉は冨田寺内聖徳寺に陣を置いた。この冨田寺内は両軍の布陣状況からみても、尾西市冨田と考えるのが妥当。

信長・道三の会見のあった冨田と、木曽川の流れの位置関係を確認しておきたいと思います。信長一行は、道三と会見するため、「木曽川・飛騨川大河舟渡し打越」ました。当時の木曽川が現在の流れと同じであったのなら、冨田聖徳寺は那古野方面からは木曽川の手前なので、そもそも大河を渡る必要がありません。「第1室 1-2 国境と木曽川の河道」のページで確認しました通り、また、下の地図に示しました通り、当時は現在とは流れが異なっていて、那古野城と冨田の間には、大きな枝川の一つである及川~日光川が流れており、信長一行は、この流れを舟で渡ったものと考えられます。

聖徳寺は、大浦から冨田に移転してきたわけですが、大浦・冨田とも、及川~日光川と逆川~佐屋川にはさまれた地域であり、一つの地域内だったと言えそうです。なお、『信長公記』 角川文庫版は苅安賀説ですが、もしも聖徳寺がこのとき苅安賀地内の冨田であったとするなら、那古野城からは日光川の手前なので、大河舟渡の必要がありません。やはり、尾西市(現一宮市)の冨田であったと考えるのがよさそうであり、その地に今は「聖徳寺旧跡」の碑が立っています。

信長・道三会見当時の木曽川 地図

『尾西市史』 は冨田と聖徳寺について、さらに次のような話を紹介しています。

● 信長が、〔聖徳〕寺に物を贈ったり、この方面への出陣の際には当寺で陣の編成をしたと伝えられるなど、両者の関係は浅からぬものがあった。〔当寺は一向宗の寺であるのに〕石山合戦・長島一向一揆にも参加していない(聖徳寺文書)。
● 天正12年(1584)の小牧長久手戦の際、羽柴秀吉は聖徳寺に陣を置き、加賀野井城攻めなどを行った。その時竹ヶ鼻勢によって焼き払われた。
● 天正14年(1586)6月24日の洪水により、冨田村も水没したため三屋村(岐阜県笠松町)へ移転した。この洪水では、冨田では7割あまりの土地を河底に失ったと言い伝えている。冨田村のすぐ南隣の加賀野井村では、村の中央を木曽川の流路が貫流して、村の多くを河底に失った。

冨田の村は、その過半が、天正の洪水で流されてしまい、そのとき出来た木曽川の新しい河道(=現在の木曽川の河道)の中に沈んでしまったようです。

 

4月17日、赤塚合戦

信長が、鳴海城主・山口左馬助 + 駿河衆と戦った赤塚合戦

信長は、道三との会見の直後、おそらく半月も経たないうちに、赤塚合戦に踏み出します。赤塚合戦はどういう戦いであったのか、以下は再び 『信長公記』(首巻11)からの要約(現代語化)です。

● 天文22年4月17日、信長公19の御年。鳴海の城主、山口左馬助・子息九郎二郎、信秀の死後程なく謀反、駿河衆を引き入れ尾州内に乱入。鳴海の城には九郎二郎。笠寺に砦・要害。中村の在所には父・左馬助。
● 信長は軍勢800人ばかりで出陣。中根村をかけ通り、小鳴海へ移り、三の山へ。
● 九郎二郎は、鳴海より北15~16町の赤塚へ1500人ばかりの軍勢。信長は三の山からこれを見て、赤塚へ出撃。
● 敵とは5~6間〔約9~11m〕となったとき、優れた弓の使い手たちが互いに矢を放つ。巳の刻〔午前10時前後〕から午の刻〔正午前後〕まで乱戦。信長方で討死したもの30人。 入り乱れて相戦い、4~5間〔約7~9m〕を隔てて対峙し、数時間の戦い。
● 敵味方とも見知り合いの間柄、戦いが終わってから、馬を返し合い、生け捕りにした兵も交換、信長はその日のうちに帰陣。

山口左馬助は、信秀の晩年には、織田方から今川方への和議申し入れの窓口として、今川方に接触していました(「第2室 2-13 今川の攻勢・三河の喪失」)。信秀が亡くなって1年の内に、今川方に転じ、駿河衆を引き入れた、ということになります。

敵の半分の兵力でも引き分けに持ち込んだ信長

この記事からは、信長は、弟信勝らの協力なしに単独で戦ったと理解されます。斎藤道三との会見とほぼ同時期で、会見時はお供7~800人、赤塚の合戦は軍勢800人ばかり、とありますので、この当時の信長の動員力は800人程度に過ぎなかった、と理解するのが妥当でしょうか。

5~6間、さらには4~5間の距離ですから、槍合わせにならないギリギリの距離まで接近して矢戦をしたと思われます。信長側は3間半、相手側は2間半の槍だとしても、槍の持ち手はそれぞれ1間弱を使って槍を持つので、敵に対して使える部分は2間半強と1間半強、合わせて4間以下にならないと槍合わせにはならない、と思われます。

