4-14 戦国当時の日欧の軍事比較

 

「第4室 4-12 戦国軍事に関する資料・研究書」のページでは、戦国時代の武器や武具、軍の組織や戦法など、当時の軍事の詳細について確認しました。また「同 4-13 藤木久志氏の著作」では、戦国時代を、村や合戦の習俗などの観点から追求されている藤木久志氏の主要著作の内容を確認しました。織田信秀・信長父子が生きた戦国時代を、より適切に理解することが目的でした。

このページではさらに、目を世界に広めて、戦国時代の日本と同時代・16世紀のヨーロッパとを比較して、合戦の仕方その他や、軍事の状況などに大きな相違があったのか否かを、確認してみたいと思います。

 

 

戦国日本と、その当時のヨーロッパとの、軍事面の共通点・相違点

戦国時代の日本と、同時代・16世紀のヨーロッパでは、合戦の仕方にはどのような相違があったのか、比較のためにいくつかの本を読んでみたところ、傾向としては共通点が多いものの、詳細に見てみると日欧の文化や軍事技術の差異によって生じた意外な相違点があったことが分かりました。

とくに大きな相違点として、以下の6点があったようです。

① 日本では弓矢が主力兵器として活躍したが、ヨーロッパではイギリスを除き弓矢はあまり活躍しなかった。
② ヨーロッパでは、弩(クロスボウ)の代替として、小銃(火縄銃)が使われるようになった。
③ ヨーロッパでは、小銃(火縄銃)より先に大砲が活躍していたが、日本での大砲の運用は大幅に遅れた。
④ ヨーロッパでは騎兵隊が攻撃の主力だったが、日本には騎兵隊はなく騎馬武者は下馬して戦った。
⑤ 日本では敵を殺して首を取ったが、ヨーロッパでは生かしたまま捕虜に取った。
⑥ 常備軍化は、ヨーロッパの方が進んでいたが、ヨーロッパの歩兵は傭兵が主体だった。

以下に、この6点の相違点の詳細を確認します。なお、この確認に使用した書籍は、本ページ後半「戦国当時の日欧の軍事比較に関する研究書」の項で、一括してご紹介します。

日欧の相違 1 ヨーロッパでは弓矢はあまり活躍しなかった

日本では、今も縁起物の破魔矢があり、寺社では今も流鏑馬や弓の行事が行われれています。「第4室 4-12 戦国軍事に関する資料・研究書」のページで確認しました通り、戦国期の戦傷原因の第1位は矢疵であり、日本の主力兵器でした。

これに対してヨーロッパでは、弓矢はの使用には地域差があり、現イギリス(イングランド、ウェールズ、スコットランド)を除いて主力兵器としては使われていなかったようです。

以下は、マシュー・ベネット他 『戦闘技術の歴史 2 中世編』 からの抜書要約です。

● ビザンツ〔東ローマ帝国〕軍の10世紀の戦術書、歩兵の隊形は弓兵に支援された槍兵で構成。専門の投槍兵と投石兵が守備。
● イスラムのスペイン征服を止めたのは、ピレネー山地の丘陵地帯と、その地の軽装歩兵の投槍と大型ナイフ。
● スイス軍、弩で武装した少数の散兵と騎馬斥候兵以外は、15世紀初めまでは大半が斧槍、1422年のピュロスの戦い後、槍を増強。スイス軍の強さは槍兵部隊。

つまり、弓兵はいても主力兵器部隊ではなく、槍兵の支援として使われたか、ほとんどいない地域もあったようです。

なお、ヨーロッパの歩兵槍は、中世初期には、突き刺すための2m前後のspearと、投げるための投槍javelinの2種が一般的だったものが、後期~近代初期には、3~7mの長槍 pike、あるいは斧槍 halberdに変わっていったようです。pikeは密集して槍衾を形成する、という点では日本と同様でしたが、あくまで突き刺すもの、という認識では日本と異なっていたようです。一方、叩くものとしては専用で破壊力の高い斧槍が使われましたが、これは振り回す必要があるため密集しては使わなかったようです。騎兵の槍lanceが、歩兵槍より短いことも、日本と同様 でした。

