2-11 道三との和睦、信長の結婚・濃姫

 

前ページでは、織田信秀の古渡城時代の1548(天文17)年、美濃攻勢中に尾張国内で清須勢の離反もあり、斎藤道三に敗れて信秀は美濃から撤退したことを確認しました。この状況に対し、信秀は、道三との和睦によって北方からの脅威を取り除くとともに尾張国内も安定させる、という対策を取ります。

このページでは、和睦の証である信長の濃姫との婚姻と、当時の信長および濃姫について、確認したいと思います。

 

 

信秀の対斎藤道三戦略の大転換 - 婚姻による和睦

信長の婚姻についての『信長公記』の記事

『信長公記』 には、信長婚姻の記事が、清須勢の信秀からの離反の記事の次に出てきます。以下は 『信長公記』(首巻7)からの引用です。

去(さ)て平手中務〔政秀〕の才覚で、織田三郎信長を斉藤山城道三の聟に取結び、道三の息女〔濃姫〕を尾張へ呼取った。この頃はどの方面も平穏無事であった。

『信長公記』の記述は非常に簡潔です。平手政秀が思い付き、信長を濃姫と結婚させるという条件で斎藤道三との和睦をまとめた、濃姫を尾張に迎えた、というだけの内容です。例によって年号も出てきません。

信長の婚姻は1549(天文18)年2月

信長の婚姻がいつのことであったのか、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 には、「輿入れの時期は天文18〔1549〕年の春であっただろう。『美濃国諸旧記』 には、入輿を天文18年2月24日としている」と書かれています。信長は16歳になっていました。

前年11月に清須衆の離反があり、12月に美濃から完全撤退してから、わずか2ヵ月程で信長の婚姻がまとまり、濃姫の輿入れとなったわけで、ごく短期間で急展開の決着がなされたことになります。信秀も道三も、即断即決の人物だったのでしょう。

信長・濃姫婚姻による和睦の効果は絶大

この和睦の背景と効果について、以下は横山住雄 『織田信長の系譜』からの要約です。

● 天文17〔1548〕年12月、清須離反と同時に美濃から完全にしめ出し、対美濃戦略は振り出しに。何よりも国内の平穏化のために、老臣平手政秀と謀って美濃の斉藤道三との講和に成功。清須衆も武力で信秀に対抗しうる力は無いので、天文18年秋に和睦が成立した。
● この事件を契機に守護代織田達勝が退き、彦五郎信友が守護代になったとの説。しかし老練な達勝が存命しておれば、このような〔清須衆離反という〕軽率な行動はとらなかっただろうから、むしろ彦五郎への代替わりがこの直前になされていたのではなかったか。

本書には史料の根拠は示されていませんが、
①天文17年12月までの清須離反と美濃喪失
②信長の婚姻による信秀・道三の和睦
③天文18年秋の清須衆との和睦
という流れになったとしています。結果として『信長公記』の信長婚姻の記事通り、「何方も静謐」となったわけです。

信長の婚姻による斉藤道三との講和は、信秀にとっては、まさしく戦略の大転換、単に美濃・三河の2正面作戦に終止符を打っただけではなく、尾張国内の不協和音も抑え込むという、狙い通りの一石二鳥の効果を即座に発揮した、と言えそうです。

それどころか、濃姫との婚姻=斎藤道三からの支援は、後々の話になりますが、信秀亡き後の信長にも大きな効果を発揮しました。天下取りに歩み出してからの信長を助けたのは三河・徳川との同盟でしたが、尾張の掌握を目指す若き日の信長を助けたのは美濃・道三との同盟であった、と言えるように思います。

斎藤道三も、信秀との和睦で、国盗りを完了

一方、斎藤道三にとっても、尾張の信秀との和睦は、自身の美濃の国盗りに効果があったようです。以下は、再び横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

● 天文19年(1550)10月10日付で、室町幕府が「土岐殿」へ、翌年正月の準備に関わる指示(『後鑑』)。このような下命があったことは、まだ〔守護の土岐〕頼芸は追放されていなかったと見るべき。
● 「村山文書〔織田寛近の土岐小次郎あて書状、天文19年11月15日付と推察されている〕」によって、天文19年10月10日から11月5日の間に追放されたと見るべき。
● 天文19年11月には、道三が国盗りを成し遂げたのであろう。「異本葛藤集」の弘治3年と推定される書状、「濃州は6・7年以前、暴虐の臣によって国を奪われ」も、天文19・20年に当たる。
● 頼芸は六角氏を頼って落ちのびていった。

