前ページでは、尾張国内で清須クーデターを鎮圧している間に、信長は村木砦の戦いを行い、今川勢を押し返したこと、その翌年になると三河では反今川の蜂起が活発化、やがて信長は西尾(八ツ面)まで出陣したこと、などを確認してきました。
村木砦の戦い後の時期、今川勢に対しては状況は有利に展開していましたが、尾張国内では、信長と弟・信勝との反目が激しくなります。それを示したのが喜六郎横死事件の発生で、守山をどちらの勢力下に置くかが争われます。このページでは、信勝との反目状況、喜六郎横死事件の詳細、信勝との争いの対象となった守山城、などについて確認します。
● このページの内容 と ◎ このページの地図
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清須乗っ取り後、弟・信勝との反目は激化
信秀没後の、信長・信光・信勝の3者関係
ここまで確認してきましたとおり、父・信秀の死後、信長と、叔父の信光、弟の信勝との3者関係は、事件ごとに少し流動的でした。まずはこの点を改めて整理してみたいと思います。
事件 | 信長 | 信光 | 信勝 | |
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1553(天文22)年 4月 |
赤塚合戦 | ○ | X | X |
同年7月 | 清須クーデター 中市場合戦 |
○ (協力) | ? 不明 | ○ (柴田権六を派遣) |
同年8月 | 深田・松葉両城争奪戦 | ○ | ○ | ○ (柴田権六を派遣) |
1554(天文23)年 1月 |
村木砦の戦い | ○ | ○ | X |
同年4月 | 清須城乗っ取り | ○ | ○ | X |
深田・松葉両城の争奪戦までは、信長・信光・信勝の3者が共同して事件に対応していました。とはいっても、信勝の場合は、本人自らが出てくることはなく、柴田権六(勝家)を派遣するだけだったように思われます。
村木砦の戦いからは、信勝との協力関係に変化が生じ、信長と信光だけの共同になっています。今川への対抗姿勢の差で、弾正忠家有力3者、すなわち信長・信勝・信光の3人は、結局、信長・信光連合と信勝の2対1に分かれた、と見るのが適切なのかもしれません。
信長が清須を掌握したころ、信勝は「達成」と名乗り対抗意識を示す
結果として、信長と弟・信勝との兄弟間の反目が表面化してきます。まず信勝は、「達成」と改名していたようです。それにについて、以下は横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。
● 信勝、天文22年5月は「勘十郎信勝」(末守白山社の仏像台座銘など)。
● しかし、翌天文23年11月22日、広済寺あて文書では「勘十郎達成(みちなり)」。「達」は清須守護家の斯波義達、守護代の織田達勝。信勝が達成と改名したのは、心が信長から離れて清須方に通じていたからであろう。
天文22(1553)年5月は、赤塚合戦後で清須クーデターの前です。天文23(1554)年11月22日は、清須乗っ取り後で信光死去の直前です。その間のどこかで、「達成」と名乗るようになった、ということになります。清須乗っ取りにより、信長は実質的に尾張国守護代で守護の保護者格になりました。それで信勝は、「信」より格上の家系で使われている文字「達」の字を使い、「達成」を名乗って対抗意識を示していた、ということになるかと思われます。
ただし、上記横山説中の、信勝が「清須方と通じていた」は、腑に落ちません。信勝は、清須クーデター後すぐの中市場合戦にも、深田・松葉両城の争奪戦にも柴田権六を派遣しているからです。この点は、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」(以下に要約)の方が、説得力があるように思われます。
広済寺は海東郡桂村〔現あま市七宝町桂〕。信勝(達成)の実効支配が及んだのは熱田をはじめ愛智郡東部、随分と離れた所に出されたもの。信勝には、清須守護代の地位を襲うという意識を以て、達成と改名し、自領内外にこれを宣したのではあるまいか。それがどの程度の広がりを以て受け止められたものかは不明。
