2-13 今川の攻勢・三河の喪失

 

1549(天文18)年春、信秀には自身の健康問題が発生してしまいました。ほぼ同時期に、三河でも別の大問題が発生します。岡崎の松平広忠の死と、それに伴う今川の岡崎城接収です。これをきっかけに三河情勢は急展開、信秀は安祥を含め三河を喪失、翌年以降はさらに尾張国境地帯も侵食されます。

このページでは、信秀晩年の三河方面の状況を確認します。

 

 

1549(天文18年)3月、松平広忠の死で岡崎を今川が接収

岡崎の松平広忠の死に、今川が即応

1549(天文18)年以降の三河情勢については、『信長公記』 は全く触れていません。信秀の健康問題の発生と同時期に、三河では情勢が激変します。以下は、三河情勢の急変の原因となった松平広忠の死について、小和田哲夫 『東海の戦国史』 からの要約です。

● 天文18年(1549)3月6日、岡崎城主松平広忠が死んだ。24歳の若さ。一説には近臣の岩松八弥に斬殺されたともいうが、病死したというのが真相であろう。
● 広忠の死にすぐ反応したのが今川方。広忠の死を知ると、義元は直ちに朝比奈泰能、鵜殿長持らに岡崎城を接収させ、松平氏の重臣の何人かを人質に取っている。

松平広忠の死が、三河の情勢を転換させるきっかけとなり、岡崎は今川に掌握されてしまったようです。「今川から支援を受けた松平広忠派」は独立を失い、「今川管理下の松平広忠派」に変わってしまいました。

なぜ今川方が広忠の死にすぐ反応したのか、小和田哲夫 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付く』 は、「広忠の嫡子竹千代は織田信秀の人質に取られていたから…松平方の家臣たちが相談して…織田方に寝返るのを防ぐ手段だった」、と見ています。

松平広忠は、家臣に殺されたのではなく、病死であった

松平広忠は家臣に殺害されたとの説があり、横山住雄 『織田信長の系譜』 も、旧愛知県史・豊田市史に拠り、広忠は、信秀の意向を受けて岡崎城主の広忠に仕え暗殺の機会をねらっていた岩松八弥に殺された、八弥は現場で討ち取られた、としています。

しかし、村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」は、家臣殺害説の史料より成立の早い 『松平記』『三河物語』 は病没と記していること、人質竹千代を得ていた信秀が広忠暗殺の挙に出る理由が見当たらないことから、広忠病没説に疑問を挟まねばならぬ理由はないと指摘しています。説得力がある指摘と思われます。

 

1549(天文18)年秋、今川の本格攻勢・安祥の喪失

9月以降、今川の三河攻略、11月には信秀は安祥も喪失

3月段階では、岡崎を今川方に掌握されただけでしたが、9月以降、事態は急激に悪化し、ついには安祥城も喪失します。上掲の横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。

● 〔諸史料より〕軍備を整えるのに約半年をかけた太原崇孚〔雪斎〕は、〔天文18年〕9月初旬に岡崎を発し、親信秀だった西尾の吉良氏攻略を開始。また、支隊を安城・桜井方面であばれさせて安祥城の織田氏の動きを封じ込め。
● 吉良氏の投降により、今川軍は松平軍と共に安祥城を攻略、重囲下の安祥救援にかけつけた平手政秀も手が出せる状態ではなく、〔天文18年〕11月9日、信長の兄織田三郎五郎信広らは遂に投降、捕らえられた。
● 西広瀬城(豊田市猿投町西広瀬)の落城を示す史料は見当たらないが、おそらくは天文18年のうちに西広瀬を含む猿投丘陵地帯は今川氏の勢力下に入った。
● 安祥城が落ちると、今川軍前線からの集中攻撃を受けることになったのが上野城(豊田市上郷町)。上野城の落城は天文18年11月23日のこと。

