1-2 国境と木曽川の河道

 

前ページでは、信秀・信長の当時の尾張国の領域は、①海の広さと、②美濃・伊勢との国境線の位置の2点で、江戸期以降とは異なっていたこと、海の広さに関しては、具体的にどの地域がまだ海の下であったのかを確認しました。

このページでは、領域の相違のもう1点、国境線の位置の相違と、その原因となった木曽川の流路(河道)の変化について、確認していきたいと思います。

 

 

戦国時代まで、木曽川の河道は、現在とは少し違っていた

下は、前ページで示したのと同じ地図です。戦国時代まで、尾張北西部の木曽川の河道、したがって濃尾2国の国境は、現在とは少し異なっていました。

なお、この地図は、ベースは現代の地図を使っていますから、地図中に現代の木曽川が表示されていますが、戦国の当時、現在の木曽川の位置には、そこを貫通する大河はなかった、と思って地図を眺めてください。

 

織田信秀・信長時代の尾張国の領域 地図

 

旧説 - 天正洪水で木曽川の河道が変化、新河道に秀吉が国境を変更

尾張国・美濃国などの令制国(律令国)と郡は、飛鳥時代、701年の大宝令までに成立しています。

濃尾の旧国境や郡境は、その律令国成立当時の古代木曽川の河道に一致したものであったのですが
● 戦国末期の1586(天正14)年、すなわち本能寺の変の4年後に発生した大洪水で木曽川の河道が変わってしまった
● それで豊臣秀吉が木曽川の新しい河道に従って濃尾の国境線を変更した
というのが従来の定説(旧説)です。

濃尾国境変更以前の旧国境線は、明治30年以前の郡名で分かる

秀吉による国境変更で、どこが尾張国から美濃国に移ったのか。以下は、『各務原市史』『羽島市史』『海津町史』 からの内容の要約です。

天正の洪水後に美濃に割譲された地域は、旧尾張国のうち、葉栗・中島・海西3郡のそれぞれ一部であった。
● 旧尾張国葉栗郡 → 読みを変えず字だけを「葉」から「羽」に変えて、美濃国羽栗郡になった。
● 旧尾張国中島郡・海西郡 → そのまま美濃国中島郡・海西郡 になった。
1897(明治30 )年になって、郡の合併により尾張国由来の郡名は消えた。
● 羽栗郡・中島郡が合併 → 羽栗の「羽」と中島の「島」を取って羽島郡 → 現在の羽島市
● 海西郡・下石津郡が合併 → 海西の「海」と石津の「津」を取って海津郡 → 現在の海津市

すなわち、岐阜県内で1897年まで羽栗郡・中島郡・海西郡だった地域を確認すればよいので、旧国境の確認は比較的容易です。下記の地域が、戦国末期、織田信秀・信長の時代までは尾張国でした。
● 各務原市の南西部(羽栗郡)、岐南町・笠松町の全域(羽栗郡→羽島郡)、岐阜市のうち境川以南の柳津町(羽栗郡)
● 羽島市の全域(羽栗郡または中島郡→羽島郡)
● 海津市の東部(海西郡→海津郡)

これらの地域がかつては尾張国であったことについて、以下は 『新修名古屋市史第2巻』(上村喜久子氏 執筆部分)からです。

現在木曽川右岸にある藤掛荘(岐阜県羽島郡笠松町あたり)や竹鼻、長岡・堀尾両荘園(岐阜県羽島市・安八郡南部・海津郡北部)、大須観音の故地大須(羽島市)・長島(三重県桑名郡長島町〔現桑名市〕)などは、中世には尾張国に属していたことが文献の上からも確かめられる。

これら地域の美濃・伊勢への編入にはおそらく木曽川河道の変化が関連している。… 吉田正直の『尾濃葉栗見聞集』は、天正十四丙戌年美濃尾張洪水にて、葉栗・中島両郡の内村里崩れ流れ今の木曽川筋出来」と述べ、天正14年(1586)の大洪水で、明治の三川分流工事以前の川筋が出現したとしている。

