1549(天文18)年、健康問題を発して末盛城に隠居した信秀は、同年秋からの今川方の攻勢に有効な手を打てずに三河を失い、今川方の侵攻は尾張国内にまで及びました。今川とは講和をしたようですが、それ以上に有効な手を打つことはできず、信秀の健康は回復することはなく、1552(天文21)年3月に死を迎えます。
このページでは、晩年の権限委譲の状況、信秀の葬儀、信長と弟・信勝との分割相続の状態、万松寺と桃巌寺の2箇所にあった信秀の墓、などについて確認します。
● このページの内容 と ◎ このページの地図
------------------------------
隠居した織田信秀の、信長・信勝への権限移譲
信秀隠居中の、信長・信勝による発給文書
まずは、この間の織田家中の権限委譲の状況を確認します。信秀の隠居に内実が伴っているなら、家督を譲った相手である信長に、なにがしかの権限移譲がなされるのが当然です。この時代、領主が領民に発給した文書を確認することで、誰が実質的な権力者であったのかが分かる、と言えるようです。
信秀の末盛城時代、こうした権限移譲を示す発給文書にはどのようなものがあったか、以下は横山住雄 『織田信長の系譜』、および村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間の織田信長・織田信勝」からの要約です。
● 信長の、天文18年(1549)11月に熱田8か村あて制札。こんにち知られる最初の信長発給文書。<村岡上掲論文>
● 信長の、年未詳 - おそらく天文19年(1550)- 4月10日付、西加藤家に対し熱田大瀬古余五郎跡職座の買得を安堵した判物。「詳細を勘十郎〔=信長の弟・信勝〕が説明したので、問題なしとして安堵する」との記述あり。<村岡上掲論文>
● 信長は、天文19年(1550)12月23日付で熱田社座主に対し、笠寺別当職を備後守の判形の旨に任せて安堵の判物。<横山上掲書・村岡上掲論文>
● 信勝は、天文20年(1551)9月20日付けで熱田座主に対し、笠寺への権限を、備後守と三郎〔=信長〕の先判の書通り承認の証文。<横山上掲書・村岡上掲論文>
全て熱田関係なのは、発給文書が熱田関係しかなかった、ということではなく、熱田関係しか残っていないのであろうと思われます。しかしながら、これら史料から、下記が読み取れるようです。
● 信秀の生死にかかわらず、笠寺方面の領主権が信秀→信長→信勝と替わった。<横山上掲書>
● 天文19年12月の判物の表現は、一般には代替わりの安堵状にみられるもの。信長が信秀を嗣いだ立場に立つことを示す。天文20年9月の文書は、安堵の権能者が信長から信勝に代わったこと、家督継承者信長のもとでも、領内統治にかかる一定程度の権能を信勝が有していたことを示す。信勝の立場の上昇は、末盛城に同居する父信秀の意思を踏まえ行うと主張することによって可能となったと考えるのが自然。<村岡上掲論文>
熱田関係しか残っておらず、領内の他所はどうであったのかが分からないのは残念ですが、少なくとも、嫡子である信長とそのすぐ下の弟である信勝(何度も名前を変えており、古い本では信行と書かれている場合が多い)に対し、ある程度の権限移譲がなされていたことは分かります。ただし、ここで信勝が登場してくるところが、信秀死後の兄弟の確執につながります。
なお、上記史料の日付が、信秀が入道を名乗るようになった天文18年の3~4月よりも、少なくとも8か月以上後であったことからしますと、初めのうちは健康問題が生じたと言っても、まだ軽微なものであったのかもしれません。信長による最初の制札が天文18年11月だったということは、安祥を失って落胆が大きかったので権限移譲をする気になった、あるいは、そのころ健康状態が悪化して権限移譲に踏み切らざるを得なくなった、などの可能性が推測されます。
外交は信長ではなかった
前ページ「三河の喪失」で確認しました通り、天文18年に三河を喪失し、翌天文19年に尾張侵入を許した織田方は、天文20年に今川と和睦したようです。この和睦交渉は誰が実務責任者であったのか、以下は再び、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間の織田信長・織田信勝」からの要約です。
