2-6 万松寺創建、伊勢神宮・皇居進上

 

那古野城に移って2年の1540(天文9)年、信秀は三河に攻め込み安祥(安城)城を奪取します。ここでは、信秀がどのようにして安祥城を攻略したかを確認したいと思いますが、まずは、当時の三河はどのような情勢であったのか、から見ていきたいと思います。

 

 

万松寺の創建

1538~41(天文7~10)年、万松寺の創建

1538(天文7)年に那古野城を奪取した信秀は、すぐに、戦火で焼けた那古野城を自己の居城とするため、その再建に取り組みましたが、それだけではなく、那古野城から遠からぬ地に、自分の菩提寺として、万松寺の建立も行ったようです。以下は、横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。

● 信秀は、亀岳山万松寺という曹洞宗寺院を、天文7年に着工し、同9年に竣工させたといわれる(亀岳山万松寺記)。
● 天文10年2月付の禁制あり、本尊開眼供養の式典などは、天文10年初頭に行われた可能性がある。

万松寺の造営には、足かけ4年もかかったわけで、かなりの大寺の建立となったようです。織田信長の抹香投げつけ事件で有名な信秀の葬儀は、この万松寺で、創建から10年ほど後の1552(天文21)年に行われています。

なお,万松寺が1952(昭和27)年の信秀公四百年祭法要のさいに作成配布した 『織田信秀公と万松寺』という冊子には、「その〔万松寺の〕初めは天文9年織田信秀の建立にして、公の伯父たる大雲和尚を開山とす。信秀卿の法号が萬松寺殿の名を取りて寺号となし」た、とあります。

創建時の万松寺の位置

創建時の万松寺の位置を地図上で確認したいと思います。

万松寺の創建 地図

万松寺のウェブサイトの「歴史」のページには、「〔信秀の創建〕当時の場所は名古屋市中区錦と丸の内二、三丁目にまたがったところで、大殿を中心に七堂伽藍の備わった一大寺院、敷地は約5万5千坪」とあります。5万5千坪は、約18万平米。もしも正方形の土地であったとすれば、1辺が426mほどの寺域であったことになります。

現在の中区錦と丸の内は、江戸時代以来の碁盤の目の街路の地域で、東西方向も南北方向も、4ブロック分がちょうど426mほどにあたります。丸の内2丁目・3丁目と錦2丁目・3丁目の交点は桜通と本町通の交差点ですが、この交差点を含んで、東西・南北それぞれ4ブロック分ほどの大きさが創建当時の寺域であった、ということでしょうか。ただし、上の地図の位置はあくまで想定に基づいて概略の位置を示しているだけであり、ズレている可能性が十分にあります点、ご留意ください。

万松寺の大須への移転とその後

その後、万松寺は、「慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって、徳川家康の命により現在の地(大須)に移転。当時、寺域は2万2309坪〔=73,620平米〕の広さ」(万松寺ウェブサイト)とのこと。移転後の面積は創建時の4割ほどに大幅縮小させられたようですが、それでもまだ東京ドーム約1.5個分強の大寺院でした。

一方、上掲の 『織田信秀公と万松寺』 には、大須移転後の万松寺について、下記のように記されています。(一部漢字をひらがなに変更、句読点を追加、長文の原文を適宜改行)

● 慶長15年名古屋城造営の後、ここ〔=大須〕に移し(元は櫻町に在りしなり)、
● 境内は総見寺〔現在も万松寺の西側にある寺、下の地図を参照〕に相対し南北4丁東西3丁余の大寺にして、草木生茂り昼なお暗く、実に深谷を欺くばかりの大樹林の中に、
● 本堂、御主殿、方丈、小方丈、摂賓書院、客殿、智光寮、大玄関、庫裡、局間、衆寮、浴室、鐘楼、山門、御宝蔵、僧堂、経蔵、大門等を建てつらね、また白雪咜枳尼天(俗に御子上臈稲荷という)、ほかに秋葉、愛宕、伊勢、白山、淳良の各社祠三十三所観音等と、なおここにかの有名な宝篋印塔一字一石経典をうめた三界萬露供養の塔。
● 前記の建物のうち僧堂は明治維新までは雲水の修業の場であったのを明治十一年桂坊学校に使用、その他の大建築物とともに鶴見総持寺へ大部分は移転せられてあったが、
● なお本堂正面に残されてあった額が、明の亡命僧心越東阜の筆篆書亀岳林と記されてあったものだ。
● さしもの大寺院も、昭和20年3月12日の戦災にて全部焼失した。しかしかの有名な加藤清正が信仰していた不動尊尾張大八身代わり不動は無事残りました。

大須に移転後も、現在の万松寺とは大違いの大寺であったようです。しかし、「大正元〔1912〕年、三十七世大円覚典和尚が、寺域の大部分を開放し、大須を名古屋の大繁華街としました」(万松寺ウェブサイト)ということなので、現在の大須商店街の繁栄には、信秀が万松寺の創建にあたって広大な面積を与えたことも、結果として多少なりとも寄与している、と言えるのかもしれません。

