信長の尾張時代、および、信長の父・信秀に関しての研究となると、真っ先に名が挙がるのは、横山住雄氏であろう、と前ページで申しました。
しかし、信秀と信長の尾張時代でも、三河について、松平氏あるいは今川氏との関係からの研究となると、村岡幹生氏ということになろうと思います。このページは、村岡幹生氏の著作についてです。
● このページの内容
織田信秀と尾張時代の織田信長、三河関係なら村岡幹生氏
村岡氏の最大の功績は、信秀が岡崎・松平広忠を「からからの命」に追い込んだことを示す史料を再発見されたこと、したがって、従来の世間常識を全くひっくり返し、竹千代は広忠から信秀に人質として差し出されたと推定されることを明らかにしたことだと思います。この点は、本歴史館の本文中でも詳しく確認いたしました。
それだけではなく、信秀の死に際し、弾正忠家は信長と弟・信勝との分割相続となったことなど、他にも通説の見直しをしておられますので、本歴史館を作成する上で、村岡幹生氏の著作も、やはり勝手ながら非常に活用させていただきました。大変に感謝しております。以下に、同氏の主要著作を紹介させていただきたいと思います。
『新編安城市史1 通史編 原始・古代・中世』 2007
村岡幹生氏の見解がまとまった形で読めるのが、この 『新編安城市史1』 です。本書は、通史編のうち、原始から中世までをカバーしていますが、本書中の以下の部分が、村岡氏の執筆部分です。
・「第10章 戦国期」のうち、第7節を除く全て
・「第11章 織豊期」のうち、「第2節 三河一向一揆」
もちろん、本歴史館が対象としている織田信秀および尾張時代の織田信長という時期は、戦国期にあたりますので、このうち第10章が主対象となります。村岡氏の執筆部分は、第10章だけで160ページほどあり、なかなか読み甲斐があります。
本書は 『安城市史』 ではありますが、本書中の村岡氏の考究は、安城市域に限ることなく、三河全体に及んでいます。おそらくは、安城松平氏を説明しようとすれば、三河における松平氏の展開の全体像を明らかにせざるを得ない、とうことであろうと思われます。結果的に、戦国期三河松平氏研究、と言える内容になっています。
非常に読む価値は高い、と申し上げられます。本書は、安城市歴史博物館のミュージアムショップで販売されています。
本歴史館では、以下のページで、本書から引用等を行っています。
● 第2室 織田信秀 2-3 三河の状況と守山崩れ・伊田合戦
● 第2室 織田信秀 2-9 三河攻め・竹千代奪取と小豆坂の戦い
● 第3室 織田信長 3-4 村木砦の戦いと西尾 (八ツ面) 出陣
村岡幹生 「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」
(『愛知県史研究15』 2011 所収)
『安城市史』 執筆の後に発表された論文です。本論文の主題は「織田信長による尾張平定過程を検証」することですが、具体的には、安城城を今川氏が信秀から奪取した翌年以降、岩倉城攻略の頃までの期間について、従来は取り上げられてこなかった以下の3つの観点に従って、考察されています。
● 今川氏の尾張進出は、尾張国内の諸勢力間にいかなる利害対立をもたらしたか
● 信秀の後継者は信長であるという前提の再検討
● 守山が尾張平定に占めた役割
とくに、このうち2点目の、信長は尾張を平定したので信秀の後継者になったが、それは結果であって、信秀死去時には弟信勝と分割相続がなされ、信勝と対抗していくことになった、という見方や、それ以前、信秀は天文18年の4月には健康問題を生じていたとする指摘については、本歴史館でも紹介いたしました。
『安城市史』 は、上述の通り、戦国期三河松平氏研究、といえる内容でした。一方、本論文は、信秀・信長・信勝の織田弾正忠家が対象であり、内容の重なりがほとんどありません。前ページで紹介しました横山住雄氏の著作と本論文を対比しますと、本歴史館でも触れました通り、特に信秀死後の信長の横山説と村岡説には少なからぬ相違点があります。両者を読み比べていただく価値は、非常に高いと思います。
なお、本論文は、残念ながらインターネット公開はされていません。『愛知県史研究』 は、『愛知県史』 と同様、図書館にない場合は、愛知県の県史編さん室に購入申し込みをしていただく必要があります。
本歴史館では、以下のページで、本論文からの引用を行っています。
● 第3室 織田信長 3-2 政秀の諫死・道三との会見・赤塚合戦
● 第3室 織田信長 3-3 清須クーデター~清須城乗っ取り
