3-14 森部・十四条合戦 - 美濃攻め開始

 

前ページでは、桶狭間合戦後の三河方面について、1561(永禄4)年閏3月までに家康との清須同盟が成立、4月上旬には信長が梅坪など三河の高橋郡攻めを行ったことを確認しました。すると、そのわずか1ヵ月後に、美濃の斎藤義龍が亡くなります。そこで信長は、直ちに方向を転じて美濃攻めに踏み出します。森部・十四条の戦いです。

このページでは、その美濃攻めの詳細を確認します。あわせて、木下藤吉郎による墨俣一夜城説が、史実ではなく創作であることも確認します。

 

 

1561(永禄4)年、織田信長は斎藤義龍の死で美濃攻めを開始

1561(永禄4)年5月11日、斎藤義龍の死

まずは、斎藤義龍の死について、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

● 斎藤義龍は、永禄4年(1561)5月11日、33歳で逝去した。
● 信長の岩倉攻略(永禄元年〔1558〕9月頃)後、義龍が重病にかかり、妻の一条氏と幼い男子の3人ともついになくなったとする史料もある(「江濃記」)。
● 跡継ぎの龍興は、15歳になっていた。

同書は、義龍について、「もしも義龍が生きていれば、永禄10年に39歳の働き盛りである。信長に稲葉山城を占領されるというようなことは思いもよらないだろうし、信長が将軍義昭を擁して上洛することも叶わなかったに違いない」と評していますが、誠に同感です。

義龍の重病は3月には知られていた

信長は、義龍が重病であることを、3月には知っていたようです。以下は、再び横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

● 一宮市黒田に、永禄4年3月に「広良」なる者による禁制。当時の黒田城主は和田新介、犬山城主織田信清の老臣。禁制とは合戦の前後に狼藉を戒めるため領主が掲げるもの。弘良〔ママ〕なる者は信長ではないので織田信清その人かと思う。
● 信長が永禄4年3月に黒田を攻める情報があり、それで禁制が出されたことになろう。
● つまり、信長は3月の時点で義龍重病説をキャッチ、その時以来、出兵準備を済ませていた。

禁制は通常、村が敵軍に大金を払って、村の保全を求めて手に入れるもの (藤木久志 『戦国の村を行く』)。信長軍の進軍が予想されたのなら、信長方から禁制を手に入れるのでないと変、と思われるのですが。

黒田城は、JR東海道線の木曽川駅近く、信長が清須から井口(岐阜)に向かって真っすぐ進軍すれば、進軍コースに当たってしまいます。黒田城は反信長の犬山城主に所属、それで美濃攻めの前に黒田城攻め、がありえた情勢であったのでしょうか。

5月13日~24日、信長が美濃攻めを開始して、森部・十四条の合戦

義龍の死のわずか2日後、信長は美濃攻めを開始します。以下は、『信長公記』(首巻36・37)の要約です。

● 5月13日、木曽川・飛騨川を越え、西美濃に攻め入った。その日は勝村〔海津市平田町勝賀か〕に陣取り。
● 翌14日は雨降りだったが、敵は墨俣〔大垣市墨俣町〕から、長井甲斐守・日比野下野守を大将として、森部口〔安八町〕へ兵を出した。
● 信長は楡俣〔輪之内町〕の川を越して対抗し、合戦となり数刻戦い、長井・日比野をはじめ170人余りを討ち取った。
● 信長の勘気を蒙っていた前田又左衛門〔利家〕は、〔この合戦で〕赦免された。
● 在々所々に放火して、その後墨俣に砦を作り、居陣していた。
● 5月23日、敵は井口〔岐阜市〕から出兵して十四条〔本巣市〕という村に配置した。そこで墨俣から懸け付け足軽戦、朝の合戦で味方の瑞雲庵の弟が討たれ退いた。ここで敵は北軽海まで進出、西向きに配置。信長は駆けまわって状況を見て、西軽海村へ移り、古宮の前に東向けに兵を配置。足軽戦になり、夜合戦となった。敵陣は夜のうちに引き下がった。信長は夜が明けるまで陣にいて、24日朝墨俣に帰城、墨俣を引き払った。

義龍の死のわずか2日後の美濃侵入であったわけですが、「木曽川に多数の舟を手配することや、武器・食糧の調達、馬車・牛車への積み込みなどの準備を考えれば、義龍が亡くなった5月11日に即断していなければ実行し得ない」(横山住雄 『織田信長の尾張時代』)作戦であったようです。

森部合戦は何年にあったか?

