2-4 那古野城の奪取

 

尾張の西の端に近い勝幡城主であった織田信秀は、今川那古野氏の居城・那古野城を奪取します。ここでは、なぜ那古野は今川氏の所領であったのか、信秀は那古野城をいつどのようにして奪取したのか、信秀・信長時代の那古野城と江戸期以降の名古屋城との関係、などについて確認します。

 

 

今川領だった那古野の地

那古野はナゴヤ

信秀による那古野城の奪取についてですが、前のページで確認しました通り、伊田合戦は史実とは思われないため、この那古野城の奪取が、戦国武将としての織田信秀のデビュー戦、ということになります。

まずは那古野の読み方ですが、ナゴヤと発音されていたようです。以下は、横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。

● 那古野城の地は、今の名古屋城二の丸にあたる。
● 天文初年当時も名古屋城と称された(『尾州府志』)、『言継卿記』 に那古屋とあるなど、ナゴヤと発音されていたらしい。
● 後世の名古屋城と区別するために那古野城と表記する。

「那古野」は、現代はどう読まれているかですが、名古屋市中区丸の内2丁目にある「那古野神社」は、ナゴヤ神社と読みます。しかし、「名古屋市西区那古野」という地名は、ナゴノと読むことになっており、むしろ地元の名古屋市民の方が、「那古野」はナゴヤかナゴノか、混乱しているかもしれません。

当時、那古野城には、今川竹王丸(氏豊)がいた

「第2室 2-1 勝幡城の信秀」のページで確認しました通り、1533(天文2)年の那古野には、今川竹王丸(当時12歳)がいたことが 『言継卿記』 に明記されています。なぜ那古野に今川がいたのか、以下は再び、横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。

● 室町時代になってからの那古野荘の地頭は、駿河今川家の分家であったらしい。史料から、今川左京亮が永享年中(1429~1441)に那古野を支配、守護大名斯波氏の統制外。
● 明応5年(1496)の史料に、「尾〔州〕の今河氏」の文字あり。
● 小和田哲夫氏の論も、「応永〔1394~1428〕初期に尾張守護となっていた今川仲秋の系譜をひくものが、そのまま尾張今川氏として残存していたと考えるほうが自然」。
● 永正年間に尾張斯波氏と駿河今川氏との間で起こった遠江国争奪戦。永正15年(1518)年に斯波氏敗退。愛知・知多・山田の3郡が今川領に編入された。戦乱終結と共に、今川本家から男子が那古野城へ送り込まれてきた、それが今川竹王丸の先代。
● 竹王丸は今川義元の弟とみる従来からの説に矛盾はない。竹王丸の元服は天文3・4年、元服して斯波義統の妹と結婚したとする 『名古屋城史』〔『名古屋合戦記』 のことか〕説を信じると、少なくとも天文4・5年〔1535~1536〕までは〔那古野城に〕在城。

尾張は斯波氏が守護でも、少なくとも那古野は今川領で、斯波氏の管轄外であったようです。

愛知郡は今川那古野氏領

『新修 名古屋市史 第2巻』(下村信博氏 執筆部分)は、那古野の今川氏(同書は「今川那古野氏」と呼ぶ)について、更に詳細な論究を行っています。以下はその要約です。

● 今川那古野氏は、今川氏一族の中でも家格の高い庶流。史料より、応永6年(1399)には室町幕府奉公衆として活動。永享3年(1431)の那古野の領主は今川左京亮。
● 応仁・文明の乱後も、今川那古野氏はその所領を保持(あるいは回復)。長享元年(1487)の将軍足利義尚による六角氏攻めに上洛するなど、将軍直属として尾張守護の指揮下に入らず。将軍の親征に参加するほかは在国か。
● 延徳4年(1492)以降、愛知郡内の皇室領の代官、年貢を京都へ。明応9・文亀元年(1500~01)ごろには「没落」、年貢を届けられず。その後は明確ではない。
● 〔斯波・今川の遠江抗争で〕永正14年(1517)、斯波義達は遠江引間城で降伏、出家姿で尾張に送られた。『名古屋合戦記』 はこれに続けて、大永の初〔1521〕、今川が尾州名古屋の城築き、左馬助(氏豊)を入れて清須の押さえとし、義統の妹左馬助に嫁して落着いたと。当時生まれたばかりの氏豊の那古野城主今川氏への養子説が、先駆的に横山住雄によって提起され、小和田哲夫からも主張された。鎌倉後期以来の尾張那古野支配の歴史を有する今川那古野氏の家臣団が、幼い氏豊を実質的に支えたと推定される。
● 『名古屋合戦記』 などによる、織田信秀の天文元年那古野城攻略という旧来の通説はあり得ない。天文5年(1536)に那古野城主今川氏豊が健在であったことは史料が傍証。
● 江戸期史料による今川氏豊の家臣の伝承地は、庄内川と天白川に挟まれた愛知郡・春日井郡南部のかなり広範な地域を勢力下に置いていた。今川那古野氏の旧臣で織田弾正忠家の家臣となっていく武士もいて、弾正忠家の急速な抬頭を実現した。