なお、木曽川の呼称が使われるようになったのは、これ以降のことであるといわれる。

この大洪水以前は、木曽川と言う名も一般的ではなかったようです。

1586(天正14)年の洪水での被害の伝承

天正の洪水では、木曽川の流れが変わってしまい、結果として大きな被害が出た地域があったようです。以下は、そうした被害に関する伝承の要約です。

内務省土木出張所「木曽川水系河川変遷図」(昭和8年10月調)
この洪水により前渡村と尾張国葉栗郡草井村との間において激流西に向かいて突進し、上土屋、間島、無動寺、栗木各村を貫き河川となり、更に川島村のうち松林、寺島、水田島、ココ島等を流亡し、円城寺と北方の間を貫き、笠松、田代の辺より南に曲流し、冨田庄、三ツ屋2ヶ村を流亡し、中島郡小信中島よりなお南流せり。またこのとき駒塚村・加賀野井村の間に逆川を分派し、加賀野井の地千間を破れり。足近川は逆川の分派にして古は大河なりしが、この洪水にて境川が小流となりしと共に水涸れ、ただ悪水路の小流に変ぜり。
『尾西市史』より孫引き、カタカナはひらがなに変更〕
『羽島市史 第1巻』
天正14年(1586)の大洪水により、河道は〔尾張の〕葉栗・中島両郡の中央を突破しただけでなく、1村を2分したものがあった。今日美濃側に河田島・光法寺・西加賀野井があるのに対し、尾張側に河田・三法寺・東加賀野井があるのがそれである。
『尾西市史』
〔寺伝によれば、信長が斎藤道三と会見した富田の聖徳(正徳)寺は〕天正14年の木曽川大洪水により、冨田村も水没したため三屋村(岐阜県笠松町)へ移転し、同17年、秀吉より同村で200石を与えられた。冨田では古くから7割余りの土地を河底に失ったと言い伝えられている。

内務省土木出張所の調査報告は、出典が明らかではなく、細部をどこまで信用して良いか注意が必要なようです。しかし、この洪水の被害については、特定の一ヵ所だけでなく、新たに木曽川河道となった各所に伝承が残ってること、同じ地名が川の両岸にある場所が何か所かあることから、この洪水で新たな河道が形成され大きな被害が発生したこと自体は間違いなさそうに思われます。

天正大洪水後、尾張・美濃国境を変えたのは、豊臣秀吉

では、濃尾国境をいつ誰が変えたのか、以下は、上掲 『羽島市史 第1巻』 からの要約です。

豊臣秀吉は、〔尾張の〕葉栗・中島・海西3郡の内、新木曽川の右岸110余ヵ村を割いて美濃国編入した。概ね新木曽川筋を国境としたことを合わせ考えれば、天正14年6月洪水以降、同18年の〔織田〕信雄東国流謫以前のことであろう。
3郡分割の理由については、塘叢〔史料名〕は「秀吉、神君(家康)の出張を恐れて大河を以て防とし、葉栗・中島・海西の3郡を割いて美濃に隷す」といっている。

秀吉は、洪水の2年前の天正12年(1584)年に、織田信雄・徳川家康連合軍との間で小牧長久手の合戦を行い、家康には負けましたが、信雄には勝ちました。そこで信雄には強く出て、尾張・美濃の国境線を木曽川の新河道に合わせることで、信雄の尾張領を減じるとともに、家康からの攻撃に備え防衛ライン強化の対策とした、ということであったようです。この時の新国境が、現在も愛岐県境として継承されています。

 

古木曽川の本流河道は境川筋-墨俣川だったが、枝川が多数あった

天正の洪水以前、木曽川は今の「境川」筋を流れ、墨俣で長良川と合流していた

1586(天正14)年の洪水で、木曽川は現在の河道になりました。では、それ以前にはどこを流れていたのかを、確認したいと思います。

天正14(1586)年の洪水以前、古木曽川本流は、〔現在の〕愛岐大橋上流側の各務原市前渡町あたりから西方へ進み、当時の濃尾国境を西北に流れる境川筋を流れ、大垣市墨俣で長良川を合流していました。
「木曽川の河道を替えた天正の洪水と今に伝わるヤロカの大水」KISSO Vol. 92)

