2-9 三河攻め・竹千代奪取と小豆坂の戦い

 

信秀は、美濃では5千人討死の大敗も喫しましたが、三河ではその後も安祥城を確保し続けていました。古渡時代の信秀は、岡崎の松平広忠を追い込んで、竹千代を人質に差し出させたようです。しかし、その翌年には、三河に今川勢が出てきて小豆坂の合戦となります。

 

 

織田信秀による安祥城奪取後の三河の状況

1543(天文12)年、広忠派は岡崎1城となる

「第2室 2-5 三河攻め・安祥城の攻略」のページですでに確認しました通り、西三河の情勢は、「尾張勢」対「三河勢」や、「織田信秀」対「松平勢」の争いではなく、「織田信秀+松平一族中の反広忠派」対「松平一族中の広忠派」の争いでした。その後の松平一族内では、反広忠派がさらに拡大し、広忠派はついに岡崎1城となってしまった時期もあったようです。以下は、『新編 安城市史1 通史編』(村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 天文12年(1543)、小河水野家の忠正が没し、子の信定が継承。前年には、忠正の娘於大と広忠の間に竹千代(のちの家康)が誕生していたが、従来の松平との関係は決裂、翌天文13年(1544)の於大離縁。
● 『松平記』 は、松平一族の松平三左衛門忠倫〔安祥攻略時にすでに信秀と協力、筒針・渡に砦〕、松平家譜代の重臣酒井左衛門尉〔上野城主〕、広忠の伯父松平信孝〔岩津ほか莫大な所領〕があいついで広忠に叛き織田方になったと記している。信孝の離反は天文12年のことであろう。『三河物語』 は、「岡崎1城となる」と表現している。
● 天文13年(1544)〔信秀の美濃での敗戦後〕になると、西三河においても織田の圧力が弱まり、広忠は信孝の三木城(岡崎市)を攻略するなど、矢作川の東においては織田の勢力を一掃し、ひとまず「岡崎1城」の危機を脱していたのではないかと思われる。
● 天文14年(1545)、松平広忠は安城城を攻撃(『寛永諸家系図伝』)。広忠が安城城を包囲、信秀は直ちに後詰めの軍勢を派遣、広忠は前後を挟まれ窮地に。家臣が広忠の扇の馬印を受け取って敵を欺き、安城畷で戦死したので、広忠は無事退却。

つまり、「織田信秀+松平一族の反広忠派」対「松平一族の広忠派」の争いのなかで、広忠派がさらに縮小していたようです。広忠派の場合、広忠自身はあまりにも若くて実力がなく、今川頼みの阿部大蔵らの家臣が実権を握っていたと思われますので、その状況に嫌気がさした松平一族が皆離反していったのも理解できるところです。

信秀が攻勢に出て勢力を拡大した、のではなく、広忠派の自壊によって岡崎だけが孤立していった、と考える方が適切かと思われますが、いかがでしょうか。ただし、広忠派は安祥を攻める力も一応は持っていて、無力化していたわけではなかったようです。

一方、信秀方による安祥での広忠撃退は、信秀と松平一族の反広忠派との信頼関係が依然継続していたことを示しているように思われます。守護提唱プロジェクトの美濃攻めと異なり、信秀自身のプロジェクトである三河攻めには、工夫と努力を凝らしていたのであろうと推察します。

 

1546(天文15)年秋、三河情勢の大転換 - 今川が三河攻めを開始

北条と講和した今川は、1546(天文15)年10月から三河攻め

ところが、三河情勢については、1546(天文15)年に重大な変化が生じます。前年に北条との和睦が成った今川が、同年10月以降、三河への進出を開始したためです。以下は、今川方の状況について、小和田哲夫 『東海の戦国史』 からの要約です。

