3-16 犬山落城と中美濃進出

 

前ページでは、信長が、1563(永禄6)年に小牧山城を築城することで、尾張北部に残る反信長勢力のうち小口城・黒田城を引き込み、残るは犬山城だけになったことを確認しました。

では、翌永禄7年に犬山城を落城させたかというと、そう簡単には進みません。犬山落城は永禄8年に入ってから、そして、引き続いて中美濃攻略が行われます。その前年、美濃では竹中半兵衛・安藤守就による稲葉山城占拠事件が起こっています。ここでは、その一連の動きを確認します。

 

 

1564(永禄7)年、竹中半兵衛の稲葉山城占拠事件

稲葉山城を半年間占拠した竹中半兵衛・安藤守就

信長が小牧山城を築城した翌年、1564(永禄7)年に入ると、美濃では大事件が起こります。竹中半兵衛・安藤守就(半兵衛の舅)らによる稲葉山城占拠事件です。この事件については、『信長公記』 の記事はありません。この事件について、まずは 『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』(勝俣鎮夫氏 執筆部分)からの要約です。

● 永禄7年(1564)2月6日白昼、竹中半兵衛重虎(重治)と安藤伊賀守無用(守就)が稲葉山城を攻撃、斎藤飛騨守以下6人を打ち殺した。城主斎藤龍興をはじめ日根野備中守・竹腰(成吉)摂津守・そのほか馬廻衆は一戦もまじえず城を捨て、城下に火を放って退城。 龍興らは、鵜飼・祐向・揖斐城に立て籠り、竹中氏と戦ったが、斎藤氏の家臣の中には、竹中・安藤の反乱軍に属するものも多かった。(『明叔慶浚等諸僧法語雑録』 『長滝寺荘厳講引付帳』)
● 同年7月29日付西庄方林坊宛の竹中半兵衛の禁制。すくなくともこの時点では、稲葉山城はなお竹中重治の手にあった。
● 同年8月26日付竹腰・日根野連署奉書は、龍興が稲葉山城に復帰できない状態を推測することも可能。

美濃の国は、龍興派と竹中・安藤派で割れたようです。少なくとも永禄7年2月~7月の半年間は、稲葉山城は竹中半兵衛と安藤守就が占拠し続けていたようです。

竹中・安藤による稲葉山城占拠事件の理由

竹中半兵衛・安藤守就がなぜ稲葉山城を占拠したのか、旧来の通説は、元史料に従い、龍興を諫めるため、としてきました。以下は、通説に立つ横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

美濃、稲葉山城では束の間の平和に士気が緩み、信長に備えて訓練を重ねる気構えもなし。竹中半兵衛・安藤伊賀守らは将来を心配、龍興に綱紀粛正を進言したが、一向に効果なし。そこで、実力で龍興を諫めるために稲葉山占拠作戦を実行した。

義龍が亡くなった時、跡を継いだ龍興はまだ15歳でした。直後の信長の美濃侵攻は押し返して翌年講和しましたが、さらにその翌年には信長は小牧山城を築城、美濃により接近しました。稲葉山城占拠事件の時、龍興はまだ18歳、リーダーシップを振るうには若過ぎて、重臣のサポートが必須でしたが、竹中・安藤は、周囲のサポートが不適切に過ぎると判断したのでしょうか。安藤伊賀守といえば、村木砦攻めの際、道三の指示により信長留守中の那古野城を守った人物でした(「第3室 3-4 村木砦の戦いと西尾(八ッ面)出陣」

一方、上掲の 『岐阜市史』 は、新説をとっています。再び同書からです。

この竹中・安藤氏の乱は失敗したとはいえ、明らかに斎藤氏に代わって美濃の国主になろうとした反乱であった。

すでに道三による下克上の実績があった美濃国のこと、新説の方が納得しやすい気もします。桐野作人 『織田信長』 も、乗っ取り後半年たってもまだ占拠を続けていたことから、「明らかにクーデター」と見ています。しかし、最終的に竹中半兵衛・安藤守就はこの反乱後に攻め滅ぼされたわけではないことからしますと、旧来の通説の方が正しいような気もして、良く分かりません。

稲葉山占拠事件に対する信長の反応

この稲葉山占拠事件に対し信長はどう反応したのか、以下は、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

『濃飛両国通史』 が引用する「美濃国古領侍伝」によれば、信長は使者を2度も半兵衛のもとへ遣わし、稲葉山城を引き渡すように誘ったという。別の説には、代償として美濃半国を与える約束をしたともいうが、半兵衛は信長の誘いに乗らなかった。