下の地図には、天正14年の洪水までの木曽川の旧河道・古木曽川=境川筋が示されています。上掲の「木曽川の河道を替えた天正の洪水と今に残るヤロカの大水」より引用しています。

昔の木曽川の流れ 地図

国境変更によって美濃国に移った地域(各務原市南西部・岐南町・笠松町・岐阜市柳津町の一部・羽島市)は、この地図で黄色で示されている古木曽川と、現木曽川河道に挟まれた地域です。古木曽川の河道と旧国境は、ぴったり一致しています。今の境川には木曽川の水は流れ込んでおらず小さな川ですが、かつて木曽川の本流であった時代には大河であったことが、この地図からよく分かります。

一方、黄色の古木曽川の南側の現在の木曽川の河道には、かつては枝川は流れていたかもしれませんが、そこを通貫する大河はなかったと思われます。大河がなかったからこそ、洪水で大きな被害を受け、分断される村も出てきたわけです。

木曽川には多くの枝川があった

ただし、天正の洪水以前の木曽川は、現在のような一筋だけの大河ではなく、多くの枝川があり、濃尾平野の景観は現在とは大きく異なるものであったようです。以下は、伊藤安男「濃尾平野の形成と河道変遷」(KISSO Vol. 59所収)からの要約です。

濃尾平野では犬山を頂点とする半径12キロメートルの扇状地がある。そこから先は氾濫平野で、〔木曽川は〕自由蛇行して氾濫を繰り返し自然堤防を形成してきた。したがって自然堤防の分布から旧河道は推定できる。
尾張藩は慶長12年〔1607〕に史上名高い御囲堤を築立てる。この築堤により三派八流と呼称された網流河川はすべて締め切られるが、その後は扇状地の旧河道の谷を利用して、木津用水・宮田用水・般若用水などを開削し水利管理している。
一之枝川は木津を発し、石枕川・青木川とも称し、本流は五条川となり庄内川に流入する。二之枝川は般若川ともいい、尾張国府付近を南流して三宅川となり、さらに天王川となり佐屋川に合流する。三之枝川は浅井川と称し、日光川となりその枝川は領内川となる。第4の河川は北方村の東を流れて黒田川となり、木曽川に流入する。

戦国時代までは、木曽川からは多くの枝川が流れ出ていましたが、治水のため、江戸初期に枝川が締め切られたことが分かります。

鎌倉時代~室町中期、木曽川の本流は境川筋-墨俣川、足近川・及川の枝川も発達

古代以来の木曽川本流の流れは、その後どう変化したのか、時代を追って確認していきたいと思います。まずは鎌倉期~南北朝動乱期について、『岐南町史』 の内容の要約です。

承久の乱(1221)では、後鳥羽院方西軍は、尾濃国境の「尾張河」〔=古木曽川〕を幕府方東軍への防衛線とし、その渡瀬9か所に部隊を派遣。9瀬はすべて境川筋~墨俣川沿いであり、食〔=岐南町印食〕・稗島〔=岐南町平島〕・洲俣〔墨俣〕などが含まれていた。(『吾妻鏡』・『承久記』)
南北朝動乱期の延元3年(1338)、後醍醐天皇方の北畠顕家は、足利軍と、木曽川の志貴〔=食・印食〕・洲俣・阿字賀〔足近〕で激戦した。(『太平記』)

『太平記』の中の阿字賀は、羽島市足近であることは間違いなさそうですが、足近は、その北側を本流の境川筋が、南側には枝川の足近川が流れています。もしも南の足近川側で戦ったのであれば、枝川であってもそれなりの大きさであったものと思われます。

