3-4 村木砦の戦いと西尾(八ツ面)出陣

 

前ページでは、父・信秀の死後2年目に起こった、清須クーデターから清須城を乗っ取りまでの過程を確認しました。この時期に前後して、三河方面では、今川方との村木砦の戦いが起こり、その翌年には、信長が西尾まで出陣しています。このページでは、村木砦の戦いから西尾出陣までの三河情勢の展開について確認します。

 

 

1554(天文23)年1月、村木砦の戦い

村木砦の戦いに関する 『信長公記』 の記事

村木砦の戦いについて、まずは 『信長公記』(首巻16)の記述からの要約です。

● 去程に、駿河衆が岡崎に在陣し、鴫原の山岡構えを乗っ取り、これを根城にして村木に砦を構え、駿河衆が立てこもった。寺本の城も人質を出して駿河側につき、敵となった。
● 小河の救援に信長が出陣するさい、留守中に清須の敵に那古野の町に放火されぬよう、斎藤道三に支援を依頼。道三からは安東伊賀守に人数千ばかりをつけて、正月20日尾州に到着。翌日〔信長が〕出陣しようとしたところ、一長(いちおとな、家老)の林新五郎(佐渡守)とその弟の美作守が不服を申し出、退出してしまったが、構わぬと言って出陣。
● 21日出陣、熱田泊まり。22日、大風のなか渡海、その日は野営。23日、小河へ到着、お泊り。
● 正月24日払暁、村木の城を攻撃。信長は南側の大堀があって攻めにくいところを分担、堀を登る手勢の手負い・死人その数を知らず。また鉄砲を取り換え取り換えて、銃撃。西搦め手は織田孫三郎〔信光〕の攻め口。東大手は水野金吾の攻め口。辰の刻〔午前8時ごろ〕から攻撃を開始、申の下刻〔午後4時過ぎ〕まで攻撃し、落城。
● 翌日は寺本の城を攻撃。ふもとを放火。那古野へ帰陣。27日、美濃衆帰陣。安藤伊賀守は、信長からの礼、難風渡海の様子、村木攻めの仕合を詳細に道三に報告。道三は、恐るべき男、隣国にはいやなる人にて候よ、と言ったという。

今川方ですが、「第2室 2-13 今川の攻勢・三河の喪失」のページで確認しましたように、岡崎の松平広忠が亡くなって以来岡崎を接収して管理下に置き、親織田だった刈谷・水野氏を含む尾張・三河の国境地帯まで、勢力下に取り込んでいました。さらに、「第3室 3-2 政秀の諫死・道三との会見・赤塚合戦」のページで確認しましたように、信秀が亡くなると、鳴海の山口氏まで今川方に転じていました。そうした状況下で、この村木砦の戦いが起こります。

例によって、『信長公記』 の記述には年号が入っていません。順番としては、清須クーデター~柴田権六の中市場合戦の記事と、信光・信長による清須乗っ取りの記事の間に置かれています。実際、その順番通りで、1552(天文22)年7月に清須クーデター、1553(天文23)年1月にこの村木砦の戦い、同年4月に清須乗っ取りが起った、と見られています。

この村木砦の戦いでは、信長側も相当の損害を出したものの、合戦としては信長側の勝利になった戦い、と言えそうです。種子島への鉄砲伝来からわずか10年ほどですが、すでに鉄砲も活躍する状況になっていたことが、分かります。

村木砦の戦いは、信長・信光連合軍の戦い

上の 『信長公記』 の記述から、この村木砦の戦いは、信長・信光連合軍の戦いであったことが明らかです。1553(天文22)年4月の赤塚の合戦は、信長の単独戦でした。同年8月の深田・松葉両城争奪戦は、信光・信長・信勝の3者連合で戦いました。そして1554(天文23)年1月のこの村木砦の戦いは、信長・信光連合軍であったように読めます。

この戦いでは、斎藤道三からの支援や熱田船頭衆の協力があったことを考えますと、信光よりも信長が主導して行った合戦であった、とみるのが妥当のように思われます。

機能した信長・道三同盟と信長・信光連携、機能を発揮できなかった今川・清須内通

上述の通り、この村木砦の戦いは、今川に通じたクーデター派が清須を押さえていた期間中に起こりました。一方、信長側はそれより以前の1553(天文22)年の4月以来、斎藤道三から支援を得られる関係になっていました。また、信光とは、前年8月の深田・松葉両城争奪戦でも連携して勝利を得ていました。

