3-15 小牧山城への移転

 

前ページでは、美濃の斎藤義龍の死を契機に美濃に攻め入ったものの、1年経たずに美濃からは撤退したことを確認しました。一方、尾張国内では、北部の丹羽郡北部・葉栗郡と西部の海西郡にまだ反信長勢力がいました。

この状況で信長は、美濃攻めよりも、尾張北部の反信長派対策を優先するよう、方針に切り替えたようです。このページでは、信長による小牧山城の築城と清須からの移転、小牧山城とその城下町、小口城・黒田城の犬山からの切り離しについて、確認します。

 

 

1562(永禄5)年の尾張北部の反信長勢力

残る反信長勢は、尾張北部と海西郡

信長は、桶狭間合戦の翌年である1561(永禄4)年に、三河の松平元康と清州同盟を結ぶ一方、斎藤義龍が亡くなった直後の美濃への攻勢を開始しましたが、その頃までには尾張の中央部や知多郡はすべて信長の勢力圏に入っていて、尾張国内の反信長地域は、尾張北部の丹羽郡北部(犬山・小口)や葉栗郡(黒田)と、荷之上の服部氏が握っている尾張西部の海西郡だけとなっていたと思われます。

1562(永禄5)年2月、斎藤龍興との講和により美濃攻めを1年経たずに撤収した信長は、当面の方針を尾張北部、丹羽郡・羽栗郡の掌握に切り替えたようです。

尾張北部の反信長勢力は、犬山城の織田清康とその支配下の諸城

このとき、尾張北部の反信長勢力とは、犬山城(犬山市)の城主・織田清康と、その支配下の小口城(大口町)・黒田城(一宮市)・楽田城(犬山市)でした。犬山城主については、「第2室 2-14 犬山勢・楽田勢の謀反」のページで確認しました通り、信秀晩年の謀反の結果、犬山城主が交替させられています。

あらためて整理しますと、この4城は下記の状況であったと思われます。
● 謀反事件後に犬山城主となった織田信清は、信秀にとっては甥であり娘婿、信長にとっては、いとこであり姉婿。
→ いつから反信長かは不明。犬山の信清が浮野合戦では信長に協力した、とする説は 『甫庵信長記』 に拠るものなので、必ずしも信用できない。
● 小口城の城主は、謀反事件当時、親信秀で既に高齢であった織田寛近で、跡継ぎがいなかった可能性がある。
→ 小牧山城築城時の小口城主は犬山城の家老(『信長公記』)。寛近が亡くなった時、信清が支配下においたものか。
● 黒田城主も犬山城の家老(『信長公記』) 。
● 楽田城は、犬山城主織田信清に永禄初年ごろ攻め落とされた、との説がある。
→ この説の通りであれば、楽田城も、このとき反信長派であった。

すなわち、このときの尾張北部の反信長勢力とは、犬山城の織田信清と、その支配下の諸城であった、ということになります。では、犬山はなぜ反信長であったのかについては、よく分かりません。横山住雄氏は、『新編犬山城史』では、岩倉陥落後「間もなく信長と不和となり、美濃の斎藤龍興と手を組んだ」、『犬山の歴史散歩』 では、「義龍の誘いに乗って信長から離れていった」と書いていますが、根拠となる史料は挙げられておらず、その後の 『織田信長の尾張時代』『斎藤道三と義龍・龍興』 では、この点についての言及がありません。

信清は信長の親族だからといって、仲が良かったとは限りません。信長は弟・信勝とは激しく対立していたわけですから、信清も、もともと親信勝・反信長であった可能性もありそうに思えます。あるいは地理的な要因で、支配下地域の安定のためには美濃勢と協調する必要があり、親斎藤・反信長となったのかもしれません。

『信長公記』が記す於久地(小口)城攻め

『信長公記』(首巻38)には、信長が行った小口城攻めの記事があります。以下は、その内容です。

6月下旬、於久地〔小口〕へ出陣。お小姓衆が先駆け、惣構えをもみ破り、押し入って散々に数刻戦い、10人ほど負傷した。

例によって、年号が入っていません。以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 による、この記事の年代の推定に関する要約です。

