第1室では、信秀・信長時代の尾張国の領域・政治体制・支配体制を確認してきました。第2室では、生涯を「守護の家臣の家臣」で通したものの、尾張第一の戦国武将となった織田信秀の事績を確認してきました。
この第3室では、信秀の嫡子・信長について、父・信秀の死から尾張を統一するまでの約15年間を見ていきます。
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織田信長の出発点 - 相続したのは信秀の資産の半分
父・織田信秀の到達点
尾張南西部の勝幡城主として経歴を開始した信秀は、那古野城を奪取して支配領域を大きく広げ、津島のみならず熱田も支配して、尾張国内で豊かな経済基盤を確保しました。その上で、西三河・松平一族内の対立状況の中で、反広忠派に味方して支配地域を西三河に広げ、一時期は岡崎の広忠も降伏させました。
信秀の戦国武将としての実力は、尾張の守護・守護代にも認められ、美濃の土岐氏一族の家督争いに絡んだ出兵支援要請に対しては、信秀は尾張守護から尾張連合軍の総大将にも任じられました。
しかし、三河と美濃の2正面作戦と、美濃での突出点という、軍事常識に反する無理を行った結果、まずは美濃を失います。それに対しては信長と濃姫の婚姻による斎藤道三との和睦という対策を打ったものの、間もなく健康問題を発生します。
ほぼ同時期に岡崎の松平広忠が病死し今川が岡崎を接収したことで、三河では今川が前面に出て信秀への攻勢を開始すると、駿河・遠江・三河3国の主という今川の経済力=軍事力の大きさと、自身の健康問題から、信秀は有効な対抗策を打てず、三河も失い尾張国境地域まで攻め込まれます。そうして、いわば那古野城を奪取した頃の所領に戻った時に信秀は死を迎えました。
子・織田信長の出発点
通常であれば、嫡子である信長がすんなり信秀の家督を全面相続するところですが、信長の場合、「大うつけ」行動から家臣からの支持を得られず、弟・信勝との分割相続になってしまいました。「守護の家臣の家臣」の立場で、勝幡・津島~那古野・熱田を所領とする弾正忠家の半分ほどだけを相続した状態、が、新当主となった信長の出発点であった、と言えるようです。
弾正忠家の半分ほどを相続しただけだった信長が、いかにして尾張を統一し、さらには美濃・岐阜まで進出したのか、その後天下統一の道に踏み出せる位置にまで到達した過程が、この第3室で確認していく内容となります。
織田信長の尾張統一の年表
下は、織田信長が尾張を統一するまでの年表です。この年表は、第3室各ページへの入り口にもなっています。各項目末尾のページ番号をクリックいただけば、それぞれの詳細な記事をお読みいただけます。(頭に「信秀 ページ」とある場合は、第2室のページに繋がります。)
1534 (天文3) - 信長 1歳 (信秀 23歳)
● 織田信長、勝幡で生まれる ・・・→ 第2室 信秀 2-1
1538 (天文7) - 信長 5歳 (信秀 27歳)
● 信秀、那古野城を奪取 、信長は天王坊に通う ・・・→ 第2室 信秀 2-4
1544 (天文13)- 信長 11歳 (信秀 33歳)
● 11月、連歌師宗牧を那古野城で迎える。この時信長は元服済み ・・・→ 第2室 信秀 2-8
1546 (天文15) - 信長 13歳 (信秀 35歳)
● このころ、信秀は古渡城に移り、那古野城を信長に譲る ・・・→ 第2室 信秀 2-8
1547 (天文16) - 信長 14歳 (信秀 36歳)
● この年、信長の初陣、吉良大浜へ ・・・→ 第2室 信秀 2-8
1549 (天文18) - 信長 16歳 (信秀 38歳)
● 2月24日、信長の婚姻、濃姫輿入れ ・・・→ 第2室 信秀 2-11
● 11月、熱田8ヶ村あて制札、信長最初の発給文書 ・・・→ 第2室 信秀 2-15
1552 (天文21) - 信長 19歳 (信秀 41歳)
● 3月3日、信秀死去
葬儀で信長の抹香投げつけ事件、信秀家督は信長と信勝が分割相続 ・・・→ 第2室 信秀 2-15
● 9月、 今川義元、八事へ出陣 ・・・→ ページ 3-1
1553 (天文22)- 信長 20歳
● 閏1月13日、平手政秀の諌死
4月、 冨田正徳寺にて舅・斎藤道三と会見
4月17日、今川方についた鳴海の山口左馬助父子と赤塚合戦 ・・・→ ページ 3-2
● 7月12日、清須衆による対守護クーデター、柴田権六の清須攻撃(中市場合戦)
