3-3 清須クーデター~清須城乗っ取り

 

織田信長の父・信秀が亡くなってから2年少々の間に、尾張の情勢がめまぐるしく変化していった過程を確認しています。前ページまで、対今川の情勢や斎藤道三からの支援獲得などを確認しましたが、このページでは、清須衆との深田・松葉両城の争奪戦や清須衆による守護へのクーデターなど、清須衆関係の事件を整理し、清須城を乗っ取って信長が清須城に移った経緯を確認します。

 

 

清須城乗っ取りまでの清須関係の諸事件

清須関係の諸事件、各事件の発生順と発生日は?

『信長公記』 の記事によれば、この時期に、清須衆関係では以下の事件が発生しています。

A 深田・松葉両城手かはりの事(首巻12)- 深田・松葉両城の争奪戦
B 簗田弥次右衛門御忠節の事(首巻13)- 簗田弥次右衛門の内通と清須焼払い
C 武衛様御生害の事(首巻14)・柴田権六中市場合戦の事(首巻15) - 清須衆クーデターと柴田権六の清須出勢
D 織田喜六郎殿御生害(付織田彦五郎生害)(首巻17) - 織田信光・信長による清須乗っ取り

『信長公記』 角川文庫版、すなわち旧説は、この4つの事件の発生日について、以下のように見ていました(同書の注記)。

  事件 発生日
A 深田・松葉両城の
争奪戦
天文21年または22年8月15~16日
B 簗田弥次右衛門の
内通と清須焼払い
天文21年のことか
C 清須衆クーデターと
柴田権六の清須出勢
天文22年または23年
D 織田信光・信長による
清須乗っ取り
弘治元年4月19日~20日

つまり、A→B→C→Dの順で起こり、AからDまで足かけ4年間、と見ていました。

各事件発生の時期についての村岡説と横山説

それに対し、村岡幹生氏と横山住雄氏は、特に重要なA・C・Dの3事件についてどう見ているか、以下に確認します。

● 村岡説 (「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」より)

村岡説 事件 発生日
A 深田・松葉両城の
争奪戦
天文21年8月
C 清須衆クーデターと
柴田権六の清須出勢
天文22年7月
D 織田信光・信長による
清須乗っ取り
天文23年4月

村岡説は、事件の発生順は角川版の旧説と同じですが、足掛け3年と見ています。

● 横山説 (『織田信長の尾張時代』 より)

横山説 事件 発生日
C 清須衆クーデターと
柴田権六の清須出勢
天文22年7月
A 深田・松葉両城の
争奪戦
天文22年8月
D 織田信光・信長による
清須乗っ取り
天文23年4月

それに対し横山説は、発生順がC→A→Dとなっていて、流れの理解が変わります。また、全体が10ヵ月ほどの短い期間の事であったとする点で、期間の見方が両説とは大きく異なります。ただし、村岡説とは、Aの深田・松葉両城の争奪戦の時期をどう見るかが違っているだけであり、CとDは同じ時期と見ています。

角川文庫版旧説および村岡説による清須関係事件の流れ

角川文庫版旧説と村岡説は、事件の発生日については見方が異なるものの、発生順が一致していますので、各事件の流れは以下のようになります。

① まず(A)清須勢が深田・松葉両城を奪取し、反弾正忠家の姿勢を明確化。対して、弾正忠家有力3者が連合して、両城を奪回。
→ この時点では、守護と守護代は、反弾正忠家で一致していたらしい、と見るのが適切と思われます。
② 上の事件後、清須城内に信長派が生じ、(B)信長に内通し、清須城は裸城にされた。
→ 深田・松葉両城の争奪戦後、清須内の反対派が信長に内通、清須城が裸城にされるほど信長側から追い込まれた
③ 清須で(C)守護家へのクーデターが発生、6日後に柴田権六が清須勢を清須の城下まで押し込んだ。
→ 追い込まれて、守護は反弾正忠家方針を切り替えようとした、それを嫌う一派がクーデターを起こしたか
④ 織田信光は信長と談合し、(D)清須城を乗っ取った。信長は清須城に、信光は那古野城に移ったが、11月に信光が急死した。
→ 信光と信長は、兵の損失が生じうる武力制圧は避け、謀略で清須を乗っ取った、ということでしょうか

