3-11 桶狭間合戦 2 合戦の経過

 

このページでは、桶狭間合戦について、合戦前夜の信長の様子、当日早朝の信長の出陣~善照寺砦への到着~合戦の開始~義元を打ち取るまでの経過の詳細について、『信長公記』 と 『甫庵信長記』 のそれぞれの記述内容と相違点、桶狭間合戦に関する参謀本部の推定と、合戦地の地理状況、などについて確認をしていきます。

 

 

『信長公記』 が記す桶狭間合戦

5月18日の夜(合戦前夜)

さて、沓掛城まで来ていた今川義元がいよいよ桶狭間に到着し、合戦となります。桶狭間合戦については、いまだに迂回奇襲説を支持するような本も見られますので、合戦の経過について、最初に『信長公記』(首巻24)の記事を要約して、全体の流れを確認したいと思います。まずは、合戦前夜の状況についてです。

● 天文21年〔永禄3年の誤記〕5月17日、今川義元沓掛へ参陣。
● 〔今川軍は〕18日夜に大高城へ兵粮入れ、19日朝、〔織田方〕砦を奪取すること必定との情報を、18日夕、〔丸根砦の〕佐久間大学・〔鷲津砦の〕織田玄蕃よりご注進。
● その夜、軍議は全くなく、世間の雑談で深更に及び、帰宅させられる。家老の衆は、運の末で知恵の鏡が曇っていると嘲弄。

『信長公記』 は義元の沓掛入りを5月17日としていますが、前ページで見ましたように、実際は18日のこと、その日そこで今川軍の軍議が開かれ、同日夜の大高城への兵粮入れと、翌19日の丸根・鷲津砦の攻略が決定しました。丸根・大高砦は、その軍議決定の情報を迅速に入手していたことになります。今川軍は、大人数過ぎたおかげで、情報管理が甘かったのかもしれません。

丸根・鷲津両砦から清須の信長まで、どれくらいの速さで報告を上げられるか、ですが、両砦から清須城までは20キロほど(=ハーフマラソンの距離)の道のりを駆ける必要がありました。馬で駆けたとして1時間40分ほど(NHKの「大歴史実験」という番組によれば、当時の日本馬は、時速12キロ程度の速歩が長距離走行の速度、それ以上の速度は出せるものの、1キロ程度の短距離しか持たなかったようです)。当時の道をわらじ履きまたは裸足で人が駆けたなら、現代の陸上選手のようなトレーニングを受け、それなりのシューズを履いた人でない限りは、どんなに急いでも3時間程はかかったのではないかと思われます。

5月19日 朝(善照寺砦到着まで)

続いて、信長が清須を出陣し、丹下砦を経て善照寺砦に到着するまでの経過です。なお、当時は不定時法で、卯の刻=午前6時・酉の刻=午後6時と決まっていたわけではなく、卯の刻=日の出時刻・酉の刻=日没時刻として、他の時刻を調整していました。そこで、以下の記事中の時刻については、不定時法の時刻を定時法の時刻に計算し直しています。

国立天文台のウェブサイトを見ると、永禄3年5月19日は太陽暦では1560年6月12日です。6月12日であれば、年間で日が一番長いころで、名古屋の日の出時刻は午前4時37分です。そこで、例えば信長が熱田の源田夫殿宮を通り過ぎた「辰の刻」は、定時法なら午前8時ですが、この時期の不定時法時刻から計算すると、午前7時5分ごろ(正しくは、それが「辰の正刻」で、「辰の刻」は、その時刻から前後各1時間ほどの幅)となります。

● 夜明け方〔4時40分ごろ〕に、佐久間大学・織田玄蕃から、早くも鷲津・丸根両砦への攻撃開始のご注進。
● この時、信長、敦盛を舞ったのち、法螺貝を吹け、具足よこせと言い、出陣準備、立って食事をとり、兜をかぶって出陣。
● お伴は、御小姓衆6騎、熱田まで3里を一気に駆け、辰の刻〔7時5分ごろ〕に源太夫殿宮〔熱田神宮摂社〕前から東を見れば、鷲津・丸根落去の煙。この時、馬上6騎、雑兵2百ばかり。
● 満潮で馬の通行が困難になる海辺は避け、上道を、もみにもんで駆け、まず丹下砦に寄り、そこから善照寺砦へ移り、そこで将兵を集結させ、状況を観察した。

