3-9 信長の上洛と桶狭間合戦前の状況

 

前ページでは、1558(永禄元)年の夏から秋にかけて、信長が、まずは守護の斯波義銀を追放、続いて岩倉方を滅ぼし、更には信勝も殺害して、一気に尾張最大の戦国大名となった過程を確認しました。その翌年早々、信長は上洛します。とはいえ、信長はまだ尾張の全てを支配下に置いたわけではありません。信長勢力圏は、尾張の国の半分をちょっと超えた程度でした。

このページでは、その信長の上洛の詳細と、桶狭間合戦前の尾張の状況を確認します。

 

 

1559(永禄2)年2月、織田信長の上洛

『信長公記』の上洛の記事

信長が、父・信秀の死で弾正忠家を分割相続してから、つまり、尾張の半国のそのまた半分だけを相続してから、一時期は重臣にまで反逆されながら、守護も追放し、岩倉も弟・信勝も滅ぼして尾張最大の実力者となるまで、まだ7年経っていません。そのタイミングで、信長は上洛をします。まずは 『信長公記』(首巻26)の上洛記事の内容です。

● 去る程に、上総介殿ご上洛の儀にわかに仰せ出され、お伴衆80人の御書き立て〔随行者リスト〕にてご上京なさる。
● 城都〔京〕・奈良・堺ご見物候て、公方光源院義照〔将軍足利義輝〕へお礼仰せられ、ご在京候き。これを晴なりとこしらえ〔晴れ舞台と心得て装いをこらし〕、大のし付きに車を懸けて〔金銀飾りの太刀を誇らかに差し〕、お伴衆皆のし付きにて候なり〔お伴衆も皆金銀飾りの刀であった〕。
● 〔中略〕
● 五・三日〔15日〕過ぎ候て、上総介殿守山〔滋賀県守山市〕までお下り、翌日雨降り候といへども、払暁にお立ち候て、あひ谷〔東近江市相谷〕よりはつふ峠〔鈴鹿山中八風峠〕打ち越し、清須まで27里、その日の寅刻〔午前4時ごろ〕に清須へご参着なり。

〔中略〕の箇所は、美濃の斎藤義龍が送った信長への刺客団を信長の家臣が発見して、信長自らその刺客団に対面した話で、読み物としては面白いのですが、ここでは割愛します。

例により、『信長公記』の記事には「去る程に」とあるだけで、年月が入っていませんが、『言継卿記』 に、〔永禄2年〕「2月2日 … 尾州より織田上総介上洛云々、五百ばかり云々、異形者多し云々」とある(横山住雄 『織田信長の尾張時代』)ことから、年月が確定できるようです。前年内に、守護は追放し、岩倉も滅ぼし、信勝も殺害して体制を一挙に固めたことから、年が明けてすぐに思い立った、ということだったのでしょうか。

「5百ばかり」という数字は多めに言っているかもしれませんが、80人のお伴衆のそのまたお伴やら荷物持ちやらを全部加えると総勢数百人になった、ということなのでしょうか。「晴なりとこしらえ」たのが、逆に「異形」と見られたのかもしれません。

信長上洛の目的

この上洛の目的について、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」は、「尾張支配者としての正当性の認定を幕府から得ることにあったに違いないが、京滞在日数の短さからすると、それは達せられなかった可能性が高い」としています。

一方、上掲・横山住雄 『織田信長の尾張時代』 は、「信長の性格から「尾張守護職にする」などと書いた物を要求することもなかったのであろう。要は、将軍に尾張の覇権を握ったことを報ずればこと足りたものと思う」としています。横山説の方が妥当のように思われます。

信長は上洛旅行で石垣を学んだ

上洛の主目的は尾張の新しい戦国大名の出現を将軍に通告するものであったとしても、信長は、せっかくの上洛の機会を、将軍との謁見以外にも、意欲的に活用しようとしたものと思われます。各都市間の移動だけで1日がかりであったことを考えれば、わずか15日間で京・奈良・堺の3都市を回ったのは、きわめて精力的な行動、と言えるのではないでしょうか。そして、この機会に奈良・堺にも回って見聞を広めたことは、この時26歳の信長の成長にとって、大きな意義を持ったのではないかと推測されます。

