このページでは、木曽川を始め、長良川、揖斐川、庄内川・矢田川など、織田信秀・信長父子に関わりがあった河川の当時の河道について、本歴史館が参考にした資料・研究書を整理しています。
● このページの内容
織田信秀・信長時代の木曽川の流れが、現代とは異なっていたことについて
織田信秀・信長の時代、木曽川は現在とは異なる位置を流れていた、というのは、本歴史館は、実は信秀・信長に関する研究書等をかなり読み進めてから、初めて知ったことでした。
このことに気づくまでは、太田牛一が勘違いをしていて 『信長公記』 の記述が間違っている、と勝手に思いこんでいました。例えば、信長が斎藤道三との会見に、冨田の聖徳(正徳)寺に出向いたとき、信長は「木曽川・飛騨川、大河舟渡し打ち越し御出で候」と書かれています。この文章には、角川文庫版にも新人物文庫版にも何も注記はありません。木曽川は今も昔も流れの位置は同じだと思い込んでいたので、那古野城から木曽川の手前の冨田に行くのに信長は川を渡る必要はないので書き間違いだ、と思っていた次第です。
やがて、いろいろな研究書等を読み進めていくうちに、当時の木曽川の流路=河道は、現在の木曽川とは異なっていたことを知りました。さらに、当時は枝川も多く、また河道にも変遷があったらしいことも分かりました。太田牛一は当時の状況を正しく記述していたわけです。
木曽川の河道が異なっていたのなら、長良川や揖斐川の河道はどうだったか、も当然気になります。織田信秀・信長は、木曽・長良・揖斐の3河を越えて美濃攻めを行っているからです。信秀・信長の美濃攻めを理解するうえで、当時の木曽川や長良川・揖斐川がどこを流れていたのかは、重要な情報です。そこで本歴史館では、「第1室 戦国尾張 1-2 国境と木曽川の河道」のページの中で、木曽川・長良川・揖斐川の河道変遷問題の整理を行いました。また、別の箇所で庄内川・矢田川についても触れました。
以下は、河道変遷問題について、本歴史館が参照した研究書や資料についての内容紹介です。
国土交通省中部地方整備局 木曽川下流河川事務所 『KISSO』 に掲載された諸論文
まずご紹介したいのが、『KISSO』 に掲載された河道変遷に関する諸論文です。
『KISSO』 は、国土交通省中部地方整備局 木曽川下流河川事務所が発行している「木曽三川 歴史・文化の調査研究資料」誌です。その内容は、いわゆる広報誌のレベルを上回っていて、分かりやすく啓蒙的な調査研究資料誌と言えるように思われます。実際に治水の実務を担っている行政機関が、このような資料誌を発行していることは、大変にありがたいことであると思います。
本歴史館では、木曽川・長良川・揖斐川の河道の歴史的な変遷に関し、この 『KISSO』 中の下記の諸論文を大いに参考にしました。その一部からは「第1室 戦国尾張 1-2 国境と木曽川の河道」のページで引用等を行っています。
● 「国界を変えた木曽川河道の変化」(Vol. 59 - 2006 所収)
● 伊藤 安男「濃尾平野の形成と河道変遷」(同上)
● 「長良川・揖斐川の河道変化と郡境」(Vol. 60 - 2006 所収)
● 「木曽三川下流域に影響した天正地震」(Vol. 91 - 2014 所収)
● 「木曽川の河道を替えた天正の洪水と今に伝わるヤロカの大水」(Vol. 92 - 2014 所収)
どの論文も、地図や写真が多用された大変に分かりやすい論文であり、木曽川のような大河は流れを変えることがある、戦国時代と今では河道の一部が変わっている可能性が十分にある、ということがよく分かります。
ただし、これらの 『KISSO』 諸論文は、天正の洪水以前の木曽川の河道は境川筋-墨俣川であったとする従来からの定説に拠っており、まだ最新の説は反映されていない点に注意が必要です。
河道問題に限らず、『KISSO』 からは、木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川に関する歴史や現状などについて、さまざまな情報が得られます。『KISSO』 のバックナンバーはインターネット公開されていますので、ご興味のある方には大いにご活用いただけると思います。
山本浩樹「織豊期における濃尾国境地域」
(織豊期研究会 『織豊期研究』 第10号 2008年 所収)
本論文は、戦国期・天正の洪水以前の木曽川の河道について知るために、最も重要で価値のある必読論文であると思われます。とりわけ、上記の 『KISSO』 諸論文を読んでからこの論文を読むと、戦国期に木曽川は実際にどこを流れていたのか、理解が大いに深まります。
本論文の出発点は、加藤益幹氏によって提起された、清須会議の後の織田信雄・信孝間に「国切」「川切」論争があったことを示す史料です。確かにこの史料は、従来の定説に反して、天正の洪水以前に、木曽川の河道が国境(旧河道の境川筋-墨俣川)から大きく乖離していたことが確実であることを示しています。
