3-8 岩倉落城・守護追放・信勝殺害

 

前ページでは、信長の良き支援者であった舅・斎藤道三の死の直後の4か月間に起こった、信長の四面楚歌状況と、稲生合戦での勝利によるその打開について、確認しました。

稲生合戦により危機的状況を脱した織田信長にとって、その翌年は比較的平穏でしたが、翌々年は再び大激動の年となります。岩倉勢には浮野合戦を経て岩倉を落城させ、守護も追放し、弟・信勝も殺害して、尾張の第一人者となります。稲生合戦後の2年間の動きを確認します。

 

 

稲生合戦の翌年は、嵐の前の静けさ

1557(弘治3)年4月上旬、尾張・三河両守護の会見

1556(弘治2)年8月の稲生合戦での勝利により、信長は反信長包囲網に取り巻かれていた形勢を逆転させ、旧弾正忠家の第一人者の地位を確立しました。その翌年・1557(弘治3)年は、それまでと比べると、比較的平穏な年になったようです。

三河方面では、今川との和睦も行われました。『信長公記』(首巻32)は、尾張・三河両守護の会見の場に、信長が尾張守護・斯波義銀に随行して参加したことを記しています。以下は、『信長公記』 からの要約です。

● 4月上旬、三河国吉良殿〔守護・吉良義昭〕と武衛様〔斯波義銀〕、御無事御参会〔和睦会見〕の扱い、駿河〔今川義元〕より吉良殿を取り持ち、相調って、武衛様にお伴して信長が出陣。
● 三州の上野原〔豊田市〕に、互いに人数を立ち備え、その間は1町5段(160メートル)以下。一方に武衛様、一方には吉良様、床几に腰を掛け、席次争い〔の儀式〕。〔それが終わって〕床几に座りなおして、両者が引き揚げた。
● 〔信長は〕武衛様を国主とあがめ、清須の城を渡し、自身は北櫓に退いた。

すでに、「第3室 3-4 村木砦の戦いと西尾(八ッ面)出陣」のページで確認しました通り、1556(弘治2)年3月に吉良義昭は今川に反旗を翻し、信長もその支援のために西尾(八ッ面)まで出陣しました。しかし信長は舅・道三の死で三河から退かざるをえず、結局吉良義昭は今川に降参しました。

この記事にも年号がありません。横山住雄 『織田信長の尾張時代』 は、この会見を「永禄4年と思われる」としていますが、その根拠を明らかにしていません。永禄4年では桶狭間後となり、駿河の取り持ちは困難でしょう。

一方、『新編安城市史 1』(村岡幹生氏 執筆部分)は、下記のように見ています。同書からの要約です。

● 原文に「無事」とあるのは、当時、和平とか和睦の意味で用いられたことば。
● 吉良義昭が今川方として立っていることからすれば、この会見が行われたのは、弘治3年(1557)以降、弘治4年2月(賀茂郡の戦闘)以前、したがって弘治3年4月上旬。実際、弘治3年には三河における反今川の動きは沈静化している。
● 事実上三河において不利な情勢となった信長が、守護斯波義銀を担ぎ出すことによって、実際の不利な立場を埋め合わせる厚遇を受けて、義元との対等和睦締結という形を演出。中途半端な形の会見ではあったが、一応織田の面子は保たれた。

本歴史館も、村岡説に従って、1557(弘治3)年のこととしておきます。

村岡・上掲論文中ではさらに、「信長にとってこの儀式は、多分に尾張国内向けの意味」を持ち、国境紛争を信長が尾張守護に同伴して整えたことが重要であり、「信長にとって自身を明確に尾張守護代として内(弾正忠家一族・一派)外(岩倉守護代)に示したことに最大の意義があったと考えられる」と指摘しています。

稲生合戦後も、弟・信勝は、反信長で斎藤義龍と連絡

稲生合戦で、信長に敗れて降参した信勝ですが、表面上はともかくも、裏側では美濃の斎藤義龍と連絡を取り合っていたようです。 この時期の、義龍から信勝あての書状が残っていることについて、以下は、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