道三が守護の土岐頼芸を追放して、美濃の国盗りを完了したのは、信長と濃姫の婚姻による信秀との和睦の翌年の秋であったようです。講和によって今更尾張国から介入される心配はなくなった、という要因もあったと思われます。信長と濃姫との婚姻による信秀・道三同盟は、信秀にも道三にも大きなメリットがあった、と言えそうです。

 

濃姫との新婚時代は、信長の「大うつけ」時代

『信長公記』 は、婚姻直後の数年間の信長について、「大うつけ」と呼ばれた時期であったことを記しています(首巻7)。以下は同書からの引用です。ただし、一つの文章を意味の切れ目で分けています。

① 信長は、十六・七・八までは別のお遊びはなく、馬を朝夕御稽古、又、3月より9月までは川に入り、水練の御達者だった。その折節、竹槍での叩き合いを見て、とかく槍は短くては不利であると言って、3間柄・3間真間中〔3間半〕柄などにさせられ、
② そのころの形儀〔ぎょうぎ=立ち居振る舞い〕、浴衣びらの袖をはずし、半袴、火打ち袋、色々多数付け、御髪は茶筅〔曲げ〕に、紅糸、萌黄糸にて巻立てて結わせ、大刀は朱鞘にさし、〔お付きの者は〕ことごとく朱武者となるよう指示し、
③ 市川大介を召し寄せて弓の稽古、橋本一巴を師匠として鉄炮を稽古、平田三位を絶えず召し寄せて兵法を稽古、鷹狩り等など。
④ ここに見苦しいことあり。町をお通りの時、人目も憚りなく、栗・柿はいうに及ばず、瓜をかぶり食いし、町中にて立ちながら餅を食べ、人に寄りかかり、人の肩にぶら下がってしか歩かなかった。そのころは世間は上品な折節だったので、大うつけとしか言われなかった。

16~18歳のころと言えば、まさしく結婚直後の2~3年間のことになります。当時は、①兵事の鍛錬や研究に熱心、②機能的な服装や髪型や武具の色にこだわり、③弓・鉄砲・兵法は専門家から習得、④ 町中では顰蹙を買う行動が目立ち「大うつけ」と呼ばれた 、という内容です。

こと兵事に関しては、信長はきわめて真面目で鍛錬を怠らず、実験観察を通じての研究開発にも熱心であり、また合理主義志向でもあったことが読み取れます。『信長公記』 のこの記述について、以下は桐野作人 『織田信長』 の指摘の要約です。

● 信長の「大うつけ」ぶりのなかに、その後の軍事カリスマ性の一端がかいま見られる。
● 信長は近習や小姓たちと、遊びや悪ふざけを通じて、日常的に互いの親密さを確認しあい、主従の紐帯の強固さを培っている。
● 弓と鉄砲の稽古は、武芸の技倆においても、信長が近習や小姓たちよりも優越していることを見せつける効能があった。個人教授による兵法の学習も主君ならではのものだった。鷹野が信長の戦場での統率力を培う予行演習の役目を担った。

ただし、上記のうち①や③の兵事鍛錬・研究・習得への熱心さという点は、町中の人々には見えない部分だったでしょう。上記のうち町中で人に見える部分は②と④、顰蹙を買う服装・行動が目立った、良い部分は見えず悪い部分だけが目立った、そのため「大うつけ」と言われることになった、と理解できます。

『信長公記』 の著者・太田牛一は、1527(大永7)年生まれで信長よりは7歳年上、また春日井郡山田庄(現名古屋市北区)の常観寺(成願寺)にいた(藤本正行 『信長の戦争』序章)ということです。那古野城から成願寺までは直線で4キロもない近さです。太田牛一は、信長のこの「大うつけ」ぶりを直接目撃していた可能性がかなりありそうです。

