ここからは、いよいよ本論です。この第2室は、織田信長の父・織田信秀について。信秀が尾張一の実力戦国武将となっていなかったなら、信長の尾張統一~天下布武はなかったでしょう。
● このページの内容 と ◎ このページの地図
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織田信秀の家系(織田弾正忠家)
『信長公記』が記述する信秀の家系
太田牛一 『信長公記』 の冒頭部分には、すでに第1室で見た尾張は8郡という説明に続いて、信長の父である織田信秀について、下記の内容の記述があります(首巻1)。
弾正忠〔=信秀〕という人は尾張国の端・勝幡〔しょばた〕というところに居城していた。西厳〔さいがん、先々代=良信〕・月厳〔げつがん、先代=信貞〕、今の備後守〔=信秀〕舎弟・与二郎殿〔=信康〕・孫三郎殿〔=信光〕・四郎二郎殿〔=信実〕・右衛門尉〔=信次〕がいた。代々武篇の家であった。
信秀について、「弾正忠」と「備後守」の二つの官名が出てきますが、「織田三郎信秀ははじめの官名を弾正忠、のち備後守と改めた」(新井喜久男 「織田系譜に関する覚書」 - 柴裕之編 『尾張織田氏』所収)とのことです。代々「弾正忠」を称していたので、諸研究書中では、信秀の家系を称して「弾正忠家」と呼ぶのが一般的なようです。
織田信秀は、清須守護代家からの分家の三代目または単なる庶家
横山住雄 『織田信長の系譜』 は、弾正忠という官名などから、『信長公記』 にいう信秀の先々代である西厳〔西厳は法名〕とは織田良信で、応仁文明の乱の際に東軍として尾張に侵攻して清須城の大和守系織田氏の祖となった織田敏定の弟であった、と推定しています。
すなわち、信秀の家系は、清須守護代家からの分家で、信秀は分家の三代目、信長は四代目に当たっていた、ということになります。ただし、ご本家から分かれて三代目・四代目となると、親族とはいうものの、かなり遠い関係、と言えそうです。
一方、柴裕之 「総論 戦国期尾張織田氏の動向」(同氏編 『尾張織田氏』 所収)は、西厳=織田良信には同意しているものの、良信が敏定の弟であったとの推定には同意せず、「良信以前の弾正忠家の系譜は、不明とせざるを得ない」との見解であり、弾正忠家は「大和守家を支える有力庶家の一家」としか言えないとみています。
また、3奉行についても、「活動が確認できるのは、この〔永正13年(1516)の〕連署証状しかない。また、彼ら以外にも、多くの織田一族や「小守護代」坂井氏ら家臣の活動が見られることから、『信長公記』 首巻のいう「三奉行」自体も含め再検証が必要である」と見ていて、これら織田3家は「大和守家を支える有力庶家」との位置づけです。
織田信秀の父は信貞、母は「いぬい」
織田信秀は、月厳すなわち父・信貞と、母・いぬいの間に生まれました。父・信定に関する史料の初見(妙興寺あて3奉行連署状)は1516(永正13年)であり、1526(大永6年)には健在(『宗長手記』)でした。しかし、いぬいの妙興寺あて手紙(日付なし)から、その後「天文2年(1533)までの7年間のうちに信貞は亡くなり、未亡人いぬいが信秀の後見役をつとめた時期があった」ようです。(上掲・横山住雄 『織田信長の系譜』)
信秀は1512(永正9)年の生まれです。信秀の父信定は、信秀が15歳の年までは健在でしたが、おそらく信秀10代の後半、遅くとも22歳になるまでに、亡くなったようです。
勝幡城時代の信秀
信秀の史料上の初出は 『宗長手記』、次に 『言継卿記』
『信長公記』 には、勝幡時代までの信秀について、詳しい説明は何もありません。以下は、前掲・横山住雄 『織田信長の系譜』 から、諸史料からわかる勝幡時代の信秀についての要約です。
● 信秀の生年は永正9年(1512)、没年から逆算。
● 信秀は、大永6年(1526)4月の『宗長手記』にはじめてその名がみえる。連歌師の宗長は、津島で織田信貞の子息信秀に面会した。このとき信秀15歳。
● 天文2年(1533)には京都から、蹴鞠教授の飛鳥井雅綱と和歌教授の山科言継(ときつぐ)の二人の公卿が勝幡城に下向。『言継卿記』にその詳細な記録あり。この時すでに信秀の父信貞〔=月厳〕は亡くなっていた。
● 雅綱と言継は、7月8日に勝幡城着、同月27日に清須に移り、8月20日に京への帰路についた。この間、信秀や清須守護代の織田大和守はじめ、評判を聞いてかけつけた多くの人に蹴鞠を教え和歌を詠み合って、京の文化を伝えたが、その中には那古野の今川竹王丸もいた。この機会に、信秀はそれまで不和だった清須の守護代織田大和守との修好を回復、集まった武将たちとも蹴鞠を通じて友人関係を構築し、後に尾張国内に「頼み勢」をかける時に、協力を得られる関係という無形の財産を入手した。