上洛から4年後の1563(永禄6)年に小牧山城を築城したさい、信長は本格的な石垣を持つ城を作りましたが、それがこのときの上洛旅行で学んだことの一つであったようです。以下は、千田嘉博 『信長の城』からです。

1530年代(天文期)から畿内周辺では、山城に石垣を用いるようになっていたので、1559(永禄2)年に上洛した信長は、畿内と周辺の戦国期拠点城郭を実見して、石垣を使った山城に衝撃を受けたのでしょう。

信長のことですから、旅行中に何か関心をそそられるものに出くわすと、そこで足を止めてしっかりと見入ったのではないか、そうしたことに一番時間をついやしたのではないでしょうか。石垣は、この上洛旅行で学んだことの一つに過ぎず、他にもいろいろなことを学んだと思われます。こうした発見・学習は、若き信長にとって、将軍との謁見と同等かそれ以上の価値を持っていたのではないか、と推測しますが、いかがでしょうか。

 

織田信長上洛当時の京都・堺

信長上洛当時の京都 ー フロイスの証言

1559(永禄2)年に信長が上洛した当時の京都ですが、将軍は足利義輝の時代、三好長慶の全盛期でした。このときの信長の上洛から5年後の1564(永禄7)年に、宣教師のルイス・フロイスが初めて京都に入ります。以下は、そのときフロイスの見た京都について、川崎桃太 『フロイスの見た戦国日本』から。

この都の市は、往昔は非常に大きく、地元の人たちは、かつては長さが5、6里、幅が3里もあったと語ったほどである。都市はまったく山に囲まれ、はなはだ平坦で広大な平地にあり、山麓には、かつては非常に多額の収入があった多数の、かつ非常に大きい僧院や建物がある。… それらの諸建築は、この都市全体と同じように、大火や戦争にいともしばしば襲われて、ひどく荒廃してはいたが、それでもなお往時の盛観をいくぶん留めていた。

京都自体が応仁の乱以来の戦乱で焼けただけでなく、京の貴族や寺社が地方に保持していた荘園からの収入が、戦国武士たちの切り取り所領化で減少し、かつての栄華は失われた状態であったようです。とはいえ、それでも天皇の皇居があり将軍が御所を構える京都ですので、尾張清須の田舎とは大いに異なる都会であり、「異形」の田舎者扱いはやむを得なかったと思われます。

戦国期の京都の実情

1559(永禄2)年当時、フロイスの言う「ひどく荒廃」した京都の具体的な状況を明らかにしてくれているのが、河内将芳 『信長が見た戦国京都』 です。以下は、信長上洛時の京都について、同書の要約です。分かりやすくするため、記述の順序は再構成しています。

● 平安京は、中央の南北街路である朱雀大路を境に左京(東京)と右京(西京)。
● 平安時代の中ごろから、右京が都市域として利用されなくなり、人びとが東側の左京に集住。
● 平安時代も後期になると、左京の中でも、二条大路を境にして都市部がさらに南北ふたつに分かれ、上京と下京。
● 戦国時代の京都とは、上京と下京に市街地が凝集され、そのあいだを室町通が一筋だけ通るという景観、周辺のかつて市街地であったところは農地。
● 上京は、一条大路より北にも市街地。足利義満の花御所や相国寺が一条大路より北におかれたため。
● 応仁・文明の乱とそれ以後の治安の悪化により、戦国時代の上京と下京は、おのおのが堀や土塁、土塀や木戸門・櫓門などを備えた惣構(そうがまえ)によって取り囲まれ、いわば城塞都市と化していた。おそらく、永禄2年に上洛した信長が目のあたりにした京都の姿もこのようなもの。

応仁・文明の乱以降の京の町は、範囲がかなり縮小し、しかも堀や土塁・土塀を備えた惣構で囲われた町になっていたようです。ただし、京の町は、信長の死後、秀吉によって大きく変えられます。再び、河内氏の上掲書からの要約です。

戦国時代の京都は、豊臣秀吉によって大きく変化を遂げさせられた。秀吉は、かつての平安京の大内裏の跡地に聚楽第を築き、その周辺に大名屋敷を配置、京都全体を御土居と呼ばれる巨大な土塁と堀で囲み、数多くの寺院を御土居付近に移動させて、京都を城下町(近世城下町)にした。

