1552(天文21)年3月に、織田信長の父・信秀が亡くなると、信長は、本来なら嫡子として織田弾正忠家を引き継ぐのが当然の立場にありながら、その「大うつけ」ぶりが災いして、弟・信勝との分割相続となってしまいました。
父・信秀の死後の2年間で、尾張の情勢はめまぐるしく変化します。変化の一つは対外関係で、信秀生存中に合意した今川との停戦が破れます。もう一つは尾張国内で、清須衆が守護を殺害する下剋上事件が発生、その成り行きの結果、信秀の死からわずか2年後の1554(天文23)年4月、信長は那古野城から清須城に移り「守護の保護者」になります。
このページでは、この信秀没後の2年間の変化のうち、最初の1年ちょっとの間に、どういう事件がどういう順番でいつ起こったのか、そしてその最初に起こった、道三から信長を気遣った書状と、今川の八事出陣について確認します。
● このページの内容 と ◎ このページの地図
------------------------------
織田信秀の死後1年間ほどで起こった諸事件
赤塚合戦は、信秀の死の翌月か? 道三との面談の直後か?
まずは、信秀の死から1年間ほどのうちに、外交・軍事関係ではどのような事項が発生したのかを確認します。1553(天文22)年4月までに発生した事項について、何がいつ起こったのか、村岡幹生氏と横山住雄氏、両氏の説を整理しますと、下のようになります。
● 村岡説(「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」より)
村岡説 | 月日 | 事項 |
---|---|---|
1552 (天文21)年 |
3月3日 | 信秀死去 |
同 | 4月17日 | 赤塚合戦 |
同 | 6月22日 | 斎藤道三から織田玄蕃丞秀俊あて書状 |
同 | 9月 | 今川義元、八事まで出陣 |
1553 (天文22)年 |
閏1月 | 平手政秀の諌死 |
同 | 4月 | 斎藤道三と織田信長、尾張国冨田正徳寺で会見 |
同 | 4月下旬 | 三河・尾張取合い(「大林家盛参詣道中記」) |
● 横山説(『織田信長の尾張時代』より)
横山説 | 月日 | 事項 |
---|---|---|
1552 (天文21)年 |
3月3日 | 信秀死去 |
同 | 6月22日 | 斎藤道三から織田玄蕃丞秀俊あて書状 |
同 | 9月 | 今川義元、八事まで出陣 |
1553 (天文22)年 |
閏1月 | 平手政秀の諌死 |
同 | 4月 | 斎藤道三と織田信長、尾張国冨田正徳寺で会見 |
同 | 4月17日 | 赤塚合戦 |
同 | 4月下旬 | 三河・尾張取合い(「大林家盛参詣道中記」) |
当然のことながら、両氏は、ほぼ同じ事項を上げていますが、一つだけ異なっているのが赤塚合戦の時期の見方です。村岡説は天文21年4月17日とし、横山説はその1年後の天文22年4月17日としています。赤塚合戦の時期の見方が異なっていることによって、この間、信長には何が起こったのかについての見方も変わってきます。
村岡説: 赤塚合戦=1552(天文21)年とする場合
この村岡説の概略を要約しますと、以下のように整理できるかと思います。
● 信長は今川との和睦に元々反対、信秀が没すると、さっそく停戦違反の赤塚合戦を単独で実行。
● それを心配する斎藤道三の書状。
● 一方今川も、すぐに八事出陣で停戦違反、ただし織田側応戦の史料はない。
● 道中記史料で天文22年4月下旬頃に今川・織田抗争、しかし他に史料はない。
● 一方その頃、道三と信長の会見、信長は道三から全面支援の約束を取り付けた。
信長は、信秀の没後わずか1月半後にやみくもに赤塚合戦を仕掛け、その後で道三からの支援を取り付けた、という流れになっています。
横山説: 赤塚合戦=1553(天文22)年とする場合
これに対し、横山説の概略を要約しますと、以下のように整理できるかと思います。
● 信秀が亡くなり、道三が信長を気遣って書状。
● 信秀の死を知った義元は好機とみて、天文21年9月には八事まで出兵。
● 翌年に入り、平手政秀の諌死で改心の情を見せた信長は、富田で斎藤道三と会見。
● 道三との会見後、今川方の山口父子に対し、赤塚で激戦、道中記史料もある。
道三は信秀が亡くなったことを気遣った、先に停戦違反をしたのは今川義元、信長は道三からの支援が得られることを確認した上で赤塚合戦に踏み切った、信長が赤塚合戦を仕掛けたため三河・尾張の取合いとなった、という流れとなります。赤塚合戦については、道三からの支援を確認した上で仕掛けたわけで、信長は慎重であった、という印象になります。