『宗長手記』ですが、1448(文安5)年生まれの連歌師・宗長は、元今川家の家臣で、のち上洛して連歌を修行、その後たびたび駿河と京都の間を往来したとのこと。信秀に津島で面会した1526(大永6)年には、宗長はすでに79歳という高齢になっており、駿河から京に連歌の興行をしながら帰る途上で、熱田→清須→津島→桑名というルートをたどっていました。
以下は、信秀が初めて史料上に名を遺した 『宗長手記』 の記述です。
同じ国津島へたち侍る。旅宿は此所の正覚院。領主織田霜台、息の三郎、礼とて来臨。
「霜台」が信秀の父・信定、「息の三郎」が信秀です。信定が信秀を連れて礼を言いに来た、ということであったようです。なお、宿となった正覚院は、現在は不動院の名になっています。(津島市の歴史・文化遺産のHP)
連歌師の宗長や公卿の山科言継など、しっかりした記録を残してくれる人々と親交があったのは、史料の観点から大変にありがたいことでした。
蹴鞠・和歌は、当時の武将の必須教養
京都からわざわざ蹴鞠教授の飛鳥井雅綱と和歌教授の山科言継の二人が呼ばれたことは、実は、蹴鞠や和歌が当時の武将級の人々の文化教養科目であったため、のようです。当時の武将の文化について、以下は小和田哲夫 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付く』 からの要約です。
● 戦国武将にとっての文化は、人の上に立つものが身につけていなければならない教養、一種のステイタス。
● 手紙などを書くときのしきたり、きまりである書札令や、先例に関する知識としての有識故実なども文化。
● 和歌・連歌・茶の湯は”必須科目”。ただ和歌が詠めるだけでなく、『古今集』に通じ、『源氏物語』『伊勢物語』といった王朝古典文学の知識も必要。茶の湯とともに立花(たてはな)も。
● 史料によると、当時、武将たちの間で、大鼓・小鼓・太鼓をはじめ、笛・尺八・音曲・謡(うたい)がはやっていた。歌舞音曲、能、狂言なども重視。
● 「盤上の遊び」(囲碁・将棋・双六など)と「包丁」(料理)。ルイス・フロイスも、「日本では男性がそれ(料理)をつくる。貴人たちは、料理を作ることを立派なことだと思っている」。
● 「算用」とか「算術」と表現されている計算能力も文化に含まれる。
● 蹴鞠も文化の範疇に入る。
他の武士たちの上に立つためには、戦に強い、だけでは不十分だったようです。現代のサラリーマンの一部に、出世するには仕事ができるだけではだめ、社交のためにカラオケは当然で、ゴルフもできないといけない、などという文化があるのと同様の話です。『古今集』や王朝文学の知識まで必要であれば、良い「和歌教授」につくことも必要であった、と分かります。蹴鞠も、上達するにはコツを教えてもらう必要があったでしょう。
公家側も、「応仁・文明の乱以降、公家たちが所有する地方の荘園は次第に武士たちによって奪われ、生活の基盤を失ったため、つてを求め、地方の有力戦国大名を頼っていった」(小和田哲夫・上掲書)例が多いようで、この2卿来訪もその一つであるようです。
言継卿の来訪の前年、信秀は守護代らとの紛争があった
『言継卿記』からは、若い信秀が、守護代・織田達勝や3奉行のもう一人・織田藤左衛門との紛争があったことが分かるようです。以下は、『新修名古屋市史 第2巻』(下村信博執筆部分)からの要約です。
● 天文元年〔1532〕、織田信秀が織田達勝・藤左衛門と戦ったと推定される。具体的な原因や戦いの経過は不明、その年のうちに和談。
● 信秀は、和談後の両者の不信・不快の解消と、自己の勢名を上げるために、飛鳥井雅綱と山科言継らを尾張に招いた。〔2卿来訪中に、信秀は〕和談後初めて清須に出頭、藤左衛門へも訪問した。
● 藤左衛門は小田井(おたい)城が居城、信秀の伯父(信秀の母が藤左衛門の姉妹)。
この紛争については、その2年前に守護代・達勝が指揮した軍事行動への反発があった、との説もあります。以下は、桐野作人 『織田信長』 からの要約です。
守護代の織田達勝は享禄3年(1530)5月に上洛した。畿内での将軍家と京兆家(細川本宗家)の分裂に介入しようとしたもの。人衆3千ばかり。何の成果も得られずすごすごと帰国した。天分元年の信秀と達勝との内紛は、守護代の無理な上洛に対する国内の反発の表れだった。
