2-5 三河攻め・安祥城の攻略

 

那古野城に移って2年の1540(天文9)年、信秀は三河に攻め込み安祥(安城)城を奪取します。ここでは、信秀がどのようにして安祥城を攻略したかを確認したいと思いますが、まずは、当時の三河はどのような情勢であったのか、から見ていきたいと思います。

 

 

守山崩れ後の三河の状況

千松丸=広忠の岡崎追出し(1535)と帰還(1537)

守山崩れの直後に岡崎松平勢と信秀との間で行われたとされている伊田合戦が事実とは思われないことは、「第2室 3 三河の状況と守山崩れ・伊田合戦」のページで確認しました。守山崩れ後の状況について、以下は 『新編安城市史1 通史編』(村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 守山崩れののち、松平一門・家臣を率いたのは松平信定。『寛永諸家系図伝』のほか、信定を非難する立場の『松平記』・『三河物語』も、信定が家臣団の信望を集め、隠居道閲の承認を得て家督を継ぐ人物として擁立された事情を述べている。
● 通説に従えば守山崩れのとき、清康の子千松丸(千千代または仙千代とも、のちの広忠)は10歳〔『三河物語』・『松平記』では13歳〕。信定は千松丸を追出し、清康重臣のうちでは阿部大蔵のみが千松丸に付き従い、伊勢に赴いたとされる。子の弥七郎が清康を切って窮地に陥った阿部大蔵が、千松丸を擁するのに成功し、三河から脱出したというのが真相であろう。
● 『阿部家夢物語』によれば、天文5年3月伊勢から千松丸らを遠江掛塚(静岡県磐田市)へ → 8月千松丸を擁して三河入り → 9月「むろつか」(西尾市室町)に砦、→ 閏10月退却し駿河へ。背後には、今川家家督に着いたばかりの今川義元の支援があったと見るのが通説。天文6年4月末からクーデターの準備、清康弟の松平康孝や信定弟の松平利長など一門・家臣のうちに内応者が確保され、クーデターを6月1日決行、岡崎城を千松丸擁立派が制圧。7日から信定側との交渉入り、8日に和議が成立。さっそく駿河国に千松丸お迎えの者が出され、25日、千松丸は岡崎城に入った。
● 同年12月9日、千松丸は元服、松平次郎三郎広忠と改めたとする史料がある。

千松丸は岡崎に帰還した時点で、まだ12歳、元服も済ませていない子供です。この 『新編安城市史』 の記述からは、岡崎帰還まで、阿部大蔵の働きが大きかったことは分かりますが、なぜ松平一族と家中に千松丸帰還受け入れ派が出てきたのか、岡崎には反信定派もいた、ということだったのでしょうか。

『三河物語』 が語る千松丸派の主張 - 血筋問題と今川圧力への対応

『三河物語』は、その言い分をどう書いているか、以下は同書からの要約(現代語化)です。

● 千千代は元服して次郎三郎広忠。内膳(信定)は大伯父であったが、家督横領して、広忠を追出す。
● 御譜代衆もいろいろに分かれた。同じ長親〔道閲〕の子と言っても、内膳は庶子、信忠は惣領、信忠・清康・広忠まで3代仰いでいるのを、長親まで4代先祖をさかのぼり、そのうえ庶子を惣領と同じとはいいがたい。一度は広忠を岡崎へ入れるべきだ。そこで、阿部大蔵は広忠のお供をして伊勢の国へ落ち行く。
● 東三河の吉良(義郷)は織田弾正忠(信秀)と結んでいた。駿河(今川義元)から吉良へ攻めかかると、吉良は討死、子たちは今川についた。そんなうちに大蔵は広忠を駿河へお供して、今川に頼み入った。広忠15の春、駿河へ下り、その年の秋、駿河から加勢を得て茂呂の城(豊橋市)へ移った。
● 岡崎にあって、広忠に心を寄せる譜代衆は時節の到来を待っていた。大久保新八郎(忠俊)が岡崎で動き、〔信定の弟で庶子ではない〕蔵人(松平信孝)を味方につけ、城を取って広忠を迎え入れた。広忠御年17歳の春。

千松丸か千千代か、何歳だったか、元服していたかなど、史料に基づく 『新編安城市史』 と細かな点でいろいろ相違はありますが、千松丸=広忠派の言い分は分かります。最大の言い分は、信定は庶子、広忠は惣領の嫡子、という血筋の問題であったようです。