那古野は、長きにわたり、今川那古野氏の所領で、尾張守護・斯波氏の管轄外であったようです。ただし、斯波・今川の遠江抗争の結果今川が氏豊を入れたのであれば、抗争の直前には斯波氏の管轄に取り込まれていたのかもしれません。江戸期史料の記述が正しければ、現在の名古屋市域の大部分が、今川氏豊の領地であったことになります。信秀は、那古野城を奪取することによって、この今川氏の所領を手に入れるとともに、旧家臣の一部も引き継いだようです。

 

1538(天文7)年、信秀が那古野城を奪取

那古野城についての 『信長公記』 の記述

信秀による那古野城の奪取について、太田牛一 『信長公記』 は、何も触れていません。以下は、同書からの要約です(首巻1)。原文は一文になっていますが、下は意味の切れ目で分けてあります。

● ある時、備後守〔信秀〕、国中〔くになか〕那古野へ来て、堅固な城を築くように命じ、
● 嫡男織田吉法師殿〔信長〕に、一おとな〔家老〕林新五郎・二おとな平手中務丞・三おとな青山与三右衛門・四おとな内藤勝介、これらを相添え、御台所賄〔経理〕のこと平手中務、
● 〔信長は〕何かと不便は多かったが、天王坊と申す寺へご登山なされ、
● 〔信秀は〕那古野の城吉法師殿へお譲り候て、熱田の並び古渡というところ新城こしらえ、備後守ご居住なり。御台所賄山田弥右衛門なり。

まるで、何もなかったところに平和裏に新しい城を築いたような書き方であり、読者をミスリードする記述と言わざるを得ません。また、全体が一文となっていて、年号も入っていないので、信秀は那古野に城を築くとすぐに吉法師に城を譲った、との印象を受けかねない文章です。しかし、当然ながら、諸事に期間のずれがありました。

信秀は「だまし討ち」で那古野城を奪取

『名古屋合戦記』 は、「信秀による名古屋城攻略について具体的に知り得る唯一の文献」、ただし「年代、人名をはじめ誤りも少なくな」い(『愛知県史資料編14 中世・織豊』)という史料です。以下は、同史料からの要約(現代語化)です。

● 織田弾正忠信秀は今川左馬助〔氏豊〕とは親しい連歌の友、使いを使ってやり取りしていたが、ある時使いが川を渡るときに懐紙を流し失った。そこで左馬は弾正忠に、名古屋に滞在して連歌をしようと申し入れ、その後弾正忠は、15日や10日も名古屋城内に滞留して連歌や茶の湯をするようになった。
● 享禄5年〔1532〕の春、例のごとく名古屋に数日滞在中に、〔信秀が〕本丸に向かい窓を切り開いた。今川家人は客人が矢狭間を切ることは不審だと言ったが、左馬助はこの人に悪心はない、風流の仁だから風を入れたいのだろうと言って咎めなかった。
● そんな滞在中、弾正忠が急に大病になったとして、清須から勝幡に申し送ると、弾正忠の親族・家人が多数やってきた。その時、今市場〔那古野城下〕の方が火事になったと城中で騒ぎになった。ちょうど南風激しく、若宮社・天王社をはじめ、天永寺・安養寺などに火がかかって、城へも火の粉が飛んでくる。
● そのとき、城の東南方から攻め寄せてくる、柳丸の方に鬨の声を上げて火を放つ、甲冑をつけた勝幡の兵が本丸を攻めてくる間、城中には頼れる士卒も少なく、内外の敵に包まれて皆討たれた。左馬助は何とか城から逃げ出し、命乞いをして、母方の縁を頼って京都へ上った。
● 弾正忠は名古屋の城を取り、すぐに移り住んだ。清須も内々、今川が尾張国内に来住していることを悔しく思っていたので、何の咎めもなかった。

