4-2 『三河物語』 など江戸初期史料

 

『三河物語』 『松平記』など、江戸時代初期までの史料

織田信秀・信長の時代の同時代史料といいますと、書状・禁制・判物などの古文書が中心で、訓練された研究者でないと、簡単に読んで理解できるものではありません。しかし、『信長公記』のような、いわゆる軍記ものの類であれば、研究者でなくてもある程度理解できます。ただし、軍記ものは、書かれた時代が下がれば下がる程、創作色が強くなって史料とは言えなくなります。

ここでは、軍記ものの中で、江戸時代の初期までに成立していて史料性のあるものや、当時の紀行文など、同時代史料で 『信長公記』 以外のものについて、以下に内容を紹介いたします。

 

 

日本思想体系 26 『三河物語 葉隠』 岩波書店 1974
(大久保彦左衛門忠教 (齋木一馬・岡山泰四 校注) 『三河物語』を所収)

『三河物語 葉隠』 岩波書店 函写真

大久保彦左衛門、といえば、年配者にとっては、講談話や映画の主人公として、一心太助とセット。水戸黄門と助さん・格さんのセットほどではないとしても、かつては伝説の有名人であったのですが、今の若い方にはほとんど知られていないかもしれません。伝説の水戸黄門と実在の水戸光圀との落差が激しいように、伝説の大久保彦左衛門と実在の大久保彦左衛門忠教(ただたか)との乖離もきわめて大きいようです。

本書の解説である、齋木一馬「『三河物語』 考」によれば、実在の大久保彦左衛門忠教の一生は、下記の通りです。

・ 1560(永禄3)年生まれ 〔桶狭間合戦の年〕
・ 1575(天正3)年、15歳で家康に初見 〔長篠合戦の年〕
・ 翌年、遠江犬居城攻略戦に参陣して戦功、この後各地に従軍して戦功
・ 異腹の庶子のため、この間は終始長兄またはその子の配下
・ 1614(慶長19)年、家康の直参となる、知行1000石 〔大阪冬の陣の年〕
・ 1624(寛永元)年、加増されて2000石
・ 1639(寛永16)年、80歳で死去

譜代の名門として歴世忠勤をはげみ、一族として輝かしい勲功を立てながら、7人の兄が没して一人残った忠教はわずか2000石、大阪の陣終了後の徳川氏の譜代軽視に対する慨嘆が本書となったようです。

本書の成立時期については、初稿本は元和8年(1622)、著者62歳のときにに脱稿、その後補訂・彫琢を続け下巻前半までの分を整えたのが寛永2年(1625)、下巻後半を増補し了えたのは翌3年(1626)、その後も補訂を続けたが、最終的な浄書を遂げないままに終わったものであるようです(上掲の本書解説)。

織田信秀の死から70年、信長の岐阜入城からは55年を経て本書が書かれた、ということになります。本書は、徳川家の先祖から説き起こし、主要な記述としては大阪の陣~家康の死までとなっており、さらに大久保家の子孫に対するメッセージが付されています。

本書の中で「忠教は、大久保氏が、松平氏譜代の由緒久しい家筋であることを最大の誇りとし、本書において繰り返しこれを強調」(上掲の本書解説)しています。これは忠教の愚直さの表現とは思われますが、信長や秀吉流の「血筋よりも能力」という人材活用の考え方と比べると、忠教には「血筋」しか誇るものがなかったかのように感じられてしまいます。戦国時代には、皆が皆、下克上も辞さずに能力競争をした、というわけではなく、忠教のように愚直に主家に尽くした人もいた、ということなのでしょう。

しかし、忠教の血筋への誇りの結果として、本書の記述全体を貫いて、譜代であり続けること、主君の血筋に愚直に忠義を尽くし続けることに最大の価値が置かれており、すべてはその価値観から評価されています。したがって、たとえば主君である岡崎松平家の方針が今川の保護を受けることであれば、その方針の当否は論じられず、とにかく主家に従い続ける者は称賛され、一方その方針に反対して織田信秀に近づく者は激しく批判される、という記述となっています。この点は、良くも悪くも、本書の最大の特徴です。

