2-2 弾正忠家の津島支配

 

このページでは、織田信秀の家系である織田弾正忠家による津島支配の経緯、信秀の居城・勝幡城と津島の地理関係、当時の津島の繁栄の状況などを確認します。津島は、信秀の父・信貞が所領化、信秀・信長の時代は津島の繁栄のピーク期でした。

 

 

織田弾正忠家が津島を支配

信秀の父・信貞が津島を所領化

尾張の斯波氏・織田氏による守護-守護代-奉行体制の中で、元は3奉行の末席であった織田信秀が力を持った背景の理由の一つに、信秀の家系である織田弾正忠家が、勝幡城の近隣の商都・津島を支配して利益を得ていたことが挙げられるようです。以下は、弾正忠家と津島の関係について、小島廣次「勝幡系織田氏と津島衆」(柴裕之編 『尾張織田氏』 所収)からの要約です。

● 『宗長手記』(大永6年3月)に、「〔津島の〕領主織田霜台(信貞)息の三郎(信秀)」とあるから、大永6年(1526)にはすでに弾正忠家織田氏が津島の「領主」であったことは確か。
● 『大橋家譜』にいう大永4年夏の戦いの結果、所領化したとする伝承は、おそらく事実とみなしてよい。

大永6(1526)年の 『宗長手記』は、前ページで確認したように、織田信秀の名がはじめて登場した史料でもあります。なお、近年は、「信貞の津島経略が大永年間より早まる可能性が大きい」との指摘がなされているようです(柴裕之「総論 戦国期尾張織田氏の動向」-上掲書所収)。

弾正忠家は、津島神社の社家を支配

具体的に弾正忠家がどのように津島を支配したかについて、以下は、鳥居和之「織田信秀の尾張支配」-上掲・柴裕之編 『尾張織田氏』 所収)からの要約です。

● 津島(及び海西郡)が弾正忠家の支配に帰した理由は、海西郡が伊勢守家〔=岩倉織田氏〕の支配領域であったことによる。尾張のうち中島・海東郡を大和守家〔=清須織田氏〕が支配したため、伊勢守家の支配領域から海西郡だけが分離された状態になっていた。
● 弾正忠家の発給文書は、津島牛頭天王社の社家に多く遺されている。これは神社の方が文書の残存が良好であるためという見方もできるが、ここに弾正忠家の津島支配の特徴があるように思われる。

海西郡・津島は、もともと清須の大和守家の管轄外、岩倉の伊勢守家の管轄であり、切り取っても大和守家中の迷惑にはならないので、実力で切り取った、という推定のようです。ただ、大和守も伊勢守も、二人とも守護斯波氏の守護代です。両守護代間の争いについて、守護の斯波氏は口をさしはさまなかった、そういう権威もなかった、ということだったのでしょうか。

弾正忠家は、もともと津島神社の神宮寺の本寺・長福寺を支配

さらに、弾正忠家はもともと津島神社の神宮寺の本寺との関係があった、と指摘するのが、横山住雄 『織田信長の系譜』 です。以下は同書からの要約です。

● 津島神社は、1175年までには、多度神社や南宮(美濃一の宮)に匹敵するほどの地方的大社に成長したとみられる。
● 津島神社の3ヶ寺の神宮寺の本寺は、〔稲沢市〕平和町下三宅の牛頭山長福寺で、長福寺が津島神社神宮寺の実権を把握。伝承として、元来下三宅にあった牛頭天王の出張所として津島神社が出来、しだいに津島が繁盛、相対的に下三宅が衰微。
● 信秀の父信貞が勝幡に築城し、長福寺を支配したということは、津島牛頭天王もかなりの比重で支配し得たとみることができる。長福寺を通じて津島神社の神宮寺を間接的に支配、坊主や神主の名において津島湊の商業権を把握していったと考える。

 

三宅川が結んでいた長福寺~勝幡城~津島

当時の津島周辺の河道の地図

勝幡城と長福寺および津島の地理的関係を確認しておきたいと思います。下は、Google Mapの航空写真上に、山村亜希 「中世津島の景観とその変遷」(『愛知県立大学文学部論集』)に推定されている津島周辺の旧河道の地図(同論文 図1)を合成してみたものです。白い部分が陸地、色がない部分が河道を示しています。

津島・勝幡と旧河道 地図

一見で、当時の津島周辺の河道は、現在とは全く異なっていたこと、また、現在の土地利用の状況が、古い河道とかなり一致していることが、よく分かります。

当時の津島は、その北で三宅川と日光川が合流して天王川となり、南では天王川が佐屋川(領内川)に合流する、という水郷の地でした。天王川の東岸に津島の港町があり、対岸に津島神社がありました。長福寺から津島までは三宅川がつないでおり、その中間の長福寺寄りに勝幡城が築かれました。津島から勝幡城までは直線距離で3キロちょっと、勝幡城から長福寺までは同じく直線で1キロ半、という位置関係であったわけです。