明らかにだまし討ちです。上掲の横山住雄 『織田信長の系譜』 には、その伝承を記述した、江戸時代の尾張藩士天野信景による随想 『塩尻』 が引用されていますが、『塩尻』 の著者も、「応仁文明の乱より近頃まで、かかることのみありて、人心豺狼〔さいろう、山犬や狼〕の如くなんありける」とコメントしています。武力で他者の領地を横領するのが当たり前であった戦国期と、社会秩序の維持が最重要となった江戸期では、道徳観が大きく変化した、ということであるかと思います。

ただし、戦国期にあっても非難されうる露骨なだまし討ちであったので、『信長公記』 すら、信秀がどのようにして那古野城を奪取したのか、伏せて書かなかった、という可能性もあるかもしれません。

信秀が那古野城を奪取したのは1538(天文7)年

上掲の 『名古屋合戦記』 は、信秀による名古屋城奪取を1532(享禄5・天文元)年としていたため、かつてはそれが通説になっていました。今は「天文7〔1538〕年頃のできごとに間違いない … 天文7年9~10月に那古野領支配・那古野城修築関係の文書がみられることが証左となろう」(柴裕之「総論 戦国期尾張織田氏の動向」- 同氏編 『尾張織田氏』)とされています。また、この点に関し、以下は、再び 『新修名古屋市史 第2巻』(下村信博氏 執筆部分)からの要約です。

● 昭和44年(1969)に横山住雄が先駆的に天文7年頃攻略説を提起。
● 平成元年(1989)に新井喜久夫は、那古野城近くの天王社・若宮が兵火に焼失して、天文8年に再建されたという社伝を根拠に、兵火焼亡=那古野城攻略戦として、再建の前年にあたる天文7年を同城攻略の年代とした。
● 天文7年10月に尾張守護代織田達勝の那古野への夫丸に関する書状がある。守護代が、那古野城攻略を承認していた可能性がある。本書状も天文7年ごろの那古野城攻略を間接的に証明する。

信秀は、1538(天文7)年に、守護代からの承認も得て、那古野城を取った、ということであったようです。そもそも今川氏豊は、守護・斯波義統の妹と結婚していたのですから、通常であれば手出しできない相手です。信秀は、事前に守護・守護代に話を通して了解を得ていたのでしょう。守護からすると、妹の結婚相手でもある今川氏との友好よりも、先代による遠江抗争での失地の回復のほうが重要、と判断したのでしょうか。

信秀が生涯、「守護の家臣の重臣」の位置に留まり、それ以上の野心を持たなかったのは、「第1室 1-3 斯波氏・織田氏と下津・清須」で確認しました通り、信秀のほぼ生涯にわたり守護は斯波義統・ 守護代は織田達勝と、同じ顔ぶれであり続けたことのほか、この名古屋城奪取時に守護・守護代から得られた支持に非常に恩義を感じていたため、という可能性が高そうに思われますが、いかがでしょうか。なお、このとき信秀は27歳、大活躍を始めるのにちょうどよい年齢でした。一方、信長はまだ数えの5歳ですから、寺に学問に通うのは早すぎたでしょう。

かつて天文7年説を提唱した横山住雄氏は、『織田信長の系譜』 では、「天文4年の11月ごろに信秀が那古野城を占領」という見解に変わっています。前ページ「第2室 2-3 三河の状況と守山崩れ・伊田合戦」で確認しました通り、伊田合戦を事実とみる見方の結果であるようです。しかしその場合、『新修名古屋市史』 の挙げる傍証とは、矛盾することになってしまいます。本歴史館では、元の横山説である新しい通説に従い、信秀の那古野城奪取は1538(天文7)年と見ることにします。

信秀による那古野城奪取は、周辺諸国の情勢変化のため?