● 義龍が道三と義絶した弘治元年〔1555〕11月以降、同3年〔1557〕11月までの2ヵ年は、義龍・信勝の同盟関係があったとみてよい。
● その頃、義龍から信勝に宛てた書状(「徳川黎明会所蔵文書」)。 4月19日付で義龍は高政の名であることから、弘治3年4月19日。書状には要件を書かず、使者に申し含める。
● この書状が尾張徳川家に伝来したということは、多分、信長にこれが奪われたか何かで、信勝の手元に渡らなかった。

たとえこの書状は信長に奪われていたとしても、この書状以外で、義龍と信勝は連絡を取り合っていたのでしょう。ただし、信勝は、この年弘治3年については、大人しくしていたようです。

腹違いの兄・信広の謀反未遂

いつの事かは明らかではありませんが、腹違いの兄・信広も、信長に反旗を翻そうとしたようです。以下は、『信長公記』(首巻19)からの要約です。

● 上総介別腹のご舎兄三郎五郎〔信広〕は、既に謀反を思い立ち、美濃国〔斉藤義龍〕と仰合。
● いつも敵が出現すれば信長は軽々と駆け向かう。そういう時に信広が出陣すれば清須の町を通り、必ず城の留守役の佐脇藤右衛門が挨拶する。〔そこで〕佐脇を殺害し、城を乗っ取り、合図の煙を上げる。すると美濃衆は木曽川を渡って駆け向かうので、信広も兵を出し味方のふりをして合戦し、後ろから討てばよいと。
● 美濃衆が渡し場に人数を詰めているとの注進があり、信長は家中に謀反ありと想定し、帰陣まで城門を閉めて人を入れるなと言って駆けだした。
● 信長の出陣を聞いて、信広は清須に出陣したが、信広殿でも入れられないと言われ、謀反がばれたかと疑い急いで帰った。美濃衆も引取り、信長も帰陣した。

織田信広と言えば、信秀の時代に安祥城の城主で今川方に捕えられて、松平竹千代との人質交換で尾張に戻ってきた人物です。この事件がいつのことであったかについて、横山住雄 『織田信長の尾張時代』は、「稲生合戦の時であろう」と見ています。一方、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」は、本件は「信広の孤立した動きであることからすると、稲生の戦い後の事件であろう」と見ています。

稲生合戦時なら、美濃勢抜きで、信広は信勝派との共同で信長を倒せたように思われます。美濃勢と談合する必要があったのは、村岡説のとおり、「稲生の戦い後」の方が可能性が高そうに思われるのですが、いかがでしょうか。

なお、信広と義龍との間の書状も残っているようです。再び、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』からの要約です。

● 信広が義龍と連絡を取り合っているのを示す書状〔義龍から信広あて〕(岩瀬文庫)、信広の方から義龍に贈り物をして連絡を取り、今後仲良くしてほしいと申し出たことがわかる。
● 信広は、安祥城での敗戦で捕らえられたことからわかるように、戦略家でもなく凡将と見られるので、義龍に利用されただけであろう。

なお、「その後、信広は信長から離反することなく経過し、天正2年(1574)に長島で戦死した」(横山住雄・上掲書)とのことです。

斎藤義龍は、なぜ尾張の反信長勢力との連携に熱心であったのか

斎藤義龍は、なぜ隣国尾張の反信長勢力との連携に熱心であったのか、その理由がよく分かりません。義龍が尾張に進出して所領を得たかったなら、むしろ美濃と接している岩倉方の上4郡を取るべく、信長と手を組む方が現実的です。 所領拡大よりも、とにかく信長が嫌いだった、という可能性の方が高そうです。

信長が義龍にとって脅威であったかと言えば、この時期の信長は、たとえ義龍が介入していなかったとしても、尾張国内の反信長勢対策で忙しく、道三討死時の合戦以外で美濃に出兵する体制にはなっていなかったと思われます。それなら義龍も実害がないので、尾張に積極的に介入する必要性は乏しかったと思われますが、実際には介入しました。