この秀吉の京都が、現在の京都につながっている、ということであるようです。

信長上洛時の京都の地図

実際に1559(永禄2)年に信長が上洛した当時の京都の町は、どのような範囲にあったのか、地図で確認したいと思います。下は、河内氏の上掲書中の地図を、Google Map上に表示して、同書のその他の情報を追記したものです。2つの地図を合成していますので、若干のズレがあるかもしれませんが、ご容赦下さい。

戦国時代の京都 地図

当時の京都は、この地図の「上京惣構」・「下京惣構」の地域だけであったようです。現在の京都市の市域、あるいは平安京と比べても、ごく僅かな面積に狭まっていました。その狭い面積の周囲には、外部からの防御のため、土塁・土塀と堀がめぐらされ、ヨーロッパや中国の城市のようになっていたわけです。応仁・文明の乱とその後の治安の悪化の影響がいかに大きかったか、よく分かります。

上の地図上に、「信長の宿」として表示していますのは、『信長公記』 中で、「上総殿御宿を尋ね申し候えば、室町通り上京うら辻に御座候由申す」とある、「室町通り上京うら辻」の位置であり、やはり河内氏の上掲書中で考究されています。以下は、その要約を再構成したものです。

● 「うら辻」は、三代将軍足利義満が造営した花御所の正門(四足門)の前に建てられた「浦築地(うらついじ)」という塀が地名になったもの。永禄2年ごろにはこの地には将軍御所は存在しなかった。
● 信長の時代、元亀2年(1571)ころの史料に「浦辻子町(うらつじちょう)」。おそらく「うらついじちょう」と呼ばれていた。秀吉の時代の文書に「浦築地町」「うらついち町」。現在は「裏築地町」を「うらつきじちょう」と読んでいる。
● 〔裏築地町の北端〕上立売通と室町通が交差するところは、「立売辻(たちうりのつじ)」とも呼ばれ、戦国時代には徳政令の札が幕府によって立てられたところ。往来の激しい繁華な場所だったのだろう。信長は、上京の中心地でももっともにぎわっていたところに「御宿」をとっていたことになる。

裏築地町は、京都の地下鉄烏丸線今出川駅から西にすぐ、同志社大学の室町キャンパスと大聖寺の西隣りにあります。

上の地図には、この時信長がお礼に上がった将軍義輝の仮御所の位置も示してあります。これについて、やはり河内氏の上掲書からの要約です。

● 〔足利義満が造営した〕花御所は、文明8年(1476)の焼失以降、「花御所跡」となって将軍の御所としては利用されなくなったと考えられている。
● 義輝の5年ぶりの上洛は、対立を続けてきた三好長慶との和睦が成立した永禄元年も末、つまり信長が上洛する直前のこと。翌永禄2年正月に、下京の惣構の北端〔二条室町の南西ブロック〕にあった日蓮宗寺院の妙覚寺を仮の御所とした。

つまり、信長は上京惣構の真ん中あたりに宿泊、将軍義輝に会うために、下京惣構の北端の妙覚寺まで片道2キロほどの距離、室町通を往復した、ということであったようです。

なお、妙覚寺は、同寺のウェブサイトによれば、「天正11年(1583)に豊臣秀吉の洛中整理命により現在地〔旧地より約3キロ北方〕へ移転」しています。のち織田信長の京都での定宿となり、「信長が京都に来た20数回のうち18回」も妙覚寺に宿泊、本能寺の変の際も、信長の長男信忠が妙覚寺に宿泊していた、とのことです。

信長上洛当時の堺

当時の堺についても確認したいと思います。戦国時代の堺といえば、周囲を堀で囲まれた自治の港湾商業都市、というイメージがあります。まずは、当時の堺の市域について、地図で確認します。

戦国時代の堺 地図

Google Mapに、大阪府文化財センター「堺環濠都市遺跡」にある、戦国時代の環濠(堀)と海岸線の推定位置の地図情報を記入したものです。当時の堺は、現在の堺市堺区の中のかなり狭い範囲の地域に過ぎなかったこと、埋立て等もあり今は当時と比べ陸地が大きく広がっていることが分かります。ただし、環濠が初めて文献に記述されたのは1562(永禄5)年であったということですので、信長のこの上洛・堺訪問時に環濠はまだなかったのかもしれません。