では、実際にはどのような河道となっていたのか、なぜ信孝は川切を主張したのか、が本論文で行われている論考です。河道の位置については、『信長公記』 を含む諸史料に拠り、当時の木曽川は、元は枝川であった及川-足近川-逆川-佐屋川のラインが本流化していた、との見方を示しています。(本論文中に掲げられている地図は、スケッチ風のものであるため、誤読しているかもしれません。誤解があればご指摘ください。)
本歴史館の「第1室 戦国尾張 1-2 国境と木曽川の河道」のページに書きました通り、本論文の見方に従えば、天正の洪水による被害の伝承にも、『信長公記』の記述 にも、全く矛盾がありません。太田牛一はやはり正確に事実を書いている、と分かりました。また、最終的に天正の洪水では、既存の枝川の河道間が結びつけられて現在の木曽川の河道が成立したことが分かり、無理なく納得できるものです。
今後は、この山本説が新しい定説になっていくのではないか、と思っていますが、いかがでしょうか。
木曽川流域の自治体史(市史・町史)等
木曽川流域の自治体によって編さんされた市史・町史等は、やはり、その地元に関わる木曽川の河道の変遷や、その地の洪水被害の伝承などについて、多くの情報を提供してくれます。本歴史館では、市史・町史等については、下記を参照いたしました。(末尾に☆印があるものは、木曽川の河道変遷に関連して、本歴史館の本文中で引用等を行ってるものです。詳しくは、「第4室 資料室 4-6 自治体史(県史・市史・町史)」のページをご覧ください。
<参考にした市史・町史>
● 『新修名古屋市史 第2巻』(上村喜久子執筆部分)1998 ☆
● 『各務原市史 通史編 自然・原始・古代・中世』1986
● 『岐南町史 通史編』1984 ☆
● 『羽島市史 第1巻』1964 ☆
● 『尾西市史 通史編 上巻』1998 ☆
● 『海津町史 通史編(上)』1983 ☆
飯田汲事「天正14年(1586)の洪水による木曽川河道の変遷と天正地震の影響について」
(愛知工業大学研究報告 第19号B 1984 所収)
本論文は、天正14年の木曽川の洪水が、その6ヵ月前に発生した天正地震の影響によることを論証しようとしたものです。本歴史館の本文でもご紹介しましたが、天正14年の洪水で河道が大きく変わったのは、天正地震により地盤が変動を受けていたため、洪水を契機にその沈降地帯または断層線付近に流路をとるようになったことによる、と結論しています。
本論文も、天正の洪水以前の枝川の本流化論が出てくる以前の論文であり、木曽川の河道は従来の定説に拠っていますが、天正の洪水以前に枝川が本流化していたとしても、地震による地盤沈下の影響を受けたとする本論文の主張は成り立つと思われます。
地震と洪水の関係を追及した論文をほかに見ていませんので、本論文の指摘が正しいものであるかどうか、素人には判断はつきませんが、ありそうなことではあると思われます。本論文は、インターネットで公開されています(本論文名で検索してください)。
本論文についても、本歴史館の「第1室 戦国尾張 1-2 国境と木曽川の河道」のページで触れています。
寒川旭 『秀吉を襲った大地震 - 地震考古学で戦国史を読む』 平凡社新書 2010
本書の著者は、地震考古学の第一人者です。本書では、豊臣秀吉が天下人であったときに発生した天正地震と伏見地震の二つの大地震について、史料と発掘調査結果に基づき、何が起こったのかがまとめられています。大変に読みやすく、また面白い本です。
天正地震は、本能寺の変の3年後、天正13年11月(西暦1586年1月)に発生した、マグニチュード8近い超大型の内陸地震です。
① 岐阜県中津川市から下呂市にかけてのびている「阿寺断層帯」
② 岐阜県北部から富山・石川両県の境界に伸びている「庄川断層帯」
③ 岐阜県の養老山地の東縁から三重県にかけての「養老-桑名-四日市断層帯」
という3つの断層帯から発生したと考えられており、離れた断層帯がほぼ同時に活動して地震を引き起こす「珍しいケース」であったようです。
伏見地震は、天正地震から10年後の文禄5年閏7月(西暦1596年9月)に発生、この年は各地で地震が立て続けに発生したため、年号が慶長に変更されました。有馬-高槻断層帯、および淡路島では東岸の複数の活断層や先山断層が活動して発生、内陸の活断層が引き起こした地震としては最大級に近く、マグニチュード7.5以上で8近い値であったようです。
木曽川の河道が変わった原因になったかもしれないのは、先に発生した天正地震の方です。以下のように各地で大きな被害が発生した、ということです。
● 越中〔富山県〕では、木舟城〔高岡市〕が倒壊
● 飛騨〔岐阜県〕では、山崩れにより帰雲城〔白川村〕とその城下が埋没