もともと守山崩れ以前から、松平一族は清康派と信定派に分裂していました。清康派のうち血筋重視論者が、千松丸=広忠派となった、ということのように思われます。守山崩れで清康が亡くなり、千松丸を押さえて信定が家督を継ぐことになった時点で、実力重視派がさらに増え、血筋重視派はごく少数派であったかと推察されます。

にもかかわらず岡崎でのクーデターが成功した理由は、その後に付け加わった要因、すなわち、今川の吉良における実力行使と千松丸=広忠への支援という背景が大きく影響をしていた、と理解するのが適切のように思われますが、いかがでしょうか。

三河松平と駿河今川は、組むのは当然の関係ではなかった

昨日の敵は今日の友、という現象がときどき見られた戦国時代のことであっても、三河松平と駿河今川は、組むのが当然という関係ではなかったように思われます。というのは、松平一族の惣領家であった岩津松平家は、1506(永正3)年の永正三河大乱のさい、今川氏親・伊勢宗瑞に手痛い打撃を受けて、壊滅的な状態になったという過去があったためです。(「第2室 2-3 三河の状況と守山崩れ・井田合戦」のページをご参照ください。)

常識的には、まずは今川は岩津松平家を壊滅させた恨むべき大敵であり、重大脅威である、という認識が、大乱の30年後の千松丸=広忠のクーデター当時も、松平一族・家臣の共通認識となっていたのではないか、次に、だから強いことを認めて傘下入りしようという考え方も、恨みがあるから断じて組めないという考え方も、どちらもあったと思わます。

そうであれば、今川が義元に代替わりして、吉良まで進出を再開して現実的な脅威を見せつけられている当時の状況で、松平家中では、外交政策論として、恨みは忘れて今川と組むのが良いか、恨みのある今川と組むのは避けるべきか、という議論の方が、血筋論よりもはるかに大きな関心事になっていたと思われるのですが、いかがでしょうか。

親今川派=善玉、親織田派=悪玉の 『三河物語』 の不思議

『三河物語』 は、今川勢力の三河への新たな進出には触れています。しかし、千松丸=広忠の岡崎帰還を血筋論だけで押し通していて、千松丸=広忠を受け入れることは、同時に今川傘下入りを選ぶことも意味する、というもっと重大なポイントには全く触れていません。血筋重視派であっても、今川傘下に入りたくないという意見もあれば、実力重視派でも今川傘下入りが適切と考える意見があって当然でしょう。家中内の意見は多様であったのではないかと思うのですが、それに全く触れられていないのです。

更に言えば、『三河物語』 は、永正大乱時の敵を「伊豆の早雲、新九郎たりし時に今川の名代として」と述べて、今川の名を挙げてはいても、北条が攻めてきたかのように書き、実は今川の軍師・伊勢新九郎に率いられた今川軍であったこと、またそれによって岩津松平家が壊滅的な損害を受けたことには全く触れていません。「今川隠し」の印象を受けます。家康の父である広忠を正当化するために、議論なしに、広忠派(=親今川)は善玉、信定派(=親織田)は広忠の敵ゆえ悪玉、結果的に今川は善玉・織田は悪玉、としてしまったのではないか、と想像したくなります。

『新編安城市史』 と 『三河物語』 の双方を読んだ印象は、千松丸=広忠の岡崎帰還の成功には、今川の支援=今川からのプレッシャーが最も効いたのであろう、しかし、それは松平一族の総意には程遠く、一族家中内に親今川派と親織田派が混在する状況が続いたのであろう、ということです。ひょっとしたら、外交にも長けていた信定は、あえて岡崎を松平一族中の今川派に譲ることで、松平一族として今川・織田のどちらにも話を通じることが出来るようにしたのではないか、とも想像したくなってしまうのですが、いかがでしょうか。

尾張・三河関係の変化のきっかけは、信定の死?