● 天文20年中の織田・今川の停戦交渉における尾張側表向きの当事者は信秀とされているものの、実際のところ彼は病床にあった。
● この年と推定される11月5日付、織田与十郎寛近(とおちか)書状。斎藤道三の意を土岐小次郎に伝えるという外交上の役割を信秀に代わって寛近が務めている。信長が表立って信秀代理の役を果たしていないことが判明する。
● 事実がそう〔=信長が外交を代行することに〕なっていないのは、信長が今川との和睦に消極的であったからであろう。
織田寛近については、前ページで確認しましたが、親信秀の小口城主でした。
この村岡論文が、信長が今川との和睦に消極的だったので外交を担当していなかったと見ているのに対し、谷口克広 『天下人の父・織田信秀』 は、下のように述べています。同書からの要約です。
● 寛近は斎藤氏あるいは土岐氏との個別的な関係によるための特例と考えるべき
● 外交全般については、信秀の弟・信光〔=のちに信長と組んで清須城乗っ取りを行った〕、玄蕃丞秀敏、平手政秀らが担当したのではないか
● 信長のような若年者が外交に携わった例は少なく父子の確執が原因と断定するには無理がある
説得力がある指摘だと思います。
織田信秀の死と葬儀
信秀の死に関する『信長公記』の記述
こうして、健康悪化に伴い権限移譲を進めた信秀ですが、ついに死の日を迎えます。まずは 『信長公記』 の記述(首巻9)から確認します。
備後守殿〔=信秀〕疫癘(えきれい)御悩みなされ〔流行病にかかり〕、様々御祈祷・御治療候といへども御平癒なく〔治癒することなく〕、終に3月3日御年42歳と申すに御遷化〔せんげ=死去〕。
例によって年号が入っていませんが、角川文庫版は天文20年と注記、現代語訳もそれを引き継いでいます。
信秀の死は1552(天文21)年
一方、横山住雄 『織田信長の系譜』は、諸説を検討の上、死亡日は史料から天文21年3月3日、享年は41歳、と結論しています。以下はその要約です。
● 信秀の命日は、諸説ほとんど3月3日で一致している。ところが没年には、天文18年説、天文20年説、天文21年説の多説があり、未だ明確でない。
● このうち18年説は、信秀の判物が19年11月朔日付で発給されていることから成立しない。この日以降、信秀が発給した文書が見当たらない。
● 天文20年9月20日付け織田信勝の証文には「備後守」だが、天文21年10月21日付信長判物には「桃岩」〔=信秀の法名〕とあり、この時点では信秀が故人であることが明白、したがって、天文21(1552)年3月3日の死去に限定できる。
● 信秀の葬儀は当然のことながら菩提寺である万松寺で挙行。導師は同寺住職の大雲永瑞。『大雲和尚語録』 中の信秀火葬時の法語に、「俄然として一朝災疫にかかった」、つまり急な疫病にかかったとする。私は脳卒中でなかろうかと思っている。没年齢は数え年で41歳だとも述べている。
横山説が信秀の享年を41歳としているのは、この火葬時の法語が残っているためのようです。
信長が抹香を投げつけた信秀の葬儀
1552(天文21)年3月3日に信秀が亡くなった時、信長は19歳でした。有名な信秀葬儀の際の抹香投げつけ事件を、『信長公記』(首巻9)から確認します。
● 去て〔生前〕一院を建立、万松寺と号す。当寺の東堂〔前任の住職=信秀を前任住職と見立て〕桃厳〔信秀の法名〕と名付けて、銭施行をひかせ、国中の僧衆集っておびただしき御弔〔おとむらい=葬儀〕だった。その時関東上り下りの会下僧〔えげ僧=寺を持たぬ僧〕たち、多数あり。僧衆300人ばかりであった。
● 三郎信長公には、林・平手・青山・内藤の家老の衆がお伴した。御舎弟勘十郎公には、家臣柴田権六・佐久間大学・佐久間次右衛門・長谷川・山田以下がお供した。
● 信長が焼香に出て、その時信長の仕立は、長柄の大刀・脇差を三五縄で巻き、髪は茶筅に巻立、袴もはかずに仏前へ御出であって、抹香をくわっとつかんで、仏前へ投げかけ帰った。
