1-3 斯波氏・織田氏と下津・清須

 

前ペーまで、戦国時代の尾張国の領域が、現在とはどう異なっていたのかを確認してきました。このページでは、戦国時代の尾張国の政治体制はどうであったのかを確認します。

 

 

織田信秀の時代まで、尾張国は「守護-守護代」の政治体制だった

『信長公記』が記述する、当時の尾張国の政治体制

織田信長を語るには、その父・織田信秀から知る必要があります。太田牛一 『信長公記』 の「首巻」も、やはり信秀から書き起こしています。そして、その冒頭(首巻1 - 番号は角川文庫版の記事番号、原則として適宜現代語化しています)には、当時の尾張国の政治体制が述べられています。

さて、尾張国は8郡である。上の郡4郡は、織田伊勢守が所侍を味方にして支配し、岩倉というところに居城していた。半国下の郡4郡、織田大和守が支配下にして、上流下流で〔五条〕川を隔て、清須の城に武衛様〔=守護の斯波氏〕を置き、大和守も城中にて守り立てていた。
大和守内に3奉行がいた。織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠、この3人が諸々の沙汰をする奉行人だった。

当時の尾張国のトップは守護の斯波氏で、その下に守護代が2人、二人とも織田氏で、一人は織田伊勢守で岩倉に居城、もう一人は織田大和守で、守護=武衛様とともに清須にあった、清須側の守護代には3人の奉行がいた、これまた全部織田氏で、3人のうちの1人が織田弾正忠、すなわち信長の父・信秀であった、と書かれています。

なお、『信長公記』中に、斯波氏について「武衛様」という言葉が使われていますが、なぜ、斯波氏は武衛様なのか、以下は 『愛知県史 通史編3 中世2・織豊』(村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

斯波家当主は兵衛督(ひょうえのかみ)を名乗るのが通例なので、斯波家は武衛(兵衛府の唐風名称)家と通称された。15世紀以降、尾張において「武衛様」とは「御屋形様」すなわち守護を意味した。

織田信秀は「守護の家臣の家臣」

要するに、織田信秀は「守護の家臣の重臣」というポジションであったわけです。しかも、史料や『信長公記』の記載順から、「古文書学的には … 因幡守家・藤左衛門家・弾正忠家〔=信秀〕の順で大和守家内の3奉行の序列が決まっていたと考えられる」(鳥居和之「織田信秀の尾張支配」- 柴裕之編 『尾張織田氏』 所収)ということなので、3奉行の中では最下位の序列であったようです。

 

尾張守護の斯波氏とは

斯波氏は足利氏からの分家

尾張国の守護である斯波氏について、以下は、小和田哲夫 『東海の戦国史』 からの要約です。

● 斯波氏は足利氏の分かれ。尊氏の高祖父・泰氏が斯波氏を称したのがはじまり。
● 室町幕府で、斯波氏は、はじめ越前・若狭2ヵ国の守護。応永の乱〔1399〕の功により尾張・遠江の2ヵ国がプラス、のちに若狭を取り上げられ、越前・尾張・遠江3ヵ国の守護職。
● 斯波氏の家督争いと将軍家の家督争い、畠山家の家督争いとがからみ、応仁元年(1467)、応仁・文明の乱の勃発。東軍・東幕府の足利義政-細川勝元-斯波義敏-畠山長政ラインと、西軍・西幕府の足利義視(よしみ)-細川勝元-斯波義廉(よしかど)-畠山義就(よしなり)ライン。
● 文明9年(1477)に西軍主力が京都を引き払って帰国したため西幕府は解散。斯波氏の家督は義良(よしすけ、義敏の子)、に一本化。義良はのち義寛(よしとお)に改名。この義良=義寛が越前から尾張に本拠を移し、清須を守護所とすることになる。

足利幕府体制中の名家であり、元々は越前を本拠にしていたが、15世紀になって尾張の守護職も兼ねるようになり、応仁の乱後は本拠地を尾張に移した、という経緯であったようです。信長が信秀の死により家督を相続した1552年は、斯波氏が尾張清須に本拠を移してから70年ほどたった時であった、ということになります。