信秀が安祥城を取ったのは1540(天文9)年のことでした。10年近く維持して来た三河の支配を奪い返されてしまいました。今川方は三河に本格的に兵を送り込み、結果として短期間のうちに、三河の各所が次々に今川方に取られていったことがわかります。信秀と組んでいた「松平一族中の反広忠派」も、皆今川に打ち取られたか、その軍門に下った、という結果となったのでしょう。

この年、三河には、信秀も信長も出陣しなかった

前ページで確認しました通り、この年の3~4月、おそらくは広忠の死の直後に、信秀に健康問題が生じて隠居する事態となっていました。三河では、広忠の死に対し今川が岡崎を掌握するという新展開が生じていましたから、今川がその年の秋に織田方に何か仕掛けをしてくる可能性はある程度予測できたのではないか、と思います。また、既に見てきました通り、信秀の西三河支配は、松平一族中の反広忠派からの信頼関係に支えれらたものであったと思われます。その信頼関係の維持には、今川方に先手を打って信秀が出陣することが必須であったと思われます。

にもかかわらず安祥を奪われ、松平一族反広忠派も崩壊してしまった背景には、この信秀の健康問題のゆえに効果的な手が打てなかった、という可能性が高そうに思われます。安祥城の救援にも信秀自身は出て来ておらず、平手政秀が派遣されています。松平一族反広忠派への応援が積極的に行われたようにも見えません。これは、2正面作戦もいとわずに自ら美濃にも三河にも奔走し、また松平一族反広忠派との信頼関係の維持に尽くしてきた、信秀らしくありません。やはり、健康問題が原因であったと推察されます。

安祥と三河を失うかどうかという合戦をしているのに、信秀から家督を相続していたはずの信長の名が全く出てこないのも、理由がよくわかりません。『信長公記』 にも記事がなく、他の史料にも名前が出て来ないのであれば、三河救援に信長は出陣しなかった、ということなのでしょう。信秀は、そこまで投入しなくても今川を防げると考えていて予測が外れたのか、それとも逆に、今川には負けるとすでに見切っていて、信長までも万一にも討たれることがないよう用心したのか、いろいろな想像が働きそうです。

『三河物語』 が記す、今川による安祥城の奪還と、それに続いた人質交換

今川による安祥城の奪還と、そのさいに捕虜となった織田信広と信秀方が人質としてきた松平竹千代との人質交換について、以下は、『三河物語』 の要約(現代語訳)です。

● 小豆坂の合戦の翌年、今川は雪斎長老を大将として駿河・遠江・三河三ヵ国の軍勢で、西三河安城へ攻め寄せた。安城城主は織田三郎五郎(信広)。
● 四方から攻めよせ、矢・鉄砲。見張り台を建て、矢蔵を建て、竹束をならべ、昼も夜も休むことなく攻め込み、二、三の丸を攻めとり本丸だけになった。それで降伏をすすめ、二の丸でシシ垣を組んで押し込めた。
● 織田弾正之忠(信秀)へ雪斎長老から使いをやり、三郎五郎と松平竹千代(家康)の人質交換を提案、平手(政秀)と林(通勝)の二人から応諾の返事があり、人質交換をした。
● それより、竹千代様は駿河の国へくだり駿府(静岡市)に7歳から19歳までいた、そのご苦労はいいつくせないほどだった。

織田信広と松平竹千代との人質交換に関し、小和田哲夫 『東海の戦国史』 は、史料の明記はありませんが、安祥城攻めにあたって、「雪斎は全軍に「敵の大将織田信広を殺すな、生け捕りにせよ」と命じている。雪斎は、竹千代と、信秀長男信広との人質交換という手を考えていた」としています。

『三河物語』 には今川勢の兵数の記載がなく、その実数が分かりませんが、上の記述からは、今川軍は見張り台や矢蔵まで建てて安祥城を完全包囲することができるほどの、かなりの大軍であったように読み取れます。駿河・遠江・三河3国の兵を動員できる今川です。しかも、軍事にも長けた太原崇孚(雪斎)が率いています。松平広忠や斎藤道三レベルとは比較にならない大軍相手では、もともと勝ち目がなかった、と言えるかもしれません。