● 義元は、甲斐の武田とは同盟関係。〔加えて〕天文14年(1544)年10月、相模の北条と講和。必然的に領土拡大を狙うには、三河へ侵攻していかざるをえなくなる。
● その頃には北遠の伊井直平・天野景泰も従属、三河侵攻のおぜん立ては整った。西三河の松平氏は、義元に従属していたわけではないが、今川方だった。
● 今川軍が本格的に三河侵攻に動き出したのは天文15年(1546)10月から。この時から始まる三河攻めにおいて、軍事指揮をとったのは雪斎。
● 今川軍が最初の攻撃目標としたのは、東三河の今橋城(=吉田城、豊橋市)。当時、戸田金七郎宣成が城主。今橋城の戦いは同年11月15日。戦功のあった天野景泰。〔今橋城は〕落城。この今橋城攻めに松平広忠の家臣たちも動員されていた。

今川は、北条との講和が成るまで、三河には積極関与を行っていなかったが、講和後は三河攻めを開始した、ということのようです。雪斎と義元は、2正面作戦は取らない方針であり、その方針を守った、と言えるように思われます。

信秀の古渡城への移転は、あるいは、この今川の北条との講和・三河へ侵入開始という状況を意識したものであったのでしょうか。那古野より古渡の方が、少しでも三河には近づきますので。

 

信秀は、岡崎を「からからの命」で、人質に松平竹千代(徳川家康)

従来の通説 - 1547(天文16)年、今川への人質・松平竹千代を信秀が奪取

今川の三河攻め開始は、西三河情勢にも影響を及ぼしたようです。この時の情勢についての「従来の通説的理解」について、再び、小和田哲夫・上掲書からの要約です。

● 今川軍の東三河侵攻は、尾張の織田信秀を刺激、信秀が西三河に侵攻しはじめた。松平広忠は翌天文16年(1547)、義元に援軍の派遣を要請。義元はそれを了解、広忠の嫡子竹千代(6歳)を人質として出すよう要求。
● 竹千代が、同年8月2日、舟で西郡(蒲郡市)から大津(豊橋市老津)に渡り、そこから陸路で駿府に向かう予定であったところ、田原城の戸田宗光・堯光父子が舟を勧めたため一行は乗舟、するとその船は尾張に行ってしまった。これに怒った義元は、ただちに天野景泰らに命じ、田原城攻め、9月5日陥落。
● そして翌17年3月19日、岡崎近くの小豆坂で信秀と今川軍の直接対決。

北条と和睦した今川が、東三河に進出してきたので、信秀も、矢作川を越えて西三河での圧迫を強めた、そこで岡崎松平氏は今川からの援軍要請に踏み込んだが、信秀側もその対策を打った、というところでしょうか。

父親の松平清康が守山で横死したとき、子の広忠はまだ10歳であり、家臣の阿部大蔵らに従うだけであったと思われますが、それから12年を経た1547(天文16)年には、広忠は22歳になっており、若い結婚で生まれた嫡子竹千代はすでに6歳になっていた、ということになります。

この通説への補足として、以下は、横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。

● 信秀の重圧に対し、松平広忠は、あくまで信秀に対抗する方針。従来通り今川氏に服属する証として、嫡子竹千代(家康)を駿府へ人質として差し出すことになった。
● 信秀に竹千代を人質に取られても、松平広忠は信秀に降伏・帰順することを頑強に拒んだ。信秀は竹千代を熱田の土豪(豪商)加藤図書助順盛に預けた。6歳の竹千代は、ここで天文18年までの2年余を過ごすことになる。

信秀と対立して来た松平広忠は、竹千代を尾張に取られても、信秀に降伏せず対立を続けた、という展開です。

新説 - 1547(天文16)年、信秀は松平広忠を降伏させ、竹千代を差し出させた

こうした従来からの通説に対し、『新編 安城市史1 通史編』 の戦国時代部分の執筆者でもあった村岡幹生氏は、「織田信秀岡崎攻略考証」の中で、史料の再発見により、天文16年には信秀が松平広忠を降伏に追い込み、それにより竹千代を信秀に差し出させた、という指摘を行いました。以下は、重大な指摘ですので少し長くなりますが、この村岡論文からの要約です。