● 〔合戦で親が討死した家臣への〕信長書状史料、永禄6年〔1563〕6月17日付。これが「信長公記」にいう6月下旬の小口城攻防戦ではなかったか。
● 『愛知県史 資料編 織豊I』 では、これ〔小口城攻防戦〕を永禄4年(1561)6月下旬としている。そのとき、信長は墨俣城付近で斎藤龍興と対峙しており、両面作戦は無理ではなかったか。
● このあと、秋頃に小牧山城は完成したのであろう。

以下に小牧山の築城について確認していきますが、小口城攻めは、この小牧山城の築城中に行われたようです。

 

1563(永禄6)年、小牧山城の築城、清須城からの移転

『信長公記』が記す小牧城築城

信長の小牧城築城について、『信長公記』(首巻39)は次のように書いています。以下は、その要約です。

● 信長には奇特な企みがあった。ある時、御内衆(みうちしゅう)を皆召し連れて、二宮山〔犬山市の本宮山〕に登り、この山に城を築くつもりである、皆引っ越しをせよと言い、ここの峯は誰、あそこの谷は彼と、屋敷の場所も決められた。また重ねて出かけて、また同じことを言う。こんな山の中へ清須から家を引っ越すのは難儀である、と上下の迷惑きわまりない。
● その後になって、小牧山へ行くと言い出された。小牧山なら、ふもとまで川続き〔清須を流れる五条川の支流〕で、資財雑具を取るにも不自由はない。どっと喜んで移った。初めから小牧山だと言われたら、それも同様に迷惑だったろう。

主君信長の戦略などに関わりなく、田舎への引っ越しを嫌がる家臣、という構図であり、それが分かっているので、信長は先により不便なところを持ち出すことで家臣の心情を誘導した、という話になっています。後で、本宮山や小牧山などの地図を確認する際に申し上げますが、この話は少し出来過ぎ、という印象も受けます。

千田嘉博 『信長の城』 は、信長が二宮山に連れて行った「御内衆」とは、重臣ではなく直臣であった、と指摘しています。直臣たちは清須に暮らしていましたが、後の近世と異なり、重臣は、清須城に出仕したときの屋敷は清須にあったものの、それぞれの領地に館城を持ち、そこを本拠として住んでいた、という事情であったようです。

小牧山城築城は1563(永禄6)年

例によって、上の『信長公記』の記事には年号が入っていませんが、小牧山城の築城時期については、史料から、1563(永禄6)年であることが明確であるようです。以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの引用です。

「定光寺年代記」には、「永禄6年2月、火車輪城鍬始、上総守開闢之、年齢三十歳」とある。確かに信長の年齢は数え年30歳で合致している。火車輪城とは、風車に火をつけて廻したような形をしていることからで、小牧山城は独立丘で幾重もの曲輪が同心円状に山を取り巻いている。

桶狭間合戦から約3年で、清須城から小牧山城への移転を決断し、工事を開始した、ということになります。

小牧山城への移転は、他の戦国大名には見られない信秀・信長父子の独自性

小和田哲夫 『東海の戦国史』 は、この小牧山城への移転について、信秀・信長父子の他の戦国大名とは異なる独自性、と指摘しています。以下は、同書からの引用です。

戦国大名は、ふつう、居城を移していない。たとえば、上杉謙信は越後の春日山城を本拠とし、領国が広がっても、春日山城に居続けているし、武田信玄も甲斐の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館を本拠として続けていた。ところが、周知のように、信長は父信秀が勝幡城→那古野城→古渡城→末森城と城を移しており、それをみていた信長も、那古野城から清須城に城を移していた。そして、永禄6年、清須から小牧山へ移っている。

信長の場合は、これから先に達成する目標を設定し、その目標達成に有利な立地を選んで城を移す、という、きわめて目的合理性の高い居城立地の選択を行っていたように思われます。

信長の小牧山城には、先進的な城下町があった

信長の小牧山城には、城下町も作られたようです。以下に、千田嘉博 『信長の城』 の要点だけを列挙します。

● 小牧山城は美濃攻めのための砦、本格的な城ではなく、城下町もなかったと考えられてきた。〔そうではなく〕信長は新しい尾張国の首都機能を備えた城下町を建設して、領国統治を進めようとした。
● 江戸時代の絵図、小牧山城南側の田畑に、「御園町」「紺屋町」「鍛冶屋町」… などの地名。にぎやかな都市の形成。
● 長方形街区と、短冊形地割の敷地を組み合わせた町屋を実現した城下町としては、確認できる最古の事例、近世城下町の源流。
● 南北に整然とした排水施設を設置。こうした構造の成立は、小牧城下町までさかのぼることが確実になった。
● 紺屋町・鍛冶屋町の遺構・遺物は、同職集住を証明。城下町の同職集住でも小牧城下町が先進的。
● 中世的な側面、館城や武家屋敷が、城下町の周囲にゆるやかに分散。有力家臣の中には信長への一極集中に根強い抵抗。