信秀は、なぜ那古野城を奪取したのか、その理由について、以下は、下村信博「織田信秀の台頭」(前掲・『尾張織田氏』所収)からの要約です。

● 美濃では、天文4、5年のクーデターで長井新九郎規秀(のちの斉藤道三)が土岐頼芸を守護にしたが、国内の実権を握るには程遠い状態。
● 三河では、天文4年に三河岡崎城主松平清康〔=徳川家康の祖父〕が横死〔=守山崩れ〕、その子、広忠は元服したばかりの13歳で国外に進出する体制にはなかった。
● 駿河・遠江守護今川義元も、天文6~8年、駿河東部に進攻してきた北条氏綱を相手に厳しい戦い、今川氏豊を支援する余裕はなかった。
● 織田信秀の那古野城攻略は、周辺地域の状況からみて絶好の機会をとらえたもの。今川那古野氏の旧領奪取による織田弾正忠家の領土拡大に他ならない。

信秀の父・信貞は、もう一人の守護代・織田伊勢守の領土であった津島を奪取しました。信秀は、那古野今川家の領土を奪取しました。どちらも父子の主人である織田大和守の領土外から奪取した、という点でパターンは共通でした。

信秀は、那古野進出により、熱田の利権も手に入れた

信秀が那古野城を奪取した翌年・1539(天文8)年3月の、熱田の豪商・加藤家の文書から、熱田も「信秀の影響下に置かれ」た(柴裕之 上掲論文)とみられることは、諸研究者の一致しているところです。「熱田は、熱田神宮を中心とする門前町が発達し、しかも東海道筋にも当たって人の往来が多く、商業が盛んなことは、津島神社の門前町たる津島と同様であった」(横山住雄 上掲書)ことも、間違いないところでしょう。

ただ、熱田がそれまでは誰の支配領域であったか、については見解が一致していないようです。横山住雄・上掲書は、那古野城を追われた今川氏の「旧今川領に熱田の地が含まれていた」とみています。一方、鳥居和之「織田信秀の尾張支配」(『尾張織田氏』所収)は、「大永6・7年(1526・7)、連歌師宗長が熱田で連歌を興行したときの参加者」からみて、「この頃、熱田に勢力を持っていたのは小田井に城を構えた筑前守・藤左衛門父子であり、信秀の那古野城進出は藤左衛門の徴証が天文6年(1537)からなくなることと関連する」と見ています。

信秀が勝幡から那古野へ「本拠を移したといっても、勝幡城を中心とした従来の領域はその後も維持されていた」(下村信博 上掲論文)ことは史料で裏付けられているようです。当時の尾張の二大商都ともいえる津島と熱田の両方を手に入れたわけです。この1538年の時点で、信秀は、尾張の主要武家中で、最大の経済支配力を保有することになり、戦国武将として展開していくための大きな経済基盤を獲得した、と言えそうです。

 

勝幡・清須・那古野・熱田の位置関係

下の地図は、勝幡城・清須城・那古野城の各城と、津島・熱田の両商都の位置関係を示したものです。

津島 ← 3キロ → 勝幡 ← 9キロ → 清須 ← 6キロ → 那古野 ← 7キロ → 熱田

という距離になります。各地点間は徒歩で1~2時間以内、津島・熱田間はもちろん船も使えたでしょう。

織田信秀 勝幡城から那古野城へ 地図

信秀の所領は大きく拡大して経済力が増した一方で、所領管理の領域も地理的に相当拡大し、大変さも大いに増したのではないか、そのために那古野今川氏の旧臣はじめ、新たに採用したスタッフも少なくなかったのではないか、と推察されます。

信秀が那古野城を奪った1538(天文7)年には、上述の通り、信秀は27歳、信長はまだ5歳でした。これから12年ほどの間、信秀・信長父子は那古野城を居城とします。信長は、1554(天文23)年に21歳で清須城を乗っ取るまで、那古野城に住み続けました。