一方、ビザンツ帝国と対抗したアラブ・トルコ軍や、イングランド軍では、弓が活躍しました。再び、上掲 『戦闘技術の歴史 2 中世編』 からの抜書要約です。

● 7~11世紀、ビザンツ帝国の主要な敵はアラブ諸国。軽装騎兵〔騎馬弓兵もいた〕が攻撃を仕掛けては撤退。騎兵を歩兵が支援、槍兵、その背後に弓兵と投槍兵。
● 1298年、イングランド対スコットランドのファルカークの戦い、イングランドの弩兵と弓兵がスコットランドの槍兵・斧兵に矢を放ち、騎兵が蹴散らして大虐殺。
● 1346年、イングランドのノルマンディー侵攻。英軍は、3千の装甲騎兵と1万の弓兵。仏軍は、1万2千の装甲騎兵、6千の弩兵と多数の槍兵。仏の弩兵は英の弓兵に打ち負かされ、英軍はカレーを占領。

ヨーロッパで、現イギリスやトルコ以外では弓が主力兵器として使われなかったことには、技術的・文化的な理由があったようです。以下は、バート・S・ホール (市場泰男 訳) 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』 からの要約です。

● 弓を使う兵士は、中世の大部分、ヨーロッパ大陸では、きわめて従属的な役割のみ。材料を組み合わせて弓を作ることを知らなかった。
● 〔例外は〕ウェールズ〔あるいはイングランド、スコットランドなど〕の長弓(ロングボウ)、長さ約2メートル、固いニレ、後にはイチイの単材。射る矢は他のどの弓の矢より長い、36インチ〔91センチ〕。長弓の近距離での貫通力、60~120mまでなら、長弓の矢は鎖帷子、皮革、低級の板鎧でさえ貫通。
● 長弓は、戦場での成功にもかかわらず、西ヨーロッパ全体に広がることはけっしてなかった。維持するためには農民文化全体に依存しなければならなかったため。

長弓は長いので扱いにくく、兵器としての活用のためには、狩猟等のために子供の頃から長弓を使うことに慣れている兵士が必要ですが、現在はイギリスとなった地域以外には長弓の熟練者はおらず、他のヨーロッパ諸国には広がらなかった、ということのようです。

ただし、イギリスの長弓の2mの弓・90センチの矢というのは、実は日本の弓とほぼ同等の大きさであったようです。しかも、日本の弓は、木製弓から合せ弓へ(木製弓→外竹弓→三枚打弓→四方竹弓→弓胎弓(ひごゆみ))という技術進化があり、弓の弾力の増加によって矢の飛距離の増加も実現されました。(近藤好和 『弓矢と刀剣』)。

日本では古代より、弓矢を狩猟のみならず主力兵器として活用する文化があり、材料等の技術進化もあったため、ヨーロッパとは相違して、弓矢は中世から戦国時代まで主力兵器であり続け、火縄銃の時代になっても補助兵器として使用され続けたようです。

日欧の相違 2 小銃(火縄銃)は、弩の代替か、弓との統合運用か

弩(おおゆみ)は機械仕掛けの大弓で、日本では、古代には使われたものの、中世では以降はほとんど使われなくなっていました。前九年合戦中の1062年の厨川柵の攻城戦で攻撃側の官軍が使用した、という 『陸奥話記』 の記録が、「弩の実戦使用をしめす最後の記事であろう」(上掲・近藤好和 『弓矢と刀剣』)とのことです。

これに対しヨーロッパでは、いったんすたれていた弩(クロスボウ)が、日本とは反対に、11世紀末以降、再び急激に広まったようです。以下は再び、上掲・ホール 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』 からの要約です。

● 弩が急激に広まったのは、近距離なら鎖帷子式の胴鎧を貫くことができたから。13世紀には弩は不可欠の兵器。
● 騎士は重装甲の鎧で対抗。それに対し、一層強力な弩が生産される。
● 14世紀後半、鍛鋼製の弓を使う弩に。弩を発射後、二の矢をつがえるのに必要な時間が長くなり、一方、鎧も鍛鋼製でより強くより軽くなり、結果として弩が不利に。

ヨーロッパの騎士は、頭のてっぺんから爪先まで、薄い鋼板を使った鎧で完全武装、というところが日本とのもう一つの相違点で、騎兵を倒すために弓より強力な弩が好まれたものの、弓のような速連射ができないという弱点もありました。