次に、室町中期の状況について、以下は榎原雅治 『中世の東海道をゆく』 からの要約です。

応永25年(1418)の連歌師正徹の紀行文『なぐさめ草』には、「墨股河」を舟で渡ったのに続いて、「あしか〔足近〕、をよひ〔及〕も同じようにこえ過ぎぬ」
永享4年(1432)の連歌師堯孝の紀行文『覧富士記』によれば、「すのまた川は…川の面いと広く…舟橋はるかに続きて」、このあとさらに「尾張国およひ河」を渡る。

 

天正14年の大洪水以前に、木曽川は枝川が本流化していたらしい

1582(天正10)年、織田信雄・信孝兄弟の「国切」「川切」論争

かつては、境川筋-墨俣川という古木曽川の流れは、1586(天正14)年の天正の洪水ではじめて変わった、との見方が通説でした。しかし今は、洪水の前にすでに木曽川の流れ方は変わっていた、との見方が行われるようになっています。その点に関し、以下は、山本浩樹 「織豊期における濃尾国境地域」からの要約です。

加藤益幹氏によって紹介された柴田勝家書状、「濃尾境目のこと…三七郎(織田信孝)様は…川切と仰せられ候、三介(織田信雄)様は国切と候て」
天正10年(1582)、本能寺の変で織田信忠が不慮の死、清須会議の結果、尾張は信雄が、美濃は信孝が領有することに。信雄は従来の国境通りの「国切」を、信孝は「大河切」すなわち当時の木曽川本流で領国を分けるように主張、「大河切」実施で削減される信雄側の穴埋めとして、東方3郡(可児郡・土岐郡・恵那郡)を割譲してもよいと提案していたことが読み取れる。

元々、国境線=古木曽川本流の河道でした。しかし、支配地域について国切と川切という異なる考え方で境界線が決められるほどに、木曽川の河道が変化していたことが読み取れます。また、川切による所領地変更の埋め合わせとして3郡を割譲してよいとしていることから、川切による境界移動案ではかなり大きな面積が対象とされていたことも分かります。

上述の通り、木曽川には多くの枝川がありました。木曽川の本流の河道の変化が変化したとすれば、新たな枝川が出来たり、枝川の流量が増加して本流の流量が減少したりしたものであると考えられます。そこで、木曽川の枝川にはどのようなものがあったのか、どの枝川の流量が多かったのか、以下では、地図によって確認していきたいと思います。

木曽川の枝川の地図

国土地理院のインターネットサイトでは、「治水地形分類図」という、旧河道が表示されている地図が公開されています。その濃尾平野部分が、下の地図です。この地図中で、青の横縞線で描かれているのが、旧河道と分かっている箇所です。黄色の土地は自然堤防、緑色は後背の氾濫平野です。

下の地図では、この国土地理院の地図に、下記の情報を追記してあります。
● 古木曽川の境川筋の本流 (地図から読み取りにくいため)
● 枝川である逆川・及川(およびかわ)の推定河道 (山本説による)
● 諸史料に出てくる地名、川の名など

この地図から、かつて木曽川には多数の枝川があり複雑に分岐合流していたこと、枝川でも本流並みに川幅の広い川もあったこと、が分かります。これらの枝川の大部分には、現在も小さな川が流れていますが、織田信秀・織田信長の戦国時代には、地図の青縞の幅に相応した大きな川が流れていたものと思われます。なお、逆川・及川の河道の位置については、上掲・山本浩樹「織豊期における濃尾国境地域」の記述に基づいています。これについては、以下「山本説」として説明します。

ところで、下の地図には現在の木曽川の河道も示されていますが、そのうちA-B点間は、本流が境川筋-墨俣川を流れていた天正の洪水以前には、貫通大河は存在していなかった、と理解して地図を眺めてください。とりわけ河田と加賀野井(赤の破線で丸囲み)は現木曽川の両側で同じ地名が共有されており、まさしく天正の洪水で新たに大きな河道が出来た箇所である可能性が高そうです。

木曽川の多数の枝川 地図

 