以下は、戦国期の堺について、まずは、この堺環濠都市遺跡の発掘の成果に基づく論考である、續伸一郎「中世都市 堺」からの要約です。

● 堺の町は、和泉・摂津・河内の三国の境界に位置、町の南北を熊野街道(紀州街道)が縦断、中央で東西方向に分岐する大小路は大和へ至る長尾街道につながっていた。これら各街道の先には、大坂・京都・奈良・高野山などの大消費地。
● 微高地である砂堆の頂部に道路(熊野街道)が作られて、それに面して建物が形成され、「堺津」が形成。応仁の乱後の文明元年(1469)年以降は、遣明船が出入港。
● 町の東側は農業地として利用。環濠は、農耕地も取り込んだ。(秀吉による環濠埋立のさいに、環濠内は町場主体に変容。)

とくに、堺の港湾都市としての機能について、以下は同じ續伸一郎氏による「中世の国際都市 堺」からの要約です。

● 天文18年(1549)〔信長のこの上洛の10年前〕に来日したザビエルは、堺には「他のいかなる日本の地方もおよばないくらいに、そこに金銀が流れ込んでいる」と書き残している。
● 堺は、大型船が港に着岸していたイメージがあるが、現実は白砂青松の海岸が続く遠浅の砂浜、沖に帆船、砂浜に小船。港湾機能は必ずしも良くなかった。濠も底面レベル差が大きく、運河として機能していたと考えられない。
● 〔港湾機能で劣る〕堺に大量の物資が流入した背景に、「貯蔵」機能。環濠都市遺跡では 、蔵と考えられる塼〔せん〕列建物が出土。堺で遣明船交易の始まった15世紀後半に初出、町の発展・都市化とともに軒数が増大する傾向。戦乱の及ばない自治都市であった堺の町全体が、戦火の多い京都など各都市の「蔵」=ストックヤードとして機能していたのかもしれない。

堺は遠浅で、大型船の着岸ができる港ではなかった、というのは、これを読んで初めて知りました。大型船は沖に停泊し、小船に積み替えて陸揚げしていたようです。

堺の蔵機能ですが、確かに、応仁の乱以降、京都の町が戦乱に巻き込まれることがなくなるのは、秀吉の時代まで待たざるを得ず、京都の人には堺の倉庫が頼りにされたのかもしれません。永禄2年に信長が訪れた時点で、間違いなく、堺は日本一の国際交易港であったようです。

尾張の熱田や津島の湊町を見て育った信長は、海運物流や商業交易について、それなりの知識を持っていたと思われます。熱田や津島では及びもつかない国際交易港の堺を実見して、堺の重要性が痛感されたと考えられるのですが、いかがでしょうか。

堺と鉄砲

信長が堺にも行った、となると、鉄砲関係の視察や調達を目的の一つとしていた可能性が高そうです。堺と鉄砲との関係について、以下は、堺市博物館 『堺鉄砲』 からの要約です。

● 堺はかつて鉄砲の一大産地。鉄砲が日本に伝来するとまもなく、堺でその生産を開始。
● 堺の鉄砲生産の理由
① 物資流通の拠点、遣明船の発着港、日本商業の中枢。鉄砲の原材料や火薬・鉛などの調達、販売先やルートの確保、製作技術や情報の入手、それらを運用する使用、どの面をみても堺が断然有利。
② この地に古くから金属産業の伝統、丹南鋳物師の拠点。
● 鉄砲伝来の定説、天文12年(1543)、種子島に鉄砲伝来、領主の種子島時堯が入手、八板金兵衛が模作に成功。それを知った〔紀州〕根来寺の杉坊が、津田監物を派遣して一挺を入手、泉州堺の橘屋又三郎が種子島に来て砲術を習得して帰り、さらに日本中に広がった。
● 堺鉄砲の始まりに2説。一つは、津田監物が根来に持ち帰った鉄砲を辻柴清右衛門が模造し、後、堺で盛んに製造されたというもの、二つ目は、種子島で砲術を習得して堺へ持ち帰った橘屋又三郎が、鉄砲生産を始めたというもの。
● 遣明船の発着港の堺は、南海航路の寄港地である種子島とは深い関係。倭寇とも交易を行っていたと考えられる。
● 永禄8年(1565)に肥前でポルトガル船が日本人に襲われ、堺製の火縄銃で1人殺されたいう記録。
● 天文11年(1552)に、大坂石山本願寺が、将軍義輝の望みにより、堺から焔硝10斤を調達、進呈。