『信長公記』は、森部合戦(首巻36)と十四条合戦(首巻37)とは別々の記事になっていて、そのうち十四条合戦は永禄4年と明記されていますが、森部合戦については年号の記述がありません。これについて、『信長公記』角川文庫版の注記は、森部合戦は永禄3年5月、として、十四条合戦の1年前に行われたと見ました。しかし、永禄3年5月14日に森部合戦があったとすると、そのときまだ斎藤義龍は生きていましたし、信長はそのわずか6日後の5月19日に桶狭間合戦を戦ったことになります。きわめて危険な2正面作戦です。

それよりも、桶狭間で勝って義元の脅威がなくなり、さらに家康との清須同盟も結んで三河方面に危惧がなくなったときに、たまたま義龍が亡くなったから美濃攻めを開始した、と見る方が妥当と思われます。横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 は、他の史料も踏まえ、森部・十四条合戦は永禄4年5月にあった一連の合戦と見ており、当歴史館もその見解に従います。

十四条合戦の前に、織田軍は十九条まで進出していた

美濃方が、十四条方面まで出兵してきたことに対し、信長側が対抗して合戦となったのは、その前に信長方が十九条まで進出していたから、であったようです。以下は、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

「美濃明細記」〔史料〕では、十九条(十四条の南3キロ)の砦に織田勘解由左衛門を入れていたが、斎藤軍に攻められて討ちとられたとする。この織田勘解由左衛門は、天文年代の尾張守護代・織田達勝の弟の子(甥)(『言継卿記』)説をとりたい。

織田方が十九条まで進出していたので、斎藤方は十四条まで出てきた、それに対して織田方も応戦した、ということであれば、なぜ墨俣・森部とは遠い十四条で合戦が起こったのかが理解できます。(織田勘解由左衛門がどういう人物であったかについて、著者は、『斎藤道三と義龍・龍興』 では、『織田信長の尾張時代』 から少し見解を変えておられますので、ご注意ください。)

十四条合戦後も、織田方は美濃に在陣

上に見た 『信長公記』 では、信長は十四条合戦後、美濃から引き揚げたように書かれていますが、織田方軍勢はその後も美濃にとどまって、作戦を継続していたようです。以下は、再び横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

● 信長が墨俣などに留守部隊を残して撤兵したのは6月1日か2日(「張州雑志」収録文書)。信長は撤兵時の6月1日か2日に十九条の西方・神戸市場にも禁制、自軍の撤収時の濫妨・狼藉を防いだ。
● 『濃飛両国通史』 に、「6月18日織田越中守濃州にて戦死」、信長不在の織田軍は西濃域で活動を続けていた。
● 永禄4年8月に至ると、大垣城が信長側に寝返ったらしい記事(「明叔慶浚等諸僧法語雑録」)。安八郡の大垣城から北へ西方城(所在不明、大垣市の曽根城付近か)、池田郡の本郷城など、西濃域が広く信長の影響下に入ったとみられる。しかし、それはひそやかなものであって、龍興側も動揺する西濃諸将の慰留に腐心していたらしい(「宝林寺文書」)。

美濃に在陣したといっても、稲葉山城・井ノ口方面よりは、主に揖斐川(大垣)方面で活動を行ったようです。信秀の美濃攻めのさいも、大柿(大垣)城を4年程取っていました。揖斐川(大垣)方面には長良川(岐阜)方面とは異なる地域性がある、と理解しておくのが適切でしょうか。

1562(永禄5)年2月頃、信長と龍興の和議成立

この美濃攻めについては、その後、信長と龍興との間で和議が成立したようです。以下は、再び横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

● 信長の西濃作戦は、翌永禄5年2月の全面撤収で幕を閉じた。
● 信長は、講和で人質を交換し、墨俣城や西方城から撤兵した。
● 〔岐阜・崇福寺住職の快川紹喜の手紙〕この美濃国は尾張国と無事平穏になった。墨俣と西方の両城の修復が成り、二・三日以来人質を交換して、国中太平歌を唱えるに至ったから安心されよ。(永禄5年2月27日付)