● 本成寺(新潟県三条市)の文書のうち9月22日付菩提心院日覚書状。桶狭間の戦いでの今川義元敗北のことと解されてきたが、明らかに誤り。京都の情勢にふれた記事の内容から、天文16年に比定される。
● 当該文書の記載。「三州は駿河衆敗軍の様に候て、弾正忠まずもって一国を管領候。威勢前代未聞の様にその沙汰とも候 … 岡崎は弾〔正忠〕へ降参の分にて、からからの命にて候。」〔同論文での引用を読み下し〕
● 天文16年に織田信秀が岡崎城を押さえたとの伝、別の同時代史料も存在。天文17年3月11日付の織田信秀充て北条氏康書状写。
● 日覚書状・北条氏康書状の記述は、いずれも織田信秀から発信された情報。自己側の戦果を誇大に発信することはよくある。
● 他史料が示す三河の状況、
・天文15年11月 今川、今橋城〔豊橋市〕攻め
・天文16年6月13日以前 今川、今橋を入手
・同年7月8日以前 今川、医王山〔岡崎市、山中城の地〕に砦普請を終える
・同年9月5日 今川、田原城〔田原市〕を攻める
● 織田による岡崎城攻略が事実とすれば、ときに天文16年9月上旬。まさしく今川は田原での戦闘の最中。岡崎は今川軍の支援を得ることができず、容易に攻落できたはず。岡崎降参情報が真実味を帯びる。
● 今川が三河国人から人質を取ることは、天文18年以降多く実施。天文16年段階でことさらに松平広忠に子息〔=竹千代〕差し出しを求める理由があっただろうか。これに対し、天文16年9月、織田信秀が松平広忠を「からからの命」に追い込み、竹千代を差し出させたとみるのは、確証はないにしても、状況としてはるかに合理的で無理のない想定。
● 天文16年9月上旬、織田信秀は田原戸田氏と連動し、西三河に攻め込み、岡崎城の松平広忠を攻めた。信秀は直後に岡崎攻落を宣言している。それが事実であった可能性は高い。

この村岡論文には、小和田哲夫 『東海の戦国史』 も注目し、広忠の信秀への降参については「従来の理解とは異なる状況があったことはたしか」、竹千代は広忠から信秀に差し出された点についても「今後の論証が必要だが、仮説として、その可能性はある」、とコメントしています。

従来の通説的理解では、信秀がどのように松平広忠への圧迫を強めたのか、今一つ具体性に欠けていましたが、この村岡説からは、信秀は今川軍が援軍を送れないスキに広忠を降参させた、という状況が分かります。新説が正しいなら、信秀は、美濃と三河の2正面作戦を、1547(天文16)年段階では両立させていて、しかも三河では大きな成果を上げていたことになります。本歴史館は、天文16年以降の三河の情勢については、横山説ではなく、この村岡説に従いたいと思います。

信秀の岡崎松平氏攻略は、今川義元と相談の上

『愛知県史 通史編3』(平野明夫・村岡幹生両氏 執筆部分、二人の執筆区分は明示されていないものの、内容から村岡氏執筆と思われる)は、上記の村岡説をさらに発展させたような見解となっています。以下は、同書からの要約です。

● 今川氏の今橋城攻撃と言う状況下、1547(天文16)年に織田信秀は今川義元と相談して三河へ出兵した。
● 松平信孝・安心軒(刈谷水野信元の一族か)が(駿河)府中に滞在したのは、信秀と義元の和睦を仲介するためかもしれない。なお、この信秀の行動に守護・守護代がどのようにかかわっていたのか、明確でない。あるいは、信秀の単独行動であった可能性もある。
● 信秀は即座に安城城を攻め破り、松平広忠の岡崎城を包囲し、9月上旬には広忠を降伏させた。広忠は、信秀への降伏の印として嫡男竹千代を人質としたと推測される。
● その直後に、情勢が大きく転換した。おそらく、背景には織田信秀と今川義元の決裂があったのであろう。松平信孝が信秀と通じて大平・作岡・和田(以上岡崎市)の3城を取り立て、今川方は松井宗信が医王山(山中城)に拠ってこれに備えている。