信秀・信長時代の那古野城と江戸期以降の名古屋城

那古野城と名古屋城の地図

那古野城については、鈴木正貴「信長と尾張の城下町」(仁木宏・松尾信裕 編 『信長の城下町』 所収) によれば、以下の時代区分がなされているようです。

1. 那古野今川氏段階: 〔江戸期の名古屋城の〕二の丸付近に居館
2. 今川氏築城段階: 改めて二の丸付近に居館、合同庁舎付近まで方形地割の武家屋敷
3. 信秀段階: 方形地割が愛知県警本部地点まで拡大、武家屋敷のほかいくつかの寺社が創建・再建
4. 林秀貞段階: 軍事拠点としての位置づけを強め、簡易家裁地点で見られるような巨大な堀がめぐらされた

この鈴木論考の元になっている松田訓「遺構からみた那古野城の残影」は、江戸期に名古屋城の三の丸であった官庁街の発掘で明らかになった溝や堀の位置や規模および埋蔵物陶器の年代から、「織田信長が清須に移った後にも、大規模な拡張が行われていた」ことを明らかにするとともに、「本能寺の変からほどなく廃城」という経緯から、「信長は行政、経済の拠点としての清須城に対し、軍事面として直線距離わずか6 kmに位置する那古野城を重要視し、存命中は両城をセット関係で意識していた」可能性を指摘しています。

下は、Google Mapの航空写真上に、江戸期の名古屋城と戦国期の那古野城を表示したものです。那古野城の位置については、『新修 名古屋市史・資料編 考古2』 第3章第4節の「図7 江戸時代における那古野古城想定図」に示された位置を表示しています。

那古野城と名古屋城 地図

 

江戸期 - 尾張藩徳川家の名古屋城

江戸時代の名古屋城は、豊臣家との戦いを前に徳川家康が築城、1610(慶長15)年に天守が、1615(慶長20)年に本丸御殿が完成しました。その後1620(元和6)年に二之丸御殿が完成すると、尾張藩の政庁と藩主の居館機能はすべてこの二之丸御殿に移ります。1634(寛永11)年に上洛の途中に三代将軍徳川家光が本丸御殿に宿泊して以降は、天守と本丸御殿は閉ざされ、月2回の清掃と藩主の巡検時だけ開けられるようになったということです。(名古屋城内に展示の「名古屋城年表」)。

城というと、どうしても本丸・天守に目が向いてしまいますが、名古屋城の実機能の中心は、江戸時代の大部分の期間も、信秀・信長時代と同様、二の丸にあったようです。

なお、江戸期の名古屋城につくられた天守は、日本史上最大級の延床面積で、5層5階地下1階の巨大建造物でしたが、かように豪壮な城郭建築は、実は、世界史的には日本が大砲については後進国であった、という特殊事情によるものであったようです。

ヨーロッパでは、早くも日本の鎌倉期末から大砲が使われはじめ、日本の室町期には、攻城戦では大砲が多用され効果を発揮するようになっていたとのこと。その対策で、城郭中には大砲の格好の標的となる高さのある建物はつくられなくなり、さらには、名古屋城天守完成の1世紀近く前には、多角形の稜堡を組み合わせたイタリア式築城術が工夫されて、各地で行われるようになっていったとのことです。(詳しくは、「第4室 4-14 戦国当時の日欧の軍事比較」をご覧ください。)

明治期~昭和前期 - 陸軍第3師団の名古屋城

明治期に入ると名古屋城は陸軍の管轄下となり、1873(明治6)年に名古屋鎮台が置かれ、1888(明治21)年には第三師団に改称されました。しかし、本丸だけは保存の方針が決定され、1893(明治26)年に宮内省に移管されて名古屋離宮となり、1930(昭和5)年には名古屋市に下賜され国宝指定されましたが、1945年5月14日の空襲で焼失しました。

この名古屋城の天守の空襲焼失の、2週間前にヒトラーは自殺(4月30日)し、1週間前にドイツは降伏(西部戦線は5月4日、全軍は5月7日)済みでした。なぜ昭和前期の日本の軍部は、日独伊同盟3国中の2国がすでに降伏し、日本自身の軍備もほとんど尽きかけて負けが明白であるのに戦争を止めず、その後3か月以上も徒に人命と財産の莫大な浪費を続けたのか、誠に残念でなりません。ドイツと同時に降伏していれば、名古屋城は今も昔の姿で建っていたはずです。