中世的な側面を残しつつも、全国に先駆けた先進的な取り組みがいくつもなされた城下町であったようです。発掘調査からは、武家屋敷は岐阜移転とともに短期間で廃絶されたものの、町家は岐阜移転後も残り、江戸期初頭に移転して小牧宿となったようです。

小牧山城の特徴

では、小牧山城自体はどのような城であったのか、なぜそれが分かったのかも含め、以下に再び、千田嘉博 『信長の城』 の要点だけを列挙します。

● 比較的最近まで信長の小牧山城の実像は謎、小牧・長久手の戦いで家康が大改修。江戸時代に尾張徳川家は、小牧山を立ち入り禁止。1930年に尾張徳川家は小牧山を小牧町に寄贈、史跡公園となった。
● 土塁を断ち切る発掘で、土塁中に埋められた石垣を発見。土塁は家康が構築、石垣は信長が構築と結論。
● 小牧山城の石垣に用いた石材は基本的に小牧山のチャートを使用。主郭は上下2段の石垣、「穴太(あのう)積み」、排水のための「栗石」層も備える。上部2メートルほどが人工的に突き固めた盛土「版築」。
● 小牧山城、畿内の城郭石垣と同等の最先端の技術水準、滋賀県の城郭石垣と共通性。1559(永禄2)年の上洛時、畿内と周辺の戦国期拠点城郭を実見か。おそらく近江のすぐれた石垣技術者を家臣に招き、最先端の技術を手に入れた。
● 小牧山城の大手道、幅5.4メートル、主郭と周辺の曲輪は屈曲して防御力。直線区間は、家臣の屋敷地土塁と塀に囲まれる。
● 山麓南東に大型の屋敷。堀と土塁を備え、独立した防御性。山麓の信長館と推測。
● 1567年(永禄10)3~4月、小牧城下町を訪れた連歌師・里村紹巴は、「大寺」の新作の庭で連歌会。「大寺」は「太守」の筆写の誤りで信長館か。岐阜移転の直前まで信長は〔小牧〕城内の整備、わずか4ヵ月後に美濃攻略が出来るとは確信なし。

永禄期の信長による築城は計画築城で、石垣積みなど、それなりの準備と期間が必要な大規模工事でしたが、天正期の家康による改修では、合戦のための短期間対応が必須で、大改修といってもやれることに限りがあったこと、また小牧山を尾張徳川家が家康戦勝の地として保護したために、元の信長時代の状況が復元しやすい状態が維持されたようです。

信長の小牧山城は、少なくとも尾張国内にはこれまで存在しなかった、石垣技術では最先端の畿内と同等水準の、先進的な城であったようです。また、仁木宏・松尾信裕編 『信長の城下町』 には、小牧山城についても、より詳細な記述があります。小牧山城の発掘は継続して進められており、さらに新発見がいろいろ出てくるかもしれません。

小牧山城と城下町の地図

小牧山城については、発掘調査が継続進行中ですが、城下町についても調査が行われてきました。下は、仁木宏・松尾信裕 『信長の城下町』 にある「小牧城下町概要図」を引用しています。小牧山城の南に、城下町が展開していたことが分かります。

小牧城下町概要図 地図

ただ、これだけでは城下町がどの程度の広がりであったのか、今一つつかみきれません。そこでこれを白黒反転して、Googleの航空写真上に貼り付けてみたものが、下の地図です。町名等の補足も記入しました。

上に引用した地図で、「間々へ」と書かれている道には特徴的な「曲がり」がありますが、この曲がりのある道は、現在もそのまま残っています。そこで、この道と小牧山とを位置合わせの基準に使って、縮尺を合わせて張り合わせてみました。あくまで概略位置を示しているだけであり、多少のずれは許容ください。

