3-13 家康との清須同盟

 

1560(永禄3)年5月の桶狭間合戦での今川義元の討死により、尾張南東部や三河のそれまでの今川所領には大変化、すなわち今川離れが生じ、松平元康の岡崎への帰還と今川からの自立、信長との清須同盟、元康の家康への改名などの展開が起こります。ここでは、桶狭間合戦後の、尾張と西三河での変化の状況を確認したいと思います。

 

 

桶狭間合戦後、今川旧領の織田領化

尾張南方の今川領の織田領化

「第3室 3-9 信長の上洛と桶狭間前の状況」のページで確認した通り、桶狭間合戦の前、信長は尾張の中央部は押さえていましたが、周辺部は勢力圏外でした。まだ勢力圏外であったのは、下記の地域でした。

● 尾張南方 - 愛知郡東南部(鳴海・大高・沓掛)と知多郡は今川方
● 尾張西方 - 海西郡は荷之上の服部氏
● 尾張北方 - 丹羽郡北部(犬山・小口)や葉栗郡(黒田)は勢力圏外
(尾張中央部は、おおむね信長が押さえていた)

前ページで確認しました通り、桶狭間合戦の勝利により、鳴海・大高・沓掛・知立・鴫原の5城から今川方が撤退しました。今川方が撤去したことにより、織田方に鞍替えする地方領主もいたのではないかと推測されます。愛知郡の東南部から知多郡にかけては、織田領(または水野領)となって信長の支配下に組み入れられたものと思われます。

知多郡の織田領化

このうち、知多郡の大野(常滑市)での史料について、以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。

● 戸田孫七郎は常滑市大野の人で、少なくとも桶狭間合戦以後に信長に仕え、大野の東龍寺に寺領安堵に尽力し、また永禄3年(1560)12月に信長から制札を与えられるよう骨折りをしたのだろう〔東龍寺過去帳史料〕。
● 制札の内容(文面)は、永禄元年に瀬戸市雲興寺へ出した信長の制札と同一である。

ただし、これ以外には、知多郡域で信長の実効支配を示すこの頃の制札などは残っていない、とのことです。

 

松平元康(家康)の岡崎帰還

西三河では、松平元康(家康)が岡崎入り

一方、西三河でも、義元の討死が変化を生じさせました。その第一は、松平元康の岡崎入りです。元康は、1547(天文16)年に6歳で織田方の人質となって熱田に置かれ、その2年後の1549(天文18)年、今川による安祥城攻略時の人質交換で駿府に取られていました。13年ぶりに岡崎に帰ってきたことになります。

元康の岡崎入りについて、『信長公記』(首巻25)には、「家康は岡崎の城へ楯籠りご居城なり」とまことにあっさりした一文があるだけです。以下は、岡崎入りの状況を詳述している 『三河物語』 の要約です。

● 〔桶狭間合戦の日、大高城にいた元康に家臣が〕「義元は討死された由、ここを早く引き上げるのがよい」と言っても、元康は「どこからも確実な連絡がないうちは、引き上げできない」と言っていたところに、〔元康の伯父〕水野四郎右衛門尉〔信元〕からの使いで、「義元は討死なので、明日は信長がそこに押し寄せる、今夜中に支度して早々に退け」との申し越し。
● 岡崎〔城〕はまだ駿河衆が持っていたが、早く渡して退きたいと言う。今川氏真への義理立てのため受取りを辞退して大樹寺に入ると、駿河衆は岡崎城を開けて退去。「捨て城ならば拾わん」と言って城に移った。
● 譜代衆は喜んだ。永禄3年5月23日、〔元康は〕19歳の年。

義元は、すでに駿河については氏真に家督を譲って代替わりしていました。すなわち、駿府には後継今川当主の氏真がいたのにもかかわらず、駿河衆が浮足立ってしまっている、という印象を受けます。

現代のそれなりの規模の企業は、社長の下に各部門に責任を持つ役員がいる、という組織形態であり、もしも社長が突然死したとしても、それですぐに現場がおかしくなってしまう企業は少ないでしょう。今川家は、駿・遠・三の3国を領有し、戦国時代としては大組織の大名でしたが、三河所管役員のような存在が設けられておらず、そのため、義元の討死が組織を大きく崩壊させた、と言えるのかもしれません。