信秀・信長の時代には、及川-日光川・逆川‐佐屋川の枝川がとくに発達していたらしい

いよいよ信秀・信長の時代の木曽川について確認したいと思います。上の枝川の地図の各番号の地点を見ながら、ご確認ください。『信長公記』 その他の史料中、A-B間の木曽川渡河点について言及のある記述について、一つ一つ見ていきたいと思います。なお、『信長公記』 の「首巻6」などの番号は、角川文庫版の記事番号です。

① 『信長公記』 首巻6 信秀の美濃攻め
「木曽川・飛騨川、大河舟越しさせられ、美濃国へ御乱入、竹ヶ鼻放火候て、あかなべ〔茜部〕口へお働き候て」
→ 〔竹鼻には舟で渡ったと理解できます。現在の木曽川河道ではなく、枝川の及川-日光川と逆川を渡ったように思われます。そこから茜部に行くには、さらに足近川または及川と境川筋を渡らなければならなかったと思われます〕
② 『信長公記』 首巻10 信長と道三との面会
「上総介公…木曽川・飛騨川、大河舟渡し打越し御出で候。冨田と申すところは…」
→ 〔信長は道三と面会するため、大河を船で渡って冨田に行った、と記されています。冨田は、愛知県一宮市(旧尾西市)の木曽川東岸です。もしも当時の木曽川が現在の河道と同じであったなら、冨田への大河舟渡しの必要はありません。信長は、当時枝川であったといっても大きな川幅のあった及川-日光川を越える必要があった、日光川は舟で渡らねばならないほどの大河であった、と解するのが適切と思われます〕
③ 『信長公記』 首巻30・31 斎藤道三の討死
「信長も道三聟にて候間、手合せとして木曽川・飛騨川舟渡し、大河打越し、大良の戸島東蔵坊に至てご在陣」
「大良より30町ばかり懸出し、及河原にて取合い」
「爰にて大河隔たる事に候間、…上総介殿召し候御舟一艘の残し置き」
→ 〔枝川の及川-日光川を舟で渡って大良に陣を張り、及川の河原で合戦、及川を舟で渡って撤退した、と思われます〕
④ 『信長公記』 首巻36 森辺合戦
「木曽川・飛騨川の大河、舟渡し3つ越させられ、西美濃へお働き。その日は勝村〔=勝賀〕にご陣取り」
→ 〔舟渡し3つ、とは、及川-日光川、逆川-佐屋川、墨俣川の3つと思われます。なお墨俣川南部の現海津市域は、現在の長良川河道と同一だった可能性が高そうです。楡俣・森辺も墨俣川の西岸沿いに並んでいます〕
⑤ 『信長公記』 首巻44 加賀見野出兵
「木曽川の大河打越し、美濃国加賀見野〔各務野〕に御人数立てられ…龍興人数出され、新加納の村を拘え」
→ 〔地図のA点近くで渡河したものと思われます。A点と河野島の間は乱流域で、足場が悪く渡河・合戦向きではないため、少し上流のA点近くを渡河点としたのでしょうか〕
⑥ 「中島文書」河野島合戦
「織上〔信長〕は当国境目へ出張候、河表打渡候て河野島へ執入候、即時に龍興懸向候、依之織上引退、川縁に居陣候、国之者共限境川陣を取続相守候」
→ 〔前出の 『岐南町史』 は、河野島は岐南町北部の印食・三宅で、当時の木曽川の中州的な存在と見ています。一方、上掲の山本論文は、この辺りでは「現在の木曽川本流あたりに当時も川が流れて」いたと見て、河野島は岐南町印食・三宅から現木曽川までの大きな地域と見ています。境川筋に木曽川の流れがあった点は見方が共通ですが、小さな中州だったのか現本流にも枝川があったかで見方が相違、どちらがより有力な見方であるのかは、史料不足で決め手が足りないように思われます。 〕
⑦ 天正12年 秀吉書状 加賀野井城・奥城攻め
「尾州従西方口東向相備、越木曽川候之処」「加賀野井城・奥城…両城は木曽川幷大河数ヵ所相越」
→ 〔秀吉側が西から加賀野井城・奥城を攻めるには、木曽川=墨俣川ならびに逆川・及川の大河も渡る必要があった、と解するのが適切と思われます。逆川・及川とも、枝川とは言え大河の大きさになっていたと思われます〕