信長が明け方ごろに丸根・鷲津からの注進を受け取ったとすると、その伝達速度を考えれば、今川方はまだ夜明け前の午前3時前から攻撃を開始していたことになります。信長の善照寺砦到着までの時刻の経過は、下記であったかと思われます。

● 午前4時40分~5時ごろ: ご注進の受領
● 5時半~6時ごろ: 敦盛を舞い、準備をして清須城を出陣 (準備に約1時間を要したとして)
● 7時~7時半ごろ(辰の刻): 馬で駆け、清須から12キロほどの熱田の源太夫殿宮を通過
● 8時~8時半ごろ:熱田から7キロほど、笠寺台地かその東を通って丹下砦を経由して善照寺砦に到着

清須から善照寺砦に行くのに熱田は通り道、今もその間をJRの東海道本線や名鉄の名古屋本線が通っています。わざわざ熱田に立ち寄った、ということではありません。

源太夫殿宮は上知我麻神社のことです。現在は熱田神宮敷地の南端にありあますが、信長の当時は、神宮敷地外で熱田台地の南端近くにあったようです。そこに辰の刻、すなわち7時~7時半に行きついていた、ということは、清須城から源太夫殿宮まで12キロ強の距離を、1時間半前後で進んだ、ということになると思われます。善照寺砦には、ここからまだ7キロほど進まなくてはなりません。

上述の通り当時の日本馬の速歩は時速12キロ程、小姓衆を引き連れて集団で進んでいますし、清須から善照寺砦までは20キロ近くも走らなくてはならないので、時速12キロよりずっとゆっくり進んできて熱田神宮には立ち寄らず進み続けたか、それとも時速12キロでやって来て、馬を休ませるために熱田神宮あたりで30分ほどの休息をとったか、どちらかであったのではないでしょうか。立ち上る煙を見てしまうと、休息を取っている気にはならなかったようにも思われますが。

信長自身は8時~8時半ごろには善照寺砦に着いたと思われますが、兵は徒歩なので、そんなに早くは着けません。午前5時に法螺貝を聞き支度をして、遅くとも6時には家を飛び出したとしても、清須からであれば善照寺砦まで約20キロ、武具や具足も持たねばならず4時間が精一杯の行程とみて、到着は10時ごろとなるでしょう。兵の集合は信長の到着から2時間ほど遅れたものと思われます。

桐野作人 『織田信長』 は、合戦での信長の特徴的な振る舞いとして、「懸けまはし御覧じ」ることであり、『信長公記』 ではこの表現が11回も使われている、と指摘しています。「懸けまはし御覧じ」るとは、「駆け回って観察する」ということでしょう。同書も、「みずから敵情を視察して、攻め口や諸将の陣を決めることを意味している」としています。『信長公記』 の桶狭間合戦の記事では、「懸けまはし御覧じ」たとは書かれていませんが、信長は、とにかく早く前線に行き着いて状況確認を行いたかったのであろう、と推察されます。

5月19日 午前中 (合戦の開始まで)

善照寺砦に到着後、中島砦に移り、戦闘開始を命じるまでの経過です。

● 今川義元は、4万5千を引率し、おけはざま山に人馬の休息。午の刻〔11時55分ごろ〕、北西に向かって兵を置く。鷲津・丸根の攻略に満足して、謡を3番。家康は、大高に兵粮を入れ、鷲津・丸根攻略で苦労したので、大高で休息していた。
● 信長が善照寺砦到着を見て、佐々隼人正・千秋四郎は300ばかりで義元方に攻撃、二人をはじめ50騎ほど討死。これを見て義元はさらに喜んで陣を据えた。
● 信長は佐々・千秋らの討死を見て、中島砦に移ろうとするのを、脇が深田で一騎ずつしか通れない、戦力が少ないのが敵から丸見えになるといって家老衆は止めたが、信長は中島砦に移った。この時2千人以下。
● 信長は中島砦から出撃を命令。家老は無理にすがりついて止めたが、信長は、あそこに見える敵は、昨夜は大高城に兵粮を入れ、さらに徹夜して鷲津・丸根を攻めて疲労した武者、こちらは新手、敵が攻勢に出たら引け、退くなら引っ付け、練り倒し追い崩せ、分捕りはせず打ち捨てよ、と訓示。その時、前田又左衛門ら9人が首を下げて戻ってきたので、彼らにも趣旨を徹底。

