2-8 古渡城の信秀と信長の元服・初陣

 

西三河と美濃、2つの戦線を持つようになった信秀は、しばらくして、新たに古渡城を築城して那古野城から移り、那古野城は信長に譲ります。このページでは、信秀による古渡築城と、那古野城を譲られるまでに成長した信長の元服・初陣について確認します。

 

 

織田信秀の古渡城築城

古渡城築城は1546(天文15)年頃?

信秀が那古野城を居城としたのは、1538(天文7年)から1546(天文15)年頃まで、27歳から35歳頃までの8年間ほどでした。この期間に、信長は5歳から13歳頃に成長しています。それから信秀は、那古野城には信長を残し、自身は古渡(ふるわたり)城をあらたに築城して移りました。

信秀が古渡城を造って居城としたのがいつのことだったのか、時期を特定できる史料は存在していないようですが、1545(天文14)年以降であることは確実のようです。研究書には、以下のようにあります。

『新修 名古屋市史 第2巻』(下村信博氏の執筆部分)
天文12年2月に、信秀は朝廷に献金、〔朝廷から奉書を託された〕連歌師宗牧は、天文13年11月5日に那古野に到着。勅使宗牧を那古野城で迎えたことからみて、古渡城への移転はこれ以後の可能性がある。
横山住雄 『織田信長の系譜』
信秀の〔古渡〕新城移転は少なくとも天文14年以降 … 天文15・6年頃〔1546~47〕に移った可能性が高い。天文13年9月に連歌師宗長〔「宗牧」の誤記〕が訪れたのは那古野城。『信長公記』〔の天文17年の「大柿の城へ後巻の事(織田信秀、大柿城を救援)」の記事中〕に、「古渡新城」の名が見える。

横山住雄説は、天文14年ではなく15・6年頃としている根拠を示していませんが、本歴史館では、横山住雄説におおむね従い、1546(天文15)年頃としておきたいと思います。

古渡城の位置

古渡城の位置を地図上で確認したいと思います。下は、通常とは異なる変な地図と思われるかと思いますが、国土地理院の「治水地形分類図」というもので、低地(薄緑色)か微高地(黄色)か台地(橙色)かで色分けされた地図です。

微高地(自然堤防上)にあった清州城とは違い、那古野城と古渡城は、ともに熱田台地上にありました。那古野城は、清須城と熱田、どちらに行くにもおよそ6~7キロという位置にありました。古渡城は、那古野城から南におよそ3キロ、同じ台地上で那古野城と熱田のほぼ中間点に築城された、ということになります。

古渡城の跡地は、江戸時代に入って東本願寺に与えられ、現在も真宗大谷派名古屋別院となっています。山門の内側の西脇に、古渡城址の石碑と案内板が立っています。

織田信秀 那古野城から古渡城へ 地図

 

なぜ信秀は古渡城に移ったのか

なぜ信秀が古渡城に移ったのかについての史料はないようで、横山住雄の著作にもその理由は挙げられていません。たとえ3キロほどとはいえ、熱田に近くなる、安祥に近くなる、などの地理的要因が考慮されたと推測したくなりますが、史料がない以上、本当のところは分からないと言わざるをえません。

小和田哲夫 『東海の戦国史』 は、「古渡城のすぐ近くに熱田湊があり、豪商加藤氏がいた。信秀は…津島湊を掌握し、その経済力によって尾張の中原に討って出たわけであるが、さらに、伊勢湾海運の湊であり、また東西交通の要衝であったところで、古渡築城と熱田湊の掌握がセットだったことがわかる」としています。(同書は、古渡築城の時期については、天文13年、「稲葉山城攻撃の敗北からほどなく」説です。)

古渡城への移転以後

信秀は、1546(天文15)年頃に古渡城に移ったのち、さらに1549(天文18)年末には末盛城に移転していますので、古渡城には3年ほどしか住まなかった、ということになります。そして、末盛城に移転後2年ほどの1552(天文21)年3月に亡くなったとみられています。

結局、信秀は、古渡城に移転後5~6年で亡くなった、ということになります。信秀が古渡城に移った時、13~14歳だった信長は、以後、1554(天文23)年に21歳で清須城を乗っ取るまで、那古野城に住み続けました。

 

織田信長の元服

『信長公記』 では、信長は1546(天文15)年に古渡城で元服

『信長公記』 中の「吉法師殿御元服の事(吉法師、元服)」の記事(首巻3)は、年も場所も明確です。

吉法師殿十三の御歳、林佐渡守・平手中務・青山与佐右衛門・内藤勝介御伴申し、古渡の御城にて御元服、織田三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜めならず。

信長は1534(天文3)年生まれですから、13歳の年は1546(天文15)年、となります。古渡の城で元服した、と書かれています。上述のとおり、古渡築城についての現在の通説は1545(天文14)年以降、ということですので、この 『信長公記』 の記事通りに天文15年に古渡城で元服式が行われたとして、矛盾はありません。