武力介入せず、勧誘に留めたようです。

稲葉山占拠事件の結末

事件は最終的にどうなったのか、再び、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

● 「美濃国古領侍伝」には、〔竹中半兵衛は〕「龍興へ城をかえして、江北に越し、浅井長政より草野郷で3千貫の地を合力す。其後永禄11年、岩手城へ帰り、信長公へ出仕」とある。
● 〔安藤〕伊賀守はこれ以後、信長に仕えるまでしばらく姿を見せない。

稲葉山城を龍興に返し、竹中・安藤二人はいったん美濃から退散、信長の美濃攻略後に信長に出仕した、ということになったようです。

稲葉山城占拠事件の地図

例によってこの事件を地図で確認したいと思います。

1564(永禄7)年 竹中半兵衛の稲葉山城占拠事件 地図

竹中半兵衛の菩提山城は、濃尾平野の西端、垂井町にありました。舅の安藤守就の北方城は、美濃の穀倉地帯の中心部にある北方町にありました。龍興が稲葉山城を追われた後に籠った鵜飼城・祐向城・揖斐城は、濃尾平野北端部の山城でした。

信秀が亡くなった時の信長は19歳、一方、義龍が亡くなった時の龍興は15歳で、この稲葉山占拠事件のときもまだ18歳、後継者の年齢がまだ若い時の代替わりは、なかなか順調にはいかないものであったようです。

 

1565(永禄8)年2月、犬山城の落城

犬山城の落城は、1565(永禄8)年2月22日

前ページで確認しましたように、『信長公記』には、犬山城を「裸城にして、四方に鹿垣を二重・三重に頑丈に結びまわし…」という記述があります。しかし、いつどのように落城させたのかについては、何も書かれていません。犬山城の落城の時期については、以前は永禄7年とみられていたようですが、現在は永禄8年との見方に落ち着いたようです。

犬山城の落城が永禄8年とみられることについて、以下は横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です(同著者の 『斎藤道三と義龍・龍興』 でも同一趣旨の記述あり)。

● 某年8月5日付、甲斐恵林寺の快川紹喜の書状、瑞泉寺は「犬山落城ゆえに、寺も全焼してしまった」。快川は永禄7年10月に恵林寺へ赴任、この書状は永禄7年ではありえない。
● 「異本葛藤集」、「永禄8年2月22日に、瑞泉寺が回禄の変に罹って焦土となった」。瑞泉寺の焼亡と犬山城の落城は、永禄8年2月22日で確定したと言える。
● 犬山城主であった織田信清は、信長の姉を妻としていたが、落ちのびて武田信玄のもとへ。信清の妻は小牧山城へ戻り、犬山殿と呼ばれた。

瑞泉寺は、後で地図でご確認いただきますが、犬山城からは東へ1キロほど離れていました。犬山落城時にここも焼けてしまった、ということは、犬山城落城の実情は 『信長公記』 の記述とは異なり、抵抗できないほどに城が包囲されていたわけではなさそうです。だからこそ、小口城・黒田城からの撤退から犬山城落城まで1年以上の年月がかかったのでしょう。

永禄8年落城当時の犬山城は、現在の犬山城の三の丸(隣の丘)にあった

ここで、犬山城の歴史を少し確認しておきたいと思います。以下は、横山住雄 『新編犬山城史』 からの要約です。

● 岩倉の織田敏広の弟で小口城主の織田広近は、文明元年(1469)犬山郷木ノ下村に築城、これはいわば前線の砦。
● 木曽川南岸沿いに独立丘2つ、上手〔北側〕が白山山(はくさんやま)、下手が三狐尾寺山又は三光寺山(さんこおじやま)。白山山には千年以上も前から針綱神社(延喜式)、三光寺山麓には三狐尾寺と三狐神社。
● 天文6年〔1537〕頃、犬山城は、1キロほど北の三光寺山へ。 小牧長久手の役のころも三光寺山にあった。
● 慶長5年〔1600〕、当時の犬山城主石川光吉は、家康より無城主となった金山城を拝領。光吉は金山城を破却して犬山城へ運ぶ金山越(かなやなごえ)。関ヶ原合戦で光吉は西軍につき、東軍に攻められて犬山城を開城。
● 関ヶ原の役後、犬山城主となった小笠原吉次の時、近世城郭への改造が大略完成。白山山の白山社(針綱神社)を東の丸山へ移し本丸に、三光寺山を三の丸に編入。金山越の工事の大部分は吉次に引き継がれたとみられる。
● 玄和3年〔1617〕に成瀬正成が犬山城主。入城するや、天守の改築や城郭の整備。唐破風を天守3階の南北に取り付け、最上階の欄干を回遊式に。