万松寺の寺域 - 地図による江戸末期と現在との比較

万松寺の寺域が、江戸末期と現在でどれだけ変わったのか、地図で確認したいと思います。下の地図の左側は、慶応元年~2年の「名古屋城下図」(溝口常俊監修 『古地図で見る名古屋』 所収)の、大須とその周辺地域の地図です。右側は、ほぼ同じ地域の現在のYahoo地図です。どちらにも万松寺と、その他の主要な寺院の寺域を示しています。

万松寺の寺域 江戸末期と現在 地図

比べてみると、東本願寺別院は、当時も今もあまり広さは変わっていませんが、他の寺院は皆広さを減らしており、とりわけ万松寺は寺域が小さくなったこと、そのおかげで、かつては寺だらけであった大須一帯は、今はすっかり一大商業地域に変貌できたことが、よく分かります。

なお、この東本願寺別院は、元はと言えば、信秀が後に住んだ古渡城の跡地でした。古渡城については、「第2室 2-8 古渡城の信秀と信長の元服・初陣」のページで確認をしています。

 

1540(天文9)年、伊勢神宮への寄進

安祥城攻略と同じ年、信秀は伊勢神宮への寄付を行っています。以下は、再び横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。

● 戦国の世、朝廷の力が衰微、伊勢神宮は式年遷宮を円滑に行うことが困難化。伊勢神宮側では、天文7年に朝廷に造営の奏請、諸大名に費用寄進を要請。近江の六角氏が内宮の遷宮費用を引受け。〔外宮は費用引受けがなく〕工事中断。
● 外宮神主は、〔天文9年に〕尾張にあって日の出の勢いの織田信秀に外宮造営の費用提供を依頼。信秀は、6月6日付で手紙、黄金13枚も持たせ、外宮造営を確約。この日は、安祥城攻城戦で信秀が大勝した日。
● 信秀が手配した造営用材は半年後の12月21日に外宮に到着。天文10年〔1541〕正月から外宮の造営開始、同年3月6日には金5枚、その後は銭で7百貫文を外宮へ進上。遷宮は9月26日に執行。

1540(天文9)年は、万松寺の造営を依然継続している中で、安祥城攻略に軍費を使い、伊勢神宮にも寄進を行ったわけで、出費も著しく多い年であった、と言えそうです。

そうなると、それだけの巨額の資金調達について、やはり無理が生じでいたようです。横山住雄・上掲書は、「この時点では商都津島に頼ることが多かったらしい」と推測、その根拠として、津島神社の神主が住民から神社への借銭のために逃げ出したことを示す史料を挙げています。住民が逃げ出すほどの負荷をかけていたのであれば、信秀は、武将としては優秀でも、領主としては誉められたものではなかったのかもしれません。

 

1543(天文12)年、皇居修理の進上

織田信秀は、寄付の出し惜しみをしない性格であったようで、皇居の修理にも巨額の寄付を行っています。再び、横山住雄・上掲書からの要約です。

● 天文9年に信秀が伊勢神宮の式年遷宮に多額の費用を拠出したのを朝廷もよく承知、その後朝廷は信秀に皇居修理を打診。
● 『多聞院日記』の天文12年〔1543〕年のところに、「はや足料4千貫」とある。4千貫文といえば、仮に1貫文が5石に相当するなら2万石に当たる大金。40万石の大名で年収の1割相当、信秀もこの程度の所領を支配するようになっていたか。
● 天文12年5月、信秀は平手政秀を上洛させ、皇居修理の諸事務処理に当たらせた。皇居築地修理は1ヶ年ほどをかけて完成。
● 連歌師宗牧の『東国紀行』の天文13〔1544〕年10月初めのところに、「わざわざ勅使など下さるべき事は国の造作なれば、我等下国に女房奉書などことづてらるべきよし」とあって、勅使だと信秀側も準備に追われ無駄な出費、出陣で多忙であろうから、宗牧に女房奉書をあつらえるという簡便な方法をもって、朝廷の返礼にした。
● 朝廷では駿河の今川義元に対しても、皇居修理量の拠出を要請、天文12年7月に5百貫を進納。信秀と同等の資金を出すに至らなかった。

『新修名古屋市史 第2巻』(下村信博氏の執筆部分)によれば、連歌師 「宗牧は、天文13年9月20日に京を立ち、11月5日に那古野に到着し、平手政秀のもてなしをうけた。翌6日に宗牧は登城して、信秀に面会し、天皇直筆の女房奉書や古今集を手渡した」 とのことです。

領主としてどうであったかは別にして、那古野城時代の信秀は、三河侵攻・安祥城奪取により武名を高めたのみならず、伊勢神宮や皇居への寄進によって、社寺や公家にも知られるようになった、と言えるようです。

経済的に見れば、この期間中に、那古野と熱田のみならず安祥まで手に入れて、信秀の所領からの収入は大きく増加したが、盛んに金も使い出費も激増した、多額の寄付金=広告宣伝費の効果はあり、その名は京にも知られるようになった、と言えるかもしれません。

 

 

この時期の信秀は、やることなすことすべて成功していた、というわけではありません。次は美濃攻めとその失敗について、です。