1537(天文6)年6月、広忠は12歳で岡崎に帰還しました。織田信秀が安祥攻めを行ったのは、その3年後の1540(天文9)年6月のことでした。この3年間には何があったのか、以下は再び『新編安城市史1 通史編』(村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 松平信定は、『寛永諸家系図伝』によれば天文7年(1538)11月27日に死去、翌年の同月日とするものもある。晩年の信定は、一門や家臣団へ自らの政治的影響力を行使することはなかったのであろう。
● 『松平記』は、広忠が家督を継いで後、家臣団の中に序列の変動があり、不和が生じたと伝えている。信定と昵懇のものは軽んじられ、阿部大蔵が政治の実権を握り、その阿部の背後に今川氏の圧力があった。
● この時期に、〔那古野城を取って〕尾張東部への進出を強めた織田信秀は、阿部に排斥された松平一門・家臣の不満を吸収しうる立場にあった。

『三河物語』は、「内膳殿もお詫びごとなされてご出仕なられ、御一門ことごとくご本意めでたし」と書いていて、信定も含め松平一族・家中全員が広忠を新当主として立てたという印象を持たせていますが、これも家康の血筋を正当化するための虚偽記載としか思われません。

「広忠は義元および東条〔西尾市〕吉良持広との連携によって領域支配を維持することができる状態だった」(小和田哲夫 『東海の戦国史』)わけで、岡崎は広忠を立てた親今川の阿部大蔵体制になったものの、他の松平一族も皆親今川で一枚岩、ではなく、実情は、親今川派と反今川派、広忠派と非広忠派が分立する状態であったのではないか、と推察されます。

親今川の広忠派に対抗するため、織田信秀と組んだ反広忠派

信定は、広忠帰還後1年半で亡くなった、ということになります。また、織田信秀は、信定の死去と同年の1538(天文7)年、おそらくは信定死去の半年ほど前に、那古野城を奪取していた、ということになります。反今川派の中には、那古野今川氏を追い出して距離的にも三河に近づいた信秀との関係強化を図る動きがあっても不思議ないように思われます。

「織田信光(信秀兄・信長伯父)が守山城主となったのは、天文7年(1538)に織田信秀が清須守護代の支持を得て那古野の今川氏豊を攻め滅ぼし、那古野に進出して以降のことと考えられる。それ以前に守山をめぐる情勢に大きな変化があったことを示す史料はない」(『新編安城市史』)という推定が正しければ、信定はその死の直前に信秀との同盟を結んだ、ということであったのかもしれません。

一方、信秀にとっても、松平信定の死は、松平一族内の反今川派との協調関係維持への不安材料になるわけで、何か対策を打ちたいと考えていて不思議ないように思われます。そういう状況の中で、信秀は安城攻略に踏み出した、ということになります。

 

1540(天文9)年、織田信秀の安祥城奪取

信秀は、松平氏から安祥城を奪っていた

さて、ここからが、本題の信秀による安祥城攻略です。那古野城の奪取から2年、信秀は、東の隣国・三河に攻め入ります。安祥(あんじょう)は、現在の安城のこと。この時期の最も主要な史料である 『信長公記』・『三河物語』・『松平記』 は、どれも信秀が安祥を取っていたことを伝えています。まずは、この3書がどう書いているのか、確認したいと思います。

『信長公記』(首巻2 あづき坂(小豆坂)合戦の事)
〔駿河衆が三河の正田原へ侵攻した〕その折節、三川の内あん城という城、織田備後守かかえられ候き(その時、三河の安祥の城は織田信秀がかかえていた)
『三河物語』
〔松平信定とその弟義春との不和の記事に続いて〕然るところに、織田弾正之忠(信秀)出馬ありて、安祥の城を攻め取れば…
『松平記』
〔広忠が岡崎に帰還し、信定も岡崎に出仕したとの文章に続いて〕しかれども、安祥の城には織田弾正殿衆持ち…

3書のどれも非常に簡単な文章で、信秀が具体的にいつどのように安祥城を攻略したのかは、全く触れられていません。

1540(天文9)年6月、安祥城の攻略

いつどのようにして攻め取ったのか、以下はまず、横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。

● 松平氏嫡流の復活を阻止するため、信秀は天文9年6月、3千の兵で西三河に侵入。信秀は安祥城を攻め、刈谷城主で信秀方に属した水野忠政は、安祥城の西にある安祥古城を攻撃(愛知県史)。
● 安城城を守るのは、広忠の一族・松平長家。広忠は兄〔広忠の異母弟?〕の松平信康を大将に、藤井松平氏の利長〔広忠の大伯父〕らを副将とする援軍を送り防戦。松平方は、城から出て城の北方で大激戦となり、守将の長家や援将の信康・康忠〔利長のいとこ〕らの一族をはじめ主な武将だけでも50余名が戦死(岡崎大樹寺過去帳)、ついに安祥城は信秀が占領。
● 佐々木に籠る松平忠倫(ただとも)は信秀に従い、岡崎城を指呼の間に望む筒針・渡に砦を構えて松平広忠に備えた。桜井の松平清定〔信定の子〕も信秀方に属したらしく、矢作川以西はまたたく間に信秀の支配地域に編入された(新岡崎市史)。以後、天文18年冬までの9年間に亘り、安祥城は信秀の西三河統治の拠点に。若年であったが、信長の異母兄・信広を安祥城主にしたと伝えられる。