これは多くの文献史料に基づく記述であり、同書は「文献から見た限りでは、慶長5~6年頃に天守以下ほとんどの建物が金山城から犬山城へ移された」としています。 なお、信長による犬山落城時はもちろん、その後関ヶ原合戦直後までは、犬山城は現在地ではなくそのすぐ南の三光寺山にあったようです。

犬山城移築を否定している「定説」の問題点

文献史料上は明らかに犬山城は移築であるのに、1961~65(昭和36~40)年の解体修理工事のさい、天守は移築ではなく天文6年ごろに現在地に造営、という説が打ち出され、これが「定説」とされてしまったとのこと。それに対し、著者は、他の専門家の意見も確認したうえで、この移転否定説の問題点を指摘しています。再び、横山住雄 『新編犬山城史』(移設説を否定した「修理報告書」は1965年発行、本書はその3年後の1968年刊)からの要約です。

● 〔金山城との同一性〕金山城発掘調査の結果、金山城の天守台上に犬山城天守を想定しても、ほとんど矛盾は生じないと判明。
● 〔金山城の瓦〕金山城は、秀吉からとくに許された五三の桐紋入り瓦を使用、これが犬山城内でも発見されている。
● 〔天守の木材〕犬山天守の下層部分用材は、金山城付近の樹種を良く反映、犬山付近の樹種を反映していない。
● 〔番付 - 組立用の大工の符号〕番付が1種類だけで、〔新築時・移設時の〕2種類ないことを移築否定の根拠としているが、明治村に移築された旧三重県庁舎は、もう一度打ち直すことなく、旧番付を使用〔その時の棟梁に確認〕。丸岡城天守の移築工事を担当した福井県の専門家も、「番付は一つ(元のまま)でよい」。
● 〔釘穴〕釘穴も2つあるはずが、1ヵ所しかないことを移築否定の根拠としているが、建築家から、旧釘穴に旧釘より少し大きめの釘を通して打ち込めばよいとの回答。釘穴を移設否定の根拠とすることは無理。

結論として、著者は、犬山城の歴史について、下記のように見ています。もう一度、横山住雄 『新編犬山城史』 からの要約です。

● 金山城は、だいたい天正5年〔1577〕頃の造営との説が強くなっている。
● 〔犬山城は〕慶長の頃、三光寺山から現在地へ城が移され、その時同時に金山越が行われたとみられる。

著者による「定説=移築否定説」の問題点の指摘は、非常に説得力があります。修理解体工事から判明した事実は、移築を否定できるものではなく、文献史料は全てが移築で、移築否定説は全く根拠のない主張です。すなわち、修理解体工事から判明した事実と史料の記述とを総合的に見ると、この論争の適正な結論は、著者の言われる通り、「1577(天正5)年頃に築造された金山城が、慶長の頃に移築された」ということであろう、と理解いたします。

なお、最新の研究では、犬山城天守の木材は1585~88年に伐採されたものと判定されています(2021年3月29日付新聞報道)。これで、1537(天文6)年ごろに現在地に築城という説は、ますます成り立たなくなっていますので、いずれにせよ、「定説」の見直しは必至のようです。

犬山城の歴史地図

犬山城の歴史についても、地図上で確認しておきたいと思います。

犬山城の歴史 木ノ下城~三光寺山~白山山 地図

現犬山城のある③の白山山は標高88mです。現在地には関ヶ原合戦後に金山城が移築されたわけです。信長の当時は②の三光寺山(標高70m程)にあり、建物も現在とは全く異なっていたことになります。当時の犬山城から瑞泉寺までは、1キロほどの距離がありましたので、犬山城落城時に瑞泉寺も焼失したのであれば、落城させるのにそれなりに手がかかった、と推測されます。

なお、移築の元になった金山城の位置は、下の中美濃進出の項の地図をご参照ください。木曽川の上流でしかも川から遠くなく、木曽川を使って資材を流して犬山に輸送するのに好都合の位置にありました。

 

