本歴史館の主題である織田信秀と尾張時代の織田信長に関する研究の第一人者と言えば、横山住雄氏であろうと思います。本歴史館でも、同氏の著作を大いに参考にさせていただいています。このページは、横山住雄氏の著作についてです。
● このページの内容
織田信秀と尾張時代の織田信長の研究、第一人者は横山住雄氏
織田信長に関する研究書、と言えば、世の中に数多くの著作があります。しかし、織田信長でも尾張時代に関して、あるいは、信長の父・織田信秀に関して、となると、研究書の数は激減します。信長の尾張時代、および、信長の父・信秀に関しての研究となると、真っ先に名を挙げるべきは、横山住雄氏であろうと思います。
信長というと、テレビの歴史番組で一番よく出てくるのは小和田哲夫氏である、横山住雄という人はテレビに出てこない、名前を聞いたこともない、そんな人が第一人者なのか、と言われる方も多いのではないかと思います。そういう方は、小和田哲夫氏の信長に関する著作をお読みになることを推奨します。小和田氏の著作の中で、信秀と尾張時代の信長に関しては、横山住雄氏の名を挙げて、横山説が最も多く紹介されています。
例えば、信秀・信長に関するかつての通説に対し、横山氏が史料発掘と再検証によって新説を提起され、その後研究者の間にその横山説が受け入れられて新しい通説になった、という例が多数あります。他にもまだあろうかと思いますが、以下がその代表例です。
● 信秀による那古野城の奪取、1538(天文7)年説 <旧説は天文元年説>
● 信長による岩倉落城、1558(永禄元)年説 <旧説は永禄2年説>
● 信長による犬山落城、1565(永禄8)年説 <旧説は永禄7年説>
横山氏は、美濃の斎藤氏3代(道三・義龍・龍興)の研究者でもあります。また、もともと郷土史家として出発されていますので、犬山城と犬山市等に関する研究の著作もあり、この分野ではとくに、定説とされている犬山城移築否定説に対し、犬山城はやはり移築であったとするきわめて説得力の高い研究も発表しておられます。
本歴史館を作成する上で、横山住雄氏の著作は、勝手ながら非常に活用させていただきました。大変に感謝しております。残念ながら、同氏は2021年にお亡くなりになったようです。
本歴史館は、横山住雄氏の著作がもっと世に知られることを願って作成した、というところもあります。以下に、同氏の主要著作を紹介させていただきたいと思います。
横山住雄 『織田信長の系譜 - 信秀の生涯を追って』 濃尾歴史文化研究所
初刊 1993 改訂版 2008
本書の書名中で、織田信秀の名は副題中にしか現れていませんが、本書は信秀に関する研究書です。改訂版は、「追加史料による増補も少し行った」(改訂版「あとがき」)ということです。
本書の構成は、以下のようになっています。
・ 序章 斯波・織田氏の発展
・ 第1章 織田信秀の家系
・ 第2章 織田信秀の登場
・ 第3章 織田信秀の内外政策
・ 第4章 織田信秀の戦略経営
・ 第5章 病床の信秀
・ 第6章 信秀の一族・家臣
・ あとがき
すなわち、まず序章では守護代・織田氏と守護・斯波氏の家系が、第1章では信秀の弾正忠家の家系が考究されています。第2章~第5章は、信秀の生涯についての論考です。第6章は、信秀の妻妾・弟妹・子および主要家臣についての論考です。
論考にあたっては、ほとんど必ず、典拠史料が明記されています。全体として、織田信秀の出自と生涯に関する総合的な研究となっている、と申し上げられます。織田信秀に関する研究書、というのは類書がないだけに、信秀について興味がおありになる方には、必読書であると思われます。
そもそも本歴史館も、もしも本書と出会っていなければ、制作していませんでした。いろいろインターネット検索をしているうちに本書の存在を知って入手し、本書を読みながらその内容を地図上で確認しているうちに、本歴史館のイメージが出来上がってきた、という経緯があります。
本書の内容は、本歴史館の本文中で、かなりの範囲にわたってご紹介させていただいておりますが、ご紹介したのは、あくまで本書のエッセンスの主要部分だけであり、本書の全貌からは程遠いと申し上げられます。したがって、ぜひ本書を読みになられることを推奨いたします。
ただ、本書は新刊では手に入りません。もしも図書館になければ、古書で入手いただくしかないと思います。古書での入手は、「日本の古本屋」サイトが便利だと思います。
本書からは、本歴史館では、下記のページで引用等を行っています。
● 第2室 織田信秀 の本文の全てのページ (2-1 ~ 2-15)
横山住雄 『織田信長の尾張時代』 戎光祥出版 2012