1555(天文24)年、喜六郎横死事件と守山新城主問題
天文24年6月26日、喜六郎横死事件についての 『信長公記』 の記事
信長・信光による清須城乗っ取りからは1年以上、信光の死からは半年余りが過ぎたとき、守山城を信光から引き継いでいた城主・織田孫十郎信次の家臣が、馬で通りかかった信長・信勝兄弟の弟喜六郎秀孝を弓で射殺する事件が発生します。
この事件について、まずは 『信長公記』(首巻17)の要約です。
● 6月26日、守山の城主織田孫十郎〔信次〕、竜泉寺の下松川渡で若侍と川狩り中、勘十郎〔信勝〕の弟喜六郎が馬一騎で通りかかったところを、馬鹿者が騎乗のままで通ろうとすると言って、家臣が矢を射かけたら、矢に当たって落馬した。孫十郎以下川から上がって確認したら、信長の弟・喜六郎であった。皆これを見て肝をつぶし、孫十郎は守山の城には戻らず、すぐに逃げ去り、数年牢人となって難儀した。
● 信勝はこのことを聞くと、末森の城から守山へ駆けつけ、町に火をかけ、裸城にした。
● 信長も、清須から3里、一騎で一気に駆け、守山入り口矢田川で馬に水を飲ませていたところ、孫十郎の逐電・信勝による放火の報を受ける。信長は、我々の弟が誰も召し連れずに一騎で駆けまわっていたのが問題だと言って、清須に帰った。
例によって、『信長公記』 には年号の明記がありませんが、「定光寺年代記」に「弘治元年7月6日、織田六郎九郎所害。守山城主孫十郎殿7月牢人」とあり、六郎九郎が喜六郎であり、月日が多少異なるものの、弘治元年〔1555〕の事件とみて間違いない(横山住雄 『織田信長の尾張時代』)とのことです。1555年は10月23日に弘治に改元になっていて、6月26日または7月6日は、正確にはまだ天文24年でした。
この 『信長公記』 の記事からは、喜六郎の横死事件への対応について、信長と信勝の間で何も話し合いがなかったことが明瞭です。また信長は、本事件についてはそもそも喜六郎の行動に問題あり、と考えていたことも分かります。
喜六郎横死事件後の処理と守山新城主問題について、『信長公記』の記事
この事件の処理を巡って、信長・信勝兄弟の反目が露呈します。以下は、『信長公記』(首巻18)からの要約です。
● 守山の城は孫十郎年寄衆が維持、立て籠もった人数は、角田新五・坂井喜左衛門など7名。
● 信勝は、柴田権六〔勝家〕・津々木蔵人を大将として、木が崎口を押さえた。
● 信長は飯尾近江守・その子讃岐守、そのほか諸勢にしっかり取り巻き取り囲ませた。
● 信長の腹違いの兄、織田三郎五郎(信広)の弟で、安房守(秀俊)という利口な人物を、佐久間右衛門(信盛)が信長に、守山の城主として推挙。〔籠城衆の中の〕角田新五・坂井喜左衛門は守山の二人の長〔おとな=家老〕であり、この二人が謀反して、安房守を引き入れ、守山城主とした。
守山の家臣たちが、城主は逐電してしまったのになぜ立て籠もったのか、理由が書かれていません。信長・信勝が出兵した理由も書かれていません。信勝の出兵は、城主もいなくなったのだから守山城は明け渡せ、ということだったのでしょうか。明け渡して自分たちが放逐されては嫌なので、守山城家臣団は団結して籠城した、ということであったのかもしれません。
それに対し信長が兵力を動員したのは、信勝に対して守山城接収を行わせないため、また守山家臣団に対しては自らが決定する新城主を受け入れさせるため、双方に圧力をかけるためであった、ということであったのかもしれません。籠城衆のトップである家老二人が新城主受け入れを決めたのであれば、謀反とも言えないように思われます。とにかく彼らが、信長が決めた新城主を受け入れるよう守山城内をまとめた、ということだったのでしょう。
このときの新守山城主の選定について、村岡幹生・上掲論文は、「信長・信勝双方にとって守山を自身の勢力下とする絶好の機会」であった、事件直後は現場に近い信勝がいちはやく守山に出陣、信長は「距離的に不利」にあった、しかし「信長が外交戦によって当初の出遅れを挽回して信勝に対して優位に立ち」、安房守秀俊を据えることによって「事実上信長が守山をみずからの統制下に組み入れた」、と評価しています。