三宅川と言えば、古木曽川の二の枝川と言われた主要な支流の一つで、沿岸には尾張の国府や国分寺も置かれた、尾張国内では古来より重要な川でした(「第1室 1-2 国境と木曽川の河道」)。長福寺もこの川沿いであり、830年創建と伝えれらています(稲沢市教育委員会説明板)。また、長福寺のすぐそばには、式内社の伊久波神社があります。

上の地図のうち、とりわけ勝幡城-津島間の旧三宅川南岸~旧天王川の東岸の堤は、今も良く残っています。実際にこの堤に相当する道を歩いてみると、道に面した両側の家だけが高地にあり、その裏側はどちらの側も家よりずっと低くなっていて、この道と家の部分が旧河川の堤であったことがよくわかります。おそらくは、織田信秀がよく歩いた、あるいは馬で駆けた道であったのではないかと思われます。

 

当時の津島は地域の物流中心地として繁栄

『宗長手記』 が津島の繁栄を記述

信秀の当時、津島は重要な港町でした。前ページで触れた飛鳥井雅綱・山科言継の二人の公卿も、1533年に京から勝幡に来たとき、桑名から津島までは船を使い、津島から勝幡へは馬を使っています(横山住雄 前掲書)。津島で信秀に会った連歌師・宗長も、そこから桑名に舟で渡りました。

以下は、『宗長手記』 に記された当時の津島の様子です(読みやすくするため、適宜、一部の仮名を漢字に、漢字を仮名に、旧仮名遣いを新仮名遣いに変換、句読点を追加、段落を分割しています)。

● 此所の各々、堤を家路とす。
● 橋あり、3町あまり〔300m程度〕。〔この橋は〕勢多〔瀬田〕 の長橋よりはなお遠かるべし。〔この川は〕及・墨俣川落合〔の個所や〕、近江の海〔にも比較できる広さがある〕ともいうべし。
● 橋の元より、舟十余艘かざりて〔出舟の用意をして〕、若衆法師誘引。この河づらの里々、数を知らず。
● 桑名までは河水3里ばかり。

津島の町は天王川の東岸にあり、堤が道路となっていたのは今も残っています。この天王川東岸の津島の町から津島社の立地する向島に、300mほどもある、瀬田の大橋並に長い橋が架けられていたのは、当時の天王川は川幅が広かったということであり、また繁栄した湊町であったことの現れと考えられます。だから、橋の下には舟が10艘あまりもいて客引きもいましたし、川近くには家々が無数に立ち並んでいた、という状況でした。津島~桑名は、この当時、舟で行き来するのが当たり前であったようです。

これが、信秀15歳の当時の津島の情景です。信秀は、当時の都会地である津島まで、1時間かからずに歩いて行ける場所に住んでいたわけですから、子供のころからちょくちょく津島に出かけて、津島の町で商業・物流業などに従事する人々の様子を観察しながら育ったのではないか、と想像したくなります。

信秀・信長の時代は、津島の繁栄のピークの時代だった

津島の発達・繁栄の推移ついて、以下は、山村亜希・前掲論文からの要約です。

● 16世紀までに湊町・津島社の門前町として発展をとげた。
● 津島の景観は、16世紀頃大きく変化した。その要因は低湿地の開発と新港の整備。町並が発展し、複数の町場は街路によって結ばれるようになった。
● 天王川は中世までは旧木曽川水系の主要な流路であったが、天正14(1586)年の木曽川の流路変更によって水量が減少し、それは港湾都市・津島の衰微につながった。さらに慶長15(1610)年の御囲堤の築造によって、河流はますます衰退した。
● 17~18世紀になると、津島は湊町としての機能よりも、津島神社の門前町としての機能が強くなる。

16世紀前半~中盤の織田信秀・信長の時代は、津島が、港町としての繁栄のピークにあった時期であったようです。近代の産業革命以前、鉄道やトラックが出現する前までは、大量物流手段と言えば、とにかく船を使った海上・河川輸送しかありませんでした。そういう時代の地域中心港であった津島は、非常に重要な経済拠点であったと考えられます。

天正14年の大洪水により木曽川の河道が変化したことについては、「第1室 1-2 国境と木曽川の河道」ですでに確認しましたが、津島の町はその変化の結果、物流ビジネス面で甚大な悪影響を受け、都市としての性格を門前町のみに絞らざるを得なくなった、と言えるようです。

 

 

次は、1535(天文4)年の「守山崩れ」といわれる、岡崎・松平清康の守山での横死と、引き続いて行われたとされる伊田合戦についてです。信秀の名が出て来るためです。