事件発生の順番がひとつ変わるだけで、流れをどう見るか、解釈が全く変わってくる、ということが良く分かります。信頼性のより高い史料の発掘が最重要、ということをよく示しています。
赤塚合戦の時期の混乱は、『信長公記』 の記述の混乱に原因あり
赤塚合戦とは、今川に通じた鳴海城の山口左馬助・九郎二郎父子に対し信長が出陣、鳴海の北方赤塚で山口九郎二郎と戦った、というものですが、上述の整理から、この合戦を、天文21年に発生とみるか、22年の事件とみるかによって、この間の全体の流れの理解がかなり変わってくることが分かります。
赤塚合戦の時期の見方が分かれているのは、『信長公記』(首巻11)の記事の書き方に問題があるためです。「天文22年癸丑4月17日、織田上総介信長公19の御年の事に候」と書かれていますが、実は天文22年≠信長19歳なのです。「天文22年癸丑」が正しければ信長は20歳、「信長公19の御年」が正しければ天文21年、でなければなりません。『信長公記』 の角川文庫版は、この記述に何も注記を付けておらず、新人物文庫版の現代語訳も角川文庫版を踏襲して、天文21年のこととしています。
赤塚合戦は、1553(天文22)年とみるのが妥当
横山説が赤塚の戦いを天文22年としているのは、「鳴海旧記」など江戸中期の史料が天文22年説であることも根拠の一つとなっているようです。また横山説であれば、村岡説が取り上げている道中記史料に書かれた「三河・尾張取相」と赤塚合戦の時期が一致することになり、赤塚合戦があったために尾張・三河の国境の他の地域も緊張した、と理解できます。
ついでに言えば、谷口克広 『天下人の父・織田信秀』 は、村岡説と同じく天文21年説をとっています。それに対し、小和田哲夫 『東海の戦国史』 は、横山説と同じく天文22年説であり、さらに同年には「今川義元、尾張国沓掛にて織田信長と戦ふ」と記している史料の存在も指摘しています。
史料的にも、流れとしても、横山説がより説得力ありと思われますので、本歴史館では、赤塚合戦の時期を天文22年とみることとして、以下では、父・信秀の死から1年以内に起こった、道三からの手紙と、今川の八事出兵について、確認していきたいと思います。
織田信長を心配した斎藤道三の手紙
信秀の死後、斎藤道三が信長を心配して出した天文21年6月22日付の手紙について、以下は前掲・横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。
● 〔道三の漢文手紙の現代語訳抜粋〕ご家中の様子は雑然としているとのこと、御同情する。私としても捨て置けないので、変わったことがあれば相談してほしい。… 三郎殿様〔信長〕は御若年のことゆえ、万端に御苦労のことであろう。…
● 〔手紙のあて先〕織田玄蕃允は稲葉地城主(名古屋市)で、信長の一族衆。
この手紙の解釈が問題なので、その原文を確認せずに申し上げては誠に申し訳ないのですが、以下は、信秀の死の翌月に赤塚合戦があったとみる村岡幹生・上掲論文からの要約です。
● 天文21年4月17日、信長は800ばかりの兵を率いて出陣〔赤塚合戦〕。今川との停戦を破る行為であり、それが引き起こす事態は極めて重い。にもかかわらず信長はそれを単独で実行している。弾正忠一派を率いるべき頭目としての自覚を欠いた行為として、一族・一派内において非難されて当然である。
● 同年6月22日、斎藤道三が織田玄蕃丞秀敏(信長の大叔父)に返書して、「ご家中の体、仰せのごとく外聞然るべからざる次第に候」と述べている。主題は、信長の弾正忠一族・一派の頭目らしからぬ振舞いそのもの。
この村岡説は、やはり納得しにくいように思われます。「ご家中の様子は雑然」=「外聞然るべからざる次第」があったとは、あくまで一族家中の内部のことが問題になっている、と理解されるように思われるためです。
実際にこの手紙の前に赤塚合戦がありそれが家中で問題になっていたとしても、戦闘行為それ自体は対外的な行為であって「外聞然るべからざる」話ではなく、また、合戦が妥当か不穏当かについての家中論争よりも、合戦が現に行われてしまった結果としての今川方との今後の抗争の発展の方が、はるかに重要な主題となりそうに思われます。
したがって、この手紙の前に赤塚合戦があったとしても、「外聞然るべからざる」という言葉で心配されていたのは、今川方との抗争関係ではなく、恐らくは信長と弟・信勝との分割相続の結果生じた一族家中の内紛に関わる問題であった、という気がしますが、いかがでしょうか。