岡崎入りした元康、直後2~3年間は方々で戦闘

『三河物語』 は、すぐに続けて、信長との清須同盟を結ぶまで、元康が方々で戦っていたと語ります。再び、『三河物語』からの要約です。

● 〔この時期の元康の出兵先〕岡城〔岡崎市〕、広瀬城〔豊田市〕、沓掛城〔豊明市〕、拳母城〔豊田市〕、梅坪城〔豊田市〕、小河城〔東浦町〕、石ケ瀬〔大府市〕、寺部城〔豊田市〕、刈谷城〔刈谷市〕、鳥屋ケ根城〔豊川市〕、西尾城〔西尾市〕、東条城〔西尾市〕
● 2、3ヶ年はお暇なく、月のうちに5度3度ずつ、油断なく戦いあり。
● 信長と和談が成ってからは、これら諸城への戦いはなくなったが、西尾城と東条城は駿河方だったので、たびたび戦った。

この記述が事実なら、元康とその家臣は、この時期、常にどこかで戦っていて大忙しであった、ということになります。

岡崎入り直後の元康は、まだ今川方

『新編安城市史1』(村岡幹生氏 執筆部分)は、桶狭間直後に岡崎城入りした元康は、まだ今川の武将であった、としています。以下は、同書からの要約です。

● 石ケ瀬など水野氏との戦闘、この時の水野氏は織田信長の同盟者、元康は今川氏の一部将として織田勢への攻撃。
● 一方で元康は、今川氏の支配からの自立を目指す、自領の再把握。岡崎市内の寺への禁制と安堵状。しかし、岡崎周辺でも元康を主君と仰いでいない事例も。自立を図ろうと意図していたが、まだ未熟。
● 桶狭間の戦いの直後の安城市域は、今川氏の支配下勢力、自立しようとする松平氏勢力、隣接する水野氏勢力が錯綜する状況。

豊田市域でも今川氏の支配下に残留していた勢力と、離脱した勢力があったようで、以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 が紹介している村岡幹生氏の論文の内容の要約です。

豊田市内足助地区で発見された今川氏真の判物、上野・広瀬が逆心と記述、永禄3年7月28日付。宛名の篠田弥五兵衛尉は宮口城あたり。

駿河衆が桶狭間直後に岡崎城から退いてしまったぐらいですから、周辺地域で、今川氏配下から離脱しようとする動きが出てくるのも、当然であったように思われます。

 

1561(永禄4)年、信長・元康の清須同盟

1561(永禄4)年、松平元康の今川からの離脱、信長との同盟

翌1561年に入って、松平元康は今川からの離脱を決意、織田信長との同盟の締結に踏み切ります。以下は、『新編安城市史1』(村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 永禄4年(1561)年になると、元康は180度転換し、織田信長と同盟。
● 元康は同年2月までは小河の水野信元と戦闘、4月になると今川氏への攻撃開始、同盟締結時期は2月末~閏3月の間。
● 同盟成立の契機、小河の水野信元の仲介か、信長が滝川一益を石川数正の元へ派遣して成立させたか。
● 通説では、同盟締結の翌5年正月に元康が清須城を訪問し元康・信長会談とされ、この同盟を清須同盟と呼ぶ。しかし、元康の清須訪問・信長との直接会談を示す史料が全くない。元康の清須訪問は虚偽と推測。
● 同盟締結理由の従来説、今川氏真が能力に欠け弔い合戦も実行せず、元康は今川氏を見限り織田氏との同盟を決意。やむを得ず今川から離れたと江戸時代に脚色。現実は、元康と家臣団が、織田氏を同盟者とした方が成長できると判断した。

今は、信長・元康の直接会談はなかったとするのが通説になりつつあるようです。横山住雄 『織田信長の尾張時代』 には、この信長・元康の直接会談の史料が 『岡崎市史』 別巻から引用されていますが、その 『岡崎市史』 には出典が明確ではないとのこと。大変に具体的で詳細な記述が「虚偽」なのは、『甫庵信長記』 と同様のパターンと言えそうです。なお、信長・元康の直接会談はなかったとするのが通説になりつつあっても、この同盟自体は今も「清須同盟」と呼ばれることが多いようです。

戦国時代は、江戸時代と異なり、過剰な忠誠心が方針選択を歪めてしまうことが少なく、利害に即した合理的な判断が多くて、現代から見て分かりやすい時代であった、と言えそうです。