本書中には、合戦に関する記述も多く含まれており、これはなかなか読み甲斐のある箇所となっています。とくに、桶狭間合戦における今川方の内情の記述は、今川軍の敗因を説明するものとして、非常に価値があるように思われます。

ただし、上述の通り、忠教が実際に合戦に参戦するようになったのは長篠合戦が終わった後のこと、本歴史館の対象である織田信秀および織田信長の尾張時代は、忠教が生まれる前あるいは物心つく前なので、年長者から聞き出す以外に知る方法はありませんでした。ですから、時代が古くなればなるほど、又聞きや又々聞きとならざるを得ません。

つまり、信長の時代はともかくも、信秀時代に関する記事ついては、伝説とみるのが適切のような、かなり信頼性の低い記述も混じっている、と理解しておくのが適切のようです。そういう制約はありますが、本書はやはり 『信長公記』 に次いで読む価値の大いにある史料、と思われます。

本書からは、本歴史館中の下記のページで、引用等を行っています。

第2室 織田信秀 2-3 三河の状況と守山崩れ・伊田合戦

第2室 織田信秀 2-5 三河攻め・安祥城の攻略

第2室 織田信秀 2-9 三河攻め・竹千代奪取と小豆坂の戦い

第2室 織田信秀 2-13 今川の攻勢・三河の喪失

第3室 織田信長 3-10 桶狭間合戦 1 合戦の準備

第3室 織田信長 3-11 桶狭間合戦 2 合戦の経過

第3室 織田信長 3-12 桶狭間合戦 3 今川義元の敗因

第3室 織田信長 3-13 家康との清須同盟

 

大久保彦左衛門 (小林賢章 訳) 『現代語訳 三河物語』 ちくま学芸文庫 2018
(初刊 『三河物語』 上・下 教育社 1980)

『現代語訳 三河物語』 カバー写真

上掲『三河物語』の現代語訳版です。ちくま学芸文庫での文庫化にあたって、初刊の教育社版から改訳された、とのことです。

本書のカバーには、タライに乗って登城する天下の御意見番の大久保彦左衛門、すなわち、講談話の主人公である大久保彦左衛門の姿が示されています。

『三河物語』 の場合、大久保彦左衛門忠教の原文の叙述は、「おせじにもうまいものとはいえな」いものであり、さらには「当時の口語(俗語というが)をつかって書いたために、へたな文章より難解」というもの(本書の訳者解説「『三河物語』 の世界」)。したがって、かなり読みにくいので、『信長公記』 よりも、現代語訳版に頼る必要性が高いと思います。

本書の訳者解説も、大変に読みやすく分かりやすい記述となっています。『三河物語』 を読む場合には、本書は必須の1冊、と言えそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

『愛知県史 資料編 14 中世・織豊』 愛知県 2014
(『松平記』 「名古屋合戦記」 「清須合戦記」を所収)

この 『愛知県史 資料編14』 は、『信長公記 首巻』 の陽明本・天理本が所収されているということで、前ページでも取り上げましたが、中世・織豊期の軍記・史書、系図・家譜、寺社縁起、寺社記録、語録・文集、名寄帳が収められています。

その内、軍記・史書としては、『信長公記 首巻』 に加え、『松平記』 「名古屋合戦記」 「清須合戦記」や、緒川・刈谷の水野氏の歴史に関する「水野勝成覚書」も所収されています。ただし、資料編ですので、現代語訳はついておらず、注記も最小限です。

前ページでも触れましたが、『愛知県史』 は、通常の出版ルートに乗っていません。Amazonや楽天ブックスなどでも販売されていません。図書館でも借りられないので入手したい、という方は、愛知県の県史編さん室に購入申し込みをいただく必要があります。

以下に、『松平記』「名古屋合戦記」「清須合戦記」の内容をご紹介します。

 

『松平記』

『松平記』 は、天文4年(1535)の松平清康の守山での横死から、天正7年(1579)の徳川家康の築山殿と長男信康殺害にいたるまでの、清康・広忠・家康の3代記です。『愛知県史』 に所収されているのは、通常流布している 『校訂松平記』 とは異なる国会図書館所蔵本です。