小銃=火縄銃(アーキバス)は、速射性はないが強力、弩よりは扱いやすいということで、ヨーロッパでは弩の代替として広まりました。一方、弩がすたれていた日本では、火縄銃ほどは強力ではないものの、低コストで速射性がある弓矢にも価値があり、火縄銃と弓矢の組み合わせで、相互補完的な使用の仕方が試みられたと思われます。

日本での火縄銃の登場は1543年頃の種子島、最初の大量投入は1575(天正3)年の長篠の戦いでした。これは、ヨーロッパ外では画期的なことでしたが、世界的に見れば、ヨーロッパが日本より70年以上も先行していたようです。以下は、ヨーロッパでの火縄銃の初期の大量投入の記録です。

● 1500年ごろには、少なくとも南ドイツと北イタリアでは、小銃の使用はありふれたもの。早くも1493年にフリウリ〔北イタリア〕の市民軍は約900名の手銃射手をかき集めた、市民軍全体の25%。
<上掲・ホール 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』>
● 1503年4月の〔南イタリア〕チェリニューラの戦い Battle of Cerignola。スペイン軍、塹壕の背後に2000名ほどの火縄銃兵。彼らをパイク兵と砲兵が支援。フランス軍騎兵に一斉射撃を繰り返し、フランス軍を撃退。
<クリステル・ヨルゲンセン他 『戦闘技術の歴史 3 近世編』>

日欧の相違 3 小銃(火縄銃)より先に大砲が活躍したヨーロッパ、大砲後進国だった日本

日本の戦国期は、火縄銃の活躍が目立っていて、大砲はあまり活躍せず、有名なところは、1578(天正6)年の木津川口の海戦で織田軍が毛利・村上水軍に対し使った例や、1614-15(慶長19-20)年の大坂の陣ぐらいしかありません。

しかし、ヨーロッパでの大砲の活用は、小銃=火縄銃より200年以上も早く、日本と比べれば300年近くも前から、とくに攻城戦で活躍するようになっていたようです。

ところで、攻城戦という場合、そもそも、ヨーロッパは城の建て方が日本とは異なっており、そのため、攻城戦の戦法も、ローマ帝国の古代以来、日本とは大きく異なっていたようです。以下は、上掲・マシュー・ベネット他 『戦闘技術の歴史 2 中世編』 からの抜書要約です。

● ローマ式の石造りの建物や塁壁、壁は、やがてフランク人、ゴート人、西ゴート人、サクソン人を守るようになった。
● ローマ人は、弩砲(バリスタ)や、投石機、カタパルト式投石機、移動塔、移動梯子、屋根付き破城槌といったさまざまな攻城兵器を用意していた。

古代よりヨーロッパでは、城壁や城館が石造りであるために、城攻めにも、それに対抗し打ち破ることができる大掛かりな機械装置が必要であった、ということだったようです。土塁と木造砦だけなので、火矢でもなんとか攻略できた日本とは大違いでした。

そうした中で、ヨーロッパでは早くも14世紀前半から、攻城戦に大砲が活用されるようになります。以下は再び、上掲・ホール 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』 からの要約です。

●12世紀の半ばには石が木に代わって要塞建設の主材料になり、攻撃側では焼夷兵器がまるで役立たなくなった。
● 間違いなく戦争で最初に大砲が使われた例は、1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦。
● 攻城戦では14世紀後半から効果が認められ、重要な戦略的役割。ただし、攻城砲が十分な数で使われるようになったのは、14世紀の最後の10年間、火薬の値段が下落しはじめてから。
● 大きな石を打ち出す大砲は15世紀初めの軍の流行。現存の最大の射石砲、口径80cm、重さ697キロの弾丸。
● 15世紀が進むにつれて、(1) より長い砲身長、(2) 装填される火薬重量も次第に増大、(3) 鋳造青銅砲の増大、特に大口径の砲、(4) 鋳鉄製の弾丸の使用拡大。
● 大砲の輸送の改善で、決定的な役割。1419年~、ボヘミアのフス戦争、装甲車と二輪車に搭載した中口径の砲で、一種の移動城塞。
●百年戦争の最終段階、1440~50年代、フランス軍の砲兵隊がイングランド人を追い出す。新型の火薬、砲を運ぶための砲車、後ろに砲や弾薬箱をつけた車両。