横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 は、「義龍は道三と義絶して以来、信長と宿敵の仲となった」と書いています。勝手な想像ですが、義龍は父道三から信長の優秀さをさんざん聞かされていて、信長に過度の警戒心を持っていたのか。あるいは、道三に対する仕打ちから兄・義龍と妹・濃姫の間に感情対立があり、濃姫対策として反信長勢力を支援した、ということだったのか。

 

1558(永禄元)年は大激動の年、まず今川勢の活動再開と信勝の竜泉寺築城

2~3月、尾張・三河国境地帯が再び不穏に

年が明けて1558(弘治4/永禄元)年(この年の2月28日、永禄に改元)、まず尾張・三河国境地帯での平穏が破られます。以下は、『新編安城市史1』(村岡幹生執筆部分)からの要約です。

● 弘治4年(1558)2月、賀茂郡寺部城(豊田市)に鱸(鈴木)日向守が蜂起、広瀬の三宅氏も与す。今川方が鎮圧、4月末に収まる(今川義元判物等)。
● 永禄元年3月に今川方は尾張国内に攻勢、科野城(しなの、瀬戸市品野町)と笠寺(名古屋市南区)を確保、それぞれ300、400の今川兵を入れた(『松平記』)。
● 4月1日付で今川義元感状。尾州科野合戦で〔今川方が〕夜討ち、敵〔織田方〕の首50余討取った。

三河の賀茂郡の騒乱はともかく、品野と笠寺への進出は、信長への小さからぬ圧力となったと思われます。前年の尾張・三河両守護の会見による和睦は早くも崩れていたことになります。

1558(永禄元)年3月、信勝は龍泉寺に築城を開始

一方、信勝は翌永禄元年3月、龍泉寺に築城を開始します。まずは、『信長公記』(首巻25)の要約です。

勘十郎(信勝)殿、龍泉寺を城にこしらえた。岩倉の織田伊勢守と共謀、信長の所領篠木三郷を奪おうと謀った。

年号が何も入っていない記事ですが、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 は、次のように指摘しています。同書からの要約です。

「定光寺年代記」に「永禄元年3月18日、龍泉寺、織田弾正忠、城の鍬始在之」とある。信勝は、ついに父が名乗った弾正忠を自称するようになったことがわかる。

龍泉寺に城を築き、岩倉と連携すれば、篠木三郷と清須の間は簡単に遮断できます。加えて、弾正忠を自称すれば、信長への謀反の意図は明白です。信勝・岩倉伊勢守・美濃義龍の3者による反信長連合を再構築することで、今度こそ信長を倒せる、と期待したのでしょう。

一方、村岡幹生・上掲論文は、「このころ品野(瀬戸市)方面に展開した今川軍勢への備えとして、信長承知の上での築城であった可能性も考慮される」としています。確かに、築城には、信長が認める何らかの名目が必要だったでしょう。

なお、現在の龍泉寺の境内中に、小さな龍泉寺城が建っていますが、これは1959(昭和34)年に建てられた同寺の宝物館です。信勝の龍泉寺城の正確な位置等は不詳のようです。

1558(永禄元)年春、反信長勢力の地図

永禄元年春の状況を航空写真で確認しておきます。信長方の城を薄青色で、尾張の反信長方(信勝・岩倉)を薄緑で、今川方を赤色で、その他の係争地を黄色で示してあります。

1558(永禄元)年春 反信長勢力の状況 地図

1556(弘治2)年の稲生の戦いの結果、旧弾正忠家中の信長体制は確立したものの、反信長勢力として岩倉の織田伊勢守がおり、1558(永禄元)年になると今川が尾張に再進出して来た、という状況でした。今川方との尾張科野合戦があった品野城は、守山城から19キロほども離れており、大きな脅威ではなかったかもしれません。一方、笠寺(戸部城の位置で示してあります)は、那古野城から10キロ弱で、より大きな脅威であったかと思われます。