この信秀の安祥城攻略について、上掲の 『新編 安城市史 1 通史編』(村岡幹夫氏 執筆部分)も確認したいと思います。以下は同書からの要約です。

● 天文9年(1540)6月6日、織田信秀の軍勢は三河に出陣し安城城を攻撃。安祥城主松平長家は戦死。大樹寺過去帳。この年12月28日付妙源寺あて史料に「安城乱中」の記載、この年安城で戦闘があり、とくに松平方に多くの戦死者を出したことは、疑う余地なし。
● 「参州本間氏覚書」、「同年6月6日合戦に安城打負、… 此已後安城織田家にわたる」。一方、『寛永諸家系図伝』には、この日は信秀の軍勢を撃退したように記している。とはいえ、城主が戦死した以上は松平方の負けであったことは、否定しようもない。天文12年(1543)までには安城城を織田方が押さえていたことは確実、天文9年6月6日とは断定できないが、それからほどなく織田が安城を奪ったとみてよい。

横山説は天文9年6月6日に信秀が安祥城を奪取の説、新編安城市史説も、6月6日とは断定できないが、それからほどなく信秀が安祥を奪ったとの説です。

信秀の安祥城攻略は天文9年で間違いなく、すると広忠の岡崎帰還の3年後で、このとき広忠はまだ数えで15歳であった、ということになります。年齢・経験から言って、この時の広忠には、対信秀防衛戦の司令官が務まるはずがありません。また、広忠の岡崎帰還クーデターは、松平一族ではなく家臣の主導によって行われており、広忠派内には、一族の者で信定のような皆が従う優れた実力者リーダーもいなかったのであろう、と思われます。防戦側の戦下手、という状況であったのでしょう。

天文9年6月6日には信秀による安祥攻略はなかったとする異説

横山説や新編安城市説とは異なり、天文9年6月6日に、信秀による安祥城攻略はなかったとみる説もあります。『愛知県史 通史編 3』です(この箇所は、平野明夫・村岡幹生両氏 執筆部分で、二人の執筆区分は明示されていないものの、内容から平野氏執筆か?)。以下は、同書からの要約です。

● 1540(天文9)年6月、尾張勢が三河安城城を攻撃したとされる。『寛永諸家系図伝』、「大樹寺過去帳」。
● しかし、信秀とその重臣平手政秀は、同日(6月6日)には伊勢神宮へ書状を出している。使者にも面会しており、この日信秀らは那古野にいたとみられる。

同じ天文9年6月6日について、一方には信秀軍による安祥城攻撃とする独立史料が複数あり、もう一方には信秀は那古野にいたとする史料が一つだけあるなら、多数派の史料の方が正しくて、少数派の史料の方に日付その他何らかの間違いがあった、と考えるのが常識的と思われます。しかし愛知県史のこの部分の執筆者は逆であり、なぜ一つだけの史料が正しく、複数ある独立史料が間違っていると考えておられるのか、根拠の説明もなく理解が困難です。過去帳に50余名の戦死が記されていることは、どう解釈されているのか、さっぱり分かりません。

この愛知県史の執筆者(平野氏?)は、さらに続けて小豆坂の戦いについても、非常に独自の見方をしておられます。再び同書からの要約です。

● 小豆坂の戦いは、1548(天文17)年の戦いは確認できるものの、1542(天文11)年の戦いはなかったとの説。しかし、『信長公記』 の記述を信用する限り、1548年以前に戦死した信秀弟の織田信康が小豆坂の戦いに参戦、1542年の戦いもあった。
● 『信長公記』 によれば、信秀の軍勢には那古野弥五郎などの「清須衆」が参戦。弥五郎が討ち取られ、それによって今川方は引いた。弥五郎討ち取りが今川氏の目的。信秀軍の総大将が「清須衆」であったことを示している。三河へ出兵した尾張勢は信秀が動員した軍勢ではなく、守護・守護代の命令を受けて出陣したもの。