すなわち、ヨーロッパの攻城戦では、日本の鎌倉時代の最末期ごろから大砲の使用が開始され、室町幕府4代将軍・足利義持の頃以降には、攻城戦での大砲の使用がかなり広がっていたようです。大砲は威力が大きく、弩砲やカタパルト式投石機、移動塔などといった古代以来の機械装置にすぐに置き換わった、ということであったようです。

その結果は、ヨーロッパの築城様式をも変化させました。再び、上掲・ホール 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』 からの要約です。

イタリア式築城術、1521年。この年以後は短期で勝利を収めた攻城戦はめったになかった。多角形の稜堡。壕、分離した砦、人工斜面。これらで攻撃側の大砲を重要な中央部の城壁に近づけさせないようにする。

イタリア式築城術は、最終的には、函館の五稜郭につながる、大砲の発展に対応した西洋式築城術です。それが開始されたのは、織田信長の父・信秀がまだ10代だったとき、日本ではまだ館城が当たり前で、城に天守もなかった時代であった、ということですから、ヨーロッパでの大砲の活躍には、日本とは大差がありました。このため、ヨーロッパの砦内には、大砲の格好の目標となる高さのある建物は建てられることがなくなりました。

逆に言えば、豪壮な天守に象徴される日本的な城郭は、実は、日本が大砲については著しい後進国であった、という世界史的な特異性によるものであることを、理解しておく必要がありそうです。もしも日本でも、火縄銃の導入に前後して大砲が導入されていたなら、日本の城郭建築は、全く異なったものになっていたでしょう。

なお、大砲には、巨大重量で輸送・移動が容易でなく、また射撃の信頼性の低さや発射に要する時間の長さなどの制約条件もありました。このため、大砲が不可欠だった攻城戦とは異なり、野戦では、時に活用されることはあっても、一般的な活躍は大きく遅れました。野戦でも大活躍しだすのは、17世紀末~18世紀初めのナポレオン戦争の頃から、ということだったように思われます。

日欧の相違 4 ヨーロッパでは騎兵部隊が攻撃の主力、日本の騎馬武者は下馬して戦闘

ヨーロッパでは貴族が、日本では侍が、馬に騎乗して参戦していました。ヨーロッパの貴族も日本の侍も、領地を所有する階級であり、国王や大名に対して参戦の義務を負っていたことは同じですが、ヨーロッパの貴族と日本の侍の戦場での実際の戦い方については、大きな相違があったようです。

日本の戦国時代、侍は、自らは騎乗して、またそれぞれの石高等に応じた人数の足軽や従者を引き連れて参戦、戦場では、侍自身は馬を降りて槍を持って戦い、引き連れられて参加した足軽たちは、鉄砲や弓や槍などの武器別に、それぞれの足軽部隊に属して戦闘に参加したことは、ご承知のとおりです。

日本の戦国時代には、騎乗した侍だけが集団で行動する騎兵部隊は存在したことがなく、「武田の騎馬軍団」といわれるものも、単に武田家に従っている侍たち、ということを意味しただけで、他の戦国大名の侍たちと同様、戦場では下馬して戦っていました。

それに対し、ヨーロッパの貴族は、騎乗のまま騎兵として戦場に加わり、また騎兵=貴族は、騎兵部隊として集団で作戦を行っていたようです。

● 〔8世紀後半~9世紀初め、カロリング朝の〕シャルルマーニュの軍隊こそが、西欧中世ではじめて騎兵を主力として活用。装備の劣る歩兵を、高価な甲冑に身を包んだ騎兵が威嚇して敗走させる。
● カロリング朝の軍事技術は、その後広く行き渡り、すべてのヨーロッパ軍隊が騎兵主体に。
<以上は、マシュー・ベネット他 『戦闘技術の歴史 2 中世編』>
● 中世ヨーロッパの戦闘、混戦に決着をつけるのは、たいていは重装備の騎兵。装甲騎兵の優位と、突撃して刃を交わすという単純な戦術を支えていたのは、甲冑職人たちの技術。
<クリステル・ヨルゲンセン他 『戦闘技術の歴史 3 近世編』>