信長としては、書状は出しても出兵はない美濃の斉藤義龍よりも、現に品野や笠寺まで兵を送り込んでいる駿河の今川義元を恐れる気持ちの方が強かったのではないでしょうか?もしも守護の斯波氏や信勝や岩倉が今川と内通すると、尾張国内が内部から崩壊する恐れがありました。(末盛・岩倉が今川派に転じた場合の怖さが、この地図から分かります。)

信勝が築城を始めた龍泉寺城ですが、守山城と比べ、品野城対策にとくに有利な立地とはいえなさそうであり、むしろ、岩倉方との連携や、篠木三郷の略奪にはるかに優位な場所であった、といえそうです。

 

同年の夏~秋、浮野合戦を経て岩倉の落城

浮野合戦前の岩倉方の状況

岩倉織田氏の状況について、以下は小和田哲夫 『東海の戦国史』からの要約です。

この頃信勝と内密に手を結んでいた岩倉織田氏当主織田信安が、突然美濃へ出奔してしまった。一説には、家督争いで信安の子信賢が重臣と組んで、信安を追放したという。家督は信賢が継いだが、家臣団は分裂し、かつての力はなかった。信長の次の攻撃目標となったのは、岩倉城の信賢であった。

7月、浮野合戦で岩倉方を撃破

再構築されかけた反信長連合ですが、しかしながら、今度も統一行動が出来ず、信長に個別撃破されていきます。信長は、まず岩倉勢に対し、浮野合戦で大損害を与えます。再び、『信長公記』(首巻34)の記事の要約です。

● 7月12日、清須から岩倉へは30町〔約3キロ、実際には約7キロ〕たらず、この表節所(ふしどころ)たるによって〔表側は防備が厳重なので〕、3里〔約12キロ、実際は5キロ弱〕上岩倉の後ろへ回り、足場の良い方向から浮野という所に兵を出し、足軽戦を仕掛けたら、〔岩倉方は〕3千ばかり出て来た。
● 午刻〔正午ごろ〕、辰巳〔東南〕へ向かって切りかかり、数時間戦って追い崩した。
● その日、清須へ帰陣し、翌日首実検。侍の首数は1250余りあった。

年号の記述がありませんが、角川文庫版の注記は永禄元年(1558)としています。

この記事中の30町・3里は、実際とは大違いなのに3の数字の響きが良いので、3に合わせてしまったのでしょうか。そうなると、岩倉方3千も信用できるのか、となりますが、首数が本当に1250余りなら、やはり3千人は必要です。負傷者数も合わせれば、もっと損失が膨らむので、岩倉側には大打撃です。

信長軍の兵数は書かれていませんが、おそらく同様程度の人数がいたのでしょう。稲生合戦のときは、信長方700+信勝方1700、合計で2400でした。稲生合戦での勝利で、元は信勝側だった人数も動員できるようになり、信長方も2500~3000人程いたのであろうと思われます。

岩倉側が一方的に負けたのは、信長方と比べ、鉄砲の装備状況、兵の訓練度、実戦経験の乏しさ、などが理由だったのではないかと推測されます。

浮野合戦の航空写真

1558(永禄元)年7月 浮野合戦 地図

色が黒い地域は水田地帯、白い地域は微高地で主に住居地や畑作地と思われます。清須(岩倉の南西方向)から岩倉に直進すると、五条川の自然堤防の上を除いては、足場の悪い水田地帯を通ることになります。また、岩倉城は城のすぐ東側を流れる五条川の自然堤防上にありましたが、城の西側は水田地帯が広がっています。そこで岩倉の北西の浮野方向から回り込もうとした、と理解できます。一方、浮野から岩倉へは、ほぼ真っすぐに足場の良い土地が続いていることがよく分かります。

足場の良くない土地で直接城攻めをするのではなく、まずは足場の良い土地に出撃させて野戦で損害を与える、というのは、岩倉方攻略という目的に対しては適切な作戦であったと言えるように思われます。