信長は、美濃攻めよりも、尾張国内の反信長勢対策の方が急務、と判断したのでしょうか。結局、永禄4年の美濃侵攻は、何を目的にどの程度の成果を得ようとして行われたのか、よくわからないままとなりました。西濃方面が活動対象となったことからすると、龍興を倒すことよりも、美濃に領地を拡げることの方が主目的であったようにも思われます。

 

森部・十四条合戦の地図

森部・十四条の合戦での信長の渡河点

信長は、森部・十四条の合戦では、1556(弘治2)年に長良川合戦で斎藤道三が討ち死にしたとき以来、5年ぶりに木曽川を渡って美濃攻めを行いました。長良川合戦時には、信長は及川を渡り大浦に布陣、及河原で義龍軍と戦いました。

今回の森部・十四条の合戦では、木曽川の2本の枝川、すなわち日光川と逆川~佐屋川をまず渡って大須に進み、さらにそこで墨俣川(=古木曽川と長良川が合した大河)を渡った、ということであったようです。(当時の木曽川の河道と枝川については、「第1室 1-2 国境と木曽川の河道」をご覧ください)。

勝村とは、現在の海津市平田町勝賀あたり、というのが横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 の見解です。また、この合戦に関係して信長が大須・真福寺(羽島市)に禁制を出している(横山住雄・同上書)ということからも、勝村(勝賀)あたりで渡河したというのは間違いなさそうです。

織田信長の木曽川渡河 1561(永禄4)年 森部・十四条の合戦 地図

織田軍は、清須から美濃の勝村に出るのに、日光川・佐屋川-逆川・墨俣川の3河川を渡河したようです。渡河用の船の準備が大変なのが美濃攻め、といえそうです。

地図で確認しないとさっぱり分からない、森部・十四条の合戦

勝村からどう進んでいったかですが、この合戦は、墨俣や大垣以外はあまり知られていない小さな地名が頻出するため、地図がないとさっぱり分かりません。下の地図で確認したいと思います。ただし、地図が示している地点は、あくまで概略位置であるとご諒解ください。

1561(永禄4)年 森部・十四条の合戦 地図

 

この時信長は、揖斐川流域地域の所領化をめざした?

この合戦での信長は、今はJR東海道本線・名鉄名古屋本線などが通っている清須から井口への最短ルートではなく、ずいぶん南から美濃に侵入したわけですが、「木曽川町〔現一宮市〕辺が敵方の犬山城主・織田信清の支配域だったから」(横山住雄・上掲書)、この迂回路をとったようです。ただし、この美濃攻めのその後の展開を見ると、このときの侵攻の目的は龍興を倒すためではなく、揖斐川流域地域の所領化を目的としたものであり、それで南方から侵入した、という可能性もあるかもしれません。

森部合戦ですが、勝部から森部までは約6キロでした。一方、斎藤龍興側ですが、墨俣は井口からは南西に約11キロ、その墨俣から森部までは3キロほどでした。双方、当時の木曽・長良川の西岸沿いに南北から森部に向かった、ということになります。森部合戦では敵方大将をはじめ170余人を討ったという記述があり、またその直後に信長は龍興側の拠点であった墨俣に砦を作ったわけですから、信長側の勝利であったことは間違いなさそうです。

十四条・十九条は、明らかに古代の条里制に基づいた地名と思われます。この地域には、十四条と十九条の間に、十七条・十八条という地名もあります。森部合戦から十四条合戦の間に、信長方は十九条までは侵出していたのでしょう。この地図からは、十四条合戦以降はもっぱら揖斐川流域地域が対象となっていて、大垣城から本郷城辺りまで、かなり広い地域を支配下に置きかけていたことが分かります。

しかし、結局10ヵ月ほどの活動後に、織田軍は美濃から撤収しています。横山住雄・上掲書は、「信長は龍興の正規軍と戦ってみて、緒戦の合戦は別として、はかなり強いとの感触を得たらしい」と推測していますが、遠隔地であることに加え、手ごわい龍興正規軍も存在していては、費用と手間がかかって維持が大変、という経済計算を行い、それなら尾張国内の反信長派の制圧が優先、と方針転換をしたのではないか、と推量するのですが、いかがでしょうか。

 