8月15日、清須衆との深田・松葉両城の争奪戦(萱津・馬島の合戦) ・・・→ ページ 3-3
1554 (天文23) - 信長 21歳
● 1月24日、今川方と村木砦の戦い ・・・→ ページ 3-4
● 4月20日、守山の織田信光、清須城を乗っ取り、信長は清須城へ、信光は那古野城へ
11月26日、不慮の事件により信光は死去 ・・・→ ページ 3-3
1555 (天文24/弘治元) - 信長 22歳
● 6月(または7月)、喜六郎横死事件、信長は守山城主を安房守に ・・・→ ページ 3-5
● 秋以降、三河では反今川蜂起多発、反今川ベルトの形成 ・・・→ ページ 3-4
1556 (弘治2) - 信長 23歳
● 3月、信長は吉良義昭支援のため、西尾(八ッ表)に出陣 ・・・→ ページ 3-4
● 4月、美濃の舅・斎藤道三が、嫡子・義龍との合戦で討死、 信長は大良まで出陣 ・・・→ ページ 3-6
● 5~6月、那古野城(林兄弟)・守山城が離反、信勝派に
8月24日、稲生の戦い、信長が信勝派に勝利
この頃、信長は生駒氏の女を側室にする ・・・→ ページ 3-7
1557 (弘治3) - 信長 24歳
● 4月上旬、三河国上野にて、今川との和睦の儀式
この年、信長長男の奇妙丸(後の信忠)が生まれる、母は側室の生駒氏の女 ・・・→ ページ 3-7
1558 (弘治4/永禄元) - 信長 25歳
● 3月、今川は品野・笠寺に出兵、信勝は龍泉寺城の築城を開始
7月、岩倉勢との浮野合戦
その頃、守護・斯波義銀を国外に追放
9~10月 岩倉を落城させる
11月 信勝を切腹させる ・・・→ ページ 3-8
1559 (永禄2) - 信長 26歳
● 2月、信長は上洛 ・・・→ ページ 3-9
1560 (永禄3) - 信長 27歳
● 5月19日、桶狭間合戦で今川義元を討ち取る
・・・→ ページ 3-10 (合戦の準備) ・ ページ 3-11(合戦の経過)・ ページ 3-12 (義元の敗因)
1561 (永禄4) - 信長 28歳
● 閏3月までに、松平信康(家康)との清須同盟の成立
4月上旬、梅坪はじめ高橋郡攻め ・・・→ ページ 3-13
● 5月11日、美濃の斎藤義龍死去、13~23日 西濃に侵攻、森辺・十四条の合戦 ・・・→ ページ 3-14
1562 (永禄5) - 信長 29歳
● 2月、美濃の斎藤龍興と和議 ・・・→ ページ 3-14
1563 (永禄6) - 信長 30歳
● 2月、小牧山城の鍬始め
おそらく同年内に、小口城・黒田城は退去、犬山城は孤立化 ・・・→ ページ 3-15
1564 (永禄7) - 信長 31歳
● 2月、美濃で竹中半兵衛らが稲葉山城を乗っ取り ・・・→ ページ 3-16
1565 (永禄8) - 信長 32歳
● 2月22日、犬山城落城
8月、猿啄城・堂洞城・金山城落城 ・・・→ ページ 3-16
1566 (永禄9) - 信長 33歳
● 4月、各務野出兵、8月、河野島に攻め入るも敗退 ・・・→ ページ 3-17
1567 (永禄10) - 信長 34歳
● 8月、長島の一向宗攻め
9月、美濃三人衆の内応、稲葉山城を奪取 ・・・→ ページ 3-17
天文年間に生まれ育った信長は、父・信秀の死と弟・信勝との分割相続を経験しますが、長く続いた天文年間の末までに、実質的に守護代となって清須城に移り住みます。続く弘治年間には強力な後援者であった舅・斎藤道三の死もあって、信長包囲網に苦しめられます。
しかし、弘治が永禄に変った年に、守護を追放、対抗していた岩倉も弟・信勝も滅ぼし、尾張の第一人者となります。さらに、この永禄年間中に、尾張における信長は大躍進、桶狭間で今川義元を打ち破ると、まず三河の家康と同盟して東を安定させ、次に尾張北部の反信長残存勢力を駆逐して尾張を統一、さらには美濃・斎藤氏も放逐して岐阜に移転、天下の掌握に乗り出していきます。
上記の年表中で、事件の発生年がご自身の記憶と相違していて、おや、と思われた方があるかもしれません。例えば、清須城乗っ取りは天文23年となっているが、弘治元年ではなかったのか、というように。その場合は、ぜひその事項のページをご覧ください。なぜ天文23年とみているのか、主要な研究書の見解も説明しております。もちろん、本歴史館の見方が必ず正しいとは考えておりません。間違いがあればぜひご指摘ください。
第3室の各ページの内容
第3室の各ページは、下の内容となっています。それぞれのページタイトルをクリックいただけば、そのページに移ります。