前掲・ホール 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』 にも、以下の記述があります。

● 〔ヨーロッパ中世の急襲戦術について〕
〔重装甲の騎兵が〕槍が馬と騎手の両方の運動量を合わせ持って第一撃を加える。敵の隊形を崩して混乱させ、軽騎兵と歩兵の突入口を作って、あわよくば全軍を潰走させる。
● 〔弓矢が主力兵器だったイングランド軍の戦闘について〕
オレウィン橋の戦(1282年)、イングランド軍、弓兵がウェールズ軍の縦列を矢で相当激烈に減らしたあと、騎兵が突撃して征服。

馬を所有し飼うことは、どこの国でもお金がかかること、加えて頭のてっぺんから爪先まで鎧兜で体を覆うには、さらにお金がかかります。貴族や侍でないと出来ません。ヨーロッパの貴族は、馬と重装甲の有利さを活用して勝敗を決するために、騎兵だけまとまって集団行動をしよう、と考えたようです。

ただし、それができたのは、日本と異なり、ヨーロッパでは弓矢が主力兵器ではなかったため。なにしろ、馬が射られたら騎兵は活躍できません。馬にも重装甲をつければ、重すぎて馬も機敏に動けなくなります。そこで、日本と同様に弓矢が主力であったイングランドでは、先に矢戦が有利に進んだ場合に、騎兵部隊が投入されて勝敗を確実にしたようです。

日欧の相違 5 殺して首取りした日本、生かしたまま捕虜に取ったヨーロッパ

日本の戦国時代、日本の合戦では、敵の首取りが行われました。戦場の主力兵器は鉄砲や弓矢でも、首取りとなると接近戦になり、刀が活用されました。戦闘後には首実検を含む論功行賞が行われ、侍クラスの敵の首だとなれば高評価が得られました。一方、戦場での敗者は、捕えられて処刑されるました。また、逃走を図って落ち武者狩りに会い命を落とすこともしばしばであったようです。

つまり、日本の戦国時代は、戦争で負けると殺されて当たり前、と理解されていて不思議なかったように思われます。

ところが、ヨーロッパでは全く異なっていました。相手が貴族(=将官将校・騎兵)なら、生かしたまま捕虜にして、身代金を要求するのが通例であったようなのです。以下は、再び前掲・マシュー・ベネット他 『戦闘技術の歴史 2 中世編』 からの抜書要約です。

● 中世では、戦場での騎兵の死者は次第に低下していった。騎士や騎兵の身代金を受け取る方が、殺すより利益があるようになっていったのだ。
● ブーヴィーヌの戦い〔1214年〕、フランス軍騎兵は2名だけが死亡。プレミュールの戦い〔1119年〕、900騎の騎士が参加して3騎が殺されただけ。

ただし、ヨーロッパでの大砲・火縄銃の拡大は、この状況に大きな影響を与えました。以下は、やはり前掲・ホール 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』 からの要約です。

● 新兵器=火器はより多くの生命を失わせた、大砲は特に。貴族たちは、火器は階級に対し無差別、と不平。
● 戦闘の致死率は16世紀にはそれ以前より高くなった。捕虜にして身代金を要求する習慣は弱まった。

火器の普及拡大の結果、決戦部隊としては、騎兵はやがて消えていく(偵察部隊としてはもう少し長生き)のですが、貴族は、その後も第一次世界大戦期頃までは、将官将校であり続けました。戦争で武運悪く捕虜になるのは少しも恥ではない、という考え方は、この中世以来のヨーロッパ軍事文化の結果であるのかもしれません。

第二次世界大戦を扱った欧米の戦争映画では、捕虜収容所ものというサブジャンルがあり、日本とは異なり多数の映画が制作されています。その大多数は、再び自軍に復帰し敵とまた戦うために、捕虜収容所からなんとか脱走することがテーマになっています。

それらの作品のうち代表的なものに、以下の映画があります。
● 「第17捕虜収容所」 (1953年 アメリカ映画)
● 「大脱走」 (1963年 アメリカ映画)
● 「脱走4万キロ」 (1964年 イギリス映画)
● 「脱走特急」 (1964年 アメリカ映画)
● 「マッケンジー脱出作戦」 (1970年 イギリス・アイルランド・アメリカ映画)

なんとか生き延びて再び戦おうというのですから、「戦陣訓」 で「生きて虜囚の辱を受けず」などと宣言して、結果として将兵にバンザイ突撃・玉砕による無駄死や、神風特攻隊や人間魚雷回天のような自爆攻撃を強制した日本軍とは大差があります。日本側では、戦争で負ければ殺されて当たり前だった日本の戦国文化が影響したのでしょうか。