清須衆側は、中市場合戦と深田・松葉両城争奪戦で戦力を失った結果、信長が軍勢を率いて不在であっても、那古野城に手出しをできるほどの力は持っていなかったかもしれませんが、念には念を入れて、不測の事態を防いでおこう、というのが、道三への留守番部隊派遣要請の背景であったと思われます。弟・信勝に頼むより、舅・道三の方がよほど信用できたのでしょう。信長は、割り切って行動すると同時に、不測の事態の防止も考えて手配も行う、大胆にして細心の性格であった、と言えるのかもしれません。

今川方としては、清須衆に信長を牽制させる狙いで清須衆を切り崩したのに、道三から留守番部隊の派遣という支援を得た信長の対策によって、意図した牽制は成り立たずに終わりました。今川にとって、結局清須は何の役にも立っていません。一方、信長側は、道三からの支援と信光との連携関係を有効活用することで、村木砦の戦いで勝利が得られた、と言えそうです。

諸般の事前準備が必要だった村木砦攻め

熱田から渡海するには、船の手配が必須でした。美濃攻めで木曽川を渡るなら、一艘の舟が対岸との間を繰り返し輸送できますので、船の数が少数でも大人数を輸送できます。しかし、この場合は片道で長い距離を進むことになります。どのような船が使われたのか分かりません。大型船になれば、船の数は少なくて済みますが、漕ぎ手が何十人も必要になります。小型船なら、とにかく多数の舟とその漕ぎ手が必要になります。これをきっちり確保しておく必要がありました。

また、斎藤道三の支援ですが、配下の兵を1000人ほど1週間以上援兵に出すことには、それなりの準備と負担があったと思われます。信光からの協力確保も含め、この村木砦作戦は、道三と信光から十分な支援・協力が得られると確認した上で、ある程度の期間をかけて実行準備を行った後に遂行されたと推定できます。赤塚合戦よりはずっと慎重に準備された作戦であったでしょう。

実際に斎藤道三からの支援が効果を上げたことからしますと、この作戦の実行・勝利は濃姫のおかげとも言えます。濃姫との結婚がなかったなら、信長の一生はかなり違ったものになっていた可能性が高そうです。

 

村木砦の戦いの地図

村木砦の戦い、関係地の地図

例によって、村木砦の戦いを地図上で確認したいと思います。

1554(天文23)年1月 村木砦の戦い 地図

岡崎城にいた駿河勢力は、鴫原~村木~寺本と勢力下に置きましたが、その位置を地図上で見ると、ほぼ西へ一直線に勢力を伸ばしたことが分かります。一方その結果として、この勢力線より南にあった小河城は、那古野の信長から遮断されたことになります。

那古野城を出た信長が、熱田から大風の中を舟で渡海したとあるのは、山口氏の鳴海城やこの今川勢力線を迂回して、その南側に出られるところまで舟で行った、ということなのでしょう。信光の軍勢も熱田から船で同行したのでしょうか?だとすると、かなりの数の船を確保する必要があったはずです。それら多数の舟を大風の中でも進ませることができたのは、信長が熱田を掌握していたからこそ、なんとか船頭衆から協力が得られた、ということではないでしょうか。

舟で渡った先ですが、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 は、常滑あたりまで海路を取ったとみています。常滑となると、寺本城よりさらに10キロ以上南であり、熱田からの海路は27キロほどにもなります。

そこから知多半島を横断して小河城に行ったのでしょう。上陸後も丘陵地帯を15キロほど進まねばなりませんでした。熱田から渡海したその日は野営、翌日15キロほど進んで1泊と、この間多少ゆっくりしたペースであったのは、後続部隊の舟での輸送~合流を待つためであった可能性がありそうに思われます。

緒川(小河)城址も村木砦跡もどちらも現在の東浦町にあり、緒川城址は東浦町役場の近く、今は古城公園として整備されています。

村木砦の航空写真と地図

すぐ下は、村木砦跡の航空写真です。まだ家が少なかった時代の1948年の写真です。その下は村木砦址図で、『東浦町史』 から引用しています。航空写真からは、村木砦址図に示されている砦の形状がよく分かります。場所は、JR武豊線尾張森岡駅の北西約350mの線路沿いです。主郭址は、今は住宅地となっており、すぐ南の八剱神社内に碑や案内板が立っています。

村木砦跡 航空写真村木砦 復元図

上の砦址図では、村木砦の東側と北側は海であったとされています。衣浦湾は、今は川と変わりないような狭い湾なのですが、『東浦町史』 によれば、現東浦町域のうち、おおむねJR武豊線あたりから東側の一帯は、戦国時代まではすべて衣浦湾の海の中、江戸時代に大規模な干拓が行われて陸地化していったようです。その上の航空写真の右半分~上部はすべて水田と思われますが、信長の当時はこれがすべて海であり、村木砦は海に突き出した岬の上に作られていたわけです。