この当時の信長は、現代であれば高校生の年代、学業優秀にして服装や行動はあえて異端を行いたがる男子高校生は珍しくありません。信長は、目的合理性思考が強く、したがって他人からどうみられるかは気にしない人物の典型であった、と言えるように思われます。

すでに、父親の信秀は古渡城に、信長は那古野城にと分かれて住んでいたこともあり、信長は自由気ままに振る舞っていた、ということでしょうか。そういう信長を濃姫がどう思っていたか、それが読み取れる史料がないのは残念です。

 

信長の正室・濃姫

濃姫に関する通説

信長の婚姻の相手、濃姫について、『信長公記』 では上に確認しました通り、ただ「道三が息女」とだけ書かれています。この濃姫はどういう女性であったのか、その通説について、まずは小和田哲夫 『東海の戦国史』 からの引用です。

道三の娘は一般的に濃姫といわれているが、たしかな史料には名前が出てこない。江戸時代の地誌には帰蝶ともみえる。たとえば、『美濃国諸旧記』 は、彼女の生誕を天文4年(1535)とし、「天文18年2月24日、尾州古渡の城主織田上総介信長に嫁す。帰蝶の方といふ。又鷺山殿ともいふ」とあるが、これも確証はない。なお、彼女が信長に嫁いだとき、信長は古渡城主ではなく、那古野城主で、まちがっている。

濃姫は再婚だった

一方、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 は、別の史料を根拠に、濃姫が再婚であったとの説に立っています。以下は同書からの要約です。

天文13年9月の美濃大乱から満2年、天文15年(1546)9月の講和で、道三の娘が土岐頼充〔前守護土岐頼武の嫡子〕に嫁したのは間違いない。頼充は天文16年11月17日に24歳の若さで道三に殺害され、婚姻して1年ほどの夫人は道三のもとへ帰ったらしい。その頃15~16歳。この女性こそが濃姫、道三は天文18年春頃〔濃姫、17~18歳〕に16歳の信長に再婚させた。

『美濃国諸旧記』の記述は正しくなく、濃姫は信長より1~2歳年上、2度も政略結婚をさせられた、ということのようです。なお、土岐頼武・頼充については、「第2室 2-7 美濃攻め・大柿城奪取と5千人討死」を参照ください。

濃姫は1573(天正元)年に亡くなった

濃姫は、史料にほとんど登場しないため、その生涯は知られていません。結婚後の濃姫に関し、史料から分かっていることついて、再び横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

子がなかった正室・濃姫、子が生まれた側室
史料より、信長は天文23年〔1554〕5月に家臣塙直政の妹・直子に那古野城内で子を生ませた。後の織田信正。正室の嫉妬が強く城内にいられなかった。正室とはおそらく濃姫。信長は次に生駒の娘吉乃を寵愛した。吉乃は弘治2年(1556)から奇妙(信忠)、茶筅(信雄)、長女のお徳を生み、永禄9年〔1566〕小牧城内で亡くなった。織田信孝を生んだ側室の坂氏は多くは実家に留まっていたといわれる。
義龍の壺事件
『言継卿記』 の永禄12年7月27日の条。故一色〔=斎藤〕義龍の後家が持っていた壺を信長が差し出すようにたびたび言った。それ以上責めれば後家だけでなく信長本妻や兄弟女子16人・国衆17人と女子ら30余人も切腹すると騒いだので、信長は探索を中止した。このときの「信長本妻」は帰蝶(濃姫)。
濃姫の死
史料「快川和尚法語」より、天正元年12月25日に亡くなった「岐陽太守鐘愛の女性」が濃姫(帰蝶)。濃姫と思しき女性が亡くなって1ヶ月もしないうちに、信長は女性の画像を同時に2幅描かせた。この女性が濃姫である可能性は高い。それほどに信長は濃姫に愛情をいだいていたと言えよう。

本書中には、信長の側室について「生駒の娘吉乃」と書かれています。しかし、「信長が生駒氏の女を側室にしたのは事実だが、彼女の名前は良質な資料には記されていないし、吉野(吉乃)という名前も「前野文書」〔=『武功夜話』〕以外には出てこない。だから彼女のことは、“信長夫人の生駒氏”とか“生駒氏の女”と呼ぶのが適当」(藤本正行・鈴木眞哉 『偽書『武功夜話』の研究』)という指摘があります。