1565(永禄8)年7~8月、信長の中美濃への進出

『信長公記』に書かれた信長の中美濃への進出 - まずは7月、加治田城を調略

犬山城を攻め落とした前後から、信長は中美濃への進出を開始したようです。中美濃、とは変な書き方と思います。現在の岐阜県旧美濃国地域は、西から、西濃・岐阜・中濃・東濃の4地区に区分されることが通常のようですが、1565(永禄8)年に信長が進出したのは、現在の区分では岐阜地区東部と中濃地区であるため、あえて中美濃、という言葉にしておきます。

『信長公記』 によれば、まず最初に手をつけたのは、加治田城(岐阜県富加町 - 美濃加茂市と関市の間)であったようです。以下は、『信長公記』(首巻40)からの要約です。

去る程に、美濃国の敵城は鵜沼城〔原表記は宇留摩、現各務原市〕・猿啄城〔さるばみじょう、坂祝町〕が並んで二ヵ所、犬山の川向うにあった。それより5里〔約20キロ、実際には直線で約12キロ〕奥の加治田に佐藤紀伊守父子がおり、信長にひとえに頼み入るとの旨、丹羽五郎左衛門〔長秀〕を通じて言上してきた。

前ページで確認しました通り、小口・黒田両城の城主の内応は丹羽長秀経由、今回の加治田城も丹羽長秀経由でした。このころ、犬山~中美濃方面での調略では丹羽長秀が大活躍していたことがわかります。

この加治田城の内応の時期について、以下は横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

信長が〔加治田城主〕佐藤右近右衛門と誓紙を取りかわしたのが永禄8年7月10日であっても、それより数ヵ月前には丹羽五郎左衛門の内応工作が始まっていたとみるのが妥当。つまり、信長は犬山城を攻め取ったころに加治田城主の内応工作に取りかかり、4、5ヵ月で誓紙をとりかわしてから。美濃へ攻め入ったことが明らか。

信長から加治田城主への誓紙は年月日が明確です。犬山城攻めと中美濃進出は一連の動きであり、犬山城攻略~加治田城内応~武力進出と、順にステップを進めていったようです。

次には8月、鵜沼城・猿啄城を攻略

そこから、いよいよ武力進出を開始しました。最初の目標となったのは犬山対岸の2城、鵜沼城と猿啄城でした。『信長公記』(首巻42)からの要約です。

● 敵は鵜沼の城主大沢次郎左衛門と猿啄城の城主多治見〔修理〕。犬山の川向う。
● 10町~15町〔1~2.5キロ、実際は鵜沼城から2.3キロほど〕隔てて伊木山〔各務原市、標高173メートル〕あり。この山に砦を構え信長が居陣。鵜沼城〔標高89メートルの城山の上〕はとても維持できないとして、信長に引き渡した。
● 猿啄城は高い山〔城山、標高265メートル〕の上。大ぼて山という猿啄の上の高所〔城山に続く西方の峰は標高300メートルを超え、城山より高い〕あり、丹羽五郎左衛門は先陣となって攻め登って水源を押さえ、上下から攻められて降参、退散した。

小牧山城を作ったために小口城が退去したように、伊木山砦を作ったために鵜沼城が退去したようです。一方、猿啄城は標高265メートルの山の上であり、それまで濃尾平野の城しか相手にしてこなかった信長にとっては、はじめての本格的な山城攻めになった、と言えるようです。

鵜沼城・猿啄城攻めはいつ行われたことか、例により 『信長公記』 には日付の記述がありませんが、永禄8年の6月~8月にかけてのことであったようです。以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。

● 寂光院〔犬山市〕には永禄8年9月の信長判物。この付近の地形を熟知していた寂光院の住職が、信長の猿啄城攻略部隊を先導案内した功績によって、与えられた文書と伝えられる(尾張徇行記)。
● 猿啄城跡には模擬天守が建てられており、そこからは小牧山城や犬山城などを遠望できる。城主の多治見修理は関市迫間~稲口〔猿啄城の北西方面〕を本貫地にしていたらしく、信長の台頭に対抗するため、展望がきく猿啄城を築いたとみられる。永禄8年8月、修理は信長に攻められて落城、甲州へと落ちのびていったという(『黄耇雑録』)。

猿啄城攻めについては、「信長は兵を犬山市栗栖に進め、木曽川を渡河して対岸の猿啄城を攻めた」(横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』)とも言われています。栗栖には、昭和30年代まで、対岸の坂祝町勝山への渡し船があったようです。