日欧の相違 6 常備軍化も、ヨーロッパが先行、歩兵は傭兵が主体

すでに確認しました通り、日本の戦国時代、織田信長が常備軍化を図る以前は、合戦は農閑期に行うもの、戦国大名の軍隊は常備軍ではありませんでした。戦国大名が出陣を決めれば、その家臣である侍が、それぞれの石高等に応じた人数の足軽や従者を引き連れて参戦していました。少なくとも書く戦国大名・戦国武将は、自国・自領の兵を引き連れての参戦でした。

一方、ヨーロッパでは日本の織田信長よりも半世紀以上前から、軍隊が常設軍化していったようであり、騎士は家臣の貴族でしたが、歩兵は様々な国から来た傭兵部隊であったようです。以下は、前掲・クリステル・ヨルゲンセン他 『戦闘技術の歴史 3 近世編』 からの要約です。

● 常備軍の創設が考えられるようになったのは、ようやく15世紀に入ってから。
● 16世紀初頭にはスペイン王国が初めて常設の軍事編成を採用、それがテルシオへと成長する。各テルシオは大佐が指揮、下部単位である中隊を大尉がまとめた。テルシオはスペイン、イタリア、ネーデルラントで常設編制。
● 中世軍隊の主力、重装甲の騎士階級は、しだいに常備軍の将校へと移行
● 16世紀の軍隊は、様々な国の職業軍人や傭兵や軍事企業家で構成

やはり、農閑期の農民に頼る軍隊より、職業軍人ばかりで構成された軍隊のほうが強いし、1年のいつでも戦えた、というのは、お金はかかるものの、軍事的には大きなメリットがあった、ということのようです。日本の戦国時代も、織田信長をはじめとして常備軍化をしていったのは、当然の流れと言えそうです。

なお、陸軍の中隊長は大尉(Captain、自衛隊では1尉)、連隊長は大佐(Colonel、自衛隊では1佐)というのは、16世紀のスペイン軍以前からの世界的伝統であるようです。

ところで、ヨーロッパの常備軍ですが、歩兵は傭兵でした。以下は、その実態についてです。

● 多数の常備歩兵、当初は軍事企業家的傭兵隊長と傭兵に依存。
● オランダ軍、自国の君主によって派兵され、オランダ人の指揮下でオランダ軍から給与を得て従軍している兵士も多かった(とくにイングランド兵)。
● スェーデン軍の傭兵の供給源、第一がドイツ、第二がスコットランド。
<以上は、クリステル・ヨルゲンセン他 『戦闘技術の歴史 3 近世編』>
● 16世紀には重要な戦争は概して傭兵軍だけで戦われた。戦争は、職業軍人の仕事になった。傭兵部隊は、多額の費用がかかったが、金額に見合う見返りを提供。
● スイス兵、西ヨーロッパで抜群の傭兵部隊、自分たち同士の信義。ドイツ傭兵隊、スイス兵とよく似た団結心。
● 人々が兵役に応募したのは経済的理由から。もしも兵士が生きのびたら、略奪品と給料で彼は金持ち。
<以上は、ホール 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』>

この時期のヨーロッパは、徴兵制が開始されたフランス革命以降の時代とは全く異なり、職業軍人は国籍に関係なく、雇われた国のために働く、という時代であったようです。ただし、傭兵制度は金がかかりすぎるために潰れていき、それが徴兵制への転換の原因になったようです。

なお、傭兵について、軍事企業家というのは、傭兵の派遣依頼元からの要望に答え、傭兵を募集して傭兵部隊を組織し、訓練運営した傭兵隊長がいた、ということです。2022年から始まったロシアによるウクライナへの侵攻で、結局は反乱を起こし飛行機事故で殺されたプリゴジン氏が組織したワグネルという傭兵会社がありましたが、プリゴジン氏とワグネルは、15世紀以来のヨーロッパの軍事的伝統を踏まえた組織だった、と言えそうです。

以上、戦国時代の日本と、同時期のヨーロッパとの類似点・相違点を確認してきました。日本は、東アジア諸国の中では、最もヨーロッパと共通する傾向にありましたが、詳細を見てみると相違点も少なからずあった、ということであったようです。

 