3-1 今川の八事出陣
● 信秀の死後1年間で起こった諸事件
● 信長を心配した斎藤道三の手紙
● 今川義元の八事出陣
3-2 政秀の諌死・道三との会見・赤塚合戦
● 1553(天文22)年 閏1月、平手政秀の諌死
● 4月前半、斎藤道三との会見
● 4月17日、赤塚合戦
3-3 清須クーデター~清須城乗っ取り
● 清須城乗っ取りまでの清須関係の諸事件
● 1553(天文22)年7月 清須クーデター ~ 中市場合戦
● 1553(天文22)年8月 深田・松葉両城の争奪戦
● 中市場合戦および深田・松葉両城争奪戦の地図
● 1554(天文23)年4月 織田信光・信長による清須城乗っ取り
3-4 村木砦の戦いと西尾(八ッ表)出陣
● 1554(天文23)年1月、村木砦の戦い
● 村木砦の戦いの地図
● 翌年秋から三河で反今川蜂起、信長は西尾(八ッ表)出陣
● 1555~1556年、三河の反今川蜂起の地図
3-5 信勝との反目・喜六郎横死事件
● 清須乗っ取り後、弟・信勝との反目は激化
● 1555(天文24)年、喜六郎横死事件と守山新城主問題
● 喜六郎横死事件の地図
● 守山城の地図
3-6 舅・道三の死(長良川合戦)
● 1555(弘治元)年秋、美濃では斎藤道三と嫡子・義龍の対立
● 1556(弘治2)年4月、長良川合戦での道三の死と信長の大良出陣
● 長良川合戦と信長の大良出兵の地図
3-7 稲生合戦と側室
● 道三死後2ヵ月の大変化、信長は那古野城・守山城を失う
● 道三の死の直後、信長包囲網の地図
● 1556(弘治2)年8月、信長は稲生合戦で信勝派に勝利
● 稲生合戦に見る、歴史小説 『甫庵信長記』 のウソ、偽書 『武功夜話』 の大ウソ
● 道三死後に、信長は側室に生駒氏の女
3-8 岩倉落城・守護追放・信勝殺害
● 稲生合戦の翌年は、嵐の前の静けさ
● 1558(永禄元)年は大激動の年、まず今川勢の活動再開と信勝の竜泉寺築城
● 同年の夏~秋、浮野合戦を経て岩倉の落城
● 浮野合戦の頃 守護・斯波義銀の追放、岩倉落城後には弟・信勝の殺害
3-9 信長の上洛と桶狭間合戦前の状況
● 1559(永禄2)年2月、信長の上洛
● 信長上洛当時の京都・堺
● 信長上洛旅行の関係地の地図
● 桶狭間合戦の直前、尾張国内での信長氏配下外の地域
3-10 桶狭間合戦 1 合戦の準備
● 桶狭間合戦 - 義元上洛・信長奇襲の旧説から大変化
● 桶狭間合戦の直接原因 - 今川方の鳴海・大高城に、信長が付け城
● 今川方の尾張出陣の準備
● 桶狭間合戦での今川軍・織田軍双方の戦力
● 今川義元の出陣
3-11 桶狭間合戦 2 合戦の経過
● 『信長公記』が記す桶狭間合戦
● 『甫庵信長記』が作り出した信長の迂回奇襲攻撃
● 桶狭間合戦で信長軍が戦った相手は、今川軍のごく一部だけだった
● 桶狭間合戦の地図
3-12 桶狭間合戦 3 今川義元の敗因
● 勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
● 桶狭間合戦での今川義元の敗因
● 織田軍の戦後処理
3-13 家康との清須同盟
● 桶狭間合戦後、今川旧領の織田領化
● 松平元康(家康)の岡崎帰還
● 1561(永禄4)年、信長・元康の清須同盟
● 桶狭間合戦後、清須同盟までの西三河の地図
3-14 森部・十四条合戦 - 美濃攻め開始
● 1561(永禄4)年、斎藤義龍の死で美濃攻めの開始
● 森部・十四条合戦の地図
● 木下藤吉郎の一夜城は存在しなかった墨俣
3-15 小牧山城への移転
● 1562(永禄5)年の尾張北部の反信長勢力
● 1563(永禄6)年、小牧山城の築城、清須城からの移転
● 小牧山城築城の効果 - 小口・黒田両城の退去
3-16 犬山落城と中美濃進出
● 1564(永禄7)年、竹中半兵衛の稲葉山城占拠事件
● 1565(永禄8)年2月、犬山城の落城
● 1565(永禄8)年7~8月、信長の中美濃への進出
3-17 長島・北伊勢攻めと岐阜入り
● 1566(永禄9)年、各務野・河野島出兵による美濃攻め
● 1567(永禄10)年8月、長島・北伊勢攻め
● 1567(永禄10)年9月、斎藤龍興の稲葉山城を奪取
● 信長の岐阜城と城下町
ご興味のあるページに直接飛んでいただけますが、もしも宜しければ、次ページの「3-1 今川義元の八事出陣」から順番に読んでいってください。