同じ8月に、加治田城支援の堂洞砦攻め

信長の中美濃進出に対し、美濃方は加治田対策に堂洞砦を構えて攻めようとしたので、信長は堂洞砦も攻略します。戦闘の様子が大変面白いので少し長くなりますが、以下は、『信長公記』(首巻43)からの要約です。

● 猿啄より3里〔12キロ、実際には約9キロ〕奥に、加治田城〔岐阜県富加町〕。
● 〔美濃方〕長井隼人正〔斎藤龍興の家老〕は加治田に差し向い、25町〔2.7キロ、実際には約1.6キロ〕隔て、堂洞〔同じく岐阜県富加町〕に砦を構え、岸景勘解由左衛門・多治見一党を入れ置いた。
● 加治田が攻められると見て、9月28日〔8月28日が正しい〕、信長が出馬し、堂洞を取り巻き攻めた。三方は谷で、東の方だけが尾根続き。信長は駆け巡って状況を見て、塀際に詰め寄り、四方から松明を投げ入れるように指示。
● 長井隼人は支援のため、堂洞砦の下、25町〔2.7キロ〕山下まで来て兵を揃えたが、足軽も出さず。信長は、備えの兵を置いたうえで、砦攻め。松明を打ち入れ、二の丸を焼き崩すと、〔敵は〕天守構〔本丸の物見櫓〕へ取り入った。
● 二の丸の入り口表の高い建物の上に太田又助〔著者・太田牛一自身〕一人あがり、無駄矢なしに矢を射っていたのを信長が見て、見事だと言って3度まで使いを送って感心され、知行を増やしてくれた。
● 午刻〔太陽暦換算9月21日のため11時45分前後〕に取り寄り、酉刻〔日没時刻、17時51分前後〕まで攻め、既に薄暮、信長方が天守構へ乗り入った。岸・多治見一党の働きは並ならず。城中では人数入り乱れたが、大将格のものは皆討ち果たした。
● その夜は、信長が加治田城泊。翌日29日首実検後に帰陣のところ、関方面から長井隼人、井口から龍興、敵の人数は3千余。信長方はわずか7~8百、負傷者・戦死者も多数。退いたところは広野。まず兵を揃え、手負いの者・雑人どもを退け、足軽に出るよう馬を乗り回して指示。軽々と引き取って退いた。敵は、不本意になったと言った由。

『信長公記』の著者、太田牛一 (又助) 自身が砦攻めに参加して、弓の腕を信長に褒められただけに、経過が詳細に記載されています。なお、ヨーロッパでは、火縄銃が広がると弓が使われなくなっていきましたが、日本では、すでに火縄銃を導入していた信長が、弓も活用していることが分かります。弓には、火縄銃にはない速射性があったため、火縄銃とともに主力兵器として使い分けていた、と考えられます (この点は、「第4室 4-14 戦国当時の日欧の軍事比較」をご参照下さい)。

そもそも堂洞砦については、「なだらかな丘陵の一角のため天嶮の要害とは言えず、四方から攻め込まれたらひとたまりもない」(横山住雄 『織田信長の尾張時代』)と指摘されています。現にゴルフ場のコースに囲まれた地です。美濃方は、砦を作り、砦の援軍まで出陣しているのに、信長方の砦攻撃中は何もせず、砦を見殺しにしています。さらに翌日の信長軍の撤退時には、兵数が4倍前後もいて明らかに有利であったにかかわらず、信長軍に逃げられています。このときの美濃方は、なんとも戦下手であった、と言わざるを得ないようです。

この堂洞砦攻めについて、『信長公記』 には年号なしの9月28日の日付が入っていますが、永禄8年8月28日が正しいようです。堂洞城の本丸跡には、「南無阿弥陀仏 永禄8年8月28日 夕田村浅野浅右衛門建之」という石柱も立っていて(横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』)、8月28日とみるのが適切であるようです。

同じ8月に、さらに金山城攻め、米田城・久々利城も降参

『信長公記』 には記事はありませんが、信長は同じ永禄8年8月に、金山城(旧兼山町、現可児市)も攻め取ったようです。以下は、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

● 〔堂洞城攻めでは〕森三左衛門を金山城へ向かわせるなど兵を分散しており、本隊はわずか7~8百の兵であった。
● 信長書状、「先月濃州へ相働き、井の口近所砦や城所々申し付け候、然れば、犬山落居、その時金山落居、その外数ヵ所降参候宥免せしめ候」、9月9日付。永禄8年でなければ矛盾することになる。
● この書状のあて先は、上杉謙信の家老。文中で「降参したので許した」というのは、岐阜県川辺町の福島〔米田〕城主肥田玄蕃允、可児市久々利の土岐悪五郎などを指しているのだろう。