1561(永禄4)年4月上旬、同盟成立後間もなく、信長は高橋郡攻め

清須同盟が成立して間もなく、信長は梅坪はじめ西三河の高橋郡攻めを行います。以下は、『信長公記』(首巻25)の要約です。

〔桶狭間合戦の〕翌年4月上旬、三州梅が坪〔豊田市〕の城を攻略。押し詰め、麦苗を薙いだ。城からも射手どもが応戦、足軽合戦。野営して、ここから高橋郡攻め。端々を放火、押し詰め、麦苗薙ぎ。ここでも矢戦。加治屋村〔不詳〕を焼き払い、野営。翌日、伊保〔豊田市〕の城攻め。麦苗薙ぎして、すぐに八草〔豊田市〕の城攻め。麦苗薙ぎして、帰陣。

この時の信長の高橋郡攻めでは、拳母城も攻撃対象であったようです。以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。

この時、信長が拳母城の中条氏を滅ぼしたとする説(『織田信長総合事典』)。豊田市の大半、矢作川流域の西加茂郡がこの時以降、尾張国に編入されていたとするのは、『豊田市史』も同じ。

『信長公記』で、麦苗を薙いだ、というのは、当時この地域が米・麦の二毛作を行っていて、収穫期(旧暦5月ごろ)になる少し前の麦を刈ってしまった、ということだと思われます。この時の信長の拳母~梅坪~伊保~八草という攻略ルートは、現代であれば、愛知環状鉄道の沿線を北上していった、ということになります。

なお、米・麦の二毛作の場合、表作である米は年貢の対象だったのですが、裏作である麦は、鎌倉時代から江戸時代までずっと百姓のもので、非課税・年貢対象外とされていたようです (藤木久志 『飢餓と戦争の戦国を行く』)。高橋郡の麦苗薙ぎは、百姓いじめであった、とも言えそうです。

高橋郡は、清須同盟の成立の条件として成立した

高橋郡というのは、三河国〔賀茂郡〕の矢作川以西の地域で、「永禄4年(1561)に信長が三河国賀茂郡高橋荘(豊田市・みよし市)を支配下に収めて以降、これを高橋郡と称したことに始ま」り、天正11年(1583)以降は尾張国とされ、「関ヶ原の戦い後は三河に復した」(『新修名古屋市史第2巻』 上村喜久子氏 執筆部分)とのことです。すなわち、この『信長公記』の記事にある信長による攻略戦こそが高橋郡成立の端緒でした。

この信長の高橋郡攻めは、清須同盟の成立(=遅くとも閏3月中)以後に行われていることから、信長と元康との和睦の条件として、賀茂郡の矢作川以西は信長の勢力範囲とする合意がなされ、その合意に基づいて信長が同地を攻めたものと考えられるとのこと。その意味で、高橋郡はこの清須同盟の成立に伴って新たにできた郡である、と言えるようです。

今川氏真による元康の「逆心」認識は、永禄4年4月11日前後

上掲の横山住雄 『織田信長の尾張時代』 は、この信長の高橋郡攻めについて、信長の敵は家康だったとして「信長と家康の直接対決」とし、両者の和睦は4月以降のこと、史料より今川氏真が家康の逆心を認識したのは永禄4年6月のことであるから、としています。

一方、『新編安城市史1』(村岡幹生氏 執筆部分)が、元康は永禄4年2月初頭までは小河の水野氏と戦い、4月になると今川への攻撃や東三河諸勢力に対する帰属工作を開始したと指摘していることは、上述しました。加えて、今川氏真による元康の「逆心」の認識について、それが永禄4年4月11日または12日であることを記載している史料が複数あることも指摘しています。村岡説の方が、説得力があるように思われます。

元康は、清須同盟の成立後、半年ほどで西三河を制圧した

清須同盟後の元康は、西三河を、比較的短期間で制圧してしまったようです。再び、『新編安城市史1』(村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 元康は、西三河制圧の軍事行動を推し進めていく。
● 西条城〔西尾市〕は5月末ころには落城。4月から攻撃の東条城〔西尾市〕は9月に落城。8月に東三河と西三河の結節点・鳥屋ケ根城〔豊川市〕攻略にも成功。
● これにより、元康は、信長領となる高橋郡と、小河水野氏領を除く西三河をほぼ勢力下に置くこととなった。

信長に高橋郡を譲って清須同盟を結んだからと言って、元康が戦をする必要がなくなったわけではありません。西三河では戦闘が続きました。しかし、尾張方面の勢力圏を確定できたおかげで、短期間に西三河を制圧できました。清須同盟は元康にとってメリットがあった、と言えそうです。