今川義元の八事出陣
1552(天文21)年9月、今川義元の八事出陣
村岡説・横山説のどちらも、この年に今川義元の八事出陣があったことでは一致しています。以下は、村岡幹生・上掲論文からの抜粋です。
● 『定光寺年代記』 に、同年「9月、駿州義元、八事マテ出陣」とある。天文19年、福谷城まで進出していた今川軍勢が、同21年9月に和睦を破って尾張国八事まで侵入。義元自身の出陣まではなかったとしても、今川武将の八事進出があったことは確か。
● 当時、「八事南迫(やごとみなみはざま)」という地名は、日進市から名古屋市天白区にかけての天白川・植田川流域一帯を指していた。
● 天白川流域では、翌22年3月時点で、藤島城主が丹羽右近氏識、岩崎城主が福島氏であることが確認できる。天文20年当時、岩崎城主であった丹羽右近は、藤島城主であった庶族丹羽氏秀と対立、氏秀が織田信長を引き入れて氏識を攻撃、氏識は平針まで打って出て信長方侍の首級をあげた。翌21年の今川軍勢八事侵入で、氏識は自身の岩崎城を今川の将福島氏に譲り、自らは氏秀より奪い取った福島城に移ったという経緯が推定される。
● 今川軍勢の八事侵入に信長・信勝ら弾正忠一族・一派が軍事的に応戦したと伝える史料は見当たらない。
実際に義元が来たのか、義元自身は来なかったのか、気になります。「駿河衆、八事マテ出陣」ではなく、「駿州義元、八事マテ出陣」と書かれていることからすると、義元自身も八事まで来た、と思いたくなります
ただ、尾張側に応戦したと伝える史料が見当たらないのであれば、大した軍事行動はなかったかもしれません。行動対象が、ここに挙げられた岩崎や藤島だけにとどまったとするなら、もともと今川方が押さえていた地域であり、織田方にはほとんど影響がなかった、と読めてしまうのですが、それで正しいのかどうか。
義元の行動は、3年前の三河と同一のパターン
1549(天文18)年の3月、三河の松平広忠が亡くなった時、今川はすぐに岡崎城を接収するとともに、その年の9月から西三河への本格攻勢を開始しました。3年後の1552(天文21)年、やはり3月に信秀が亡くなり、9月に尾張に軍事行動を開始したのは、3年前と同一の手口であった、と言えそうです。信秀が亡くなった時点で、今川方は停戦協定を守る気はなくなり、逆にせっかくの機会を有効に活用しようと考えたと推定するのですが、いかがでしょうか?
勝手な推測なのですが、おそらく今川方は、実際に軍事行動を起こす前に、弾正忠家内にゴタゴタが発生していることは当然つかんでいて、弾正忠家の一族家中への切崩し工作もやはり仕掛けていたのではないでしょうか。にもかかわらず、3年前の三河とは異なり大規模な軍事行動とならなかったのは、ゴタゴタの内紛はあっても、弾正忠家内からは誰も今川の誘いに乗る者が出てこなかった、という状況であったと推測できるように思われますが、いかがでしょうか?
今川勢はどこまで来たのか? ー 当時、八事の範囲は広かった
上掲の村岡論文は、ここでの八事出陣は「八事南迫」で、岩崎・藤島(どちらも日進市)のことを指す、としています。一方、現代の名古屋市民に「八事」というと、地下鉄八事駅周辺を思い浮かべると思います。岩崎・藤島は、地下鉄八事駅からは7~8キロも離れています。岩崎・藤島を八事と言うことは、東京でいえば、荻窪・上北沢・経堂あたりを新宿、田園調布や用賀あたりを渋谷と言うようなものなので、現代の感覚からは、かなり違和感を受けざるを得ません。
中世の八事の範囲について、以下は 『新修名古屋市史 第2巻』(上村喜久子氏 執筆部分)からの要約です。
● 「八事」という地名は現在も、〔名古屋市〕昭和区・天白区にあるが、中世の八事迫(はざま)にあった大聖寺(廃寺)はかつて天白区八事表山にあった天台宗の寺院であり、現代の八事が八事迫の系譜をひく地名であることは確か。
● 中世の八事迫は、現在の八事よりはるかに広い地域。北迫と南迫がそれぞれ独立した公領。北迫には岩崎郷(日進市)のほか、菱野村・山口村(瀬戸市)が含まれる。天白川・植田川・矢田川上流流域の迫の総称であった。南迫については史料を欠く。
上掲の村岡論文とこの 『新修名古屋市史』 では、「八事南迫」の定義が異なっているようですが、中世の当時、「八事迫」という名で呼ばれる地域の範囲が広かったことは間違いないようです。下の地図をご覧ください。緑色の文字と点線の枠線で、天白川上流域、植田川上流域、矢田川上流域などと書き込んだ地域が、『新修名古屋市史』 の記述にある「八事北迫」ということになります。