一時的にもせよ、信秀と義元の間に三河分割の和睦が成り、それに基づいて信秀が岡崎を攻めた可能性があるようです。

1547(天文16)年は、信秀の人生の絶頂期

岡崎松平氏を攻略し、広忠を「からからの命」に追い込んで竹千代を人質に取ったときが、信秀の人生の絶頂期であったように思われます。尾張の西端に近い勝幡城を居城とする1地方領主から出発して、那古野城を取って移り、三河に進出して安祥城を取り、美濃では5千人討死という失敗もあったものの大柿城を取って維持していました。それに加えて、三河の岡崎も降伏させたわけです。

しかし、この時点をピークに、信秀の人生は衰退期に向かいます。

 

1548(天文17)年、信秀対今川の「小豆坂の戦い」

横山説 - 小豆坂の戦いは、天文17年の一度だけ

新説に従えば岡崎の松平広忠を降伏させたおよそ半年後の1548(天文17)年3月19日、信秀は今川軍と直接の戦闘を行いました。小豆坂の戦いです。以下は、再び横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。

● この戦いはほぼ同じ所で二度あったといわれ、1回目は天文11年(1542)、織田軍は小豆坂の7本槍といわれる武将の活躍で今川軍を打ち破ったという。2回目は天文17年3月で、小豆坂を登り詰めたところで両軍が蜂合わせになって戦闘が起った。しかしながら、全く同じような戦が二度くり返されるとは考えがたい。
● 『信長公記』、8月上旬の安祥攻略につづいて「あづき坂合戦の事」、二度目の戦の記事が無い。『三河物語』、小豆坂の戦は今川勢が安祥城を攻略する前年のこととして、一度だけの合戦。
● 確実な史料、戦の直後に出された今川義元感状。〔合戦の日付は天文17年3月19日〕
● 今川義元感状や 『三河物語』 による限りでは、天文17年3月19日の一度だけと考えなければならない

新説通りに、1547(天文16)年9月以前に信秀が松平広忠を降伏させていたとしても、その翌年1548(天文17)年3月には小豆坂で今川軍と現に戦っているわけですから、西三河の情勢は、このとき「信秀+松平一族」対「今川勢」の争いに変化し、信秀の三河支配は安定的なものにはならなかった、と言えるように思います。

『愛知県史』 説 - やはり天文11年の戦いもあったとしているが

一方、『愛知県史 通史編3』 は、1542(天文11)年の戦いもあった(二度あった)、という説です(平野明夫・村岡幹生両氏 執筆部分、二人の執筆区分は明示されていないものの、この箇所については、村岡氏ではなく平野氏かと推測される)。以下は、同書からの要約です。

● 『信長公記』 の記述を信用する限り、1548(天文17)年以前に戦死した信秀の弟の織田信康が小豆坂の戦いに参戦しているので、1542年の戦いもあったと考えられる。
● 『信長公記』 によれば、信秀の軍勢には那古野弥五郎などの「清須衆」が参加していた。那古野弥五郎は庵原氏〔由原は庵原と見ている〕に討ち取られ、それによって今川勢は引いたという。那古野弥五郎を討ち取ることが今川氏の目的であったのであろう。このことは信秀軍の総大将が清須衆の那古野弥五郎であったことを示している。したがって、三河へ出兵した尾張勢は、守護・守護代の命令をうけて出陣したものであった。

しかしながら、「『信長公記』 の記述を信用する限り」、この戦いの場所は西三河の小豆坂で松平所領内であるのに、岡崎の松平ではなく駿河の今川が出てきて、しかもその後は駿河衆が西三河まで入ってきた、とされています。そうした今川勢進出・松平逼塞の状況は、1542(天文11)年の状況には明らかに適合しません。1548(天文17)年の状況なら、ぴったり適合しますが。