守護が反弾正忠か否かで方針がふらついたり、信長への内通者も出て、裸城にされるほどに追い込まれている状況で、なおもクーデターを行った、というあたりが、分かりにくい展開となっているように思われます。

横山説による清須関係事件の流れ

一方、横山説での流れを整理すると、下記のようになるかと思います。

① まず清須で(C)守護家へのクーデターが発生、6日後に柴田権六が清須勢を清須の城下まで押し込んだ。
→ 親弾正忠の守護に対し、反弾正忠の守護代以下がクーデターを起こした、と思われます
② 1ヵ月後、(A)清須勢が松葉・深田両城を奪取。それに対し弾正忠家は、信光・信長・信勝の3者連合で反撃、両城を奪回した。
→ クーデター派は、中市場合戦で押し込まれている状態を挽回しようとしたが、上手く行かなかった
③ そのころ、清須城内に信長派が生じ、(B)信長に内通し、清須は裸城にされた。
→ そこまで弾正忠家側に歯が立たなければ、信長に内通する一派が出てくるのは当然でしょう
④ 織田信光は信長と談合し、(D)清須城を乗っ取った。信長は清須城に、信光は那古野城に移ったが、11月に信光が急死した。
→ 信光と信長は、兵の損失が生じうる武力制圧は避け、謀略で清須を乗っ取った、ということでしょうか

横山説は、『信長公記』 の首巻の順序は、「著者太田牛一が記憶をたどって書いたために前後している箇所が多」いとして、事件発生日の特定に「定光寺年代記」を使用しています。「定光寺年代記」には、天文23年の記事として「5月 清須 織田彦五郎殿所害、臣下 坂井大膳亮 牢人、又 11月28日 織田孫三郎殿 所害 於那古野城也」とありますので、信光・信長の清須城乗っ取りがこの年の5月以前のこと、信光の急死がこの年の11月のことであったことは間違いなさそうです。

横山説は、同時代史料の裏付けがあり、また流れとして自然と思われます。小和田哲夫 『東海の戦国史』も、この横山説の見方を支持しています。そこで、本歴史館も横山説に従う事にしたいと思います。

この横山説であれば、クーデターから清須城の乗っ取りまで10ヵ月間の出来事だった、ということになります。父・信秀の死から1年4ヶ月後、赤塚合戦からは3ヶ月後に清須クーデターが起こり、父の死から2年ほどで清須城を手に入れて移り住んだ、ということになります。若き信長は、父の死後の2年間で大激変に遭遇し、舅・斎藤道三からの支援も得て、その期間を上手く切り抜けた、と言えるように思います。

以下に、発生時期は横山説に従って、各事件についての『信長公記』の記事の内容を確認していきたいと思います。

 

1553(天文22)年7月 清須クーデター ~ 中市場合戦

7月12日、清須クーデターに関する 『信長公記』 の記事

赤塚合戦から3ヵ月後、尾張で下剋上事件が突発します。『信長公記』(首巻14)の記事の要約です。

● 7月12日、若武衛様〔=守護の若君・のちの斯波義銀(よしかね)〕にお伴して若侍悉く川狩に出たとき、坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位が談合、今こそ好機と、四方より〔守護・斯波義統(よしむね)の〕御殿を取巻く。
● 〔守護側は防戦したが〕相叶わず、御殿に火をかけ、ご一門数十人歴々切腹。
● 若武衛様は川狩より直ぐに信長を頼んで那古野へ。〔信長は若武衛を〕200人扶持を付けて天王坊へ置いた。

坂井大膳らのクーデターに対し、若武衛が、織田一族の中でも(守山の信光でも末盛の信勝でもなく)信長の元に逃げた理由や、守護代より下位の坂井大膳らが首謀者とされている点については、後で検討します。

7月18日、中市場合戦に関する 『信長公記』 の記事

清須クーデターに引き続いて起った、柴田権六の清須出勢について、『信長公記』(首巻15)の記事の要約です。

● 7月18日、柴田権六〔勝家〕が清須へ出勢。
● 〔清須勢は〕三王口~乞食村~誓願寺前~ついに町口大堀の内へ追い入れられる。
● 敵〔柴田勢〕の槍は長くこなた〔清須勢〕の槍は短く、突き立てられる。河尻左馬丞・織田三位はじめ歴々30騎ばかり討死。
● 武衛様のうち由宇喜一、未だ若年十七・八、織田三位の首を取る。信長御感斜めならず〔信長の賞賛もひとかたならず〕。