信秀の時代(天文年間)の尾張守護は、斯波義淳-義統

1512年(永正9)年生まれの織田信秀が活躍した時代は、天文年間です。天文元年に信秀は21歳、その後1552(天文21)年に没した後まで天文年間が続きました。では、この天文年間に尾張の守護職にあったのは誰であったのでしょうか。

横山住雄 『織田信長の系譜』は、諸史料より、以下のように見ています。

● 斯波義淳(よしあつ) 永正10年(1513)に没した義達(よしみち)を継ぐ。天文2年(1533)には守護職にあった。(『言次卿記』)
● 斯波義統(よしむね) 天文13年(1544)までに守護になっていた。

すなわち義統は、天文2年~13年の間に守護になったわけです。一方、信秀没後の1553(天文22)年の清須クーデターで殺され、その子義銀(よしかね)は信長を頼って那古野に逃れた、という事件(「第3室 3-3 清須クーデター~清須城乗っ取り」)がありましたから、天文22年まで守護であったことが分かっています。すなわち、織田信秀の活躍期は、斯波義統が守護であった期間と大半重なっていた、といえるようです。

 

尾張守護代の織田氏とは

織田氏の出身地は越前・織田荘

次は、尾張国の守護代である織田氏について、以下は、上掲・小和田哲夫『東海の戦国史』からの要約です。

● 織田氏は、苗字の地は越前、越前国丹生郡織田荘(福井県丹生郡越前町)の荘官で、同地の織田剣神社の神官も兼ねるその地の豪族であった。
● 斯波氏は、斯波義重のとき、応永7年(1400)頃から尾張守護も兼ねる。義重は、応永9年ないし翌10年〔1402~03〕から織田常松(じょうしょう)を守護代とし、尾張に送り込んだ。越前の織田氏が尾張に根をおろすきっかけ。常松の系統が岩倉系織田氏となった。
● 将軍義政は、文明10年(1478)、在京の尾張守護代織田大和守敏定に、尾張進攻を命じた。敏定は尾張に下向し、織田伊勢守敏広と戦い。このとき敏定が本拠としたのが清須城。文明11年〔1479〕、敏広と敏定は講和、岩倉城の伊勢守系織田氏と、清須城の大和守系織田氏の二つに分かれることになった。応仁・文明の乱の余波。

斯波氏・織田氏の系譜については、上掲・横山住雄 『織田信長の系譜』、および、同じく上掲・柴裕之編 『尾張織田氏』 所収の柴裕之 「総論 戦国期尾張織田氏の動向」および新井喜久夫「織田系譜に関する覚書」に、詳細な論究がありますので、ぜひそちらをご参照ください。また、応仁・文明の乱前後の斯波氏・織田氏の動向は、『新修名古屋市史 第2巻』(第6章・下村信博氏 執筆部分)に詳述されています。

なお、織田氏の出身地であった越前・福井県ですが、2005年までは織田町が存在していました。平成の大合併後は越前町となり、織田町の地名が消えてしまったのは、少々残念です。

司馬遼太郎『街道をゆく 18 越前の諸道』では、著者が織田剣神社に立ち寄っています。「室町時代の守護大名の『守護代』というものはまことに素姓はあやしい。氏素姓よりも知恵才覚のある者が選ばれ、守護大名の代理者として現地にゆき、定住して徴税や行政をおこなう。織田氏の祖は、そのような時代のふんいきのなかで、越前時代、斯波氏にとり入って気に入られたのであろう」というのが、著者の推定です。

信秀の時代(天文年間)の清須守護代は織田達勝

信秀の時代の清須・大和守家の守護代は、織田達勝(みちかつ)でした。この達勝について、以下は上掲・『新修名古屋市史 第2巻』(下村信博執筆部分)からの要約です。

永正10年(1513)に殺害された織田五郎達定(みちさだ)のあとを嗣いだ達勝。史料上の初見は永正13年で、天文19年(1550)まで確認される。同22年〔1553〕の史料に織田大和守勝秀(法華寺文書)。その間に守護代の交代があったとすると、推定で40年近くも達勝は守護代に在職した。織田信長の父・信秀とほぼ同時代を生きた。