山本説に従った上の地図を眺めながら、上記7件の史料の記述と突き合わせますと、矛盾がありません。天正の洪水の伝承とも矛盾がありません。山本説は、優れた説であると思います。

すなわち、天正の洪水まで、木曽川には境川筋-墨俣川という古代以来の流路は依然存在してはいたものの、枝川のうち、とくに及川ー日光川と逆川ー佐屋川が大河に成長していた、その分、境川筋-墨俣川の旧本流の流量は減じていて、旧本流と枝川の流量は逆転していたかも知れない、と見るのが妥当のようです。

なお、上掲の榎原雅治 『中世の東海道をゆく』 は、「天正14年以前に、現在の木曽川とほぼ同じ場所に大きな川が流れていたと考えてよい」としていますが、この榎原説には大いに疑問があります。少なくとも、同時代史料の一つである 『信長公記』 の記述(上記中② の道三との面会で渡河、④の森辺合戦で舟渡し3つ)とは矛盾しています。また、『信長公記』 の記述や、『羽島市史』 『尾西市史』 に記されている伝承、および現木曽川の両岸に同じ地名が存在している事実とも矛盾のない山本説に比べ、説得力がかなり乏しい、と言わざるを得ないように思われます。

信孝が主張した川切は、逆川-佐屋川のライン?

信孝の「川切」の主張について、具体的にどの川で切ろうとしたのかについては史料が無いようであり、新たな境界としようとした川はどれか、推測が混じらざるを得ません。以下は、再び山本浩樹・上掲論文からの要約です。

竹鼻城の東側に接する逆川の流路こそ、天正14年以前の木曽川=「両国境之大河」であったとの推測が可能となろう。 竹鼻より上流部分は、及で現在の木曽川の河道から分かれる流路が第1候補〔現木曽川本流-及川ー足近川-逆川ルート〕、城屋敷付近で現木曽川河道と合流したのちは、佐屋川流路に有利な状況証拠。 津島より南では海船、東では徒歩・馬、西では川船が重要な交通手段であり、佐屋川がその東と西を分ける境界線となっていた。

信孝は「大河切」を主張することで、川船の行き交う木曽川下流デルタ一帯を、〔その地域の当時の支配者〕高木氏ともども丸ごと支配下に収めようと図ったものと思われる。

この山本説中、各務原市南部から笠松までの区間について、現在の木曽川本流の位置に大きな枝川がすでに成立していたかどうかという点には、議論の余地がありそうに思えます。しかし、すでに逆川などの枝川の方が本流よりも流量が増していて、川切の根拠になった、と見るこの山本説は、上で確認した 『信長公記』 等の各史料の記述等と矛盾がないことから、高い説得力があるように思います。

 

天正の洪水による木曽川の本流河道の変化は、その前年の大地震の影響か

木曽川の流れを変えた、1585年の天正地震と、翌1586年の洪水

天正の洪水での木曽川の河道の変化は、その前年の天正大地震の影響であった可能性があることについて、以下は、飯田汲事 「天正14年(1586年)の洪水による木曽川河道の変遷と天正地震の影響について」からの要約です。

この河道変遷の主要な要因は、〔洪水の前年〕天正13年11月29日の伊勢湾北部を震源とする大地震〔=天正地震〕であり、木曽川下流域の島々が沈没、津島から一宮一帯にわたる沈降地変、木曽川・長良川付近の地変・断層などが影響した。天正14年の洪水は最大級の洪水ではなかったし、前後の大洪水でも河道の変遷は必ずしも見られなかった。中程度の洪水によって河道が大きく変わったのは、その半年前に起こった天正地震により地盤が変動を受けていたためと考えられる。