義龍の壺事件について、谷口克広 『天下人の父・織田信秀』 は、「この時まで濃姫が生きていたにしても、信長との関係は冷えたものであったのではなかろうか。… 夫よりも義姉〔義龍未亡人〕に義理立てしそうな濃姫の心が感じ取れるからである」としていますが、典拠は示されておらず、根拠のない憶測にすぎないように思われます。むしろ濃姫は、信長のやり過ぎを指摘することで、結果として信長から感謝された、という推測すら成り立ちそうに思われるのですが。

信秀亡き後、信長が尾張を統一していく過程では、濃姫の父・道三からの支援が大きな役割を果たしました。信長の美濃取りも、濃姫の婿であることが多少なりとも役立ったように推察されます。そうした経緯もあり、横山説の通り、濃姫は「岐陽太守鐘愛の女性」であった可能性が高そうに思われます。1573(天正元)年といえば、信長は将軍足利義明を京から追放、一乗谷を攻略し朝倉を亡ぼし、さらに小谷城の浅井も滅ぼした年です。この年に濃姫が亡くなったとすれば、信長と濃姫の結婚生活は約25年、濃姫は42~43歳で亡くなった、ということになります。

濃姫が暮らした場所

濃姫が暮らした場所を地図で確認したいと思います。

濃姫が暮らした場所 地図

上述の通り、濃姫は天文元年~2年頃の生まれと思われます。「道三は天文4(1535)年8月、9月の大乱時にはすでに「因幡」、つまり稲葉山に城を構えていたらしい」(横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』)ということなので、濃姫が物心ついた時には稲葉山=岐阜にいたことは間違いなさそうです(地図①)。もちろんこの場合、後年の信長時代と異なり、山の上で暮らしていた、というわけではありません。「道三は、天文8年(1539)に…長井洞(鶯谷)から岐阜公園辺りの地に引っ越したといわれる」(同上書)ということであり、山のふもとで暮らしていたようです。

1543(天文12)年末に大乱が起き、大桑城の土岐頼充が美濃国外に逃れましたが、この講和が1546(天文15)年秋に成立、頼充が美濃に帰国します。そのさい「道三の娘が頼充に嫁したのは間違いない」(同上書)とのことで、まだ14~15歳の濃姫は頼充と結婚させられ大桑に住んだものと思われます(②)。

しかし「それから1年を経過した天文16年11月17日に頼純〔=頼充〕は大桑で急逝する。… 事に左右をよせて自殺させた」(横山住雄 『織田信長の系譜』)ということで、濃姫は大桑から稲葉山=岐阜に戻ります(③)。

濃姫が信長と結婚した1549(天文18)年は信長の那古野城時代でした(④)。信長は5年後の1554(天文23)年に清須城(⑤)、それから9年後の1563(永禄6)年に小牧城(⑥)、さらにその4年後の1567(永禄10)年に岐阜城(⑦)に移っています。

道三の娘であった濃姫からすると、信長に嫁ぐために美濃を出てから18年後に岐阜城に戻った、それから6年後に岐阜で亡くなった、ということになります。42~43年の生涯のうち、尾張で暮らしたのは18年、結局美濃で暮らした年月の方が長かったのですから、やはり濃姫であった、ということでしょうか。

信長が岐阜に本拠を移したとき、小説的な想像をすれば、濃姫には、大いに感慨深いものがあったであろうと思われます。結婚当時は「大うつけ」といわれ、舅信秀の死後は尾張の掌握にも苦労していた夫信長が、今や尾張と美濃の2国を支配する大名となって、かつては自分の父・道三の稲葉山城であった地に新たな城を建てて本拠とした、ということになりましたから。小牧城で生駒氏の娘が亡くなった後、まだ幼かった信忠らの子どもたちを岐阜城で育てたのは濃姫だったのでしょうか?

 

 

1549(天文18)年前半の信秀は、信長と濃姫との婚姻により道三との関係を大転換して安定させ、尾張内部の不協和音も沈静化させて、前年末の美濃の放棄という状況変化に上手く対応したように見えました。しかし、「何方も静謐」は長くは続きません。信秀自身に健康問題が生じ、末盛城に隠居することになります。次は、末盛城への移転と信秀の健康問題についてです。