小牧山城と城下町 地図

城下町に当たる地域は、江戸時代にいったん田畑になったあと、今はすっかり建物が立ち並ぶ地域になってしまっています。城下町のすぐ西側、上の地図の赤い線で囲まれたところに「舟津」という地名の地域があり、その名の通りかつてはここが川湊で、清須からの引っ越し荷物が五条川水系を使って舟で運ばれ、ここで荷揚げされて城下町に運ばれたようです。

 

小牧山城築城の効果 - 小口・黒田両城の退去

小牧山城の機能上の特性

小牧山城が、当時の尾張の状況に対しどのような機能・利点が期待できたのかについて、以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。

● 敵の犬山城に近づいた、犬山城や稲葉山城が遠望できる
標高86メートルの山頂からは360度の展望、敵の接近も視認できる
● 小牧山を使って山城攻めの訓練ができる
犬山城や美濃の諸城は天険の要害が多く、清須城で訓練しても役立たない

平野の中にポツンと一つだけ山になっている小牧山ですから、実際、眺めは申し分ありません。信長以前には誰も、この山を城にしようとしなかったのが不思議なほどです。また、少年時代から実験や訓練が好きだった信長のこと、小牧山を使ってさんざん山城攻め訓練を行ったという可能性は、確かに高そうに思われます。

『信長公記』が記す小口城・黒田城の内応

小牧山城を築城したことは、犬山勢力の削減にすぐに効果を発揮したようです。以下は、『信長公記』(首巻39)からの要約です。

小牧山と敵の於久地〔小口〕城は20町〔約2.2キロ - 実際には5キロ強〕ばかりの距離。城がどんどん出来上がっていくのを見て、小口城は維持できないと思い、信長方に渡し、敵は犬山城に立て籠もった。

小口城は信長方に引き渡されたようです。

また、同(首巻40)には、下記とされています。

ある時犬山の家老、和田新介(これは黒田の城主なり)・中島豊後守(これは小口の城主なり)、この両人御忠節として丹羽五郎左衛門を通じて〔信長に〕申し上げ、引き入れ…

この記事からは、黒田城・小口城ともに内応したように読めます。ただし、黒田城も信長方に引き渡された、とは書かれていません。『木曽川町史』 は、「信長は降った和田新助の所領黒田を安堵し、新助は黒田城主としてとどま」ったとしています。なお、和田新介・中島豊後守とも、その後信長麾下の武将として 『信長公記』 に名前が出てきます(例えば巻2・7の伊勢・大河内城攻め)。

1563(永禄6年)妙興寺・曼荼羅寺への禁制

この小牧山城の築城期間中に、信長は、妙興寺と曼荼羅寺に禁制を出しているようです。以下は、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

〔信長は〕永禄6年4月に一宮市の妙興寺、10月には江南市の曼荼羅寺へ禁制を掲げて、兵たちの乱暴狼藉を戒めた。

禁制とは、「第2室 2-7 美濃攻め・大柿城奪取と5千人討死」のページで確認しました通り、敵軍が優勢と見たときに、戦火を免れるため敵軍に味方することを誓い、大金を払って手に入れるもの、妙興寺や曼荼羅寺は、黒田城・小口城の犬山方よりも信長方が優勢と見たようです。また、実際に合戦を仕掛けなくても、合戦準備による圧力によって、黒田城・小口城を降参させた、ということだったのかもしれません。また、これらの禁制の時期からすれば、黒田城・小口城の降参は、1563(永禄6)年中であった可能性が高そうに思われます。

『信長公記』が記す犬山城の包囲

黒田城・小口城が降参すれば、残るのは犬山城だけ、となります。以下は、『信長公記』(首巻40)の記事です。

ある時犬山の家老、和田新介(これは黒田の城主なり)・中島豊後守(これは小口の城主なり)、この両人御忠節として丹羽五郎左衛門を通じて〔信長に〕申し上げ、引き入れ、〔犬山城を〕裸城にして、四方に鹿垣を二重・三重に頑丈に結びまわし、犬山取り籠め、丹羽五郎左衛門が警護した。

『信長公記』のこの記述は、小口・黒田両城退去後には犬山城が簡単に包囲できたと読み取れる書き方です。しかし、実際に犬山落を攻め落とせたのは、その後1年以上たった1565(永禄8)年ですので、『信長公記』 には書かれていない、そう簡単には落とせない事情がいろいろあったものと思われます。