『松平記』 の著者は、家康の母・於大が離縁されて刈谷に送致されたことに従事した人(浅羽十内)の息子とみられ、慶長年間(1596~1615)に著されたものと推定されているようです(『愛知県史 資料編14』の解説)。

『松平記』 は、桶狭間合戦後については、大変に信頼性の高い史料であるようです。これは、『松平記』 が、「1560~70頃に戦場で活躍した人々から、直接往時について取材し聞き書きを作成している」(『愛知県史 通史編3』)ためです。

しかしながら、桶狭間合戦以前の尾張国関係の記述では、例えば守山崩れでは「駿河よりもご加勢ありて」と書き、小豆坂の戦いでは両軍の進軍方向が不自然に過ぎ、三河騒乱で国外には手出しできそうもないときに蟹江城攻めを行ったと書くなど、余りにも信頼性の乏しい記述が少なくありません。また桶狭間合戦については、今川義元の出陣の目的として「織田信長を誅伐し都へ切って上らんとて」と書くなど、『甫庵信長記』 からの影響が明らかです。

すなわち、本歴史館が対象としている、織田信秀および尾張時代の織田信長との関わりの範囲では、『松平記』 の記述よりも 『三河物語』 の記述の方が、まだしも信用できそうに思われます。とはいえ、『松平記』 は、『三河物語』 よりも成立が早いものではあり、桶狭間合戦以前であっても、とくに三河国内の事件については 『三河物語』 にはない独自の記事もあるだけに、やはり読む価値ありと思われます。

『松平記』からは、本歴史館中の下記のページで、引用等を行っています。

第2室 織田信秀 2-3 三河の状況と守山崩れ・伊田合戦

第2室 織田信秀 2-5 三河攻め・安祥城の攻略

第2室 織田信秀 2-9 三河攻め・竹千代奪取と小豆坂の戦い

第3室 織田信長 3-4 村木砦の戦いと西尾(八ツ面)出陣

第3室 織田信長 3-8 岩倉落城・守護追放・信勝殺害

 

「名古屋合戦記」

「名古屋合戦記」は、織田信秀による名古屋(那古野)城攻略と今川氏豊追放を本題とする軍記です。本題の前には、今川氏と斯波氏との遠江をめぐる争いから那古野に今川氏豊が送られてきた経緯が説明され、本題の後には那古野城で信長が育ち、信長が清須に移ってからは、叔父・信光、さらに信長家臣の林信勝(秀貞)が入城したことが書かれています。ただし、この 『愛知県史』 のページ数では、上下2段組で2ページ強という短い記事です。

「名古屋合戦記」は、「著者・成立時期ともに知られていない」とのこと。また「年代、人名をはじめ誤りも少なくな」いということで、若干の注意も必要なようですが、本書は「信秀による名古屋城攻略について具体的に知り得る唯一の文献として貴重」とのことであり(以上は 『愛知県史 資料編14』 解説)、読む価値があるようです。

「名古屋合戦記」からは、本歴史館中の下記のページで、引用等を行っています。

第2室 織田信秀 2-4 那古野城の奪取

 

「清須合戦記」

「清須合戦記」の本題は、守護代・織田彦五郎による斯波義統へのクーデターと、その後の信光・信長による清須城奪取です。最初に尾張における守護・斯波氏の歴史から説き起こされ、本題に移り、関係者のその後を述べて終わっています。この 『愛知県史』 のページ数では、やはり上下2段組でほぼ2ページという、短い記事です。

「清須合戦記」も、「著者・成立時期ともに知られていない」とのこと。特徴として、いろいろ取り違えがあり、「杜撰な記述が目立つ」、あるいは「名古屋合戦記」や 『信長公記』 の記事に重なっている箇所も多く「本書独自の記事は少ない」ものの、「事件の年代や人物の没年などに独自の記事がある」ようです。まとめとして、「本書を史料として利用する際には関係史料による十分な吟味が必要」とされています(『愛知県史 資料編14』 解説)。