信秀の時代は、「守護・義統 ー 守護代・達勝 ー 信秀」というトリオで動いていた期間が非常に長かった、と言えそうです。

一方、岩倉の伊勢守家については、「永正元年〔1504〕12月13日に織田寛広が密蔵院に篠木下郷(春日井市)の年貢を寄進したことを最後に、その後の系譜と具体的な動向は不明」とのことです(柴裕之「総論 戦国期尾張織田氏の動向」- 上掲 『尾張織田氏』 所収)。

 

尾張守護所の所在地

下津から清須へ

斯波氏が守護となって以後の尾張国の守護所の所在地はどこであったのか、以下は鈴木正貴「信長と尾張の城下町」(二木宏・松尾信裕編 『信長の城下町』 所収)からの要約です。

● 守護所の所在地は、下津〔おりづ〕(~1476年)、清須+岩倉(1478年~1559年)。それ以前、鎌倉期の守護所は萱津〔現あま市〕。
● 下津は、青木川の自然堤防上、中世初頭から鎌倉街道と河川が交わる交通の要所として宿や市が栄えていた場。応永7年(1400)に又守護代織田常竹が居館を築いたと伝えられ、少なくとも同18年(1411)には尾張守護所が下津に存在した。
● 応仁・文明の乱を契機に守護斯波氏と守護代織田氏は東西二軍に分かれ、文明8年(1476)東軍織田敏定により守護所下津が焼亡。文明10年(1478)までには織田敏定は尾張守護所を清須に移転、西軍織田敏弘は岩倉に拠点を移した。
● 清須は、織田敏定が守護所を移して以降、途中小牧越しが存在するものの、慶長15年(1610)の名古屋城への移転(清須越し)まで尾張の中心的な城郭・城下町。

下津は、室町中期に、少なくとも65年以上にわたって守護所が置かれていた、その後守護所が清須に移転すると、それから100年以上の間、清須が尾張の政治中心地になった、ということになります。信秀が生まれた1512(永正9)年には、守護所はすでに清須に移っていました。

下津と清須・岩倉の位置関係

下の地図により、下津と清須の位置関係を確認したいと思います。下津はJR稲沢駅東方の地域です。下津から清須へは、南におよそ5キロ。一つの水系の上流と下流であり、下津から青木川を下り、合流する五条川をさらに下っていくと清須に行きつきます。なお、伊勢守の岩倉城は、清須城からは五条川をおよそ11キロさかのぼったところ(直線なら北東に7キロ)にありました。

尾張の守護所 地図

下津の守護所が具体的にどこにあったのか、同地の下津小学校の前には、「下津城跡」の石碑もありますが、これは守護所の位置を示しているものではなく、守護所が清須に移転後、1550(天文19)年に築城された太田清蔵の下津城の跡地であるようです。

下津の守護所の所在地について、以下は、鈴木正貴 「守護所下津の景観復元を考察する(2017年覚書)」(愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第18号)からの要約です。

下津には「守護所について清須と岩倉の守護所にみるような大規模な囲繞施設(幅が5mを越える堀など)を伴う方形区画を地積図や現在地から抽出することが出来ない。おそらくそのような施設は存在しなかっただろう。 確実ではないが、頓乗寺が守護所の役割を果たしていたと推測される

頓乗寺は、現在は稲沢市下津片町地内にありますが、下津守護所の時代には、現在地から東に500mほどのところにあったようです。

耕地整理が実施されていることもあり、2019年現在の下津には、ここが15世紀には尾張国の中心地であったことを示すものは、何もありません。強いて言えば、住吉神社の脇に立っている稲沢市教育委員会の「鎌倉街道址」の石碑ぐらいでしょうか。ただし、この石碑にも、下津はかつて尾張国守護所の置かれた土地であった、という説明は書かれていません。現頓乗寺にも、残念ながら頓乗寺の由緒に関する説明板は立っていません。守護所が清須に移った後に創建された広幢時には、境内墓地に織田氏代々の墓があるとの説明板が立っています。

 