ともあれ、22歳というまだ若い信秀にとってみれば、二人の公卿から蹴鞠と和歌を学んだのは、当時の武将級が身に着けるべき教養や社交のための技術を得る良い機会となった、といえるように思われます。
信長は勝幡城生まれ
織田信長は、飛鳥井雅綱と山科言継が勝幡にやって来たその翌年、1534(天文3)年5月に生まれました。出生地については、かつては那古野城というのが定説でしたが、上述の『言継卿記』に、天文2年には那古野には今川竹王丸がいたことが明確であること、勝幡城生まれとしている史料があることから、現在では勝幡城が出生地で定説化したようです(前掲・横山住雄 『織田信長の系譜』)。父の信秀は1512年生まれですから、23歳の時に生まれた子であった、ということになります。
信長の母は「土田(つちだ)下総守政久の娘」で「土田政久は、海東郡土田郷(清須市清洲町土田)の人」であったようです。また、信秀には、信長の前に愛人との間にもうけた庶子に、三郎五郎信広と安房守秀俊の二人があり、信長の兄とみられています(横山住雄 上掲書)。信長は、正妻の長男であったから家督相続ができた、ということのようです。
信秀の勝幡城・藤左衛門の小田井城
ここで、信秀の居城・勝幡城、および、上に話が出てきた織田藤左衛門の居城・小田井城について、地図で確認しておきたいと思います。
今は日光川に貫かれた信秀の勝幡城
下は、勝幡城の位置を示す地図です。千田嘉博 『信長の城』 では、勝幡城跡の位置が、1946年にアメリカ軍が撮影した航空写真上に表示されていますが、その中の勝幡城跡部分のみを切り取って、現代のGoogle Mapの航空写真上に重ね合わせて張り付け、さらに石碑の位置等を記入したものが下の地図です。
勝幡城は、清須からは西南西に9キロほど、当時は海東郡と中島郡の境界、現在の行政区画ではあま市と稲沢市の境界にありました。名鉄津島線の勝幡駅から直線で600メートルほどのところです。信秀の時代は、城といっても城郭の時代ではなく、まだ館城の時代でした。
上の地図からは、日光川が、かつての城の中心部を貫いて流れていることが分かります。「江戸時代はじめの1666年(寛文6)ころから、尾張藩はこの地域の水害を防ぐために日光川の開削を行い … この工事によって、日光川が勝幡城本丸の西側半分を貫通して、城を大きく破壊してしまった」ようです。そのほか、勝幡城がどのような城であったのかは、千田嘉博 『信長の城』 に詳しく書かれていますので、それを参照ください。
今、勝幡城址には、北側の橋のそばと南側の堤防沿いの2か所に石碑が立っていますが、上の地図からは、本丸がこの2つの石碑の間にあったことがわかります。北側の石碑には「勝幡城址 愛知県」と彫られています。もう一方、南側の石碑には「織田弾正忠平朝臣信貞古城跡」と、勝幡城を築いた信貞の名が挙げられており、稲沢市教育委員会の案内板が立てられています。また、名鉄の勝幡駅北口前には、信秀・土田御前と生まれたばかりの信長の像があり、勝幡城の模型も展示されています。
区画整理で跡形が全く失われた、織田藤左衛門の小田井城の地図
ついでと申しますか、やはり3奉行の一人で信秀の伯父でもあった織田藤左衛門の小田井城についても、地図で確認しておきたいと思います。こちらも、現在は形跡が全く失われていますが、その理由は、1960年代の区画整理でした。小田井城があったのは、名鉄犬山線下小田井駅から北西に直線で約500mの地点で、現在の住所は清須市西枇杷島町古城、すぐそばの交差点の名も古城であり、地名からここが小田井城ゆかりの地であることが分かります。
下は、1965(昭和40)年の国土地理院の航空写真ですが、ここに小田井城があったと分かる最後の航空写真です。すでに道路の造成が行われていますが、そこだけ周辺とは明らかに異なった、一定の幅で丸みを帯びた、アルファベットのCの字のような堀跡がはっきりと分かります。(道路造成前の1963年の航空写真を見ると、もっと明瞭に分かります。)これ以後の航空写真では、農地の区画整理も進み家も建ち始めて、城跡は全く分からなくなります。
今は古城小学校と枇杷島公園と古城交差点となっている3地点の中央に、小田井城があったわけです。なお、名鉄犬山線の線路の東側に城跡公園があり、その北西角に小田井城址碑もありますが、説明版は立てられていません。小田井城の実際の位置からはかなり離れており、本来であれば城址碑は枇杷島公園の南東角辺りにあるのが適切のように思われます。
次は、弾正忠家・信秀と商都・津島との関係について、です。