清須クーデターの6日後です。記事として分かれてはいますが、明らかに清須クーデターと一連の記事と思われます。

清須クーデターに対し、信長自身は出勢せず、信勝も出勢せずに柴田権六を出した、ということになります。一見すると信勝側の単独出兵であったように思われますが、武衛家臣の由宇喜一参戦の話が書かれており、実質は信長方との共同出兵で、将は信勝方から出した、という可能性もありそうです。柴田権六も、信長の3間半槍訓練に参加していたものと思われます。

信長自身も信勝も出勢せず、清須衆を清須城内に押し込むだけでとどめた、というのは、まだ守護代がいる清須に対し、この時点では自ら下克上を行う気になっていなかった、ということなのか、それとも、この時点では軍事的な優劣を明確にして清須衆が手出しできないようにしておけば十分と考えたのか。あるいは、城攻めをするためには兵力不足と考えたのか。

清須方の誰がいつ討ち死にしたかの 『信長公記』 の記述は、合戦が中市場合戦→深田・松葉両城争奪戦の順序であったとすると、矛盾が出てきます。この中市場合戦で本当に河尻左馬丞・織田三位の2人が討死にしたのであれば、清須クーデターからわずか1週間以内に、クーデターの首謀者として挙げられている3人のうち2人が討ち死にしたことになり、クーデターの失敗が明らかになってしまったと言えそうです。一方、この中市場合戦では2人が討死していなかったとしても、清須城内に押し込められたことによって、軍事的劣勢が明らかになり、クーデター派の将来に黄信号が灯いたと言えそうです。

中市場合戦には、『信長公記』 著者の太田牛一自身が参加した

なお、この柴田権六の清須出勢(中市場合戦)についての 『信長公記』 の記事中に、『信長公記』 の著者・太田牛一自身の名前が、通称名である「太田又助」として、この合戦に参加した足軽の一人として挙げられています。

太田牛一はもともと寺にいて、その後還俗し、青年期から壮年期にかけて信長のもとで第一線の戦闘員になったとのこと(藤本正行 『信長の戦争』 序章)。すなわち、この合戦以降の記事は、太田牛一自身が直接関与していたり、直接の関与はしていなくても事件発生後すぐに関係者から直接話を聞いていたりした可能性が強く、信頼性が高いことが分かります。言い換えれば、この合戦よりも前の記事は、後年に又聞きした可能性が少なからずあり、信頼性については多少割り引くほうがよいかもしれません。

 

1553(天文22)年8月、深田・松葉両城の争奪戦(萱津・馬島の合戦)

8月15~16日、深田・松葉両城の争奪戦に関する 『信長公記』 の記事

清須クーデター派は、中市場合戦から1ヵ月すると、再び動いて、深田・松葉の両城を奪取しますが、弾正忠家側が取返します。以下は、『信長公記』(首巻12)の記事の要約です。

● 8月15日に清須より、坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・織田三位らが談合、松葉の城を攻略、織田伊賀守を人質に取り、松葉近くの深田に織田右衛門尉の居城、ここも同様に抑え、人質を取って敵対した。
● 信長はこれを聞き、8月16日払暁に那古野を出立、稲葉地の川端まで出勢。守山より織田孫三郎〔信光〕駆けつけ、松葉口・三本木口・清須口の3方へ手分けを手配、稲葉地の川を越し、信長・信光が一手になり、海津口へ攻め込んだ。
● 海津では、信長は8月16日辰の刻〔午前8時前後〕、東へ向かって攻め、数刻火花を散らし戦う。ついに清須衆切負け、坂井甚介討死。その首は中条小一郎と柴田権六が相打ち。このほか〔清須衆は〕歴々50人ほど討死。
● 松葉口では、城外に出て馬島の大門崎詰まりで踏ん張ろうとする敵に、辰の刻から午の刻〔正午前後〕まで数刻矢で攻撃、負傷者多数、城に撤退するところで3名討たれる。
● 深田口では、〔敵は〕城から出て三本木の町を抱えたが、要害がなく即時に追い崩され、〔清須方は〕30人余り討死。
● 〔信長・信光方は〕深田・松葉の両城に攻め寄せ、降参するよう申し渡すと、〔敵は〕清須へ撤収した。
● 信長は、これ以後、清須を封じ込め、田畑なぎ〔作物刈り取り〕を行った。