永禄2年に信長が堺を訪れた時点で、すでに堺で鉄砲生産を開始していたことを確実に示す史料はないようなのですが、その可能性は十分にあったように思われますし、少なくとも、鉄砲本体や焔硝・火薬・鉛などの鉄砲使用の必需品は商っていたと思われます。

 

織田信長の上洛旅行のルート

全体行程のルート

信長の上洛旅行の全体について、地図で確認したいと思います。

1559(永禄2)年2月、織田信長の上洛 地図

『信長公記』 が記している、信長が京から尾張への帰国に使ったルートは、東近江市から愛知川沿いを登っていなべ市に抜ける、現在の国道421号線のルートであり、京と清須をおおむね東西一直線に結びます。このルートであれば、敵対している美濃の国は通らずに済み、また実際に京と清須の間に最短ルートであることから、おそらく往復ともこのルートを使ったのではないかと推測します。

このルートで道のりを計測しますと、清須~京都間は、およそ120~130キロほどとなります。ただし、近江と伊勢の国境の八風峠は、標高が940メートルもあり、決して楽なルートではなかったはずです(今の国道は、トンネル化されていて、峠は通りませんが)。京~清須間は、いくら急いでも3日、通常片道4~5日はかかったものと思われます。

『信長公記』 の記述通りに、京→奈良→堺と見物して守山まで来たとすると、京の宿舎から奈良まではおよそ40キロ、奈良から堺へはおよそ35キロほどで、それぞれ1日行程、堺から守山までは75キロほどで2日行程、移動に合計4日ほどが必要であったと思われます。15日間のうち4日が移動で使われたことになります。もちろん、信長一行(奈良・堺まで回ったのはごく少人数たったかもしれませんが)は、移動中の景色も大いに興味を持って眺めたものと思いますので、移動にはもっと時間がかかったかもしれません。

八風峠越えは、楽な道ではなかったらしい

信長一行が通った八風峠越えはどんな道であったのか、信長が通った33年前に記録を残した人物がいます。連歌師の宗長です。宗長といえば、信長の父・信秀の名を最初に記録した史料を残した人物です。

1526(大永6)年、駿河から京への帰り道、宗長は津島で信定・信秀父子からお礼のあいさつを受けました(「第2室 2-1 勝幡城の信秀」)。それから桑名を経て京に戻るのに、宗長はたまたま八風峠を通り、その時の記録を残しました。本当は、桑名からは、亀山・関を経て甲賀に出る鈴鹿峠(=現在の国道1号線ルート)を通ろうと思っていたのに、にわかの合戦があるとの注進があって、八風峠越えに切り替えたようです。以下は、『宗長日記』 の記述です。ただし、読みやすくするため、旧かな→新かな、適宜ひらがな⇔漢字の転換を行っています。

この峠〔八峰峠=八風峠〕は、昔より馬輿通らぬ子細ありと聞けども、老いの足〔このとき宗長は79歳〕一足も進まず。人に負わるれば、胸痛み息も絶え、谷にも落ち入りぬべく覚え侍れば、老いの輿かき2~30人、梅戸〔いなべ市大安町梅戸〕より雇い呼びて、左右の大石を踏まえ、落ち波津波をまたげ、たびたび心を惑いし。空へもかき上ぐる心地して、ようよう峠の一屋に一宿。

26歳で体も鍛えていた信長と、このとき79歳の高齢者の宗長では、全く体力が違っていたことは間違いありません。ただ、人に負われて行くなら揺れで胸が痛み息ができないほどで、谷に落ちる心配もしなければならないような、細く険しい山道であったようです。

近江の守山から清須まで、実際に1日で帰ってくることは可能であったか?