他の史料による裏付けが取れない場合、それは事実だったかもしれないが確証はない、と評価するのが適切だと思うのですが、この執筆者はどうもそうではないようです。『信長公記』 中、とくに信秀に関する記述は、著者の太田牛一自身が見聞したものではなく、古老からの伝聞に頼っているため、誤りが少なくないことは常識だと思うのですが、『信長公記』 に書いてあるなら裏付け史料がなくても事実である、と思い込んでおられるような印象を受けます。

加えて、三河攻めの尾張勢は、清須衆が総大将を務めていた、という極めてユニークな解釈をしておられます。この時代の軍勢は、政府が費用丸抱えで、政府に任命された司令官に士官学校卒の将校、志願兵や徴兵された兵がついていく、という近代軍ではありません。各武士は自費で足軽等を連れて出陣するので、守護・守護代が自ら出陣しない限りは、所領・経済力(=兵の動員力)が大きく家柄も上位であることが総大将の必須要件でしょう。そうでないと誰も命令を聞いてくれません。信秀は、那古野と勝幡・熱田と津島を領していて、守護代の3奉行の一人でした。那古野弥五郎がそれを上回る所領と家柄であった、とは考えられないのですが。

安祥城攻略戦は、「織田」対「松平」ではなく、「信秀+松平反広忠派」対「松平広忠派」

上に見ました通り、この頃の松平一族は、親今川派と反今川派、広忠派と反広忠派が分立する状態であったのではないかと推察されます。この推察をさらに進めれば、信秀の安祥城攻めに対し、松平一族が一丸となって防戦するという体制の構築は不可能で、それどころか、そもそも松平一族の中に信秀と組もうとする動きがあり、その動きに乗って信秀も安祥城攻略をする気になったのではないか、と想像されますが、いかがでしょうか。

『新修 名古屋市史 第2巻』(下村信博氏の執筆部分)も、三河方で信秀についた「忠倫・清定ともに尾張国内に所領を持っており、織田方の優勢という状況の中で、その所領を保全したい思いもあってのことであろう。また清定(信定の子)と織田弾正忠家は縁戚関係にあり、従来から親織田派の傾向があったとみられる」としています。

こうしてみると、安祥城攻略戦を、「尾張」対「三河」とか、「織田信秀」対「松平一族」の戦いと見ては不適切で、「織田信秀+松平一族中の反広忠派」対「松平一族中の広忠派」の戦い、と理解するのが適切であるように思われます。

安祥落城の当時は、松平広忠に強力な支援を送れなかった今川義元

広忠は、1537(天文6)年には今川義元の援助を得て岡崎城に復帰できましたが、1540(天文9)年の信秀の安祥城攻略時は、義元は広忠に強力な支援は送りにくい状況にあったようです。再び、小和田哲夫 『東海の戦国史』 からの要約です。

● 天文5年(1536)3月、今川氏輝が24歳の若さで死去。子なく、弟たちの中から後継者選び。一人にしぼりきれず、僧籍にあった三男と五男の兄弟争い。正室寿桂庵の子承芳が6月、実力で家督を奪い取り、義元と名乗る。功労者太原崇孚すなわち雪斎は、義元の政治・外交顧問のような立場、軍師あるいは執権といわれることになる。
● 今川氏は、氏親・氏輝の代は北条氏と結んでいた。ところが、義元が家督を継いだとたん、甲斐の武田信虎と結ぶ。翌天文6年(1537)信虎の娘が義元に嫁す。そのとき北条氏の当主、氏綱は義元と手を切り、相模から駿河に侵攻、富士川以東を占領。第一次河東一乱、天文6年2月から、氏綱が亡くなる同10年(1541)7月まで。
● 義元・雪斎は同14年(1545)7月、河東地域に進軍、第二次河東一乱。武田信玄が援軍、今川・武田連合軍が戦いを有利に進め、その年10月24日、講和が結ばれ、北条軍は駿河から撤退。

つまり、今川義元は、松平広忠が岡崎城に復帰する程度のことについては支援できたものの、信秀が安祥城を攻略した1540(天文9)年は駿河での北条氏との対立の真最中で、三河に援軍を送るのは、容易とは言えない状況にあったようです。信秀も、それを見越して安祥城の攻略を仕掛けたのでしょう。