この事件の時期については、信長19歳なら天文21年のはずで、角川文庫版の注記も天文21年説です。しかし、前ページで見ましたように、『信長公記』 には、天文22年のことを信長19歳のこととした記事があり、本件も天文22年とみるのが適切なようです。

深田・松葉両城争奪戦は、織田弾正忠家・3者の共同作戦

この合戦は信長単独のものではなく、弾正忠家として、守山の信光・末盛の信勝(柴田権六が参加)との3者共同行動であったこと、兵力を清須口(海津=萱津)方面、松葉口方面、深田口(三本木)方面の3方面に分けたことが分かります。清須口は清須城方面へ、松葉口・深田口もそれぞれ松葉城・深田城方面に向かう部隊であったと思われます。信長と信光のどちらが総司令官であったのかは、この記事には明記されていません。両者協議で詳細を決めていた、ということかもしれません。

3方へ分けたと言っても、清須(萱津)方面では、「上総之介殿・孫三郎殿一手になり」「坂井甚介討死…柴田権六相打ちなり」と、3者全員参加していることから、3者が各1方を分担したのではなく、3者が3方にそれぞれ兵を分けて共同して戦った、そのうち清須(萱津)方面に将兵を重点配分した、とみるのが妥当かと思います。

海津では清須衆が切負けたが、松葉口では数刻矢で攻撃、という状況からしますと、鉄砲はすべて清須(萱津)方面に重点投入して清須側の防衛線を崩し、坂井甚助ほか50人ほどを打ち取った、しかし鉄砲が投入されなかった松葉口では、お互い矢同士の戦いで実力差が小さく戦闘が長引いた、深田口では元々清須方の防御力が弱かった、というあたりかと推測されます。

少なくとも8時ごろから正午ごろまで戦っており、清須衆側も、それなりに力を尽くした戦いではあった、と言えそうです。しかし、クーデター側は、中市場合戦での敗北後、自ら手出しをして再び敗退した、という結果になりました。しかも、有力な戦力を100人ほど失い、清須周辺で田畑なぎをされても対抗することもできなくなって、クーデター側はほぼ攻撃力を喪失した、と言えそうです。

梁田弥次右衛門の信長内通と清須焼払い

同じく、『信長公記』(首巻13)の記事の要約(現代語化)です。

● 去程に、守護の家臣に簗田弥次右衛門がいた。那古野弥五郎という16・7歳の若年で兵300人ばかりを持つ人がいて、男色の関係を持ち、信長に味方するように言い、家老たちにも申し聞かせて賛成させた。それから信長のところに行き、内通を申し出ると、信長の機嫌もよかった。
● 或時、〔簗田が〕信長方の兵力を清須へ引き入れると、〔信長方は〕町を焼き払い、〔清須城を〕はだか城にした。

「去程に」「或時」とされていて時期は一切示されていませんが、常識的に考えれば、深田・松葉両城争奪戦の後に清須周辺の田畑なぎができるようになってからのことで、内通によってさらに清須の町の焼払いまでできるようになった、ということのように思われます。

もともと信長の元には若武衛=義銀がいるのに加え、中市場と深田・松葉両城争奪の2度の合戦で軍事的にも圧倒的に優位であることが明確になりました。生き残りのために、清須方から信長への内通者が出てくるのも当然であった、と言えるように思います。それだけ優位になっても、町を焼き払う程度で、清須城に対し力攻めまでは行わなかったのは、城攻めの場合には必ず自軍側の死傷者数が大きくなることを懸念していた、ということだったのでしょうか。

 

中市場合戦、および深田・松葉両城争奪戦の地図

中市場合戦、深田・松葉両城争奪戦は、どちらも清須の南方で戦われた

下は、中市場合戦および深田・松葉両城の争奪戦を、一つの地図上に示したものです。中市場合戦は清須のすぐ南で、深田・松葉両城争奪戦はもう少し南に下ったところで戦われたことが分かります。