安祥城攻撃にあたり、人質交換を行うこと(=その結果として、竹千代を駿府に置いて岡崎・松平を今川に従わせること)を目的として、大軍による完全包囲作戦を実施したのであれば、雪斎の戦略家としての優秀さがよく理解できます。

一方、織田側ですが、信長と濃姫との婚姻も、信広と竹千代との人質交換も、どちらも平手政秀がまとめた、ということになります。平手政秀が果たしていた役割の重要性が分かります。

 

1550(天文19)年、今川の尾張国境地帯への進出

安祥はじめ矢作川流域地域を手中に収めた今川義元は、その翌年、尾張に侵攻します。以下は、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」からの要約です。

● 天文19年(1550)10月19日の日覚書状、「駿河・遠江・三河の軍勢が6万ばかりで弾正忠を攻めて来たが、尾張側はこれを国境で支えるために悉く出陣」。
● 『定光寺年代記』 の同年条に「尾州錯乱、8月駿州義元5万騎ニテ智多郡へ出陣、同雪月〔=12月〕帰陣」とあるのはこれに対応。
● 今川軍勢の尾張攻めは5月ごろに始まっており、8月に至り大軍が押し寄せた。これは尾三国境北部の動向からも窺える
← 永澤寺(豊田市)への義元の禁制、福谷城(みよし市)についての義元感状、雲興寺(瀬戸市)への禁制。
● 12月に今川軍勢が帰陣するに至った事情。この年のうちに後奈良天皇が義元の臣太原崇孚〔雪斎〕に、「駿河と尾張、疾く和睦の事」(後奈良天皇女房奉書)を申し入れたのを考慮した、今川方の判断による帰陣とみられ、合戦で信秀方が勝利を収めた故ではなかろう。
● 今川軍勢が〔親信秀だった刈谷・水野氏の居城であった〕「苅谷入城」を果たしたことを示す史料が存在。前後の状況から判断して天文19年。

上記の中の「福谷城についての義元感状」について、『新編安城市史』(村岡幹生氏 執筆部分)からの引用です。

天文19年12月1日付丹波隼人佐あて今川義元判物によれば、義元は丹波隼人佐に対し、去る6月福谷在城以来別して馳走ありとして、尾張国愛智郡の沓掛・高大根(豊明市)・部田(へた・倍田)村(東郷町)を還付し、さらに同郡大脇(豊明市)・智多郡横根(大府市)を安堵している。

みよし市にとどまらず、更にその西南の東郷町~豊明市~大府市一帯の所領も今川方に転じたということが分かります。

前年に三河のうち矢作川流域地域を取ったが、まだ刈谷などの国境地帯に親信秀の勢力はいた、今川勢はそれを攻めた、ということであったようです。横山住雄 『織田信長の系譜』 は、義元としても、今回は三河国内から信秀の勢力を一掃することに目標があったらしく、苅谷城の接収でその目的は達せられたので、撤兵を決めたのだろう、と指摘しています。

なお、『愛知県史 通史編3』(村岡幹夫氏 執筆部分と思われる)は、「同年〔1550年〕5月10日に、笠寺(笠覆寺[現名古屋市南区])12坊の一つ東光院に対して土地を保証する文書を発給した津坂秀長は、今川家臣である可能性が高い」と記していますが、笠寺まで出るには、それ以前に鳴海なども今川方に転じている必要がありそうで、それが事実とすれば、信秀側に間違いなく大きな脅威となったと思われます。

なお、「6万ばかり」や「5万騎」という数字は、大きすぎて額面通りに受け取ることはできませんが、それでも駿河・遠江・三河を支配する義元の動員力=経済力が、尾張半国にも満たない信秀のそれをはるかに上回るものであった、と推測されます。加えて、信秀自身が自ら出陣して前線で指揮を執ることができない健康状態であれば、今川勢に押し込められて当然であったようにも思われます。

今川方の尾張攻めに対し、「尾張側はこれを国境で支えるために悉く出陣」したとき、尾張方では誰が総大将になって指揮を執ったのか、信長も出陣したのか、それが分かる史料が見つかると良いのですが。