信光・信長による清須城の乗っ取りについては、信光が守護代・彦五郎に詰め腹を切らせた、としている 『信長公記』 とは異なり、彦五郎は逃げようとしたので信長も兵を出し清須城を取り囲んで攻め、最終的に信長家臣が彦五郎を討ち取ったとする 『甫庵信長記』 に沿って、それをさらに膨らませたような叙述となっています。「名古屋合戦記」よりもさらに注意が必要なようです。

「清須合戦記」からは、本歴史館中の下記のページで、引用等を行っています。

第3室 織田信長 3-8 岩倉落城・守護追放・信勝殺害

 

川崎桃太 『フロイスの見た戦国日本』 中央公論新社 2003 (中公文庫 2006)

ルイス・フロイスは戦国時代の日本に来た伴天連の一人であり、大著『日本史』を著しました。本書は、『完訳フロイス日本史』(中公文庫)の訳者の一人による、「フロイスの見た「日本と日本人」、しかも「戦国日本」をキャッチフレーズとして、それに見合った記述を12巻の中から適宜に選択」した、フロイス「『日本史』 のダイジェスト版」(「まえがき」)です。

フロイスが日本に来たのは1563(永禄6)年、31歳の時、西九州に上陸しました。この年、信長はすでに尾張国の大部分を支配下に置いていて、残る犬山城派の対策のため清須から小牧山城に移っています。フロイスが京都に来たのは1565(永禄8)年、信長が犬山城を落城させ、中美濃攻めを行った年でした。

フロイスが初めて信長に会ったのは、信長が将軍足利義昭を擁して京都に入った翌年の1569(永禄12)年、この年フロイスはキリスト教布教の允許状を信長から与えらただけでなく、岐阜を訪れ、信長自身によって岐阜城を案内されています。

すなわち、フロイスは、本歴史館が対象としている尾張統一過程時代の信長には面会していないものの、その直後の岐阜時代の信長に実際に会っており、また岐阜城の訪問記録も残してくれているわけです。フロイスは、秀吉時代の末期、1597(慶長2)年まで生き、膨大な記録を残しました。やはり第1級の同時代史料と言えます。

本書には、『続・フロイスの見た戦国日本』 もありますが、余裕のある方は、ぜひ 『完訳フロイス日本史』 の方をお読みください。

本書からは、本歴史館中の下記のページで、引用等を行っています。

第3室 織田信長 3-9 信長の上洛と桶狭間合戦前の状況

第3室 織田信長 3-11 桶狭間合戦 2 合戦の経過

 

島津忠夫校注 『宗長日記』 岩波文庫 1975

『宗長日記』 岩波文庫 カバー写真

連歌師宗祇の高弟であった宗長は、1448(文安5)年に駿河に生まれました。今川家で合戦にも従軍していたものの、のち今川家を離れ上洛して宗祇に師事して連歌を修行、1496年から1532年に85歳の生涯を終えるまで、京都と駿河の間を何度も往来したとのことです(本書解説)。

応仁・文明の乱が勃発したのは1467年、すなわち宗長は、青年期からは戦国時代を生きた人でした。1512年生まれの信秀よりも64歳も年長であったわけですが、長生きしてくれたおかげで、また何度も旅をして紀行文を残してくれたおかげで、1526 (大永6) 年には、宗長が津島で若き日の信秀と出会った記録を残してくれた、ということになります。信長は、宗長が亡くなったおよそ2年後の1534年に生まれました。

本書には、大永2~7年(1522~1527、宗長75~80歳)の日記である「宗長手記」と、享禄3~4年(1530~31、宗長83~84歳)の日記である「宗長日記」が収められています。

紀行文なので、当時の各地の景色が分かる点でも、大変に価値があります。宗長が八風峠を通った際の紀行記録を残してくれたおかげで、信長が上洛のさいに通った峠道がどんな状態であったのか、ある程度理解できました。

本書からは、本歴史館の下記のページで引用等を行っています。

第2室 織田信秀 2-1 勝幡城の信秀

第2室 織田信秀 2-2 弾正忠家の津島支配

第3室 織田信長 3-9 信長の上洛と桶狭間合戦前の状況

 

 

次は、織田信長でも尾張時代に関して、あるいは、父・織田信秀に関しての研究者として、真っ先に名を挙げるべき、横山住雄氏の著作についてです。