清須城の本来の位置は、現在の模擬天守とは異なる場所

1500年代に段階的に発展していった清須城

上掲の鈴木正貴「信長と尾張の城下町」論文は、五条川の比較的高い自然堤防上にあった清須城の発展について、下記のように整理しています。

① 1530年頃までに、一辺200m超の二重堀で囲まれた方形居館が出現し、堀で囲まれた武家屋敷も展開
② 1530年頃~1555年頃、小規模な武家屋敷や一本街村状に展開した短冊型地割の町屋も出現
③ 1555年頃~1586年は、本丸に瓦葺建物や石垣が存在した可能性、城下には長方形街区に展開した短冊型地割の町屋が出現

信秀の時代、すなわち信秀に友好的な守護・守護代が暮らしていたのは上記中の②の時代であり、信長が居城としたのは上記中の③の時代の前半でした。

本来の清須城址を現代の航空写真上で見てみると

更にその後の清須城についての考察として、鈴木正貴 「後期清須城本丸考」(愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第13号)があります。後期清須城とは、信長の死後、息子の織田信雄が1586年に大改修を行ってから、1610年に徳川義直が清須越しで名古屋城に移るまでの期間の清須城のことです。後述の通り、信秀・信長の時代の清須城とは様子が少し異なっていますが、現在の地形とは対比が比較的簡単であるため、ここでは後期清須城の位置を現在の地図上に示したいと思います。

下は、同論文中の「後期清須城本丸周辺の想定復元図」の五条川西岸の状況をトレースし、Googleの航空写真上に貼り付けたものです。原図は明治時代の地籍図上に表現されていて、現在の地図との正確な対照は容易とはいえないため、あくまで概略の位置を示しているだけであり、多少のズレがある、とご諒解ください。

後期清須城の概略位置 地図

この写真からは、こんなことが分かります。- 後期清須城は五条川の西岸にあり、本丸は現在の清洲古城跡公園、二の丸は清洲公園、北の丸は日産プリンス名古屋販売などの位置にそれぞれ当たっている。当時はそれらを取り囲む大きな堀があった。本丸と二の丸の間をJRの東海道本線や新幹線が貫通している。今の模擬天守の位置は、本来の清須城の位置ではなかった。

五条川は、清須城の西側から東側に付け替えられた

ところで、後期清須城 (織田信雄から徳川義直の清須越しまでの時代) と前期清須城(信秀や信長の時代)の最大の相違点は、五条川の位置にあるようです。上掲の鈴木正貴 「後期清須城本丸考」 によれば、後期「清須城主郭の西側の堀は幅が約40mを測る巨大なもので、御園神明社のすぐ西側を流れる旧河川を利用したものと考えられ、発掘調査でもそのような知見が得られている」とのこと。すなわち、織田信雄は、城の大改修を行う際に、城の位置は変えずに、五条川を城の西から東に付け替え、西側にあった元の流れは堀に変えてしまったようです。

したがって、信秀・信長の時代も、城館は上の地図で北曲輪~本丸・二の丸がある位置にありましたが、五条川は、現在とは異なり、城の西側・上の地図の内堀の位置を流れていた、とご理解ください。

信長時代までの前期清須城については、信雄の大改修で地表から見えなくなり、さらに近代になって鉄道が本丸を貫通して城の中心部が破壊されてしまったことから、復元は発掘調査による以外手がないようです。しかし、千田嘉博 『信長の城』 は、信長時代の清須城も信雄以降の清須城と重なっていて、近世清須城の本丸〔二の丸を含む〕南側の馬出し周辺に信長時代の「南矢蔵」を、本丸に信長期の清須城〔守護館?〕を、近世清須城の北曲輪周辺に「北矢蔵」を、それぞれ比定できる、としています。

なお、南矢蔵は、清須クーデター後に織田信光が清須城を乗っ取った時に入った場所、北矢蔵は、その直後信長が守護の義銀を連れて清須に移った時に自らが住んだ場所であり、弟の信勝を切腹させた場所でもありました。

 

 

次は、守護-守護代体制の下、尾張国内はどのような支配体制となっていたのか、尾張の上4郡・下4郡について、です