ただし、西三河の制圧によって、元康の戦が止まったわけではありません。その後は東三河に進攻しましたので、『三河物語』 の言うように、戦いはまだまだ続きます。

元康は、1562(永禄5)年、妻子を駿河から奪還、1563(永禄6)年、家康に改名

信長と清須同盟を結び、今川に反旗を翻した元康ですが、駿府には妻子が人質として残っていました。清須同盟の翌年、元康は妻子を駿河から奪還、さらにその翌年、名を家康に改名します。以下は、再び 『新編安城市史1』(村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 永禄5年(1562)2月、元康は上之郷城〔蒲郡市〕攻撃によって東三河への進攻を開始、このとき、上之郷城主・鵜殿長照(=母が今川義元の妹)とその子を捕虜とすることで、その時まで駿府にいた元康の妻子(正室築山殿と長男竹千代・長女亀姫)との捕虜交換が成立。
● 元康から家康への改名は、『徳川幕府家譜』 によれば、永禄6年(1563)7月6日。発給文書で、元康を名乗る最後は同年6月付、家康を名乗る最初は同年10月付。なぜこの時期に名前を変える必要があったかは不明。

確かに、元康の「元」は義元の「元」、その意味で今川離れを明確にすることが目的であったのかもしれませんが、今川からは家康への改名の1年以上も前に離脱しているわけで、なぜこの時期だったのかはよく分かりません。

桶狭間合戦の結果は、信長にも家康にも、大きな変化を生み出しました。なお、元康が妻子を取り戻したことで、永禄6年3月2日、信長の娘の五徳(徳姫)と家康の長男竹千代(後の信康)との婚約が成立、永禄10年に輿入れとなります(小和田哲夫 『東海の戦国史』)。

一方、家康への改名の年(永禄6年)の秋、家康と三河本願寺教団との間で課税をめぐって紛争が発生、三河一向一揆となります。一揆勢とは、翌1564(永禄7)年1月から戦闘が発生、同年2月か3月に和睦が整ったようです。一揆が収束すると、家康は東三河への進攻を再開、1565(永禄9)年3月から翌年にかけて、家康は東三河の主要拠点を相次いで手に入れ、ほぼ三河一国を領有することになります。(『愛知県史 通史編 3』 播磨良紀・平野明夫両氏の執筆部分)

また、同じ永禄9年、家康は、朝廷から三河守への正式な任官を得ようとします。いろいろ紆余曲折があって同年末の12月29日付で、従五位下・三河守への叙爵と任官が認められます。この過程で、名字も松平から徳川に改めたようです。紆余曲折の詳細は、『愛知県史 通史編 3』 をご覧下さい。

こうして、今川の家臣であった松平元康は、桶狭間合戦からおよそ6年をかけて、三河一国の戦国大名・徳川家康となりました。

 

桶狭間後、清須同盟前後までの西三河の地図

ここまでのことについて、地図で確認したいと思います。

桶狭間合戦~信長・家康同盟の前後 地図

『三河物語』に挙げられている、桶狭間直後の元康の出兵先を赤字で示していますが、確かに広範囲に及んでいます。桶狭間後の1年ほどの間にこれだけの地域に出兵して戦っていたのであれば、元康とその家臣たちは、体の休まる暇もなかった、と言えそうに思われます。

元康にとって、清須同盟の成立は、一面では、尾張との国境地帯、すなわち小河や刈谷の水野氏関係や高橋郡方面の所領を諦めざるを得なくなったことを意味しますが、もう一面では、その方面への出兵の要がなくなったことを意味するわけで、それに必要であった精力を、西三河南部の西尾方面や東三河に集中できるようになったことのメリットは、この地図を眺めるとよく理解できます。

信長にとっても、三河方面での所領の拡大と同時に、その地域からの脅威の排除が出来ました。実際、『信長公記』 の首巻中、三河方面に関する記事は、上述の高橋郡攻めの記事が最後の記事となっていて、これ以降は尾張北部または美濃攻めの記事ばかりになります。両者それぞれに十分なメリットのある同盟となった、と言えそうです。

 

 

清須同盟の成立によって、信長は、三河方面について領土拡張と安定とを得ることが出来ました。その直後に、美濃では斎藤義龍が死去、信長は美濃攻めを始めます。次は、信長の美濃攻めの最初となった森部・十四条の合戦についてです。