もう一つ、この航空写真から気づくことは、浮野合戦の前年頃に信長の側室となった生駒氏の女がいた生駒屋敷が、浮野の近くであったことです。信長は、生駒屋敷に通ったためにこの方面の土地勘が出来、それで浮野を合戦の地に選んだのかもしれません。

浮野には「浮野古戦場浮剕首塚(うぐいすづか)」があり、かなり詳細な浮野合戦説明板が立っています。しかし、この説明板は、信長の2千騎+犬山の織田信清の千騎が岩倉勢と戦い、岩倉側を岩倉城に追い込んで信長勢・犬山勢とも引き揚げかけたところ、岩倉側が少数の犬山勢に再攻勢を仕掛けたので、信長勢も取って返して岩倉勢と戦い、岩倉勢9百余りを討取った、との説明となっています。これでは、史料である 『信長公記』 に拠らず、歴史小説である 『甫庵信長記』 どおりの説明となってしまっています。『岩倉市史』 での浮野合戦に関する記述も、『甫庵信長記』 での脚色をさらに膨らませた 『総見記』 を引いています。『信長公記』 に拠って書き換えられるのが妥当と思われます。

1558(永禄元)年9~10月頃、岩倉の落城

『信長公記』では、浮野合戦の記事のすぐ後には、岩倉落城の記事(首巻35)が続いています。以下はその内容です。

或時岩倉を押し詰め、町を放火し、裸城にし、四方に鹿垣(ししがき)を二重・三重頑丈に取り付け、巡回番を置き、2、3ヵ月近く布陣して、火矢・鉄砲を撃ち、様々に攻めたてた。岩倉方は城を明け渡し散り散りに退去した。岩倉の城は破却させられた。

稲生の戦いで敗れた信勝・末盛城と林佐渡守・那古野城は籠城しましたが、浮野合戦で大敗した岩倉方もやはり籠城したようです。信長は、味方の死傷者が相対的に増える力攻めは行わず、完全封鎖と火矢・鉄砲の飛び道具による嫌がらせに徹したようです。

稲生の戦いで敗者となった信勝・林佐渡守は、信長の母が入って赦免されましたが、岩倉方は仲介者がおらず降伏して開城せざるを得なくなった、ということでしょう。『信長公記』 の記事には岩倉落城の年月が全く入っていませんが、角川文庫版の注記は、江戸期の史料から永禄2年(1559)3月としていて、これが通説となってきたようです。

しかし、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 は、岩倉落城を、浮野合戦から2~3ヵ月後の、永禄元年9~10月頃と見ています。根拠は、(1) 永禄元年9月半ば付の信長の発給文書に、本来は岩倉方の所領内であった相手あてのものが2通あること、(2) 翌永禄2年2月には信長が上洛しており、それ以前の岩倉落城が確実であること。小和田哲夫 『東海の戦国史』 も、この横山説の方が「可能性が高いように思われる」と、支持しています。本ウェブサイトも横山説に従い、岩倉落城は1558(永禄元)年9~10月頃、と見ることに致します。

岩倉城の地図

岩倉城の位置を、現在の航空写真上で確認したいと思います。下は、Googleの航空写真に、愛知県教育委員会 『愛知県中世館城跡調査報告 I(尾張地区)』 に記載されている岩倉城址の情報を書き込んでみたものです。

岩倉城 地図

岩倉城は、五条川中流域の自然堤防上に立地していました。名鉄犬山線岩倉駅からは東南方向、今、岩倉城跡碑が立っている位置は、まさしく旧岩倉城の城中であったようで、城跡地域は「城址」という地名となっています。その南の「丸之内」「居屋敷」という地名の地域は上級家臣の屋敷地、一方五条川対岸の「真光寺」「天神塚」という地名の地域は中・下級家臣団の屋敷地であった、と推定されています。

 

