地理に関する、自治体史以外の資料・研究書
信秀・信長関連の地理に関する資料として、すでに県史・市史・町史などの自治体史や、城や木曽川の河道といった個別テーマに関するものは、これまでのページで挙げてきました。
ここでは、それ以外の地理関連資料について、本歴史館で参照したものを、以下にご紹介したいと思います。
● このページの内容
山村亜希 「中世津島の景観とその変遷」
(愛知県立大学文学部論集 日本文化学科編 53巻、2005)
本論文は、「第4室 8 当時の城に関する資料・研究書」のページで触れました、仁木宏・松尾信裕編 『信長の城下町』 所収の鈴木正貴「信長と尾張の城下町」の中で、津島に関して挙げられている論文です。
13世紀以来の文献・絵図等の多数の諸史料や、明治から現在に至るまでの地図・測量情報等を総合して、中世の津島の景観の復元と変遷過程の詳細な考察を行っています。読み応えのある論文であると思います。
本歴史館の「第2室 2-2 弾正忠家の津島支配」のページでは、本論文を大いに参考にして、引用等を行っています。
本論文は、インターネットの愛知県立大学学術リポジトリのサイトからダウンロードすることができます。
青山市太郎 編集 『織田信秀公と万松寺』 萬松寺 1952 (非売品)
名古屋の万松寺といえば、市内の繁華街・大須の中にある寺として、名古屋市民であれば、知らぬ人は少ないのではないかと思います。しかし、実は信長の父・信秀が創建した寺であり、その当時は現在地と異なる場所にあったとは言え、有名な信秀の葬儀での信長による抹香投げつけ事件は、この万松寺で起こったことだ、というのは、知らない人の方が多いのではないか、と思います。
本書の冒頭には、「謹呈」として、「昭和27年3月3日は、当寺の創立者にして、郷土の英傑信長公の父・信秀公の400年祭にこれあり、記念のため公と万松寺なる小冊子誌をものし、就いては右祭典のみぎり、これを諸彦の座右に供し度」〔適宜、句読点を補足、また漢字をひらがなに変更〕という、当寺の住職の挨拶があり、1552年に没した信秀の400年法要記念に出版されたものであることが分かります。
主要な内容としては、以下が含まれています。
● 本書刊行当時に分かっていた限りの織田信秀の生涯
● 信長の弟・信勝が建てた桃巌寺のこと
● 信秀親族 (祖父・母・弟・信長・信長の室) の墓所
● 万松寺の歴史
本歴史館は、名古屋市鶴舞中央図書館所蔵のものを読みました。本書からは、以下のページで、引用等を行っています。
NPO法人 愛知部落解放・人権研究所 編 『愛知の部落史』 解放出版社 2015
本歴史館の「第3室 織田信長 3-3 清須クーデター~清須乗っ取り」のページで取り上げた中市場合戦について、『信長公記』 角川文庫版の注記の場所比定はあまりにも変である、と思っていたときに、たまたま書店で本書を見つけました。
本書を編集した団体名や出版社の名前からは、政治性の強い内容を想像される方も少なくないかもしれませんが、本書はそんなことはありません。歴史の記述については、政治性を排して学究的であり、史料に基づいた内容になっています。
中市場合戦の場所の比定については、本書が大変に参考になりました。上記のページで、本書から引用等を行っています。
溝口 常俊 監修 『古地図で見る名古屋』 樹林舎 2008
本出版物の函には、「名古屋開府400年記念」とあります。尾張徳川家の居城の清須から名古屋への移転 (=清須越し) から、およそ400年、ということだと思います。
本歴史館としては、「名古屋になって400年」は事実ではあるけれど、それでは、信秀・信長の那古野時代が無視されてしまうことになるので、年数のそういう数え方はいかがなものか、今川氏が那古野に館を作って以来の「那古野・名古屋500余年」という数え方の方が良いのではないか、という気がしています。
そうした蛇足はさておき、本出版物には、慶長以前の名古屋村古地図から1955 (昭和30) 年までの近世・近代の地図12枚の復刻版と、「図説 絵図と古地図で見る名古屋の変遷」という解説冊子が含まれています。「図説」の方には、復刻版で付されているもの以外の地図も、写真で紹介されています。
近世・近代の名古屋の歴史を確認するのに、非常に役に立つ出版物です。本歴史館では、以下のページで引用等を行っています。
● 第2室 織田信秀 2-6 万松寺創建、伊勢神宮・皇居進上
八事・杁中歴史研究会 『増補改訂版 八事・杁中歴史散歩』 人間社 2018 (初刊 2015)
本書は、「第3室 織田信長 3-1 今川の八事出陣」のページの内容に関連し、今川義元の八事出陣でいう「八事」とは、どこであったのか、という疑問への答えを探すために読んでみたものです。同ページで、本書から引用等を行っています。