● 第3室 織田信長 3-4 村木砦の戦いと西尾(八ツ面)出陣
● 第3室 織田信長 3-9 信長の上洛と桶狭間合戦前の状況
村岡幹生 「織田信秀岡崎攻落考証」 (『中京大学文学会論叢』 (1) 2015 所収)
本論文は、信秀が岡崎・松平広忠を「からからの命」に追い込んだことを示す史料、9月22日付日覚書状(本成寺あて)について、それが天文16(1547)年に書かれたものであることの論拠を示すとともに、その比定の結果として明らかになる、当時の三河の政治情勢について考察しています。内容の一部は、本歴史館でも紹介させていただきました。
まず、本史料の年代について、日覚は天文19年11月16日に没しているのでそれ以前、書状の内容にある越中大乱和睦への動きから天文14年以降、さらに同じく内容にある京都での延暦寺と日蓮宗諸寺との和睦から天文16年と比定。これにより、「三州は駿河衆敗軍の様に候て」「弾正忠一国を管領候」の状況が、天文16年に出現していたことが明らかとなります。
そこで著者は、その当時に「弾正忠を称して今川軍勢を破り三河を支配しうる人物は…織田信秀のほかありえない」ことを指摘。また、「岡崎は弾〔正忠〕へ降参の分にて、カラカラの命にて候」という書状中の三河情勢記述は、みな伝聞情報であるが、出所の曖昧なものではないことも指摘。次に著者は、この事実を裏付ける別史料として、天文17年3月31日付織田信秀あて北条氏康書状を挙げ、その内容の史料批判も行い、さらには、他の史料が示す三河の状況との照らし合わせも行っています。
こうした慎重な論考の結論として、著者は、「天文16年9月上旬に岡崎城が織田の攻撃にさらされたことは間違いない事実として確定」、しかし、「織田が岡崎を攻落したとまで断定することはできず」、とはいえ「反織田の旗を降ろしたが故に岡崎城主の地位回復がかなったというケースも想定」されるとして小豆坂の戦いを再検討、「このとき松平広忠は今川方として全く機能していないという事態であり、この戦いで広忠が今川方に属していたとする通説への大いなる疑い」が浮かび上がる、と指摘しています。
そして、本論文の最後に、ここまでの論考をさら突き詰めた結果として、信秀が「竹千代を広忠から差し出させたとみるのは、状況としてはるかに合理的で無理のない想定」と指摘しています。
本論文は、史料に対する精密な論考によって、これまでの見方を大きく変えることになったものと言えます。きわめて重要、かつ大いに読む価値があります。幸いにして、本論文を含め 『中京大学文学会論叢』 はインターネット公開されていますので、図書館等に行かずとも、すぐに読むことが可能です。
本歴史館では、以下のページで、本論文からの引用等を行っています。
● 第2室 織田信秀 2-8 古渡城の信秀と信長の元服・初陣
● 第2室 織田信秀 2-9 三河攻め・竹千代奪取と小豆坂の戦い
『愛知県史 通史編3 中世2・織豊』 2018
新編とか新修などといったタイトルはつけられていませんが、 2019年に全巻完結した 『愛知県史』 の通史編の中で、本巻は、1巻まるまる「戦国・織豊期の尾張・三河」がテーマとなっています。この本巻中、下記の部分の執筆者が村岡幹夫氏です。
(第1章「戦国期の尾張・三河の動向」のうち)
・ 第1節 「尾張における戦国動乱の始まり」
・ 第3節 「織田氏・今川氏の勢力拡大と尾張・三河」(平野明夫氏との共同執筆)
・ 第4節 「織田信長の登場と桶狭間の戦い」(加藤益幹・播磨良紀・山田邦明各氏との共同執筆)
村岡氏の見解を再確認することができます。本歴史館でも、本書の村岡氏執筆部分から引用を行っています。
ただし、尾張・三河の全体を記述の対象としている愛知県史ですし、紙数の制約もありますので、その特性上、狭い地域や特定のテーマだけを論じた安城市史および上掲諸論文のような、詳細な論考にはなっていません。
また、第3節と第4節は、他の著者との共同執筆となっているのですが、どこまでが村岡氏の執筆でどこからが他の著者の執筆か、区分が明記されていません(ある程度の見当はつきますが)。共同執筆者側が書いたと思われる部分では、村岡氏とは異なっていると思われる見解が記述されている個所もありますので、その点は要注意です。
本歴史館では、本書から、下記のページで引用等を行っています。(村岡氏の執筆部分と思われるページだけ、以下に挙げています。)
● 第2室 織田信秀 2-9 三河攻め・竹千代奪取と小豆坂の戦い
次は、戦国時代研究の大家で、今川義元研究の第一人者でもある、小和田哲男氏の著作についてです。