浮野合戦の頃 守護・斯波義銀の追放、岩倉落城後には弟・信勝の殺害

浮野合戦の頃、信長は守護・斯波義銀も追放

『信長公記』 には、年月がかかれていませんが、この浮野合戦の記事の直前に、斯波義銀の追放についての以下の記事(首巻33)があります。

尾張国端海手へ付いて石橋殿御座所あり。河内の服部左京助、駿河衆を海上より引き入れ、吉良・石橋・武衛〔=守護〕仰せ語られはれ、御謀反半の刻、家臣の内より漏れ聞こえ、即ち御両三人御国追出し申され候なり。

河内の服部左京助が駿河と組んだ、それで吉良・石橋・斯波3氏が談合し謀反を図った、ということのようですが、これだけでは良く分からない文章なので、以下は、同じ事件に関する「清須合戦記」からの要約です。

● 〔尾張守護・斯波義銀は〕永禄4年、三州の吉良屋形義安と会盟の儀を行ったが、今川は吉良が尾張に属したことを憤り、吉良を攻めたので、義安は出奔し清須に来て客食した。
● 同年、当国〔海東郡〕戸田庄の高家、石橋左馬頭義忠、〔海西郡〕河内城服部左京亮に与して、武衛・吉良に内通し、信長に反逆した。
● このことが露見して、信長は立腹、首をはねたいところだが、主筋または高家であるので、命ばかりは助けるとして、武衛・吉良・石橋3人を追放した。

河内の服部左京助は、『信長公記』 の別の記事で「二の江の坊主〔弥富の一向宗門徒〕」と呼ばれており、また永禄3年の桶狭間合戦時には今川軍を支援して舟1千艘を大高に出したように、親今川・反織田です。この服部氏について、以下は 『弥富町誌』 からの要約です。

● 〔服部氏は、尾張の〕守護が斯波氏に代わったころには海西郡一帯を支配する豪族になっていた。斯波氏もこれを認め、〔服部氏は〕臣従の礼をとっていた。
● 服部党は平和主義者であり、勝幡の織田信秀が津島を従属させた後も、津島神社祭礼には市江車を奉仕してきた。
● 信長の守護の斯波氏にとって代わろうとする動きに、服部党は信長を逆臣と呼び、その圧力に備えた。
● 服部党では、河内は守護の斯波氏に認められた領分であり、勝幡の織田に支配されることは心外だっただろう。

服部党からすれば、海西郡の独自性は守護からも認められてきたのに、それを否定しようとする信長側に非がある、ということでしょう。一方、信長の立場からすれば、服部党が海西郡の支配者であることと、駿河・今川氏と組むことは別の話であり、今川氏と組むのは信長に敵対することである、それに守護・斯波氏らが与することはさらに許容しがたい、ということだったのかもしれません。お互い納得しなければ、力と力のぶつかり合いにならざるを得ませんが、服部左京助はとにかく信長の支配下外なので処分できず、信長の保護下にあった斯波・吉良・石橋3氏を追放した、ということであったかと推測されます。なお、「高家」とは、足利家の血筋という意味のようです。

上に引いた「清須合戦記」という軍記については、『甫庵信長記』 とは異なり一応史料扱いされているものの、「杜撰な記述が目立つ」、この3者追放を「永禄4年と明記しているのは本書のみ」だが、「本書全体としては関係史料の吟味が十分には行われていない」ので、「本書を史料として利用する際には関係史料による十分な検討が必要」(『愛知県史資料編14』解説)と評価されています。

横山住雄 『織田信長の尾張時代』 は、この3者追放を、「清須合戦記」通り永禄4年のことと見ていますが、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」は、浮野合戦のころ、信長が斯波義銀らを国外に追放した、と見ています。

実際のところ、「駿河衆を海上より引き入れ」ようとする談合は、桶狭間合戦の前でないと現実性がなさそうに思われますので、本歴史館は、村岡説に従って守護斯波氏の追放を1558(永禄元)年と見ることにいたします。

11月、弟・信勝の殺害

岩倉の片がついてすぐ、今度は信勝についての最終決着が行われました。信勝は、信長への謀反により殺害されます。再び、『信長公記』(首巻25)の記事の要約です。信勝家中の人の使い方で柴田権六が強い不満を持ち、信長に信勝謀反の企てを報告したとしています。