善照寺砦から出て中島砦方向に進めば敵に丸見えになる、と信長軍側が認識していたことが分かります。

5月19日の午後(合戦開始後)

いよいよ合戦の開始です。

● 山際まで押し寄せたとき、にわかに急雨石氷を投げ打つように、敵の顔面、味方の背中に降ってくる。沓掛では大楠が倒れたほどの雨。
● 空が晴れるのを見て、信長は鑓をとって大声で、それかかれ、と指示。黒煙立ててかかるをの見て、〔敵衆は〕水をまくるが如く後ろへ崩れた。兵器も放り出し算を乱し、今川義元の輿も捨てて逃げた。
● 〔義元の〕旗本はこれだ、これへ掛かれ、との指示。未の刻〔午後2時20分ごろ〕、東に向かって掛かる。初めは300騎ばかり、義元を囲んで退いていたが、何度も戦っているうちに小人数となり、のちには50騎ばかりになる。
● 信長も馬から降り、若武者たちとともに先を争って敵を衝き伏せ突き倒す。敵味方の死者は数知れず。服部小平太が義元に掛かりあい、膝の口を切られて倒れ伏す。毛利新介が義元を討ち伏せ首を取った。

信長軍は、今川方からは丸見えの中島砦から出撃、山際の敵前まで押し寄せた時に豪雨に会います。豪雨のおかげで気づかれずに進軍できた、というわけではありません。梅雨時ですから、前線の通過などによる短時間豪雨に会ったものと思われます。たまたま織田軍は西から東へ攻めていたので、背中に雨を受け、今川軍は顔に雨を受ける形になった、というのは、今川軍と織田軍のたまたまの位置関係がもたらした一つの運でしょう。

豪雨の間も前進を続けていたのか、織田軍はこの豪雨を具体的にどう利用したのか、までは書かれていません。ただ、豪雨のおかげで、防御側の今川方は鉄砲や弓矢が使えなくなり、信長軍側は兵を損傷することなく槍戦の距離まで前進できた可能性はありそうに思われます。

本格的な戦闘開始は、雨上がり後であったと書かれています。信長方は、鉄砲の火縄を雨からちゃんと守れていたかどうかまでは記述がありません。少なくとも猛烈な勢いで矢戦を仕掛けたら、今川方が崩れはじめた、ということかもしれません。そこに槍で押し寄せたら、例の3間半の槍の長さと訓練が効果を発揮した、という可能性がありそうです。いったん崩れたら立て直せなくなり、義元自身も逃げ出すことになったが、追いつかれて討たれてしまった、という展開です。

『信長公記』 の記述からすれば、信長軍は確かに正面攻撃を仕掛けています。今川軍は、信長軍の動きが完全に見えていたのにかかわらず的確な防御策を取れず、その結果、戦線が完全崩壊してしまい、大将まで討ち取られてしまった、ということになります。

 

『甫庵信長記』 が作り出した、信長の迂回奇襲攻撃

『甫庵信長記』が記す桶狭間合戦

『信長公記』 に記された正面攻撃を、『甫庵信長記』 はどのように変えて迂回奇襲戦としたのか、以下は、信長が迂回奇襲戦を行うと決定したときまでの展開について、『甫庵信長記』 の記述の要約です。