● 御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣・袴をはいて、あるべきごとくの御沙汰だった。三郎信長は例の大うつけよと執々評判だった。その中に筑紫の客僧一人、あれこそ国は持つ人よと言った由。
前に見た、濃姫との婚姻直後、16~18歳時の「大うつけ」時代から、外見的行動は何も変わっていないように思われる記述です。信秀の後継として適切ならず、との心証を、あらためて織田家中全体に与えた可能性があります。
織田信長と弟・信勝との分割相続
信長は、嫡子として信秀資産の大部分を相続した訳ではなかった
信長は、信秀の嫡子ではあっても、信秀の資産を全て相続したわけではなかったことは、上記の葬儀の記述のすぐ後に続く 『信長公記』 の以下の記述(首巻9)からも明らかです。
末盛の城は勘十郎に、柴田権六・佐久間次右衛門、このほか歴々相添へてお譲りになった。
この文章について、以下は、再び村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間の織田信長・織田信勝」からの要約です。
● 何を「御譲り」になったのか。家督である。私は、このとき信長と信勝とのあいだで家督分割についてあらためて合意がなされたものと解釈する。
● 信秀は、晩年に、大まかにいって西部を信長、東部を信勝に与える考えを周辺に示していたのではあるまいか。
● 葬儀の時、信長・信勝それぞれに従った家臣を見比べると、信長重臣は那古野城を譲られた際に付けられた4家老のみで、他は悉く「勘十郎公…御伴なり」となっている。
● 信長を明確に唯一の後継者とする措置も遺言もなきままに信秀が没してしまったことこそ、信秀葬儀の場で信長が感情を爆発させた理由ではなかったか。父の後継者が信勝であり弾正忠家一族・一派を率いる、しかし自分こそが嫡流であって、信勝の下でもない。これからは独立した対等の存在。
● 天文21年中の信長発給文書、信秀没後の4通中3通、他の年と比べ特徴的なことに、「三郎信長」と署判。父の通称であった三郎を継承しているのは自分であることを外に向かってことさらに宣する意図と必要性。
● 信秀没後に信長が用い始めた花押が、それ以前に彼が用いていた足利様系統でなくなっているのは、弾正忠家一族・一派を率いる立場を放擲したとの推定に対比するもの。
家臣の継承・花押の変化などから、信長が嫡子として信秀の家督を全面継承したのではなく、信秀の遺産は信長と弟の信勝との間で分割相続され、しかも実質的には弟の信勝が家督相続者となった、との見解です。この村岡説は、史料の典拠のない推定も含まれている点が弱点であり、これがどこまで正しい推定であるかは何とも言えません。
『愛知県史 通史編3』(村岡幹生氏執筆と思われる部分)では、この村岡論文の見解がさらに発展されています。以下は、同書からの要約です。
● そもそも葬儀は信長・信勝の二人喪主の形で執り行われたように読める。
● 信長は現実を認め、信秀家臣の信秀家臣の多くを信勝が継承することを許した。とはいえ、信長はここで弟の臣下となると申し出たのではない。出家するわけでもない。これは厳密にいえば、家督移譲というより家督分割である。
葬儀は二人喪主、家臣の多くが信勝支持という現実を認め、所領も家督も分割相続、というのは説得力があるように思われます。
一方、前掲・谷口克広 『天下人の父・織田信秀』 は、この『信長公記』の記述について、「信秀が最後に居城にしていた末盛城を、一部の老臣と一緒に信勝に譲った、との解釈でよいのではなかろうか。すなわち、譲られたのは末盛城であり、譲った主体は新家督の信長ということであろう」として、旧説寄りの姿勢を示しています。しかし、それでは従属した家臣・署名・花押の変化などについて無視することになり、説得力に欠けるように思われます。
実質的には分割相続状態か
村岡説通りに、信長と信勝二人で、家督も所領も分割相続した、あるいは、形式的には信長が家督相続者とするものの、実質的には信長と信勝の両者に家を割り分割相続した、と見るのが妥当ではないでしょうか。
信長にとって不利な扱いとなった原因が、彼の「大うつけ」行動にあったことは間違いないでしょう。弾正忠家の新トップとして信長不支持・信勝支持の家臣が過半数を上回っている状況で、信長が家督をすべて相続することになれば、家臣の多くがついてこないという現実があり、やむを得ず、分割相続になったと思われます。