戦国当時の日欧の軍事比較に関する研究書

上記の記述に関しては、下記の書籍を参照しています。

● 近藤好和 『弓矢と刀剣』
● 『戦闘技術の歴史』 中世編・近世編
● バート・S・ホール 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』

以下は、それぞれについての内容のご紹介です。

 

近藤好和 『弓矢と刀剣 - 中世合戦の実像』 吉川弘文館 1997

本書は、日本の前近代を代表する二大武器、弓矢(本書中では史料で一般的な「弓箭」と表記されています)と刀剣について、戦国期以前には、実際の戦闘の中でどのように使用されてきたのかを、具体的に明らかにしています。

本書の構成は以下の通りです。
● 日本の武器の実像 ― 序にかえて
● 日本中世の武器と武具
● 治承・寿永期以前の弓箭と刀剣
● 治承・寿永期の弓箭と刀剣

「序にかえて」では、著者は、「日本の武器は刀剣」は錯覚で、南北朝以前は、戦闘武器の主体も武士の標識も弓矢であり、馬上からの騎射は東アジア的な伝統であったことを指摘しています。

次の「日本中世の武器と武具」の章では、防御具(甲冑・籠手など)、攻撃具(弓矢と刀剣類)だけでなく、馬具と馬まで、それぞれの名称・材質・時代による変遷など、図や写真も使って分かりやすく解説されており、日本の中世の武器と武具の全般について十分な基本知識が得られます。

後半の2章ですが、治承・寿永期(1177~1184年)とは、源平合戦期(1180~1185年)のこと。つまり、源平合戦期より前の11世紀ごろのことを主に 『今昔物語集』 によって、一方、源平合戦期のことを主に 『平家物語』 によって、さらには14世紀前半の鎌倉幕府滅亡~南北朝期のことを 『太平記』 によって、また絵画史料も使って、各時期の戦闘・合戦の描写から、その当時弓矢と刀剣が具体的にどのように使用されていたかが、詳細に論考されています。

著者の論考の結論を、ごくごく簡単にまとめますと、以下のような内容になります。

<11世紀ごろ、『今昔物語集』の時代>
● 当時の戦闘は、まず両軍が楯ごしに矢を射合った「楯突戦(たてつきいくさ)」、次に楯の外に出て騎兵同士が馬を馳せ合いながら矢を射合う「馳組戦(はせくみいくさ)」 。
● 当時は木製弓、有効射程距離は十数メートル。数十メートルは至難の距離。
● 刀剣の使用は、日常の喧嘩、護身、強盗などの場合ばかり。
<源平合戦期、『平家物語』の時代>
● 源平合戦の戦闘イメージは弓矢合戦。騎射戦。
● 馬静止での騎射の増加。木製弓から合せ弓(外竹弓)への過渡期、矢の飛距離の増加で、敵との距離を保ちつつ、馬静止で弓を引き絞って射ることが可能に。
● 一通りの騎射戦ののち、馬上からの太刀打ちがさかんに。
相手の首を取る目的の騎射戦後の「組討戦」の増加、勝敗の大勢がほぼついたあとでの戦闘。
<鎌倉幕府滅亡~南北朝期、『太平記』の時代>
● 室町時代には、さらに三枚打弓、四方竹弓への進歩により矢の飛距離が増加、下馬射、歩射中心に。
弓矢が徒歩または歩兵の武器になる。
● その一方、打物戦がさかんに、騎兵が弓矢を所持せず、打物主体の戦闘を行うようになる。
弓矢は下馬、太刀は馬上の使い分け。太刀は打撃を目的、結果的に切れる。
● まず下馬射を含めた歩射戦→騎兵による打物戦のパターンが多い。
戦闘が総体に徒歩で行われるようになり、戦国時代の歩兵集団による組織戦へと移行していく。

11世紀以来、合戦の大勢は矢戦で決まり、そののち組討戦に至るという根本的なパターンは変わらないものの、矢戦自体は騎射→馬静止射→下馬射・歩射で行われるようになり、騎兵の戦闘は、騎射から馬上の打物戦に変わっていったようです。

この戦闘法の変化は、弓の改良(木製弓→合せ弓→三枚打弓→四方竹弓)による弓の射程距離の増加と、合戦時の論功行賞のための首取りの一般化によって生じたものであったようです。日本は、天皇と公家の世から武士の世に変わっていくとともに、首狩り族化した、と言えるのかもしれません。