● 合戦前夜、鷲津・丸根両砦からの知らせを聞いた信長は、人を集めて軍議を行い、翌日未明の出立、合戦を決定。
● 当日朝、信長が騎乗してまず熱田へ急ぐと、旗屋口では早くも雑兵1千余騎。熱田大明神に参詣すると、内陣に物の具の音。信長は、願書を奉納しようと、武井夕庵を呼んで長文の願書を書かせる。その後信長が先を急ぐと、白鷲が旗の前を飛んで行く。
● 善照寺の東山の狭間で集結させると、ようやく3千ばかり。
● 佐々隼人正・千秋四郎らを討ち取って義元は喜び、舞えや歌えやと酒を飲んでいた。信長は中島砦に移ろうとしたが、家老衆が大勢に小勢では不都合と止めた。
● 信長は、敵兵は皆疲れ大将も勝って休息、大軍に攻撃を仕掛けてくるとは思わず油断、そこに不意をつけば勝てるはず、と論じ、家臣は皆、それももっともだと同意。
● 信長は、敵勢の後ろの山に回ろう、山際までは旗を巻いて忍び寄り、義元の本陣にかかれ、と指示。簗田出羽守が進み出て、仰せごもっとも、敵は今朝の砦攻めで、その陣立てを変えられない、敵の後陣を攻めれば大将を討てるかもしれない、急ぎましょう、と申し上げると、家臣皆、そうであろうと同意。

『信長公記』と『甫庵信長記』の相違点

上記の『甫庵信長記』の記述の範囲で、細かな違いは省き、『信長公記』との大きな相違点だけを以下に整理します。

前夜の軍議の有無

まず、合戦前夜について、『信長公記』 は軍議なし、『甫庵信長記』 は軍議あり、です。家臣として実際の信長を良く知っている太田牛一と違い、小瀬甫庵は、こんな重要な合戦前に軍議を行わなかったことが信じられなかったのでしょうか。

なお『信長公記』 でも「天理本」と呼ばれているものについてだけは、『甫庵信長記』 と同様、軍議を行った、との記述があります。しかし、天理本についてのみ 『甫庵信長記』 と類似の内容があること、天理本独自の記述中に、尾張の地理に詳しくないことが原因とみられる、尾張出身の太田牛一・小瀬甫庵なら考えにくい内容の誤りがあること、が指摘されています(『愛知県史資料編14 解説』)。「天理本のほうが信長の真姿としては祖型に近いのではないか」という説(桐野作人 『織田信長』)もあるようですが、むしろ逆で、天理本は 『甫庵信長記』 刊行後にその影響を受けて、太田牛一でも小瀬甫庵でもない尾張の地理に詳しくない人物の関与によって成立した、とみる方が妥当のように思われます。

熱田神宮参詣の有無

『信長公記』 には、信長は熱田神宮に立ち寄った、とは書かれていません。また、上述の通り、時間的に見て、熱田神宮を通り越した南側の源太夫殿宮で「辰の刻」とあるので、熱田神宮には実際に立ち寄らなかったか、馬の休息のために立ち寄ったとしてもせいぜい30分以下であった、と推定できます。また、『信長公記』 には、源太夫殿宮までに信長に追いついた雑兵は、「200ばかり」と書かれています。

ところが、『甫庵信長記』 は、信長に千人の兵を引き連れて熱田神宮参詣までさせています。徒歩で来る兵・千人の参集待ちには少なくとも1時間~1時間半ほど必要になり、さらに参詣に10分程度はかかるでしょうから、『信長公記』と比べ、合計して少なくとも1時間半~2時間近く、熱田で余分に時間を使うことになり、信長が現地を観察して作戦を練る時間が少なくなってしまいます。

神頼みは、一般人の読者には分かりやすい行動でも、現に今から合戦を行おうとしていて少しでも有利な戦闘条件を確保したい司令官にとっては、現実的ではありませんし、その分現地集合が遅くなることは、合戦には不利な条件になるでしょう。

なお、『甫庵信長記』では、願書は武井夕庵にしたためさせたことになっています。武井夕庵は、信長の祐筆の中で最も知られている人物ですが、道三以来美濃の斎藤氏に仕え、永禄10年9月の稲葉山落城まで龍興に仕えていて、その後信長に仕官するようになったようです(横山住雄 『織田信長の尾張時代』)。桶狭間合戦時にはまだ美濃の斎藤氏に仕えていたわけであり、ここにも甫庵の創作ぶりが表れている(信憑性を高めようと人名をはめ込んだ結果、かえって創作であることがばれる)ようです。