● 近江〔滋賀県〕では、長浜城〔長浜市〕が倒壊
● 京都では、壬生寺が倒壊、東寺の講堂が損傷
● 奈良では、興福寺の築垣がいたるところで倒壊
● 尾張では、織田信雄の長島城が倒壊して清須城に移転、津島・甚目寺も
これだけの被害をもたらした巨大地震なので、天正地震によって木曽川の河道が変わった、というのもありうるようには思われますが、確証を得るには史料が不足しているようです。
本書についても、本歴史館の「第1室 戦国尾張 1-2 国境と木曽川の河道」のページで引用等を行っています。
榎原雅治 『中世の東海道をゆく - 京から鎌倉へ、旅路の風景』 中公新書 2008
本書の目的は、鎌倉時代の貴族の旅日記の記述から、中世の東海道の景観を復元すること。誰がいつどのルートを通ってどの記録文になったのかが整理されていて、非常に便利です。岩倉と信勝を滅ぼして上洛した信長が通った八風峠を、宗長も通って記録に残している、と本書から知りました。
中世の景観が現代と異なることが示されているのは、濃尾国境の木曽川の河道のほか、熱田-鳴海間の干潟、浜名湖の旧橋本宿付近(遠州灘への開口部)、引馬(浜松)近くの内海、天竜川・大井川・富士川の下流域や薩田峠などの難所、です。
他には類書の少ないユニークなアプローチであり、その点では本書に大いに価値があるように思われます。
しかし、本書中、濃尾国境の木曽川の河道問題についてだけは、本歴史館の本文中でも触れました通り、その論証過程と結論に納得し難いところがあります。
著者はまず、天正14年の洪水による河道の変更という通説について、それ自体を記述している同時代史料が全く存在していないという見方から、天正14年以前の同時代史料の検証を行っています。そのさい、まずは、天正12年の羽柴秀吉の書状や 『太平記』 の記述から、境川筋の印食の北も流れる「足近川が中世木曽川の本流であった」との指摘を行っています。
そのうえで、①河野島の戦いに関する「中島文書」、②織田信雄・信孝兄弟の「国切・川切」論争の史料、③小牧長久手合戦時の本田忠勝書状などから、著者は、「以上の材料によって、天正14年以前に、現在の木曽川とほぼ同じ場所に大きな川が流れていたと考えて良いのではないだろうか」、それは「および河」=及川で、明治期に木曽川・佐屋川と呼ばれていた川のことである、と結論しています。
古木曽川から派生していた枝川の中に、本流をしのぐ大きさに成長したものがあったと推定できること、大浦の近くを大きな枝川が流れていたと推定できること、の2点には全く合意します。しかし、中世木曽川の本流であった足近川と及川の関係については、十分な説明があるようには思えません。上記のわずかな史料だけから、すでに現在の木曽川とほぼ同じ場所を通貫して大きな川が流れていた、と結論することはかなり乱暴、と言わざるを得ないように思います。
著者のこの結論は、著者がなぜか判断史料として採用しなかった 『信長公記』 の、信長が道三との面会のために舟で渡河したとの記述と矛盾しています。また、現在の木曽川の河道の地域に天正の洪水による被害伝承があるという事実とも矛盾します。同時代史料が残っていないからといって、伝承は「まぼろし」であった、洪水による被害も河道の変化もなかった、とは言えないように思います。上掲の山本論文が、伝承や 『信長公記』 とも整合した見解となっていることと、きわめて対照的です。
東海道の中世景観の復元という本書のアプローチ自体は素晴らしいと思うのですが、少なくとも木曽川の河道問題に関する限りは、現状の論証のままでは、お勧めできる本であるとは申し上げられないように思います。
本書からは、本歴史館中の以下のページで、引用等を行っています。
長良川の河道の変遷についての資料
長良川の河道の変遷については、以下の2つの資料を参照しました。とくに、筧真理子氏の論文は、分かりやすく大変に参考になりました。
● 『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』 1980
● 筧真理子 「長良川「古川」「古々川」の名称について」(岐阜市歴史博物館 『博物館だより』 No. 76 2010 所収)
2つとも「第1室 戦国尾張 1-2 国境と木曽川の河道」のページで、また筧氏の論文は「第3室 織田信長 3-6 舅・道三の死(長良川合戦)」のページでも、引用等を行っています。
庄内川・矢田川の河道の変遷についての資料
庄内川・矢田川など、庄内川水系の河道の変遷については、以下の資料を参照しました。
● 建設省中部地方建設局 庄内川工事事務所 『庄内川流域史』 1982
本資料からは、以下のページで、引用等を行っています。
次は、ここまで見てきた資料・研究書以外で、信秀・信長の当時の地理関連資料で、本歴史館で参照したものについてです。