当時は親広忠、その後親信秀となった、小河・刈谷の水野氏

上に見た横山住雄 『織田信長の系譜』 の記述中に、「刈谷城主で信秀方に属した水野忠政」とありました。しかし、『新編安城市史1通史編』(村岡幹生氏 執筆部分)は、「刈谷に進出していた水野氏はこの段階では松平氏と友好関係にあった」としており、横山上掲書中の水野氏に関する記述中でも、天文9年段階で刈谷水野氏が信秀派になっていたとの証拠は挙げられておりませんので、信秀は水野氏からの支援なしで安祥攻略戦を戦ったものと思われます。

後に家康の母となる於大は、小河水野家の娘であり、安祥陥落翌年の天文10年に広忠に嫁ぎ、その翌年に竹千代=家康が生まれたとされており、少なくとも小河水野氏は安祥攻め後も親広忠であったことは明らかです。(なお、広忠は16歳・於大14歳で結婚しています。数えですから、現代なら中学生同士のような年齢でした。翌年家康が生まれたということになります。)

水野氏とはどういう一族であったのかについて、以下は、横山住雄・上掲書からの要約です。

● 新行紀一「重原荘と水野氏の一考察」。16世紀中葉の水野氏には2つの系譜、刈谷水野家と小河〔東浦町緒川〕水野家。大高・常滑・刈谷に分立する水野一族の惣領は小河家であったことはまず疑いない。
● 小河水野家、享禄元年(1528)には当主は忠政(法名は妙茂)、刈谷の楞厳寺(りょうごんじ)に寺領を寄進、刈谷城主水野和泉守近守の没後(大永5〔1525〕年以後)は、刈谷を併合していた可能性は大きい。妙茂の次の世代が水野十郎左衛門信近。
● 天文13〔1544〕年頃の小河城主は水野十郎左衛門信近 ←〔東浦町〕入海神社の棟札。翌天文14年の刈谷城主は水野藤九郎守忠であることも推定できる ← 岡崎市の明眼寺寄進状。忠政・信元が刈谷・小河両城主を兼ねたことは否定される。
● 『東浦町誌』。天文12〔1543〕年に水野忠政が死去、緒川城主となった水野信元は、織田信秀に属する態度を鮮明化、岡崎城の松平広忠(忠政の娘・信元の妹である「於大の方」の婿)に今川と断絶して織田に味方するようすすめ、翌13年にも同様の勧告をしたが、広忠は今川義元の勢威を恐れて聞き入れず、ついに於大の方を離別して水野家との縁類を断った。〔この説が〕日本史のなかで定説化。史料から見る限りでは信近=信元だが、『尾州雑志』は信元を兄、信近を弟としている。

小河・刈谷は、那古野の織田信秀と、今川の支援を受ける岡崎の松平忠広の間に挟まれた地域であり、どちらか強い側に付かなければ、生き残りが困難という条件に置かれていました。水野氏は結局、信秀と組む方を有利と判断したのでしょう。

 

那古野と安祥の地理関係

信秀の安祥城攻略の地図

下の地図は、那古野城から安祥城・岡崎城までの地理的関係を確認するために作成しました。

織田信秀 安祥城を奪取 地図

この地図を見て、まず分かることは、那古野城から安祥までの遠さです。直線で32キロもの距離がありました。兵の移動だけで丸一日がかりの距離であり、しかもその過半は自領外の土地です。最短コースを取ると、途中の小河・刈谷には、当時は親広忠の水野氏がいました。そこで北から迂回して、例えば現在の日進市・みよし市域を通ろうとしても、当時はこの地域も松平一族の勢力圏であったと思われます。一方、岡崎城から安祥城までは、間に矢作川が流れているとはいえわずか6キロ弱。

これが信秀対松平一族の争いであれば、松平一族側が圧倒的に有利であり、信秀が強行するなら冒険的な遠征となって、全く勝ち目のない無理筋の戦いでした。にもかかわらず、信秀がこの戦いに踏み切ったのは、これが信秀対松平一族の戦いではなかったことを明確に示していると思われます。

信秀は、松平一族中の反広忠派からの支持に確信が持てたから、遠征に踏み切ったのでしょう。同じ松平一族中でも、反広忠派で信秀への支持が明確である地域を通っていくなら、冒険的な遠征にはなりません。