善照寺の東山の狭間の有無

『信長公記』 では、信長は善照寺砦に将兵を集結させていますが、甫庵は、信長は善照寺の東山の狭間で兵を集結させた(「善照寺の東山の狭間にて勢を揃えける」)としています。

迂回奇襲作戦が成り立たつように、兵を隠しておきたかったのでしょう。しかし、後で地図を見ていただきますが、善照寺砦の東に山はなく狭間と言える場所もありません。実際には、善照寺砦もその東方の扇川流域も今川方から丸見えで、善照寺砦からかなり東に進まないと動静の隠蔽は不可能でしたし、次ページで確認しますが、『三河物語』は現に今川方は見ていたことを記しています。現地を知らない読者には通じるでしょうが、地図でチェックすると嘘がバレます。

家老の反対を押し切るか、家老が反対したら意見を変えるか

『信長公記』 の信長は、善照寺砦から中島砦に移る際も、中島砦から出撃する際も、家老衆の反対を押し切っていますが、『甫庵信長記』 の信長は、中島砦に移ろうとして家老衆の反対にあい取りやめます。『信長公記』 の信長は、疲労している敵を崩せと言っているだけで、義元自身を討てるかもしれないなどと全く考えていませんが、『甫庵信長記』 の信長は、義元を討つことを目的に迂回急襲作戦を立て、家臣の同意を得ています。

甫庵の描く信長は、家老の反対に合えば意見を変え、家臣の同意を得ようとする、物分かりの良い性格になっています。家臣に諮らずに何でも自分で決めてしまう 『信長公記』 の信長像や、「彼〔信長〕はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず」という伴天連のフロイスによる人物観察(川崎桃太 『フロイスの見た戦国日本』)とは正反対です。実際に信長を知っていた太田牛一やフロイスと、直接の面識はない小瀬甫庵の、どちらが信用できるかは言わずもがなでしょう。

まとめると

『信長公記』 は、独断専行の信長が今川軍に正面攻撃をかけ、運にも助けられて望外の勝利を得たという記述ですが、『甫庵信長記』 は、とにかく多勢に無勢の著しい不利の中で、軍議も熱田祈願も行い、家老の反対を聞いて考え直し迂回急襲作戦を思いつくことで、信長軍が義元自身の首を狙って取った、という、運頼み以外の勝因について読者が納得してくれそうなストーリーに変えられている、と言えるように思います。また、そのさい、いろいろ具体的な人名を挙げて登場人物を増やすことで、実話らしく見せようとしています。

『甫庵信長記』 の桶狭間合戦は、稲生の戦いと同様、状況をよりドラマティックにするように 『信長公記』 の記述を変更し、結果として、どう見ても現実的とは思えない内容に書き換えられている、と言わざるをえないように思われます。

 

桶狭間合戦で信長軍が戦った相手は、今川軍のごく一部だけだった

陸軍参謀本部の推定-今川軍のうち義元本軍5千だけが信長軍と戦闘

参謀本部 『日本戦史・桶狭間役』 は、今川軍2万5千人が全員桶狭間にいたとは考えていません。この2万5千人の配置状況について、同書は、下記のように見ています。

番号 担当 兵力
岡崎守備兵 庵原元景等 兵数未詳 (1000余人)
緒川・刈谷監視兵 堀越義久等 同上 (4000余人)
丸根攻撃兵 松平元康 約2500人
鷲津攻撃兵 朝比奈泰能等 約2000余人
援隊 三浦備後守等 約3000余人
清須方面前進兵 葛山信貞等 約5000余人
本軍 今川義元 約5000余人
鳴海城守兵 岡部元信 兵数未詳 (700~800人)
沓掛城守兵 浅井政敏等 兵数未詳 (1500余人)

カッコ内の数字も含めて人数を合計すると、確かに2万5千程になります。どういう史料に基づいた見方であるのか、根拠は示されていません。とくに、清須方面前進部隊が本当に存在したのかどうか。むしろ、丹下・善照寺・中島3砦の攻撃予定兵という項目が必要ではないか、という気もします。