上記は、本書の内容を要約しすぎています。実際にお読みいただく価値のある一書であると思います。

 

『戦闘技術の歴史』 シリーズ 1 古代編・2 中世編・3 近世編・4 ナポレオンの時代編
とくに 2 中世編 マシュー・ベネット他 (浅野明 監修、野下祥子 訳) 2009
3 近世編 クリステル・ヨルゲンセン他 (浅野明 監修、竹内 喜・徳永優子 訳) 2010


原著は、以下の5冊で、うち2と3を上記の記述に活用しました。

1. Fighting Techniques of the Ancient World 3000 BC - AD 500
2. Fighting Techniques of the Medieval World AD 500 - AD 1500
3. Fighting Techniques of the Early Modern World AD 1500 - AD 1763
4. Fighting Techniques of the Napoleonic Age 1792 - 1815

このシリーズも、古文書や絵画類の史料から、ヨーロッパでのそれぞれの時代の戦争の実態を論考したもので、各書とも下記の5つの区分で整理されています。

● 歩兵
● 騎兵・戦車など
● 指揮と統率
● 攻城戦
● 海戦

最大の特徴は、図版が豊かなこと。当時使われた兵器・防具その他について、非常に多くの図版が載せられており、どんなものであったのか、どんなバリエーションがあったかまで、よく分かります。また、それぞれの時代の有名な戦争については、イラスト地図上で戦争の経過を説明してくれていて、これも非常に分かりやすいです。

そういう点で、ヨーロッパの各時代の戦争の具体的な戦われ方についての非常に良い解説書であり、読む価値があります。

ただし、一つだけよく分からなかったのは、日本と異なり、ヨーロッパで弓矢が主力兵器ではなかったのはなぜなのか、十分な説明がなかった点でした。全体に、各兵器の長所・制約についての論究は、今少し弱いように感じられました。

また、同じシリーズで、東洋編という本もありますが、広い地域・全時代の概観であり、広く浅い論考となってしまっているように感じられました。

 

バート・S・ホール (市場泰男 訳) 『火器の誕生とヨーロッパの戦争』 平凡社 1999

原著は、Bert s. Hall, Weapons and Warfare in Renaissance Europe, 1997。上掲の 『戦闘技術の歴史』 シリーズで、ヨーロッパでは弓矢が主力兵器ではなかった理由が見いだせなかったために、本書を読みました。

本書が対象としている時期は、訳書タイトルにはありませんが、原著タイトルにはルネサンス期と明示されています。つまり14~16世紀、日本は室町時代~戦国時代でした。ヨーロッパではこの時期に火器、すなわち大砲と小銃=火縄銃が使われるようになりましたが、火薬や銃砲の進歩が、戦争の仕方にどのような変化を与えたか、地理的には西ヨーロッパを対象に考察されています。

本書の構成は以下のとおりです

序論
第1章 中世後期における火器以外の兵器と戦術
第2章 火薬の第1世紀 1325年ごろ~1425年ごろ
第3章 15世紀における黒色火薬
第4章 戦争の中の火器(I) ― 15世紀
第5章 滑腔銃砲の弾道学
第6章 戦争の中の火器(II) ― 16世紀
第7章 技術と軍事革命

この構成を見ていただいただけで、上掲の 『戦闘技術の歴史』 シリーズとはかなり異なる内容の本であることがご理解いただけると思います。

本ページの記述中で、本書から引用した内容は、本書のごく一部に過ぎません。本書は、実際に、『戦闘技術の歴史』 シリーズが弱かった、各兵器の長所・制約についての論究が深く、また再現実験の結果も踏まえて記述されています。

火器(大砲と小銃=火縄銃)については、使用された火薬まで含めて、製法・技術の変遷・発展が詳述され、結果としての戦法や軍隊組織の変化まで明らかにされています。

本書は、日本の戦国時代の軍事革命をより良く理解するためにも、読む価値の高い一書である、と思います。

 

 

次は、本歴史館資料室の最後として、実際には歴史小説であるのに「史料」であると思い込まれてきた 『甫庵信長記』 と、古文書の体裁で書かれた偽書である 『武功夜話』、そしてそれらが史料ではないことを指摘した研究書についてです。