「第2室 2-3 三河の状況と守山崩れ・伊田合戦」のところで見ました通り、安城松平家一族は、第3代から第4代への代替わりの際、一族家臣は、血筋重視の清康派と実力重視の信定派に分裂しました。戦国時代は、規制社会で浮沈の少ない江戸時代と異なり、武力横領ありの実力競争社会であったため、武将家(家臣からすれば主家=勤務先)の当主(=社長)の能力は、その武将家(勤務先企業)の存亡発展に大きな影響があり、一族家臣側でも、当主の代替わりにあたって後継者の選択に関与しようとした、家臣にも主人を選ぶ権利があった、という可能性があります。信秀死去時の尾張弾正忠家では、信長・信勝ともまだ若く、戦国武将としての実力の程はまだ分からないので、人格が判断基準となって、信勝につく家臣が多かった、ということであったのでしょうか。
織田信秀の墓-万松寺と桃厳寺
万松寺の信秀の墓
信秀の葬儀が行われた万松寺については、「第2室 2-6 万松寺の創建、伊勢神宮・皇居への進上」のページで、その歴史を確認しました。1952(昭和27)年、この万松寺で、信秀公四百年祭法要が行われ、その際 『織田信秀公と万松寺』 という冊子が発行されています。以下は、信秀の墓について、この冊子からの要約です。
● 3年前〔1949年〕、万松寺にある信秀公墓所の墓碑は、余りにも貧弱、かつ江戸前期のもので時代が合わず
● 塔頭・福寿院の無縁の塔こそ真の墓碑ではないかと推定、信秀公百年祭の古文書中に記載の塔と寸法がぴったり合い、室町末期様式、完全に近い形を備えているのは長く開基の墓として格別鄭重に取り扱われて来ているためと考えられ、この宝篋印塔こそ信秀公の真の墓碑として断定、万松寺に復帰安置された。
万松寺は、創建の地から大須に移転しているため、その間に信秀の墓の行方がわからなくなったようです。「百年祭の古文書」が残っていて特定できたのは、結構なことでした。
桃厳寺の信秀の墓
一方、信秀ゆかりの寺としては、信秀の法号が寺の名になっている桃厳寺もあり、そこにも信秀の墓があります。この桃厳寺について、再び 『織田信秀公と万松寺』 からの要約です。
● 信秀、信行〔=信勝〕、勝家の墓というのが、最初末森〔=末盛〕城西の山、伊藤楊輝荘の南隣(千種区月見坂町)にあった、と今の桃厳寺の住職・織田棋信和尚のお話。それを今の桃厳寺(千種区四谷通)へ移転。
● 墓碑の正面に桃厳道見大禅門(信秀)、右側は松岳道悦大禅門(信行)、左側雪峰秀顕大禅門(柴田勝家)。これは後年何人かで設立せしものを最近ここに移転せし、角型普通墓標にて、その当時のものではないようである。
● もとこの寺は、末森城の東(千種区松竹町2丁目)、山のふもと川の辺りで、時々水入りの災にあうため、寛政時代、この唐山の高地に移りしものとのこと。
● 開山は開翁玄竣和尚とのこと。信秀公についての記録等も一切なく、位牌は御三人のが祀られ、その紋所が織田家の紋である。
桃厳寺は、もともと信勝が建立したとされています。信秀のための寺として、すでに万松寺があるのにかかわらず、末盛城の近くに寺を作った、というのも、<万松寺-那古野城-信長>、<桃厳寺-末盛城-信勝>、という対立関係を思わせます。
万松寺と桃厳寺の地図
那古野城と万松寺、末盛城と桃厳寺の位置関係について、地図で確認したいと思います。
もともと那古野城と末盛城は、5キロほど離れていました。信秀・信長時代の万松寺は、那古野城の南1キロほどのところにありました。一方、信勝系の桃厳寺と信秀墓は、当初は末盛城を挟んで東西それぞれ数百メートルのところにあったようです。その後万松寺はさらに南の、桃厳寺はさらに東の、現在地に移りました。
万松寺と桃厳寺という信秀ゆかりの2つの寺、そして信秀の2つの墓が、5キロ以上の距離を隔てて存在している状況は、信長と信勝の間に調停困難な対立があったことを今に示している、と言えそうに思われます。
ここまで、織田信長の父・信秀の生涯と、信秀生存中の信長を確認してきました。これで第2室は終了です。次は、信長の尾張統一の過程を確認していきます。