この『信長公記』の記事中にはどこかに間違いがあり、矛盾が生じているものと考えざるを得ません。例えば、信秀軍の相手が今川ではなく岡崎松平氏だったなら、この記事は1542(天文12年)の記事として何も不自然はありません。あるいは、織田信康が参戦していなかったなら、この記事は1548(天文17)年の今川との合戦についての記事としてやはり不自然なく成り立ちます。記事自体に矛盾があるのですから、『愛知県史』(平野氏?)の言う「『信長公記』 の記述を信用する限り」という限定は成り立たないと思われます。

『愛知県史』 説は、三河攻めも守護・守護代が命じたとの説だが

また、『愛知県史』(平野氏?)の言う「尾張勢は、守護・守護代の命令をうけて出陣」というのも疑問です。美濃では、守護家・土岐一族内の争いの中、その一方からの支援要請を受けて尾張守護が出兵を命じましたが、三河では、尾張の守護・守護代が三河攻めを尾張国内の武将たちに命令をするような状況であったのか、それを立証する史料はあるのか、そうした確認なしに、記述に明らかに矛盾のある 『信長公記』 の記事のみに基づいて、守護・守護代の命令であったと断定するのは、説得力を欠いているといわざるを得ないように思います。

実際、『愛知県史』 同章・同節の別箇所には、上掲の通り「この信秀の行動に守護斯波義統・守護代織田達勝がどのように関わっていたのか、明確でない。あるいは、信秀の単独行動であった可能性もある」とも書かれています。『愛知県史』 執筆者2人の見解が相違していて、この時期の三河攻めについて、一方(おそらく平野氏)は守護・守護代命令説をとり、他方(おそらく村岡氏)は信秀単独行動説を取っているように思われます。

後で確認しますが、翌1548(天文17)年以降に、今川方の反攻が開始され、信秀側が押し込まれて1550(天文19)年末に幕府が和睦を進めた時も、幕府は守護・守護代に働きかけたのではなく、信秀に働きかけ、義元ー信秀間で停戦が成立したと思われます。その点からも、三河攻めが守護・守護代の命じたものであったとの説は、説得力を欠いているように思われます。

本歴史館は、他の史料の存在と状況証拠から、横山説の方にはるかに大きな説得力を感じますので、小豆坂の戦いは、信秀軍(尾張軍ではない)と今川勢との合戦であり、1548(天文17)年の一度きりであった、との説に立ちたいと思います。

『信長公記』 が述べている「あづき坂」の合戦

『信長公記』には、首巻2に「あづき坂」合戦の記事があります。以下は、その要約です。

● 8月上旬、駿河衆が三河の国正田原へ出てきて、七段に人数を備へた。その折節、三河のうち安祥の城は織田備後守〔信秀〕がかかえていた。
● 駿河の由原が先駆けして、小豆坂へ人数を出した。すぐに、備後守が安祥より矢作へ駆け出し、小豆坂で、備後守殿御舎弟衆の与二郎殿〔信康〕・孫三郎殿・四郎次郎殿初めとして既に一戦に取結び相戦った。… 那古野弥五郎は清須衆であったが討ち死にした。… 三度・四度かかり合いかかり合い下り敷いて、各々手柄と云う事限りなかった。ここにて那古野弥五郎の首は由原が討取った。これより駿河衆の人数が入ってきた。

「各々手柄と云う事限りなし」と書いて、合戦は信秀側が勝った印象を与えていますが、「是より駿河衆人数打納れ候なり」として、「この頃から、この辺りへは駿河の軍勢が侵入するようになった」とも書かれています。

記事には年号が入っていませんが、この記事は天文15年の信長元服の前に置かれており、角川文庫版にも現代語訳にも、天文11(1542)年との注記が入っています。上の引用中の省略箇所には、この戦で「よき働の衆」の名が挙げられており、非常に具体的な書き方ですので、これがまさか事実と異なるとは思いにくい印象を与えていますが、『信長公記』 の著者・太田牛一が信長に仕えだすはるか以前の出来事であるだけに、牛一が仕入れた情報が間違っていた可能性は十分ありえます。