1553(天文22)年7~8月 ①柴田権六の清須出勢(中市場合戦) ②深田・松葉両城の争奪戦(萱津・馬島の合戦) 地図

 

中市場合戦は、清須のすぐ南の、狭い地域での戦いであった

上の地図からは、中市場合戦では、那古野城の信長・末森城の信勝・守山城の信光という弾正忠家有力3者中、清須から一番遠い信勝配下の柴田権六が出勢した、ということが分かります。清須城から那古野城は直線で7キロ弱、守山城が約10キロ、末森城は約12キロでした。

『信長公記』 には、清須勢は三王口~乞食村~誓願寺前~ついに町口大堀の内へ追い入れられたとしています。この地名について、角川文庫版の注記は、乞食村=安食村・名古屋市北区味鋺、誓願寺=成願寺・名古屋市北区成願寺町として、名古屋市北区味鋺から清須にかけての広い地域(およそ8キロ)で合戦があったように解釈しています。その場合、味鋺から成願寺へ退いたなら、庄内川を清須とは対岸に渡って退くことになり、劣勢側の退き方として現実的とは思われません。どうみても、地名を無理に当て込んで地域を大幅に拡大してしまった、誤った比定と思われます。

実際には、上の地図に「実際の合戦地域」として記入した狭い地域で、合戦が行われたようです。以下は、愛知部落解放・人権研究所編 『愛知の部落史』 からの要約です。

● 山王口(日吉神社口)は、甚目寺町今西宿にある日吉神社跡ではないか 。この神社は、当時は鎌倉街道沿いにあったが、現在は甚目寺観音西隣に移転している(『甚目寺町史』)
● 乞食村は、山王口より鎌倉街道を7~800メートル北上した地点にあった(『清須城回顧録』)。清須城に拠る武士の武具・武器・皮革製品などを生産する職能人の集落。

もちろん、「町口大堀の内」は、清須城下のこととみるのが妥当でしょう。同書には「中市場合戦推定図」という、当時の鎌倉街道の詳細な地図も掲載されています。上の地図で「実際の合戦地域」として示した地域に、山王口・乞食村・誓願寺として比定できる場所が全て存在しているようです。この地域内の五条川西岸で、当時の鎌倉街道のおよそ2キロの区間を北上しながら、清須城下に入るところまで清須勢が押し込まれていった、というのが実際の中市場合戦であったようです。

深田・松葉両城の争奪戦は、清須の南方、庄内川の西岸地域で戦われた

一方、深田・松葉両城の争奪戦は、中市場合戦よりはもう少し南で戦われたようです。弾正忠家3者連合は、現在の名古屋市中村区の西端・稲葉地の庄内川の川原に集結、3方面に分かれて清須勢に反撃、合戦は現在のあま市萱津と大治町の地で行われたようです。

深田・松葉両城争奪戦の詳細地図

深田・松葉両城の争奪戦については、『大治町史』 に非常に分かりやすい地図がありましたので、下に引用します。さらに分かりやすくなるよう、地図をトレースして、弾正忠家3者連合方は青色、清須方は茶色、両者が衝突した地点は赤色と、色付けを加えて表示しています。なお 『大治町史』 では、清須口での戦闘を「萱津合戦」、松葉口・深田口での戦闘を「馬島合戦」と呼んでいます。

深田・松葉両城争奪戦(萱津・馬島の合戦)の詳細地図

松葉城については、大治町西条字北屋敷にあったことが確認されています。一方、深田城については、この辺りで、大治町西条字城前と、七宝町大字桂字深田の2か所に同名の城があり、このうち織田右衛門丞のものは大治町西条字城前のものであったとされていますが、その正確な位置は不詳のようです(『愛知県中世館城跡調査報告I(尾張地区)』)。現状は、すっかり宅地化していて、かつての城跡は分かりません。

ただし、織田右衛門丞の深田城が、大治町西条字城前のものであったなら、大字は同じであり松葉城のすぐ近くにあったことになりますが、『信長公記』では、深田城が松葉城のすぐそばであったとは思われない書き方になっています。上の 『大治町史』 の地図も、七宝町大字桂字深田の位置を示していると思われます。