犬山の落城と同じ年であれば、確かに永禄8年ということになるでしょう。すると、当然ながら、金山城が落ちたのもその時であった、ということになります。

信長の中美濃攻めが、非常に順調に進んだ理由について、再び横山住雄・上掲書からの要約です。

信長の中濃攻略戦は、信長の一方的勝利、龍興は対応が大幅遅れ。犬山が落城した際、まさか美濃へは侵入しないだろうとみていたふしあり。龍興が慌てて兵を出してみても、時すでに遅し。龍興にとっては、加茂・可児・土岐郡の支配を放棄せざるをえなくなったのも大きな痛手。さらに恵那郡を支配する遠山氏への影響力も失うことになる。

油断が大きな損失を招くことになった、と言えそうです。なお、この時の信長の中美濃進出については、各所で合戦を繰り返したのではなく、戦闘があったのは猿啄城や堂洞砦とおそらくは金山城ぐらいで、他は調略または不利を悟って退出している点に、大きな特徴が出ているように思われます。

同年10月、木下藤吉郎による松倉城の調略

この時期に、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が初めて史料に登場します。木曽川流域の城を調略で寝返らせたようです。以下は、小和田哲夫 『東海の戦国史』からの引用です。

秀吉〔正しくはまだ木下藤吉郎〕がはじめに寝返り工作を行った相手は松倉城(岐阜県各務原市)の城主坪内喜太郎利定で、このとき信長から知行安堵状が出され、その副状を秀吉が出している。この永禄8年11月12日付の秀吉文書(「坪内文書」)が、秀吉の名がたしかな文書にみえる最初である。

松倉城は、現在は岐阜県各務原市川島松倉町内ですが、天正大洪水までの国境では尾張国側で、当時の木曽川河道からは1キロほど南の位置でした。

この小和田説通りに、坪内利定は木下藤吉郎の寝返り工作の「対象」であったとすれば、元は犬山城の小口城や黒田城などと同様に犬山城の勢力下にあったものが、犬山落城後も信長への帰属をしていなかった、と解釈されます。一方、下に要約しました 『岐南町史 通史編』 の見解は、これと少し異なっているように思われます。

● 坪内利定は桶狭間合戦にも従軍して功績をあげた。
● 信長が木曽川北岸の地侍を懐柔するとき、地理・人情に精通していたので起用され、鵜沼城主を誘い出して功績をあげた。

これであれば、松倉城主坪内利定は、元々信長方で、木下藤吉郎と協力して調略工作の実務を行った、ということだったのでしょう。いずれにしても信長方は、力攻めよりもむしろ調略工作を主として美濃攻めを行っていた、と言えるように思われます。

1565(永禄8)年、信長の中美濃進出に関する地図

例によって、永禄8年の信長の中美濃進出について、地図で確認したいと思います。いつものことながら、青い太線が天正大洪水以前の美濃・尾張の国境であり、信長の当時、伊木山の少し下流から先は、現在の地図上の木曽川河道には大河はなかった可能性がある、と思って地図を眺めてください。

1565(永禄8)年 信長の中美濃進出 地図

まずは2月の犬山城攻めを皮切りに、8月には木曽川を越えて北に鵜沼~猿啄~加治田ラインを押さえ、さらに久々利~金山~米田ラインまで、一気に進出しています。美濃加茂市・可児市方面が一挙に信長の支配下に入ってきました。

地図を眺めるとよく分かることは、この永禄8年の中美濃進出を果たすためには、まず、交通面で進出の起点となる犬山を押さえる必要があった、ということです。木曽川を渡って鵜沼方向から現代のJR高山線沿いに進出するにしても、犬山から東へ現代の名鉄広見線沿いに進出するにしても、どちらも間違いなく犬山が起点となるためです。

犬山城攻めを決断したとき、犬山自体が最終目標であったのではなく、信長はすでに目標を尾張統一から美濃への進出に切り替えていて、美濃進出のステップとしてその起点になる犬山を取りに行った、と推測されるように思われるのですが、いかがでしょうか。

 

 

次は、ついに信長の岐阜入りです。犬山を取ったとはいえ、まだ尾張国内でも海西郡は信長の支配下外でした。一方、中美濃は取っても、稲葉山城にはまだ斎藤龍興がいました。信長は、長島攻めを行う一方で、ついに稲葉山城の攻略に成功します。