『三河物語』 が述べている小豆坂の戦いの実際

小豆坂の戦いの実際はどうであったか、合戦の時期が今川義元感状に合致していて信憑性が高そうな 『三河物語』 の記述(現代語訳、原文参照のうえ一部を修正)です。

● 弾正之忠(信秀)は駿河衆が出陣したことを聞いて、清須〔古渡の誤り〕の城を出発、翌日は笠寺・鳴海に陣を取り、翌日は笠寺を出発、安祥に着き、そこより矢作川の下之瀬を越えて、上和田の砦に移る。
● 翌日は、馬頭之原へ押し出して敵と相対そうと、上和田を夜明け前に出発する。駿河衆も上和田の砦を攻めようと、これも藤河を未明に押し出す。藤河と上和田の間は一里ある。
● 山道のことなので、お互いを見つけられず進んでいった。小豆坂へ駿河衆が上がったところ、織田三郎五郎(信広)殿が先陣として、小豆坂へ登ろうとするところで、鉢合わせして互いに動転した。とはいえ互いに旗を立て、すぐに合戦が始まる。
● しばらく戦っていたが、三郎五郎殿が打ち負かされて、盗人来(ぬすびとき)まで退却する。盗人来には織田弾正之忠の本陣があり、盛り返して小豆坂の下まで攻め込んだが、そこからまた押し返された。
● この時の合戦は五分五分だとはいっても、弾正之忠の方は二度も追い返され、人も多く討たれたので、駿河衆の勝ちといわれた。
● その後駿河衆は藤河へ引きあげ、弾正之忠は上和田へ引き上げ、それから安祥へ引きあげる、安祥には舎弟〔庶子の誤り〕の織田三郎五郎殿を置き、弾正之忠は清須〔古渡の誤り〕へ引き上げられた。三河で小豆坂の合戦と申し伝えられているのは、このことだ。

この 『三河物語』 の記述からは、戦闘は織田軍と駿河衆との戦闘であって、岡崎松平勢は参加していなかったように読み取れます。前掲の村岡論文も、「『三河物語』 が小豆坂の戦いにおける岡崎城の広忠率いる松平隊の動きに一切言及していない」が、「岡崎衆は織田軍の戦闘配置の内に組込まれていた」とすれば矛盾はなく、小豆坂で「今川軍として働いた 『岡崎衆』 がいたとして、それは岡崎離反牢人衆であろう」とみています。

『三河物語』 は、「弾正之忠の方は二度も追い返され、人も多く討たれたので、駿河衆の勝ちといわれた」と書きました。この戦いで決定的な敗北は回避できた信秀側も、こうして今川本隊が出てきた以上、今後はこれまでのように順調にはいかないことを痛感したのではないかと推測します。

小豆坂の戦いの地図

下は、小豆坂の戦いの位置を確認するための地図です。

小豆坂の戦い (地図)

上和田は、安祥城から東方の矢作川対岸、直線で5キロほどのところ、上の地図中では、明治中期の5万分の1地図で示されている集落の位置を示しています。ここには、今も字城前、字南屋敷、字北屋敷という地名が残っています。

『愛知県中世城館跡調査報告 2 西三河地区』 には、上和田町字南屋敷に現在も堀跡地や小高い一角がある、大久保忠茂が三河一向一揆に際して城郭とした、大久保氏の屋敷は上和田一帯にあった、と記されています。ただし、宅地化の結果として正確な場所が確定できないようです。信秀のときに上和田砦となった地が、三河一向一揆時に大久保氏の城郭となった、ということでしょうか。なお、「盗人来」の現在の地名は残念ながら不明です。

小豆坂古戦場の石碑は、光ヶ丘女子高校のある光ヶ丘交差点の南に立っています。織田軍の上和田からは約3キロ、今川軍の藤川からは確かに1里=4キロほどのところです。上述の村岡論文中に、今川方は前年天文16年の7月8日までに医王山の砦普請を終えていたとありますが、医王山=山中城は、藤川からは2キロ強南東、名鉄でいえば名電山中駅の近くでした。今川軍はこの山中砦から来たのかもしれません。