天正の大地震により濃尾平野で土地の沈降が起こった、その半年後に洪水となり、木曽川は沈降した土地を流れるように河道が変わった、という可能性があるようです。

洪水前年の天正地震は、マグニチュード8近い超大型内陸地震

天正地震は、1585(天正13)年11月29日の夜10時過ぎ、中部地方から近畿東部にかけての広い地域に大きな被害を出した、マグニチュード8近い超大型の内陸地震でした。

この天正地震と、その8年後の伏見地震の詳細を分かりやすく記述したものに、寒川旭 『秀吉を襲った大地震』 があります。本書には、この天正地震で、木曽川・揖斐川・長良川などが集まる河口付近の中洲には、地震で勇没したり大被害を受けたりした島が多数あったことが記されています。

例えば「尾州長島当時織田信雄居城百八里多以成川、城中家倒令焼失」と記した史料があり、当時は尾張国で織田信雄の居城があった長島では、城内では家が倒れて焼失し、周辺一帯が河川となったようです。「以成川(以って川となった)」については、「洪水や液状化現象による水の湧き出し、さらに伊勢湾北部を襲った津波など、さまざまな解釈がなされている」とのことです。

 

墨俣より南でも、天正洪水で木曽川の河道が変わった

墨俣より南、現在の海津市域でも、木曽川は今より西を流れていたらしい

墨俣より下流、現在は海津市になっている地域でも、木曽川の流れが変化したようです。以下は、『海津町史・通史編(上)』からの要約です。

古くは木曽川は〔海津市の〕東はずれではなく、当地域を東と西の二つに割いて南流していた。その跡が当地域の南半分では大江川となって今も残っている。この川筋が天正14年(1586)6月の洪水で一変した。

海津市内の場合、区画整理がおこなわれたため、今は往時の旧河道を地形から確認することは困難な状態ですが、どこが元尾張国側であったかは、旧郡名から確認することができます。ただし、この地域の場合、境川筋-墨俣川の区間と異なり、旧河道と新河道は何キロも隔たっているわけではなく、また常に水害が多いため輪中地域となったような土地柄でもありますので、古代からの河道が天正14年まで変化していなかったとは思いにくく、もっと早くから変化していたかもしれません。

長島も尾張国だった

長島(現三重県桑名市)が中世には尾張国に属していたことは上述の通りですが、この点について、以下は横山住雄 『織田信長の尾張時代』からの補足です。

関ヶ原合戦後に長島ヘ入部した菅沼新八郎定仍に家康が与えた慶長6年(1601)5月24日の知行状、長島の各村が尾張国海西郡として挙げられている。元和3年(1617)5月26日の徳川秀忠による知行状も同じ。
ただ桑名に隣接しており、実質的には北伊勢の長野氏一族の伊藤氏が支配していることから、伊勢側の人々からは伊勢国の一部との認識が強かったであろう。尾張藩領でなかったことで、明治維新の時に三重県に編入されたと思われる。〔長島にあった一向宗寺院〕願正寺側は、「勢州〔伊勢国〕桑名郡香取庄南郷内・長島願正寺」としている。

長島の場合は、国境と支配関係が必ずしも一致していなかった、と言えるようです。

 

長良川・揖斐川の河道は、どうだったか

長良川も、斎藤道三・織田信長の時代、岐阜市内では現在と河道が異なっていた

ついでに、長良川・揖斐川についても確認しておきます。織田信秀・信長の二人とも、美濃攻めを行っていますので、美濃国内の2大河の河道が当時と今とで異なっているのかどうかは、気になるところです。

まず長良川については、信秀・信長の時代以前も現在も、総体的にはほぼ同じところを流れてきたようです。以下は 『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』 からの要約です。

長良川の流路が、天文3年(1534)以前には、梅原〔岐阜市北方の山県市〕を経て伊自良川を流下していたという伝えがあるが、その後の研究により、その可能性の少ないことが明らかになった。その地域に長良川の旧本流にあたるような規模の河川地形が残っていないことなどが、その論拠。天文3年以前においても、長良川の本流は、多少の変遷があったにしても、現長良川流路をとっていたと推定している。