 

1549(天文18)~1550(天文19)年、今川の三河・尾張攻めの地図

天文18~19年の義元の三河・尾張攻めについて、例によって地図で確認したいと思います。天文18年の攻勢の対象地は茶色で、翌19年の攻勢の対象地あるいは今川方に転じた地は赤色で、地名を表示してあります。

今川方攻勢による三河の喪失 地図

 

天文18年の攻勢の対象地 - 矢作川の流域

西尾の荒川山(現八ツ表山)は、今川方の太原崇孚(雪斎)が吉良氏攻めで陣を張った地です。地図上で確認すると、西尾―安祥城―上野城―西広瀬城は、いずれも矢作川の流域にあり、北北東から南南西へほぼ一直線の位置に並んでいます。

1549(天文18)年の9月、今川方の攻勢が始まるまでは、信秀がこのライン上までは完全に勢力下に置いていたことが分かります。一方、今川方の攻勢は、西尾→安祥城→上野城・西広瀬城と、南から北に攻め上っていったことも分かります。

天文19年の攻勢の対象地 - 尾張・三河の国境地帯

雲興寺(瀬戸市)・永澤寺(豊田市)は今川義元の禁制が出された寺、福谷(うきがい)城(みよし市)は今川方が入り織田方と交戦した城です(村岡論文)。

前年の西広瀬ー上野ー安祥ラインと、この年の雲興寺ー永澤寺ー福谷ー部田-沓掛-大脇-横根ー刈谷ラインを比較すると、天文19年は前年と比べ、戦線がどこも8~10キロほどは西に移動して、尾張・三河の国境線地域が争いの対象になったことが分かります。さらに、もしも本当に笠寺辺りまで支配下に置いていたとすれば、そのラインからかなり突出した地点もあった、ということになります。

信秀が長年かけて拡張してきた三河方面の領地の大部分が奪い返されてしまいました。小説的な想像をすれば、信秀は自分の健康状態が口惜しくて仕方なかったかもしれません。

 

1551(天文20)年、今川との和睦

足利将軍による和睦の働きかけ

翌天文20年には、信秀は今川方と和睦をしたようです。再び、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」からの要約です。

● 天文20年6月28日、将軍足利義藤〔のち義輝に改名〕は、「織田備後守」すなわち信秀との和睦継続を今川家中に働きかけるよう前太政大臣近衛植家に求め、これを受けて植家は同年7月5日、今川義元に将軍御内書の添状を発している。
● 同年と推定される12月5日付明眼寺・阿部与五左衛門あて今川義元書状から、この年の末には織田・今川当事者間で和睦条件が詰められていたことが判明する。
● 義元が織田方との交渉の窓口としていたのは、鳴海城主山口左馬助教継。書状の中で義元は、「苅谷令赦免候」=刈谷は緩衝中立地帯として独立存続を認めると譲歩、「味方筋之無事」=今川に属した国境地帯一帯の者に織田は報復攻撃をするなと要求。
● 織田・今川間に正式の和睦があったとはみえないものの、両者正面の干戈を控え、外交交渉を主とした駆け引きのうち天文20年は打ち過ぎ、翌年3月、織田信秀の死。

鳴海の山口左馬助の役割については、『新編安城市史』(同氏執筆部分)中で、「織田方からの和議申し入れの窓口として今川方に接触している」とされています。

今川方の提示した条件は、奪ったもののうち刈谷だけ中立を条件に返す(と言っても今川方が囲んでいるからいつでも再び取れる)、その代わり他は現状を認めて反攻するな、すなわち軍事的優位性をそのまま認めよ、という主張です。

この年、実際に「両者正面の干戈を控えた」わけですから、織田方も、合戦を継続した場合、奪われた地を取り返せる可能性より、さらに踏み込まれて奪われる地が増す可能性の方が高い、と判断したのでしょう。

 

 

次は、今川との戦いの中で起こった、尾張国内、犬山勢・楽田勢の謀反についてです。