戦国期以前から現在までの、名古屋市内、八事・杁中地域の歴史が本書のテーマであり、著者は八事・杁中歴史研究会という団体名となっています。本文中にも書きましたが、尾張徳川家の仮想敵=江戸幕府説など、なかなか面白い話も含まれています。
ただし、残念ながら本書中の記述には、根拠となる史料の出典の記載がほとんどありません。したがって、本書は、研究書とはとても言えず、単なる読み物として楽しむもの、という位置づけになると思います。
河内将芳 『信長が見た戦国京都 ー 城塞に囲まれた異貌の都』 洋泉社 2010
(再刊 法蔵館 2020)
本書は、「第3室 織田信長 3-9 信長の上洛と桶狭間合戦前の状況」のページに関し、信長上洛時の京都の町の状況を確認するために読みました。大変に参考になりました。同ページで、本書から引用等を行っています。
本書の内容はまさしくその書名のとおりで、1559(永禄2)年の上洛時~本能寺の変で亡くなる1582(天正10)年の間の「戦国時代の京都について、信長の目と京都の人々の目をとおして、できるかぎりわかりやすく紹介」しています。
戦国時代の京都については、絵画資料(洛中洛外図屏風)および文献史料(『言継卿記』 やイエズス会宣教師の手紙等をはじめとする古文書・古記録)によって、ある程度、様子に迫ることが可能であり、とくに1980年代以降に研究が進展した、とのこと。(以上、本書「はじめに」)
本書の構成は以下の通りです。
はじめに 「異形」の者たちの上洛
第1章 若き信長と城塞都市京都
第2章 自衛・自治する町と町人
第3章 林立する日蓮宗寺院と信長
第4章 信長と京都の深い溝
第5章 信長、京都に死す
あとがき
第1章では、永禄2年の上洛時に信長が見た京都の様子と、平安京成立から信長のこのときの上洛時までの、とりわけ応仁・文明の乱以来の京都の変遷について、詳説されています。第2章・第3章は、当時の京都で自治を行っていた町組や、林立していた日蓮宗寺院について、第4章は足利義昭をかついで上洛してからの京都、第5章は最後の上洛と本能寺、といった内容です。
なかなか面白い、読む価値のある本だと思います。
續伸一郎 「中世都市 堺 ー 都市空間とその構造」
(中世都市研究会 編 『都市空間 ー 中世都市研究 I』 所収) 新人物往来社 1994
續伸一郎 「中世の国際都市 堺 ー 考古学から見た堺環濠都市遺跡」
(人文系データベース協議会 第10回 公開シンポジウム 招待講演 2004年)
やはり「第3室 織田信長 3-9 信長の上洛と桶狭間合戦前の状況」のページに関し、信長上洛当時の堺の町の状況を確認するために読みました。同ページで、この2つの論文から引用等を行っています。
著者の續伸一郎氏は、堺市教育委員会・堺埋蔵文化センターで、堺環濠都市遺跡の発掘に携わってこられた方であり、上掲の2論文は、どちらも同氏による講演録が論文化されたものです。
このうち、1994年の論文は、その時点までに判明した発掘調査結果を整理されたものであり、中世~近世にかけての堺の発展の過程を知るには、まずはこちらを読むのが適切です。これは本になって出版されています。
もう一つの2004年の論文は、そうした発掘調査結果に基づき、当時の堺の蔵=ストックヤード機能について論考されたものです。こちらは、人文系データベース協議会のウェブサイトで、インターネット公開されています。
堺といえば、堀に囲まれた自治都市で戦国当時の国際交易の中心地、というイメージは昔からあるものの、実際にどうであったかという点では、十分には分かっていなかったようです。堺環濠都市遺跡の発掘は今も続いているようであり、今後さらに明らかになっていくものと思われます。
堺市博物館 『堺鉄砲 ー その源流と背景をさぐる』 堺市博物館 1990
これもやはり「第3室 織田信長 3-9 信長の上洛と桶狭間合戦前の状況」のページに関し、信長上洛当時の堺の町に関連し、堺と鉄砲の状況を確認するために読みました。同ページで、本書から引用等を行っています。
本書は、堺市博物館の開館10周年記念春季特別展として開催された堺鉄砲展での展示品の写真に、堺鉄砲の歴史についての解説が付されたものです。
堺の鉄砲については、江戸時代になるとその詳細な生産記録が残っているものの、戦国期、信長~秀吉の時代までは史料が乏しいようで、残念ながらいつから堺で鉄砲生産が開始されたのか、確実には分かっていないようです。
次は、戦国合戦を正しく理解するための、武器や武具、軍の組織や戦法など、当時の軍事の詳細に関する資料・研究書についてです。