● 勘十郎〔信勝〕の若衆に、津々木蔵人がいた。家中で評価の良い侍は、皆津々木の部下につけられた。〔津々木は〕勝ちに乗って奢り、柴田権六〔勝家〕をないがしろにした。柴田は無念に思い、信長に〔信勝に〕また謀反の企てありと申し上げた。
● 信長は仮病を使い、一切表に出なくなった。勘十郎は兄弟だから見舞いすべしと、母と柴田権六が言い、清須に見舞いに行ったところ、清須城北櫓で弘治4年(=永禄元年)霜月(11月)2日、信長は信勝を家臣に殺害させた。
● この忠節により、後に越前を柴田に与えた。

一方、『松平記』には、次の記述があります。信勝が現に今川に内通していて、それを信長が聞きつけたとしています。

● 信長の弟織田武蔵守〔信勝〕も義元と内通し、兄の信長を倒しその跡を知行しようとした。このことを駿河へ内通のために、そのころ武蔵守が笠寺の戸部新之丞をひそかに呼び出し、7枚起請を書かせ内証申し渡した。
● 2、3日過ぎて〔信勝は〕笠寺の戸部を成敗しようと、刀を抜いて追った。戸部はかねて約束したことなので、早々に逃げ出し走り行き、武蔵守は裸足になって追いかけたが、ついに追い失った。戸部はある寺に逃げ行き、2、3日過ぎて駿河へ下り、この由を義元に申し上げた。
● はかりごとなので、人には知られないことだったが、どうしてか信長がこれを聞きつけ、弟の武蔵守を殺害した。このことが人に知られてはいけないことであったと、義元は戸部新之丞を成敗したという。

11月時点ではすでに岩倉は落城しており、信勝単独では今更謀反を起こせる環境にはなかったようにも思われます。しかし、このとき信勝は、『松平記』 が言うように、義元と実際に内通していたかどうかはわかりませんが、内通して不思議ない状況であったことは間違いないでしょう。

信勝に今川と共同して行動を起こされては間違いなく厄介なことになりますし、今川に内通していなかったとしても内通されては困るので、清須に呼び寄せて成敗した、ということではないかと推測されます。信長は、父・信秀の死後約6年半で信勝との兄弟間の争いに終止符を打ったことになります。

柴田権六は、すでに稲生の戦いで信長と戦って敗れた時点で、信長の武将としての優秀さに素直に感服したのかもしれません。その分信勝の武将としての能力に疑いを持つようになっていたのに加え、津々木蔵人問題が発生して、信勝の下で働く気をなくしてしまったのではないか、というのが本歴史館の推測なのですが、憶測のし過ぎでしょうか?

1558(永禄元)年秋、戦国大名・織田信長の誕生

1556(弘治2)年4月、良き支援者であった舅・斎藤道三が討死するやいなや、信長の置かれた状況は暗転し、弟・信勝と岩倉方、そしてその両者を支援する美濃の斎藤義龍という反信長連合に取り囲まれ、那古野城も守山城も失うという深刻な危機に陥りました。しかし、それからわずか1年半のうちに、信長は危機から脱しただけでなく、守護を追放し、反信長の岩倉も弟信勝も滅ぼし、尾張の過半を勢力下に置いて、戦国武将から戦国大名の地位に昇りました。

反対勢力が連合しているとき、実際に反対勢力が共同して行動を起こす前に、それぞれの個別撃破を行うのは、こうした状況での鉄則でしょう。信長はその鉄則通りに、この永禄元年、まずは岩倉に大損害を与え、同時に守護を追放し、続いて岩倉を壊滅させ、更には信勝も殺害しました。かくして信長は、尾張の戦国大名となって国内体制をほぼ固めた、と言えるようです。

 

 

とはいえ、信長は尾張国内の全てをまとめ切ったわけではありません。次は、翌1559(永禄2)年の上洛と、1560(永禄3)年の桶狭間合戦に至る直前の状況を確認したいと思います。