海津=萱津は、弾正忠家3者連合の兵が集合した稲葉地から清須に向かって北上する途上にあたる地域です。そこに弾正忠家側の主戦力が配分された、ということですから、この合戦は単に深田・松葉両城を奪還するだけの目的ではなく、むしろ清須のクーデター派を直接叩くことが主眼であったように思われます。

深田・松葉両城と清須の中間である萱津で、弾正忠家3者連合を簡単に通してしまえば、深田・松葉両城は清須と分断されて孤立し、落ちるのは時間の問題になりますし、清須自体も危うくなるので、萱津で防戦せざるを得なかった、その分、萱津方向で清須クーデター派の損害が一番大きくなった、ということでしょうか。

この地図を見ると、そもそも何のために深田・松葉両城を取りに行ったのか、清須クーデター派の戦略が良く分かりません。『大治町史』 も、清須方の「戦略の意図は判然としない」とコメントしています。弾正忠家側から攻撃されやすいところは避け、清須から近くて守りやすく攻撃されにくいところで、じわじわと支配領域を広げていく方が、良かったのではないか、と思われるのですが。

 

1554(天文23)年4月、織田信光・信長による清須城乗っ取り

4月19~20日、織田信光・信長の清須城乗っ取りについての『信長公記』の記事

クーデターは起こしたものの、軍事的に明らかに劣勢で体制維持が困難であった清須勢に対し、信光と信長が連携して清須城を乗っ取ります。『信長公記』(首巻17)の記事の要約です。

● 清須城の守護代は織田彦五郎。坂井大膳は小守護代〔又代〕。
● 坂井甚介・河尻左馬丞・織田三位の歴々が討死し、大膳一人では維持できぬため、このうえは織田孫三郎〔信光〕を頼もうと、〔信光に〕彦五郎と孫三郎の二人守護代になるよう懇望。〔信光は〕大膳の好意のとおりにと、表裏なしと示す七枚起請を大膳方に遣わし、相調う。
● 4月19日、守山の孫三郎は清須城の南櫓に移る。実は信長と仰談、尾張下4郡のうち小田井川〔=庄内川〕を境に、西東2郡ずつ分けると約束していた。
● 20日、〔信光が〕大膳が南櫓にお礼に来たら殺害しようと人数を伏せ置いて待っていると、〔大膳は〕城中まで来て気配を察して逃げ去り、すぐに駿河に行き今川義元を頼んで在国した。守護代彦五郎に切腹させ、清須の城を乗っ取って信長に引渡し、孫三郎は那古野の城に移った。
● その年の霜月〔11月〕26日、不慮の事件が発生し孫三郎は死去。信長にとっては幸運なことであった。

弾正忠家の有力3者のうち、信光と信長だけで仰談したというのは、一つには守護の義銀を保護しているのが信長であるため、信長には話を通しておかざるをえないという事情によるものと推測されます。それに加え、実際に両者で東西2郡ずつに分けることを合意していたなら、完全に信勝を無視した取り決めです。次ページで確認しますが、この年の1月の村木砦の戦いでも、信長と信光の2人は共同しています。信光と信長は、両者とも信勝に不満を持ち、提携できる基盤があった、という推測もできそうに思いますが、いかがでしょうか。

史料の証拠が無く何があったのか分かりませんが、半年ほどで信光が急死します。信長にとって極めて都合が良い結果であり、ミステリー小説なら、最も利益を得る人間として真犯人の立場でしょう。ただし、末盛の信勝は健在なので、信光が亡くなったからといって、信長は旧弾正忠家の全てを手に入れたわけではありません。

なお、清州城の地図は、「第1室 1-3 斯波氏・織田氏と下津・清須」に掲示していますので、そちらをご覧ください。

清須勢のクーデターは、清須守護代が今川に内通したため

村岡説と横山説とは、各事件の発生順と時期の見方は異なっているものの、清須勢のクーデターの原因として、清須守護代・織田彦五郎の今川への内通があったと見ている点では、一致しています。クーデター派の首領は、又代の坂井大膳ではなく、守護代の織田彦五郎であったようです。