宗牧 『東国紀行』 では、信長は1544(天文13)年までに那古野城で元服済み

一方、横山住雄 『織田信長の系譜』は、「那古野城時代、信秀と同居中に元服したことは『宗長手記』〔『東国紀行』の誤記か〕から容易に推定できる」としています。以下は、同書からの要約です。

● 天文13〔1544〕年10月、皇居修理に対する朝廷の礼物をもって〔信秀の〕那古野城を訪れた連歌師宗牧は、こと細かに城内の様子を書き留めている(『東国紀行』)。「夕食は心尽くしの手作り。子息の三郎・次郎・菊千代が盃に酒をつぐ。歓待に感謝するばかり」
● 天文13年10月に至っても、三郎信長・次郎信勝(信行)・菊千代(信包)と共に那古野城で生活している姿がよくわかる。さらにはこの時すでに信長・信勝兄弟が元服していたという事実がある。

連歌師宗牧が、皇居修理の進上への礼で那古野城の信秀を訪れていたことは、「第2室 2-6 万松寺創建、伊勢神宮・皇居進上」のページで確認しました。このとき宗牧に対して、「吉法師」と言わず「三郎」と名乗られたのであれば、元服後である、といえそうです。まだ幼い菊千代は幼名のままです。

1544(天文13)年までに那古野城で元服済みであったとすると、『信長公記』 の記事は、年も場所も間違いであった、ということになりそうです。あるいは、『信長公記』 の記事は、天文15年に信秀が古渡に移り、信長が那古野城主として独立したことを祝って、信秀が信長一行を招いて祝宴を行った、つまり趣旨の異なる祝宴であった、ということだったのかもしれません。

ただし、同著者の 『織田信長の尾張時代』 では、信長の元服について「政秀寺記」の天文15年正月18日という記述を紹介する一方、宗牧 『東国紀行』には触れられていません。見解が変わったのでしょうか。本歴史館では、宗牧 『東国紀行』 が第三者同時代史料であることを優先し、『織田信長の系譜』 での見解に一応従っておきますが、『信長公記』 と 「政秀寺記」 の2つが一致している天文16年に古渡城で、ということだったのかもしれません。

 

織田信長の初陣

『信長公記』 では、1547(天文16)年に信長の初陣

『信長公記』 の信長元服の記事には、すぐ次に、信長初陣の記事(首巻3)があります。

翌年、織田三郎信長御武者始〔初陣〕として、平手中務丞〔政秀〕、其時の仕立〔信長に施した支度〕、くれなゐ筋のずきん〔頭巾〕・はをり〔羽織〕、馬よろひ出立にて、駿河より人数入置き候〔駿河勢が入っていた〕三州〔三河〕の内吉良大浜へお手遣、所々放火候て、其日は野陣〔野営〕を懸けさせられ、次日那古野に至て御帰陣。

『信長公記』は、信長の元服を信長13歳・1546(天文15)年のこととしているので、信長の初陣は、信長14歳・1547(天文16)年のことであったことになります。

次ページで確認しますが、1547(天文16)年には信秀の三河攻めが新たな段階に進みます。村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」も、信長の初陣について、天文16年「9月上旬の信秀の岡崎攻めに連動したものと捉えるのが自然である」としており、信長の初陣の時期については 『信長公記』 の通りと受け取ってよいようです。

信長初陣の地、三河の吉良大浜

信長初陣の地を地図で確認します。

織田信長の初陣 地図

吉良は、現在は西尾市の南部、大浜は現在の碧南市の中心部にあたります。那古野城からは、それぞれ直線距離で、吉良まで約45キロ、大浜までは約35キロと、結構な距離があります。『信長公記』 の記述からは、この距離を1泊(野営)2日で往復したように読めます。

しかし、上掲・村岡幹生論文は、「吉良・大浜」とする刊本もあるが、「吉良の大浜」と読んで「吉良氏の領である大浜」と解すべきである、と指摘しています。確かに、吉良と大浜、2か所を襲撃したとすると、1泊行軍では無理であるように思われ、襲撃先は大浜だけであったと理解するのが適切のように思われます。

この時の信長はまだ数えで14歳(現代なら中学1~2年生)という少年ですから、平手政秀はじめ周囲の大人は相当な配慮を行ったことでしょう。地理的にも、古渡城は那古野城から大浜への通り道にあるので、信長や平手政秀の一行は、行き帰りとも古渡城に寄り、行きには信秀の激励を受けて出陣、帰りは那古野城に帰る前に信秀に戦果報告を行ったのではなかろうか、と想像したくなります。

 

 

古渡城時代の信秀について、次は、三河攻めのその後についてです。