一方、黄土色の文字と点線の枠線で猪子石・中根・島田の地名と「八事の範囲?」と書き込んだのは、八事・杁中歴史研究会 『八事・杁中歴史散歩』 の記述に従ったものです。史料の裏付けが記されていないので、信頼性の確証に欠けているのですが、以下は、「八事」という地名についての本書からの要約です。
● かつて八事と呼ばれていた範囲の中心は、〔現在の〕八事交差点ではなく、現在の町名でいうと天白区元八事のあたり。地名の由来として有力な説は、8日毎に市が開かれていたため、八毎(やごと)の字が八事に転化したのではないかというもの。
● かつて八事と呼ばれていた地域は、北は現在の名古屋大学、東山公園、さらに猪子石のあたりまで、東は天白川の西にあたる島田、中根なども含まれていた。
上の地図で、『新修名古屋市史』 の「八事北迫」と、『八事・杁中歴史散歩』 の「八事」とを比べてみると、「八事」は、「八事北迫」のうちの植田川流域地域とおおむね重なる地域である、と分かります。
そもそも今川が岩崎・藤島あたりまで来ただけだったなら、もともと今川方の地域であり、「定光寺年代記」はわざわざ記録しなかったのではないか、あるいは、八事南迫の東端地域なので、「八事迫」と書くか「岩崎・藤島」と書いて、「八事」とは書かなかったのではないか、「定光寺年代記」に「八事」と書かれているのは、今川勢が植田川流域の地域まで、あるいは元八事や八事表山あたりまで出てきたからではないか、という気がするのですが、素人考えでしょうか?
江戸期、八事・興正寺は、江戸幕府からの攻撃に備えた尾張藩の防御拠点?
現在の八事一帯は、元八事の北西方の丘陵地であり、江戸期にはそこに興正寺が建てられます。
下は、江戸時代・寛政ごろといいますから、義元の八事出陣からは2百数十年たった18世紀末頃に制作された八事村の村絵図です。当時の八事村は、植田川の西岸・天白川の北岸で北方の山まで広く含んでいたこと、村の中心部は、村の南端の川と山に挟まれた地域にあったこと、興正寺は、村の中心部からは北西方の山中に建てられたことが分かります。
尾張藩にとって八事は特別な地であったことについて、以下は、再び八事・杁中歴史研究会 『八事・杁中歴史散歩』 からの要約です。
● 1686年、天瑞圓照和尚が八事の山に密教と戒律の寺の建立を発願、噂を聞いた藩主光友が和尚を城へ呼び、1688年に寺の建立を認める。
● 興正寺が創建された時点でもまだ西国大名が脅威になっていたとは考えられない。それでも遺構から見ると、興正寺は砦として作られていると考えられる。興正寺付近の地形をよく見ると、西からではなく東から攻めてくる敵を迎え撃つのに適した地形。東の敵とは徳川幕府。
● 尾張初代・徳川義直の藩主在位は、1610~1650。3代将軍家光の在位と重なっている。家光は1634年に上洛したとき、名古屋城本丸御殿を使用。帰路にも立ち寄ると言いながら、立ち寄らなかったことに義直(=家光の叔父)が激怒、また義直の参勤交代延引に対し家光が「延引するのであれば、鳴海表まで直に迎えに参ろうかと思い候(=多くの軍勢を引き連れていく)」と語ったことなどから、光友が尾張藩を継承後は、江戸に対する備えを着々と進めていく。
● 興正寺は尾張藩の祈願所として手厚い保護、ただし徳川家にゆかりの人の墓はない。また、八事周辺にある川名山や南山などの山々は、尾張藩家臣団の控え山、いざというときの前線基地となる場所だった。八事から現在の東山公園方面は尾張藩の狩り場となっていた、しかも藩の許可がなければ勝手に立ち入ることのできない不入林。興正寺は東の敵からの防御を目的とする隠れた使命を負っていた。
八事・興正寺は、江戸の将軍家=尾張藩の仮想敵に対する防衛拠点として、砦にもなるように作られた、という大変に面白い説なのですが、本書では、残念ながら裏付けとなる史料名が挙げられていないので、どこまで信頼できる話なのかが分かりません。
しかし、もしも興正寺に、東からの敵の襲来に対する備えとしての役割が実際にあったとすると、その背景には、天文年間のこの今川勢の八事出陣で、東からの敵が実際に元八事近くまで来たことが、百余年後まで語り継がれていたのではないか、それで八事に砦機能を持った寺を建設する気になったのではないか、などと想像したくなるのですが、想像の行き過ぎでしょうか?
次は、1553(天文22)年の、斎藤道三との面会と、赤塚合戦についてです。