ところで、『信長公記』 は復路について、近江の守山から尾張の清須まで27里(約106キロ)を、守山は払暁(明け方)に立ち、清須には寅の刻(午前4時ごろ)着で、1日で帰ってきたと書いています。これが本当にできたのか、計算して確認してみたいと思います。

信長が上洛したのは、2月2日、15日間滞在したとして帰りは2月17日ごろ、これをこの年の太陽暦の日付に換算すると、帰りの日の旧暦の2月17日ごろは、太陽暦の3月25日ごろとなります。春分の日に極めて近いので、不定時法であってもほぼ定時法通りの時刻となり、守山出発の日の出の時刻は午前6時ごろ、清須着の寅の刻は午前4時ごろとなります。すなわち、信長一行は、守山から清須までの106キロを、山越えも含むルートを通って、およそ22時間で歩き通した、ということになります。

これが可能であったのかという検証ですが、途中2時間ごとに10分間の休憩(110分歩いて10分休憩)を取ったとすると、
全体 22時間(1320分) = 実際の歩行時間合計 20時間10分(1210分) + 休憩時間合計 1時間50分(110分)
であったことになります。

この条件で信長一行の平均歩行速度を求めると、時速5.26キロ(分速87.6m)になります。雨降りもあり、940メートルの険しい峠越えもあるルートで、かなりの速足をコンスタントにキープする必要があります。いくら現代人と比べはるかに健脚であった当時の人々であっても、かなりきつい行程であったように思われます。とはいえ、全く不可能だったとも言えません。太田牛一自身が随行者の一人であったのかもしれず、ホラ話ではなく事実を書いた可能性は十分にある、と思われます。

 

桶狭間合戦の直前、尾張国内で織田信長支配下外の地域

信長の支配下外地域についての 『信長公記』 の記述

岩倉を打ち破り、信勝を殺害したからと言って、信長は、この時点で尾張全域を支配することになったわけではなく、まだかなりの地域が勢力圏外でした。『信長公記』(首巻20)の記述から、この当時、尾張国内の信長勢力圏外の地域は、下記であったようです。

● 鳴海の城の山口左馬助。駿河衆を引き入れ、大高・沓掛の両城も調略をもって乗っ取り。
● 河内一郡〔海西郡-木曽・長良の河口地帯〕は二の江〔弥富市荷之上〕の坊主、服部左京進、押領して属さず。
● 智多郡は駿河より乱入。
● 残りて2郡〔愛知/山田と海東〕の内も乱世のことに候間、確かに御手に随わず〔確実に支配地だったわけではない〕
● この式に候間、よろず御不如意千万なり〔このような状況であったから、万事について不本意なことが多かった〕。

また、『信長公記』(首巻38・39・41)の記述からは、岩倉側の領域のうち、尾張の北方、於久地(小口、おくち)、黒田、犬山について、信長が桶狭間後に支配下に入れたこと、すなわち桶狭間前には依然反信長であったことが分かります。

桶狭間合戦の前年の信長勢力圏の地図

この 『信長公記』 の記述を地図に反映してみると、下記のようになるかと思います。青色表示が、信長の勢力圏外です。例によって、尾張と美濃の国境線のうち尾張北西部は、地図上の現在の木曽川の流れと異なっていますが、天正の大洪水前は、木曽川の河道、すなわち濃尾の国境線が現在とは異なっていたためであり、信長の当時、地図上の木曽川の場所に当時は大河はなかった、と思って地図を眺めてください。

桶狭間合戦前の信長の勢力圏 地図

地図上に示してみますと、最北方・最西方と南方という周辺部はまだ支配下外、一方、中央部は一応支配下に入れた、という状況が分かります。郡単位で見ると、以下のように整理できるかと思います。

  郡名
信長の勢力圏内 山田郡・春日井郡・中島郡・海東郡の4郡、および、愛知郡の一部、丹羽郡の一部
勢力圏外 知多郡・海西郡・葉栗郡、および、愛知郡の残部、丹羽郡の残部

尾張9郡中、4郡+0.5郡+0.5郡=計5郡分程度が、ようやく信長の勢力圏内となったことになりますので、まだまだ尾張半国ちょっと、という状態でした。とはいえ、これにより信長は、3千人規模の兵力であれば間違いなく動員できるようになった、と言えそうです。

ここまでの体制が取れるようになってから桶狭間合戦になったので、今川義元に対する運の良い勝ちを拾うことが出来た、と言えるのではないでしょうか。もしもここまでの体制になる前に桶狭間を迎えていたとしたなら、まだ信長自身の動員力は小さく、また尾張国内に反信長勢力が残存していたので後方から討たれる危険性もあり、全く勝負になっていなかった可能性が高そうに思われます。義元が攻めてきた時期が、こうした体制が整ってからであったこと自体、信長の運の強さを示しているように思われます。

 

 

次は、いよいよ1560(永禄3)年の桶狭間合戦です。