地図から感じられる、松平一族内の広忠派対反広忠派の対立の激しさ

この地図を眺めれば眺めるほど、松平一族中で信秀に味方したのは佐々木の松平忠倫・桜井の松平清定らだけではなく、信秀にはもっと広範な信秀への支持が集まったのではないか、信定亡き後の反今川・反広忠派の中に、「広忠派にはもう我慢ができない、織田信秀に頼ろう」というムードが広がったのではないか、その確証が得られたので、信秀としても遠路はるばる安祥攻めを行う気になったのではないか、という想像が働いてしまいます。

言い換えれば、当時の松平一族中で、親今川の広忠派と、親信秀の反広忠派の対立は、そこまで激しくなっていたということなのでしょう。『三河物語』 や 『松平記』 がそれに触れていないのは、家康神聖化の一環として、家康の父親である広忠、および広忠の父で守山崩れで亡くなった清康まで、3代を神聖化しようとしたために、広忠派と反広忠派の対立の実情を隠してしまった、ということではないかと思われます。親は親、子は子であり、実情通り、子の家康は親の広忠の失敗から学んだ、ということで良かったのではないかと思うのですが。

なお、この地図には、対岡崎の砦が設けられた筒針・渡の位置も示していますが、岡崎城からわずか2キロほどの至近距離でした。広忠派は、今川に頼ることによって広忠の岡崎城帰還を達成しましたが、今川を呼び込んだためか、広忠派の松平一族内の権力掌握過程に無理があったためか、結局は一族内からの激しい反発を招き、織田信秀という、今川とは別の大きな脅威を引き込んでしまった、と言えそうです。

突出点維持のための、信秀の西三河への気配り

もうひとつ、この地図から明らかなことは、信秀にとって、安祥がそこだけ著しい突出点となってしまった、という点です。突出点は、軍事的には弱点になりかねません。信秀は、安祥が突出点であっても継続的に維持できるよう、松平忠倫・松平清定らをはじめとする松平一族中の反今川・反広忠派との良好な関係を保ち続けた、と言えそうです。それどころか、安祥城攻略当時は広忠派であった水野氏を、その後親信秀に路線転換させました。信秀は、その後も西三河の維持には、非常に気を使ったものと思われます。

なお、信秀が安祥城の攻略を行った時、信長は7歳になっていました。おそらく、この安祥城攻略の頃からの出来事については、大人になってからの信長にも、記憶として残っていたのではないか、と思われます。信長は、このころから、父・信秀の行動から学ぶことが増えていったのではないかと思われますが、いかがでしょうか。

 

尾張国内での信秀の地位向上

熱田加藤家への判物、信秀が優先発給者に変化

信秀が、那古野城奪取後、さらに安祥まで進出したことによって、尾張国内での大和守守護代と信秀との関係にも若干の変化が生じた、とする見方があります。以下は、鳥居和之 「織田信秀の尾張支配」(柴裕之編 『尾張織田氏』 所収)からの要約です。

● 〔熱田の加藤家に対し〕天文8年(1539)と12年では、ともに〔守護代〕達勝と信秀の判物が出されているものの、第一発給者という点で大きな違いがある。天文8年には達勝判物が出された後に信秀判物、12年には信秀判物の後に達勝判物。
● これは加藤家がどちらに申請したかを意味する。判物は申請に応じて行われるから。この時期に申請の主たる相手を達勝から信秀に替える動きは熱田に共通。〔天文9年の〕安祥城攻略が達勝よりも信秀を重視する契機になったと考えられる。

信秀は依然、守護代の重臣でしたが、その実績が領民側の態度の変化になって表れた、と言えるようです。

守護・斯波氏は越前進攻の夢

信秀の勢いに、尾張国守護の斯波氏は、越前奪回の期待まで寄せたようです。以下は、再び 『新修 名古屋市史 第2巻』(下村信博氏の執筆部分)からの要約です。

● 天文9年以降、三河国内へ攻勢に出られたことで、織田方の意気は大いに挙がった。『天文日記』の天文10年7月27日の記事。尾張守護斯波義統は、本願寺門主証如に対して、朝倉氏に奪われた分国越前奪回の軍勢を派遣するので、加賀国の門徒に協力するよう命じてほしいとの書状をよこしたとある。
● 西三河進攻が成功を収めていたので、斯波義統により、越前進攻の企図が生み出されたのではないか。

信秀は、依然、身分上は「守護の家臣の家臣」の一人ではありましたが、尾張チーム実力部隊の「エースで4番打者」くらいの地位に上がったといえそうです。

 

 

次は、信秀の、伊勢神宮および朝廷への寄付についてです。