しかしながら、2万5千の大兵力の全員を1か所に集めていたはずはなく、それぞれの役割を定めて分散配置していたはず、というのは、プロの軍人である参謀本部らしい見方と思われます。今川軍としては、岡崎城守兵や緒川・刈谷監視兵、沓掛城守兵などを配置せざるを得ず、彼らは桶狭間方面まで来ていないので、2万5千の兵力のうち、現に桶狭間方面に展開していたのは1万8千5百程度、そのうち義元の本軍は5千程度という見方は、人数想定がどこまで正しいかは分かりませんが、ある程度納得できる見方です。

すなわち、プロ軍人の部隊配置の常識からすれば、桶狭間での義元対信長の戦いの実態は、<4万5千>対<3千>で15倍もの圧倒的な兵力差があったわけではなく、桶狭間方面にいた兵力実数では<1万8千5百>対<3千>で6倍の差、さらに実際には、<義元本軍5千>対<中島砦に信長が率いて行った2千>の戦闘であったので、兵力差は2.5倍に縮小する、と言えるようです。

義元本隊の人数についての小和田説

義元の本隊は5000という見方は、小和田哲夫 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付く も支持しています。以下は、同書からの要約です。

● この日義元本隊は、夕方、大高城に入る予定でいた。義元護衛部隊といった性格だったと考えられることから、せいぜい5000ぐらいだったのではないか。
● 今川軍主力は、岡部元綱らが率い、鳴海城の前線にまで進んでいたのではないだろうか。
● すでに松平元康ら大高城に入っている兵もあり、今川軍2万5000のうち約2万は、前方に進んでいたと思われる。

今川軍は、この日の早朝に、鷲津・丸根両砦を攻略し。大高城を救出していました。次の作戦は、当然ながら丹下・善照寺・中島3砦の攻略と鳴海城の救出です。義元本隊=護衛部隊だけが後方にいて、その他部隊は翌日の作戦実施のため、すでに前方に展開中であった、という考え方は大いに納得できます。実際、『信長公記』 も、義元は「午刻、戌亥(北西)に向かって人数を備え」と言っています。

参謀本部が作成した、合戦当日午後1時ごろの両軍の配置図

参謀本部が作成した、合戦開始寸前の同日午後1時ごろの両軍各部隊の配置図も見ておきたいと思います。下の地図が、その陸軍作成の配置図(上掲書附図第3号「桶狭間戦図」)の主要部分です。地図に書き込まれている各部隊配置の文字は、そのままでは読みにくいので、大きく表示しました。

桶狭間合戦 旧参謀本部 『日本戦史桶狭間役』 による 当日午後1時前後の両軍の推定位置 地図

今は創作と分かっている木下藤吉郎の墨俣築城について、高名な歴史家が永禄9年の史実としたのは、参謀本部の 『桶狭間役』 より8年も後の1907 (明治40) 年だった (「第3室 3-14 森部・十四条合戦」) 、という事実もあり、軍人であって歴史家ではない参謀本部が、『甫庵信長記』 やその後の軍記物が小説ではなく史料だと信じていて、迂回奇襲説に立っていたのは、当時としてやむをえないように思われます。

参謀本部は、午後1時ごろには、信長軍は扇川沿いに東に進んだところにいて、今から丘陵地帯を越えて今川本軍に向かって進もうとしていた、と見ています。また、義元本軍は、豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」付近にいたと見ています。ただし、この参謀本部説でも、今川方の朝比奈隊は鷲津・丸根両砦の山の北側の斜面にいますので、善照寺砦・中島砦の動きは全て見えていたはずです。

この地図から見ても、桶狭間合戦は、今川側が全軍を挙げて織田軍と戦った合戦ではなく、義元本軍と中島砦を出た信長軍との間の合戦であった、と言えるように思われます。

 

桶狭間合戦の地図

参謀本部の見方や研究者の説を総合した桶狭間合戦の地図

上記の陸軍参謀本部による推定情報も、現在の主要な研究者の説も、すべて反映した「桶狭間合戦の地図」を、下に掲げます。前掲の地図と同様、国土地理院のデジタル標高地図に、関係各地点の位置を書き込みました。色のついていない参謀本部の地図よりも、はるかに分かりやすいと思います。各城や砦などの脇の数字は、その地点の標高(国土地理院の1万分の1地形図から読み取った標高であり、読み違いがあるかもしれません)です。