保護された本丸とは異なり、二の丸には歩兵第6連隊(第3師団を構成した4個連隊の一つ)が置かれたため、すぐに二之丸御殿も庭園も取り壊されて、江戸期の名古屋城の姿は失われました。現在、二の丸の南半分には愛知県体育館が建っていますが、北半分では名古屋城の復旧努力が行われ、「名勝二之丸庭園」「二之丸東庭園」が再建されています。二之丸御殿があった場所のうち本丸に近い個所は「二之丸広場」となっています。

名古屋城の三の丸 - 那古野城外の社寺

上の地図で、西の丸のすぐ南側の三の丸に「天王社」を示しています。天王社は、那古野城以前からある氏神で、江戸期まで一貫してこの地にあったものです。戦国期には天王社に接して神宮寺の天永寺がありました。『信長公記』に記されている、信長が学問に通った天王坊とは、ここのことだったのでしょう。

この天王社については、「名古屋城築城の際、徳川家が御神籤(おみくじ)でもって神意を伺ったところ、遷座不可と出たため、そのまま域内に留まり城の鎮護、名古屋の氏神として祀られた。明治9年(1876)現在地に移され、明治32年那古野神社と改称された」(名古屋市教育委員会 「那古野神社」の説明板)ということです。那古野神社の現在地は、三の丸のすぐ南側です。江戸期に、三の丸内の天王社の隣に建てられていた東照宮も、那古野神社とセットで移転しました。天王社・東照宮の移転後の跡地に、陸軍は第三師団司令部を建てました。現在その跡地の北側は金シャチ横丁となり、南側には名古屋農林庁舎などが建っています。

三の丸は、江戸期には尾張藩家臣の屋敷が立ち並んでいましたが、陸軍はすべて撤去、騎兵・野砲兵・輜重兵・工兵など歩兵以外の各兵科や、衛戍病院、練兵場などに使用しました。敗戦後は陸軍の建物がすべて撤去され、県庁・市役所や裁判所等をはじめとする官公庁街として活用されています。(溝口常俊監修 『古地図で見る名古屋』 所収の各地図)

戦国期には、若宮八幡社とその神宮寺・安養寺も三の丸内にありましたが、名古屋城築城時に、現在地(若宮大通のすぐ北、本町通と呉服町通の間)に移転しています。また、1540(天文9)年に信秀が織田家の菩提寺として建てた万松寺ですが、「当時の場所は名古屋市中区錦と丸の内二、三丁目にまたがったところ」で三の丸外であったものの、「敷地は約5万5千坪」(万松寺HP)という大面積で、名古屋城下の都市計画の邪魔になったためか、やはり名古屋城築城時に現在地の大須に移転しています。

今の名古屋城内で那古野城跡を示すもの

那古野城は、織田信長が少年期~青年期を過ごした場所です。しかし、江戸期の名古屋城築城と明治~昭和前期の陸軍による使用の結果、那古野城の痕跡は地表からは消えています。

現在の名古屋城の中で、戦国期の那古野城とのつながりを示すものに何があるか、と言えば、二の丸内に立てられている那古野城跡の石碑と名古屋市教育委員会によるその説明板だけ、と言ってよいように思われます。2018年1月現在、名古屋城入口の案内板にも、そこ置かれた来訪者用パンフレットにも、名古屋城が那古野城跡を活用していることに、全く言及がありません。城内の展示でも、年表中に「那古野城の跡地に、名古屋城築城を決定」とある以外は、何も展示物や説明はありません。

二の丸に立てられている石碑ですが、来訪者用パンフレットにも記載されていないので、名古屋城への来訪者がその存在に気付かない、という可能性がかなりあります。そもそも正門から入って正門から出てしまうと、二の丸自体に足を踏み入れない可能性すらあります。現状の名古屋城の案内板・パンフレット・展示などでの那古野城への無関心さは、非常に残念な気がします。

現在の名古屋市が、江戸期の名古屋城の復元に熱心であることには、大いに賛意と敬意を表します。しかし、出来れば、二の丸内に「那古野城と信秀・信長記念館」でも建てていただくと、名古屋城と那古野城との関係もよりよく知られるだけでなく、全国の数多の信長ファンの来訪も獲得でき、投資に見合ったリターンが得られそうに思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

次は、信秀による三河攻略についてです。