ただし、現岐阜市内、金華山のふもとから伊自良川と合流するまでの区間に限っては、斎藤道三の時代以降、1939(昭和14)年まで、長良川は、3本の川筋に分流していたようです。以下は、筧真理子 「長良川「古川」「古々川」の名称について」 からの要約です。

● 長良川は、昭和14年(1939)年の締切工事以前には3本に分流していた。北から、古々川(または新川・前川・北川など)、古川(または先年大川・〔元〕中大川・表川など)・井川〔現在の川筋〕(井水川・上ヶ門川・本川など)。
● 最も古いのは、方県郡・厚見郡の境となっていた古川。
● 井川〔現在の川筋〕は天文3年(1534)の洪水によって大きくなったと伝える。
● 古々川は、斎藤道三が鷺山城への水路として造成、慶長年間(1596~1615)の洪水で大川となった。
● 16世紀の大洪水後も、主流は古川筋であったと思われる。元禄5年の史料に、水量の7~8割が古々川、2~3割が井川。元禄11年ころに井川が主流となったらしい。
● 明治中期には、通常は井川筋のみ水が流れ、増水の時に古々川、ついで古川筋に水が通じる状態。 〔井川から古川・古々川への〕分派口締切工事は、昭和14年に完成。岐阜都ホテルの裏の堤防に巨大な石碑。

「長良川・揖斐川の河道変化と郡境」(「KISSO」 Vol. 60所収)によれば、天文3年の洪水では、「用水の取水口を破壊して新河道が出現した」とのこと。元は用水であったものが、洪水により川になってしまった、ということのようです。天文3年は、尾張の勝幡で信長が生まれた年であり、やがて現在の長良川となる川筋の誕生もその年でした。

つまり、信秀・信長の時代には、長良川全体としては現在とほぼ同じ河道だったが、現岐阜市内だけは、斎藤道三が鷺山城への物流のために開削した運河である古々川もあって、3本に分流していた、当時はその3本中の長良古川が本流で、現在の長良川(井川)は本流ではなかった、その後何度も洪水が発生するうちに、最終的に現長良川1本のみに変化していった、ということのようです。信長がその当時、金華山上の岐阜城天守から長良川を見下ろすと、その印象は今とはかなり違っていた、と言えそうです。

なお、この長良川の3分流についての地図は、本歴史館の「第3室 3-6 舅・斎藤道三の死(長良川合戦)」をご覧ください。

揖斐川も、古代は墨俣川に合していたが、信秀・信長時代には現在と同じ河道だった

では、揖斐川はどうだったでしょうか。信秀・信長とも、西濃方面も攻略しています。その場合、揖斐川が現在と同じ河道であったら、揖斐川も渡る必要がありました。以下は、『大垣市史 通史編 自然・原始~近世』からの要約です。

揖斐川は、8世紀から9世紀前半にかけてのころに、現在の杭瀬川の流路が揖斐川の本流となった。その後、享禄3年(1530)の洪水によって揖斐川の河道が杭瀬川から現在の流路に変わったとされている。

揖斐川の場合も、上述の長良川の分流を発生させた1534(天文3)年の洪水のわずか4年前に、河道の大きな変更が起こったようです。信秀・信長が美濃攻めを行った当時は、すでに現在の河道と同じになっていました。

ただし揖斐川は、そのずっと以前、9世紀はじめまでは、墨俣に流れていたようです。つまり、古代の墨俣川は、木曽川・長良川・揖斐川の3大河が流れ込んで合流する巨大な川であった、ということになります。あるいは、古代には長良川・揖斐川とも木曽川の支流であった、という見方も成り立つかもしれません。なお、この揖斐川の河道の変化について、詳しくは、上掲の「長良川・揖斐川の河道変化と郡境」(KISSO Vol. 60)をご参照ください。

 

 

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