桶狭間合戦 参謀本部の見方や研究者の説を総合した地図

桶狭間合戦のあった地域が、上の地図中の右下方向、中島砦からA点=桶狭間古戦場伝説やB点=桶狭間古戦場公園にかけての一帯であったことは間違いないものと思われます。中島砦からA点・B点とも、直線ではおよそ3キロの距離でした。ただし、この地域は、最高標高は60mに満たないものの、なかなかに起伏の入り組んだ地域であったことが、この地図から分かります。

また、この地図を見ていただけば、今川方は、鷲津・丸根砦を落とした時点で、ただちに両砦のある丘陵の北側〔標高35~40m、上の地図のR点で、参謀本部もこの場所に、その日の早朝に鷲津砦を陥落させた朝比奈泰能隊がいたと推定〕まで占拠し、善照寺砦(および中島砦)を監視下に入れることができた、という藤本正行 『信長の戦争』 の指摘の正しさは明白です。実際に現地に行ってみると、今は木々や住宅で視界が遮られていますが、善照寺砦と鷲津砦の間は、お互いに丸見えであったであろうことがよく分かります。信長軍は、こっそり隠れて迂回して奇襲する、という作戦の取りようがなかったと言えます。

義元本軍の位置

義元の本陣はどこにあったのか、義元本軍がどこにいたのか、参謀本部は迂回急襲説だったこともあり、桶狭間古戦場伝説地とされる豊明市の地点(上の地図のA点)と見ていました。しかし藤本説が、旧説では義元は、桶狭間という地名から、谷底にいたように考えられており、それが義元の油断であったとされているが、『信長公記』 には桶狭間山とある、と指摘したことから、今はこの地域中で比較的高地である地点のどこかと考えられています。

小和田哲夫 『東海の戦国史』 は、「おけはざま山」はどこであったかについて、主要な研究者の見解を、下記の4か所の推定地に整理しています。

1. 高根山(名古屋市緑区有松町大字桶狭間)- 提唱者 藤本正行・水野誠志朗
2. 漆山(名古屋市緑区漆山)- 提唱者 藤井尚夫・高田徹
3. (名古屋市緑区桶狭間北3丁目)- 提唱者 梶野渡
4. (豊明市南館125)- 提唱者 小島広次・小和田哲夫

この4か所の位置は、上の「桶狭間合戦の地図」中にその番号を書きこんだ地点です。

実際はどこであったのか、本歴史館が、4候補のどれかに投票するなら、1の高根山説に投票したいと思います。『信長公記』 の表現から信長軍が割合簡単にその地点まで進んでいるという印象であり、中島砦からあまり遠くない1か2と思われること、一方、もしも2の漆山であったなら、隣山のR点にいた今川軍から戦闘状況も丸見えで、いくらなんでも、崩れかけたらすぐに応援に駆けつけているはずであり、R点からは戦闘状況が見えなかった1の高根山だからこそ、R点の部隊が応援に来なかった可能性があること、がその理由ですが、いかがでしょうか。ただし、2の漆山にいたが、『三河物語』 の記述からすると、今川軍は部隊間の連携動作が最悪で、R点部隊からは見えていたのに応援に来なかった、という可能性もありうるように思います。

ただ、1か2であったとして、それは義元が逃げ出す前の場所です。義元が最後に討たれた場所は、3や4あるいはA点やB点であっても、何ら不思議はありません。小和田哲夫 『東海の戦国史』 は、「おけはざま山」から逃げ出す方向として、出発点の沓掛城をめざすものと、向かう先の大高城をめざすものの二つに分かれた可能性があり、沓掛方面に逃げたものはA点で、大高方面に逃げたものはB点で討たれた、つまりA点もB点も古戦場だった、と指摘しています。説得力ありと思われます。合戦は、結果的に1~4およびA・B両地点の多くを含む広い地域で戦われた、とみてよいのではないでしょうか。

 

 

かくして、信長軍の義元本軍に対する正面攻撃により、信長軍は運よく義元を討ち取ることが出来ました。次は、今川義元の敗因についてです。