矢戦も、距離が近ければ命中率が高くなるので、敵を射ようと楯から顔を出せば敵の矢が命中する状況で、お互いの損害が大きくなったのでしょう。しかし、どちらも踏ん張り、片方が他方を圧倒する状況にはならず、勝負がつかなかったようです。

駿河衆も加わって倍近い敵方の人数にも信長が負けなかった理由は、信長に鉄砲があったためか、それとも信長側と相手側で戦力構成が異なっていて、弓足軽の人数ではあまり差がなかったためか、この記事では鉄砲が使用されたか不明なのは残念なところです。信長軍の兵の訓練の成果が出た結果であることは、間違いないと思われますが。

この合戦について、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 は、「この赤塚の戦いは、若き信長が倍する敵を相手に互角に戦った最初のもので、相手には信長強しと思いを持たせ、これ以上、尾張の奥深くに攻め入ることを今川方に思いとどまらせたであろう。信長は信長で、本格的な戦いの感触をつかんだ点で大きな収穫があった」と評しています。

この戦い以後、桶狭間合戦までは、信長側の兵力はしばしば劣勢なのですが、その状況下、味方兵力を分散して優勢の敵兵力の全部を相手にするようなことは避け、味方は全員を一団にして、敵の一部のみに集中的に攻撃を仕掛けることによって、兵力劣勢でも勝てる工夫を行っていた、と言えるように思いますが、いかがでしょうか。

なお、この赤塚合戦時に今川方となっていた鳴海城は、7年後の桶狭間合戦まで、今川方に属し続けました。

赤塚合戦の概略地図

まずは、赤塚合戦のあった場所の概略の確認です。信長の那古野城から山口父子の鳴海城までは、直線で12キロほどでした。山口左馬助側の「中村の在所」は桜中村城、「笠寺の砦・要害」は戸部城のことかと思われます。どちらも 『新修名古屋市史 資料編・考古2』 に基づいて、場所を記入しています。

那古野城から鳴海城まで、桜中村城や戸部城の脇を通るのが通常のルートだと思いますが、それより東の中根村から南に下って行った、ということが、この地図からは分かります。信長側の人数劣勢に対する対策として、桜中村ー戸部の山口父子方防衛ラインは迂回して、鳴海城だけを真っすぐ狙って戦力を集中投入しようとしたのかもしれません。

1553(天文22)年 赤塚の合戦 地図

 

赤塚合戦の詳細航空写真図

上の地図中の赤い四角の部分については、更に、国土地理院の1959年の航空写真上で確認したいと思います。

1553(天文22)年 赤塚の合戦 航空写真

家がほぼ隙間なく並んでいる現在とは全く様子が異なる状況が撮影されています。今から半世紀以上前の1959年、赤塚合戦にゆかりの地域はまだ未開発だったこと、とりわけ天白川両岸の地域にはほとんど家が建っていなかったことが分かります。横山住雄・上掲書によれば、信長の当時、このあたりの天白川流域は新田開発もされておらず、干潟が広がっていたようです。

『信長公記』 には、信長は「中根村をかけ通り、小鳴海へ移られ、三の山へ御あがり候」とあり、中根村から鳴海城に向かってほぼまっすぐ南に下りてきたことが分かります。小鳴海は現在の地下鉄野並駅すぐ南の古鳴海です。

三の山は現在の三王山の丘で、江戸時代に松尾芭蕉自筆の千鳥塚の石碑が建てられたことから、今は千句塚公園となっていて、西側・笠寺方向への眺めが非常に良い場所です。 『新修名古屋市史 第2巻』(千田嘉博氏 執筆部分)は、三王山での発掘調査で、幅5メートル以上・深さ少なくとも2メートルで箱形の堀の一部が検出され、堀に守られた曲輪内からは皿や茶碗の出土品もあったことから、「天文22年の戦いに際して臨時の陣城が構築され、その後、丹下砦が築かれるまで機能したものと推測される」としています。

現在の赤塚は新海池公園の西側の地域ですが、新海池は江戸時代に作られたため池で、信長の時代にはなかったようです。三王山から赤塚までは、一旦少し下ってまた上り、結局赤塚側の方が少しだけ高くなっています。鳴海城跡は名鉄鳴海駅の北300メートルほどの地で、現在は鳴海城跡公園として整備されています。

『信長公記』 には、赤塚は「三の山の15町東」で、「なるみより15町」北とあり、山王山・鳴海のどちらからも等距離であったと書いています。赤塚の位置を正しく示していない記述に思われますが、一方、どちらからも等距離の地で合戦があったとするなら、合戦の地は、上の航空写真で示した赤塚の位置よりも、もう少し南の位置であったのかもしれません。

 

 

信秀の死後約1年の間の状況の展開を確認してきました。次は、同時期に発生した清須での守護対守護代との争いと、その状況への信長の対応、そして清須城を乗っ取るまでについてです。