1564(永禄7)年10月の大県神社の定書・定光寺の禁制

例によって 『信長公記』 には年号は入っていないので、犬山城の包囲がいつのことであったのかは不明です。しかし、信長は、関連するかもしれない定記・禁制を、永禄7年10月に出しているようです。以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。

いよいよ犬山攻めが迫ったことを察知した大県神社では、永禄7年10月に信長に定書の発給を願った。信長はこの時、大県神社に定書、瀬戸市の定光寺に禁制を出している。

ただし、大県神社への定書は、賦役等に関する記述のみで、兵の乱暴狼藉を戒めたものではないので、戦乱を想定したものとは必ずしも言えないように思われますが、このときまでに大県神社が信長支配下に移っていたことは間違いなさそうです。

また、永禄7年10月には、犬山攻めが近づいていたことも間違いなさそうです。

小牧築城と犬山派との敵対についての地図

例によって、小牧築城と、その当時の犬山派(犬山城・小口城・黒田城・楽田城)との敵対関係について、地図によって確認したいと思います。

小牧山城の築城と犬山城・小口城・黒田城 地図

まず小牧山城の立地ですが、清須城へも犬山城へもどちらも約11キロで、ちょうど中間点の位置でした。小口城までは5キロちょっとなので、お互いによく見えますし、標高86メートルの小牧山から見下ろされる小口城は、もし合戦となった時に兵の動きを隠しようがなく、圧倒的な不利を感じて当然であったように思われます。

一方、黒田城は犬山城から遠く、間にある小口城まででも約12キロで、信長方に囲まれて孤立しやすい条件にありました。ましてや小口城が退去してしまうと、完全孤立で明らかに勝ち目はないため、圧力をかけられただけで降参を決めた、という可能性がありそうに思われます。妙興寺への禁制の時期からすると、ひょっとしたら黒田城の方が先に降参したのかもしれません。

小口城は、大口町にあり、現在も城屋敷の地名となっています。城址は、今は小口城址公園として整備され、物見櫓も建てられています。大口町教育委員会 『大口町埋蔵文化財調査報告書 第5集 小口城跡』 という資料も発行されています。

黒田城は、旧木曽川町(現一宮市)で、名鉄名古屋本線新木曽川駅のすぐ北側、名鉄線とJR東海道本線に挟まれたところ(JR線の東側も一部含む)にありました。本丸と二ノ丸が現在の黒田古城の地名、三ノ丸が黒田城西、本丸の東側が黒田城東、侍屋敷や三ノ丸の南端部は黒田下市場南に属し、また城址のすぐ北側を流れる野府川(黒田川)はかつては50~60メートルの川幅で、堀としての役割を果たしていた、とのことです(『木曽川町史』)。かつての本丸、黒田小学校の東北角に、黒田城址碑が建てられています。

信長は本当に二宮山に上ったのか?

ところで、最初に信長が城を移すと言い出した二宮山、すなわち標高293メートルの本宮山ですが、名前が示す通り、尾張国二宮である大県神社の奥宮がある山です(尾張国一宮は、一宮市の真清田神社です)。上の地図で、入鹿池の南西の山です。ただし、入鹿池は江戸時代の初期・寛永年間に作られた灌漑用のため池であり、信長の当時にはありません。

大県神社は、楽田城の東わずか1キロ半ほど。上の地図で明らかなように、もしも本当に本宮山に築城しようとするなら、楽田城から直ちに妨害を受けて当然の位置であり、本当に築城を行うなら、その前に楽田城を支配下に置く必要があったと思われます。しかし、楽田城の史料に犬山方が攻め落としたという話はあっても、信長方が支配下に入れたという話がありません。

一方、信長が大県神社に定書を発給しているのは、永禄7年の10月です。この定書のしばらく前まで、楽田城は犬山方であり続けたのかもしれず、そうなると、永禄6年2月の小牧山城築城開始以前に、信長は本当に本宮山まで家臣を連れて登って築城を宣言したのであろうか、との疑問が出てくるのですが、いかがでしょうか。

 

 

こうして、おそらく永禄6年中に小口城・黒田城とも内応し、尾張国北部で信長の支配下外に残るのは犬山城だけになってしまったようです。その犬山城攻めは、単独の作戦ではなく、中美濃の諸城攻略の一部として行われた可能性があります。次は、1565(永禄8)年の犬山城と中美濃諸城の攻略についてです。