村木砦攻めで、信長は南側の大堀があって攻めにくいところを分担した、というのは、右の砦址図で湿地とされているあたりから、すなわち航空写真では八剣神社の西側から、北の主郭方向に攻めていった、ということであったと考えられます。

 

翌年秋から三河で反今川蜂起 、信長は西尾(八ッ表)出陣

弘治元年、三河国内の反今川ベルトの形勢

村木砦の戦い以降の三河関係については、『信長公記』 には記事はありませんが、村木砦の戦いから1年半ほど経つと、三河では反今川の反乱が発生し、今川方は尾張に進出するどころではなくなっていたようです。以下は、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」からの要約です。

天文24年(10月23日弘治と改元、1555)以降、三河国では岡崎周辺、今橋(このころから吉田、今の豊橋)周辺ならびに渥美郡を除く各地で反今川蜂起が勢い。西三河においては賀茂郡東北部諸土豪、碧海郡上野城(豊田市上郷町)の酒井忠尚、幡豆郡西条城の吉良義昭を結ぶ反今川ベルト形成。この動きにより、それまで尾三国境を越えて尾張側に侵入していた今川の勢力の後退があったことは十分に想定される。

弘治元年秋からの反今川蜂起、弘治2年には三河は内乱状態に

この反今川ベルトの詳細について、補足として、以下は同じく村岡幹生氏が執筆した 『新編安城市史』 からの要約です。

● 弘治元年(1555)9月14日、今川の武将天野小四郎は大給山中筋(豊田市冷田方面)の敵諸手と戦い平五屋敷を押し破る(今川義元感状)。
● 某年9月8日、鱸(鈴木)氏が東濃の岩村衆と広瀬氏の加勢を得て小渡(豊田市)に築いた砦を、今川方の足摺衆(矢作・足摺両河川周辺一帯)が襲い一戦を遂げた(今川義元感状)。これが大給山中筋の反今川の動きと関連するものなら、当時東濃から賀茂郡東北部一帯に、広く反今川の立場で連動した顕著な動き。
● 弘治元年閏10月4日付今川義元書状、吉良義昭の反抗が起こったので義元が軍勢をさしむけた。
● 弘治2年2月20日、松平忠茂(東条松平家2代)は、額田郡保久・大林(ともに岡崎市)での合戦で今川方として戦死(今川義元判物)。日近の戦い。
● 弘治2年2月29日付今川義元判物、「只今は、三河国は軍(いくさ)を出している」。この年10月21日付今川義元判物、当面の事態を「忩劇(そうげき=内乱状態)」と表現。
● 上野城(豊田市)の城主・酒井忠尚は、今川の安祥城奪回で今川に投降、それ以後弘治2年以前に今川に反旗、弘治元年秋には酒井忠尚も反今川となっていたと考えるのが自然。弘治2年には再び今川の味方に(今川義元感状)。酒井忠尚が再度今川に付いたのは弘治2年の比較的早い時期と考えられる。

1555(弘治元)年秋以降、三河情勢が安定せず、今川が尾張にまで手出し出来ない状況であったことは間違いなさそうです。

今川義元の名軍師、太原崇孚(雪斎)は、天文23年(1554)ころから「次第に健康を害し、療養に専念するために臨済寺を出、志太郡葉梨(藤枝市葉梨)の長慶寺に移っ」たが、「治療の甲斐もなく、弘治元年(1555)閏10月10日、歿してしまった」(小和田哲夫 『軍師・参謀』)とのこと。勝手な推測なのですが、雪斎の病と死のために今川方が適切な対応策を迅速に打てず、三河の反今川の動きを強めさせてしまった、という可能性もありそうに思われます。

なお、弘治元年には、反今川ベルト形成の一方で、8月3日に今川勢が蟹江城を攻めて落城させたとする史料もある(『松平記』 など)ようですが、この頃蟹江城が存在していたとは考えにくい(横山住雄 『織田信長の尾張時代』)、『松平記』 がこのとき戦功をたてたとしている大給松平家が、本領大給方面での戦闘をさしおいて家臣団の多くを尾張の蟹江まで遠征させるなど考えられない(『新編安城市史』)などと指摘されており、史実とは見られないようです。

1556(弘治2)年3月には、信長が三河の西尾まで侵入

信秀の没後、今川勢との争いと言えば、もっぱら尾張国内に入り込まれるばかり、せいぜい村木砦をつぶしに行く程度でした。しかし、1556(弘治2)年には、この三河の内乱状態の中で、信長は西尾までも攻め入ったようです。以下は、村岡幹生・上掲論文からの要約です。