喜六郎横死事件の地図
例によって、この喜六郎横死事件について、地図で確認したいと思います。
喜六郎横死事件の現場は、『信長公記』 に「龍泉寺の下、松川渡し」とあります。昔の松川渡しと現在の松川橋の位置関係ですが、それなりに近い場所に橋が作られたのではないか、と考え、上の地図には現在の松川橋の位置、守山城からは北東に3キロ弱の地点を示しましたが、間違っているかもしれません。
このとき信長と信勝との争いの対象となった守山城ですが、末盛城からは4キロ弱、清須城からは10キロ弱の位置です。距離的に、末森城の方が圧倒的に近く、有利でした。「木ヶ崎口」は「長母寺のあたり」(横山住雄 『織田信長の尾張時代』)であるようです。ただし、すぐ下の「守山城の地図」の項をご参照いただきたいのですが、この当時、矢田川は長母寺の南を流れていて、長母寺と守山城は地続きでした。陸続きで目と鼻の先である長母寺あたりまで出兵していたなら、相当な圧力になっていたと思われます。
守山城は、もともと信光すなわち信長派の城でした。守山城を持っていることは、信勝に対する牽制上で非常に有利であり、もしも信勝が取ると信長にとっては不都合であった、ということがこの地図から良く分かります。
逆に言えば、信勝が信長に対抗したいのなら、その点を考慮して、信長が手を打つ前に守山城を取ってしまう必要があったように思われます。時間がかかればかかるほど、すでに守護代となっている立場ですし、信長側はいろいろな手を打てます。信勝が信長を出し抜くには、城下に放火した直後に守山城を接収するような、迅速な行動が必要であったのではないか、と思われます。信勝は、人格・行儀のよい優等生であっても、思い切った判断と行動力という点で、信長には負けていた、という気がしますが、いかがでしょうか。
守山城の地図
宝勝寺が守山城跡
守山城の位置についても、地図で確認しておきたいと思います。下は、Googleの航空写真に、『新修名古屋市史 第2巻』(千田嘉博氏 執筆部分)記載の守山城要図の情報等を書き込んだものです。以下は、同書からの要約です。
● 守山城跡は、寛永14年(1637)創建の宝勝寺の境内。
● 本堂の北側に、長さおよそ100メートル、幅約10メートルの堀、城域北側の区画。
● 守山城は1辺約100メートルの四角い形をした館型の城であった。堀の北東外側に愛知県の森山城址碑が立てられているが、三方を大きく削られ、本来の形態や機能は不明。
● 東200メートルの白山神社との間には、「市場」の地名が残る。矢田川の水運と街道の結節点を基礎として、城下が整備されたと考えられる。
守山城址碑が、名鉄瀬戸線の矢田駅から北に直線約400メートル、矢田川対岸の宝勝寺の北側の小山に建てられています。これは、かつては宝勝寺の北側が城址であると思われていたためです。現在は、宝勝寺は江戸時代になってから守山城の跡地に建てられた、との見方に変わっているようです。
当時、守山城と長母寺の間に矢田川はなかった
守山城実在当時の矢田川の流路は、現在とは異なっていたようで、当時は守山城から長母寺まで地続きで、矢田川は長母寺の南を流れていたようです。
河道が大きく変わったのは江戸中期であり、「明和4年(1767)7月の洪水は、矢田川が長母寺と宝勝寺の間を押し破った 『稀なる洪水』 で 『後世まで亥年の洪水』(『天保会記』)といわれた大洪水であった」(『守山区誌』)、とのこと。
下の地図は、建設省中部地方建設局 庄内川工事事務所 『庄内川流域史』 から引用しています。この地図には、明和4年の洪水以前の矢田川の河道が示されています。この地図では、長母寺の東にある卍マークの位置に、守山城がありました。同書には、「明治中期の地形図をみると、長母寺の南から西部、北西部にかけて、… 現在の川幅の2倍ほどの幅の川原がみられ、… かなり頑強な堤防が築かれている」とあります。
川は、戦国時代から現在までの間に、河道が変化している箇所がときどきあるようです。
天文23~24年ごろの、信勝との反目の状況を確認いたしました。次は、信長の後ろ盾となっていた舅・斎藤道三の死についてです。