村岡・上掲論文は、「直接の証拠はないが、清須守護代は今川と通じ信長を押さえこむ挙に打って出たという推定が可能である」、「〔守護の〕義統殺害にまで走ったからには、義統本人と守護代家との間に相容れぬ矛盾を生じていたからとしなければ説明が付かない」が「清須守護代と今川の接近を想定することで説明がつく」、尾張守護家には今川家との争いで屈辱的歴史もあり、「宿敵今川と手を結ぶことなど断じて認められなかったはずである」、守護は「今川を恐れず今川に対する挑発行動をやめない信長に信頼を寄せたとして不思議ではない」としています。クーデターの際、若武衛=義銀が、他の誰でもなく、信長の元に逃げた理由がこれで理解できます。

横山・上掲書も、「坂井大膳が今川義元を頼って落ちのびたことからも、背後に今川義元がいると考えた方がよいのではないか。これら一連の彦五郎反逆の事件は、今川義元の工作と考えると理解しやすい」としています。

清須クーデターは、タイミングを間違っていた

清須勢は、信秀の時代には斎藤道三と内通し、信秀が亡くなって今川勢が尾張進出を始めたら今川と内通した、ということになります。他国の実力者から利益誘導されると弱かった、ということなのか、もっと単純に、敵の敵は味方で、自国内で守護・守護代より実力がある信秀・信長を嫌ったため、その敵である道三や義元と結ぼうとしたのか、何が理由であったのかは分かりません。しかし、その理由が何であれ、清須衆の行動は、タイミングを間違っていたように思います。

前ページで確認しました通り、信長は1553(天文22)年4月に斎藤道三と会見して支援を取り付け、すぐさま赤塚合戦を行って今川方の尾張侵入への軍事的対抗を開始しました。信長は、しかるべく準備を行ってから4月17日の赤塚合戦に踏み切っています。

赤塚合戦は4月下旬には「三河・尾張取合」の戦乱に発展した(以上、前ページ)ようですが、その後の史料がないことからすると、長期間の戦乱にはならず収まった可能性が高そうです。つまり、清須の守護代・織田彦五郎は、赤塚合戦から3ヵ月後にクーデターを起こしましたが、この時信長と今川方は合戦中ではなかったように思われます。

信秀時代に清須衆が道三と内通した時は、信秀の美濃攻めの真最中であったため、信秀がいったん尾張に引き返すという効果を持ちました。今回も、今川方の動きと同調し、今川方と信長が交戦中のタイミングで仕掛けていれば、信長・弾正忠家側も今川方と清須の2正面作戦を強いられることになるので、効果を発揮していた可能性があります。

今川方の動きとの同調がなく、天文19年の信秀に対する犬山勢・楽田勢の謀反と同様の単独行動なので、牽制効果を発揮することもなく、簡単につぶされてしまった、と言えるように思われます。

どうも今川方の尾張での策動は、犬山勢・楽田勢の謀反といい、今回の清須クーデターといい、斎藤道三と比べ下手であった、という印象があります。この頃はまだ今川義元の名軍師・太原崇孚(雪斎)はぎりぎり健在であった可能性が高そうと思われます。しかし、雪斎自身が首謀・指揮していたなら、こんなにも無意味な結果となる策動を行っていた、とは思いにくいのですが。

清須派による尾張の下克上の結果、最も利益を得たのは、皮肉にも策動の狙いであった信長、ということになりました。間違いなく、信長は、運が味方をする人であった、と言えそうです。

尾張国内の信長の地位は、「守護の保護者」に昇格した

信長の清須城への移転について、横山住雄・上掲書は、「天文23年5月頃、信長は清洲城へ入った。義統の子の義銀も信長と共に清洲城へ移り、まもなく尾張国守護職に就任したらしい。守護職継承者を奉じての信長は、守護代格として対外的にも格式を得たことになる」としています。

信秀時代、弾正忠家は一貫して、「守護の家臣の家臣」でした。この1553(天文22)年の清須クーデターと翌年の清須城乗っ取りの結果、信長の地位は、形式的には守護代で「守護の家臣」であっても、実質的には「守護の保護者」ポジションに昇格した、と言えそうです。また、信勝と違い今川に対し積極的に対抗していたことが、若武衛に頼られる理由になった、とも言えそうです。信秀の没後、わずか2年ほどで生じた、大きな変化となりました。

 

 

ここまで、信長が清須に移るまでの過程を確認してきました。今川に対しては、下剋上による尾張の掌握を阻止したことになります。では、今川方との国境地域の争いの状況はその後どのように変化していたか、次にはこの点を確認したいと思います。