弘治2年3月、信長は自身吉良領幡豆郡荒川(西尾市八ツ面町付近)に出陣、碧海郡野寺原(安城市野寺町南方一帯)において今川軍勢と戦い、吉良義昭に上野城を攻撃させた(『松平記』)。また信勝派の柴田権六〔勝家〕が、同年に福谷城を包囲したと伝えている。(『寛永諸家系図伝』)

信長のみならず、信勝の下にある柴田権六まで、今川方との戦いに踏み込んだようです。信長の西尾出陣の詳細に関し、以下は 『新編安城市史』(同氏執筆部分)の要約です。

● 『松平記』 には、弘治2年のこととして、次のような記述がある。
① 「弘治2年卯月〔4月〕のころ」、吉良義昭は西尾城(西条)にいて、「逆心を起し尾州一味」となり、東条城に移った
② そのころ、上野城の酒井忠尚を吉良義昭配下が日々攻撃
③ 吉良一門の荒川義広は義昭と不和となって、岡崎衆と内通、自身の荒川城(八ッ面城、西尾市)から西尾を日々攻め、岡崎衆の酒井政家が西尾城に入る。
④ 岡崎修は東条城を攻撃、9月13日、終日合戦、義昭の家老は討死、義昭もかなわぬとみて降参。
● 吉良義昭が「逆心」したのは同時代史料から弘治元年10月ころ。義昭の「逆心」はその後も続き、翌年9月に至って降参した。
● 弘治2年3月には、織田信長が八ッ面に出陣、この出陣は吉良義昭が引き入れたと見れば、3月と4月で1ヵ月のずれはあるが、ほぼ符号。この信長出陣は、今川義元感状からも確認できる事実。
● 信長の帰国後に今川方の巻き返しがあって、吉良義昭が再度今川に服したことは史実とみてよいだろう。

三河内乱の中での吉良義昭の動向については、信長も介入・支援したものの、その後9月までに、今川方に鎮圧された、という動きであったようです。すでに確認しました通り、信長は、村木砦の戦いのあった天文23年の11月までには、清須を手に入れ、また叔父・信光も亡くなって、信長の境遇は以前と比べずっと安定的になりそうでした。翌天文24/弘治元年の反今川ベルト形勢を見て、さらに、弘治2年には吉良義昭からの依頼を受けて、西尾まで出陣したものと思われます。

しかし、次ページで確認しますが、西尾出陣の直後の同年4月に、美濃の舅・斎藤道三が息子・義龍と合戦をする事態となり、信長も美濃に出陣せざるを得なくなってしまいます。これが、信長が吉良義昭支援を継続できなくなった理由と思われます。信長に美濃出陣の必要が生じることなく、西尾出陣を継続できていたとするなら、三河の状況はどうなっていたでしょうか。美濃の状況が三河に影響を及ぼした、と言えるように思います。

 

1555(天文24/弘治元)~1556(弘治2)年、三河の反今川蜂起の地図

三河での反今川蜂起に関連して、上に出てきた地名を、地図上で確認したいと思います。

1555(天文24/弘治元)~1556(弘治2)年 三河の反今川蜂起、織田信長の西尾(八ツ面)出陣 地図

西三河の北から南まで、反今川の蜂起があったことが分かります。これだけの反乱が起こった理由として、織田側からの働きかけがどれだけなされたか、ですが、『新編安城市史』(村岡幹生執筆部分)は、「彼らの反今川蜂起が織田の働きかけに起因したものかは定かではない」、「反今川蜂起は必然的に織田方と位置付けられることになる」が、「織田信秀死後の尾張は、… 混沌の気配を強めていた」として、織田方から積極的に働きかけがなされた結果、との見方は取っていないようです。

織田方からの積極的な働きかけの結果ではないとすれば、三河の地方領主にとって、今川は、経済的あるいは政治的に、好ましい領主とは程遠いとして嫌われて各所で反乱がおこり、その際敵の敵は味方で、織田方に支援を求める者もいた、ということであったのでしょうか。

 

 

ここまで、村木砦の戦いをはじめとする、1553~56(天文23~弘治2)年の対今川の状況を見てきました。信長を取巻く外部環境は少し改善を始めました。しかし尾張国内での、信長と信勝、兄弟間の反目が表面化、とくに信長の良き支援者であった斎藤道三が義龍との合戦で討死してからは、ますます激しくなっていきます。次は、信勝との反目についてです。