木下藤吉郎の墨俣一夜城は存在しなかった

森部・十四条合戦時には、すでに墨俣には斎藤龍興方の砦があった

この森部・十四条合戦では、墨俣の地名が登場しています。墨俣と言えば、信長の美濃攻めの途上で、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が「一夜城」を築いたところとして有名であり、今は、当時そんなものがあったはずのない天守のような外形の、「墨俣一夜城歴史資料館」(平成の大合併で墨俣町が大垣市に合併後は「大垣市墨俣歴史資料館」)まで建てられています。

墨俣一夜城に関する通説は、下記のようなもの(藤本正行 『信長の戦争』 による定義の要約)であるようです。

信長は永禄9年(1566)に龍興を倒す拠点となる城を、墨俣に築くことを思い立った。佐久間信盛、柴田勝家は、工事中に斎藤方の妨害を受け失敗する。秀吉は、蜂須賀小六らを使い短期間で城を完成させ、翌年の稲葉山城攻略の要因になった。

ところが、上述の『信長公記』や史料からは、墨俣城について下記の事実が明らかです。
● 永禄4年の森部合戦前に、墨俣にはすでに美濃方の砦があった。
● 森部合戦時に織田方が取り、十四条合戦の際には、織田方はその墨俣砦から出陣した。
● その後織田方は墨俣砦から尾張に引き揚げたが、和議後は美濃方が修復したらしい。

つまり、墨俣城は、永禄9年に藤吉郎が築いたものではなかったことが明確です。

フィクションの墨俣一夜城が、”史実”化していったプロセス

木下藤吉郎による墨俣一夜城の築城は、もともとフィクションであったものが”史実”になってしまったもの、と藤本正行 『信長の戦争』(に加筆・再録)に指摘されています。フィクションが”史実”化していった過程について、以下は同書からの要約です。

● ”史実”の創作に関与した最初の人物は〔小瀬〕甫庵。『甫庵信長記』〔1611(慶長16)年〕執筆の際、『信長公記』 の森辺、軽海の2合戦の記事を完全に分割、永禄4年森辺、翌5年軽海とした(事実に反する)。この改変により、信長の墨俣築城も永禄5年のこととされた。その後 『太閤記』〔1625(寛永2)年〕を書き、永禄9年9月に信長が美濃のどこかで城を築き、秀吉を城主にしたという話を載せた。
● 江戸中期の貞享2年(1685)頃、遠山信春が 『総見記』 を執筆した際に、『信長公記』 『甫庵信長記』 などの記事を混ぜ合わせ、永禄5年5月に信長が墨俣に築城して秀吉を城主にするという話に発展する。
● さらに江戸後期に竹内確斎という作家が 『絵本太閤記』 を執筆、秀吉が奇計をもって一夜で城を築いたように見せかけるという筋立てにしたため、以後墨俣城は一夜城と呼ばれるようになる。ただし、同書では築城時期は永禄5年夏。
● 高名な歴史家・渡辺世祐氏が明治40年(1907)に著した 『安土桃山時代史』 の中で、「墨俣築砦を永禄9年9月」とした。こうして、永禄9年9月に秀吉が単独で墨俣に築城したという”史実”が完成した。

藤本氏は、藤本正行・鈴木眞也 『偽書 『武功夜話』 の研究』 の中で、上記中の第4項についてもう少し補足されています。

● 江戸時代の複数の地誌類に、墨俣に伊木家〔池田恒興の重臣〕の城があったことが書かれている。
● 明治14年(1881)年の「墨俣村明細帳」には、「羽柴秀吉一夜城跡」が出ていて伊木家の名前は文献から消えてしまう。
● 『絵本太閤記』 やそれを改定増補した小説 『真書太閤記』(1852)の墨俣一夜城に関する記述が流布するとともに、その城跡が浮上してきた。それ以前、ここが墨俣一夜城の城跡だという伝承地さえなかった。

つまり、墨俣一夜城説は、江戸後期に 『絵本太閤記』 ではじめて成立、ただし、それは永禄5年5月のこととされていた、それが永禄9年だったという説は明治40年までなかった、ということであったようです。

現在も、永禄9年の墨俣一夜城あるいは秀吉による墨俣築城について、”史実”扱いしている著作がときに見受けられますが、『武功夜話』 を含めそのような著作に出会われましたら、少なくともその部分については、史料あるいは研究書とは思わずに読み飛ばしていただくか、創作として楽しんでいただくのが適切かと思います。

 

 

この後、信長はしばらく美濃攻めをやめ、尾張国内の反信長勢対策に向かいます。次は、小牧山城への移転です。