石碑のある光ヶ丘交差点から南に600メートル弱のところに小豆坂交差点があります。また、光ヶ丘交差点から南西に1キロ弱降りていくと、岡崎工業高校の敷地そばに小豆坂のバス停があります。

石碑脇の岡崎市教育委員会の案内板(2018年1月現在)は、天文11年・17年の2度の合戦説に立っていて、天文17年の戦いはなぜか「今川・松平連合軍」としていますが、「天文11年の戦いはなかったという説もある」と記しています。また「古戦場碑は昭和62〔1987〕年に、槍立松碑及び血洗池碑は平成5〔1993〕年に、いずれも付近の別のところから移設した」と記されていますが、移設前の元の場所がどこであったのか、示されていないのは誠に残念です。

1946年の航空写真から見る小豆坂の戦い

下は、国土地理院のウェブサイトで公開されている、1948年の小豆坂周辺の航空写真です。

小豆坂の戦い (航空写真)

現在とは大いに異なり、当時はこの地域の開発は限定的で、道路の密度も非常に低かったことが分かります。1948年の道路の状況や位置は、戦国時代とある程度は一致していたと推定しても良いのではないかと思われます。「馬頭」は、明治中期の5万分の1地図に示された馬頭集落の位置であり、その近くに馬頭の原があったと思われます。

この航空写真から明らかなことは、上和田から馬頭の原に向かう、あるいは藤川から上和田に向かう場合、石碑の現在の位置は通らなかったであろう、ということです。戦闘は、石碑の現在地より数百メートル以上南方または南西方で行われたのだろうと思われます。

小豆坂の戦いでは、坂を上る織田軍を、今川軍は坂上の台地から攻撃

地図だけ見ていると高低差がよく分かりません。そこで、正確ではないものの概略の標高が分かるYahoo地図の距離計測機能を活用して、織田・今川両軍が進んだと思われる行軍路の高低差を確認したいと思います。織田軍は上和田近くの比蘇天神社から、今川軍は名鉄名古屋本線藤川駅から出発して、それぞれ小豆坂上を目指して、1946年にあった道と同じ道筋を進んだ、との仮定で計測してみました。下の標高グラフは、国土地理院の地図から等高線を読み取るような正確さではないことは、ご諒解ください。

小豆坂の戦い (織田・今川両軍の行軍路の高低差)

織田軍は、出発点から小豆坂上まで距離は3キロ弱、その間はずっと上り坂です。標高は、出発点は10mちょっとで小豆坂上は45mほどですから、30m以上の高低差を登る必要がありました。他方、今川軍は、小豆坂上まで約4.5キロと距離は長いものの、小豆坂上よりも10m以上標高の高い地点が出発点で、織田軍よりは高低差がはるかに小さい行軍路を進みました。

つまり、急坂を登る必要があった織田軍に対し、今川軍は最初から台地上にいたわけで、今川側が高低差でもともと有利であった、織田側は、高低差で不利にならないようにするには、もっと早い時刻に出発して坂上に先に到着している必要があった、と言えるように思われます。

なお、小豆坂合戦について 『松平記』 は、今川軍は「上和田に陣を取り、小豆坂に上る … 尾州衆は … 坂中に出合わせてせり合いを始め」と記しています。しかし、こうして地図を確認しますと、この 『松平記』 の記述は、現地の状況に合っていないことがよく分かります。

『松平記』 通りなら、東から来た今川軍は先に上和田まで進出していたのに、わざわざ小豆坂に引き返したことになり、一方、織田軍は、どこか回り道をして北か南から小豆坂に来たことになってしまいます。上掲の村岡論文も、『松平記』については、「話の脈略としても、地理的にも、まったく意味をなしていない」と指摘しています。小豆坂合戦の説明に 『松平記』 を引用している本もありましたので、念のため。

 

 

1544(天文13)年の美濃攻めでの5000人討死事件後も、古渡城時代の1548(天文17)までは、信秀は西三河戦線では攻勢を続け、松平広忠を降参させたかもしれないこと、そして1548(天文17)年の小豆坂の戦いを確認してきました。次は、信秀の古渡時代の美濃戦線の状況についてです。