本書の場合は、書名がそのまま本書の中身を表しています。まさしく、織田信長の尾張時代、信長の出生から、美濃攻略を果たし本拠を井口に移し岐阜と改称するまでの、信長の半生に関する研究書です。その間は、基本的に時系列に従って考究されています。巻末には、井口を岐阜に改称したときまでの年表が付されています。
論考にあたっては、やはり、ほとんど必ず典拠史料が明記されています。織田の尾張時代に関する研究書、というのも類書が乏しいだけに、信長の尾張統一過程について興味がおありになる方には、必読書だと思います。
内容的に、どうしても前著 『織田信長の系譜』 と重複する部分があります。その中で、新史料の発見等により、前著とは見解が変化している箇所(とくに犬山城主関係)もあります。
ひとつの新史料の発見が、歴史研究者自身の見解にどのような影響を与えるのか、という実例として、前著と本書の2書を読み比べていただく価値もあると思います。また、信長よりも信秀に大きな関心をお持ちの方も、こうした点の存在から、本書をお読みいただく価値あり、と思います。
本書の内容も、本歴史館の本文中で、かなりの範囲にわたってご紹介させていただいておりますが、ご紹介できたのはやはりその一部に過ぎず、本書をお読みいただく価値が大いにあります。
なお、本書の史料の扱いについて、一つだけ同意しかねる点があります。本書が 『武功夜話』 からも引用を行っている箇所がある点です。偽書からの引用は、僭越ながら誠に著者らしくなく、本書の価値を引き下げているように思われますが、ごくわずかの箇所で「補助的に活用」されているだけなので、読み飛ばせば済む範囲であり、それによって本書および横山氏の考究の価値が大きく減じていることはない、と申し上げられます。
本書からは、本歴史館は、下記のページで引用等を行っています。
● 第3室 織田信長 の本文のほとんどすべてのページ (3-1 ~ 3-17)
横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興 - 戦国美濃の下克上』 戎光祥出版 2015
(前著 『斎藤道三』 濃尾歴史研究所 1994を改稿)
信秀・信長を研究するには、美濃・斎藤氏の研究も不可欠になります。信秀の美濃攻め、信秀の美濃喪失の結果として斎藤道三との和睦、その証としての信長と濃姫の結婚、道三による信長への支援、一方道三の子・義龍と信長の対立、龍興に代替わりした美濃への信長の攻勢、ついには美濃を取って岐阜への移転。織田氏と斎藤氏の間には、干渉も交流もありました。
横山住雄氏は、斎藤氏3代(正確には道三の父・長井新左衛門を含めた4代)の研究者でもあります。まず1994年に 『斎藤道三』 を出版、基本的にはその前著を踏襲しながら、多くの箇所で「全面的に見なおしたり新説を打ち出すなど改稿した」(本書「はじめに」)ものが本書です。
本書は、以下の5章構成となっています。
・ はじめに
・ 第1章 道三の父・長井新左衛門
・ 第2章 斎藤道三
・ 第3章 斎藤義龍
・ 第4章 斎藤龍興
・ 第5章 道三の一族
結局、信秀と信長の尾張時代とを理解するためには、横山住雄氏の3部作、『織田信長の系譜』・『尾張時代の織田信長』・『斎藤道三と義龍・龍興』 の全てをお読みいただくのが一番、と思います。
本歴史館でも、斎藤氏・土岐氏関係については、本書を大いに活用させていただきました。下記のページで引用等を行っています。
● 第2室 織田信秀 2-7 美濃攻め・大柿城奪取と5千人討死
● 第2室 織田信秀 2-11 道三との和睦、信長の結婚・濃姫
● 第3室 織田信長 3-14 森部・十四条合戦 - 美濃攻め開始
横山住雄 『新編犬山城史』 1968
横山住雄氏は、もともとは犬山・鵜沼地域の郷土史家です。その出発点としての著作が、本書 『新編犬山城史』 であるようです。本書は書名通り、犬山城の歴史を論究・考証したものです。とりわけ、1960年代前半に行われた犬山城の解体修理の結果として出てきた犬山城移築否定説に対する反論が中心となっています。
本書の構成は以下の通りです。
・ 序(成瀬正勝)
・ 第1章 室町時代の犬山付近
・ 第2章 三光寺城時代
・ 第3章 犬山城時代、成瀬入城前
・ 第4章 成瀬氏入城後
・ 第5章 設備構造
・ 第6章 金山越
・ 第7章 金山城
・ 第8章 付近の諸城
・ 第9章 添付資料
・ あとがき (著者)
150ページほどの小著ですが、内容的にはレベルの高いしっかりした研究書です。「序」は、当時の成瀬家の当主(当時は犬山城の所有者)であった成瀬正勝氏によるもの。この「序」だけでも読む価値があります。著者・横井住雄氏の人柄や研究者としての姿勢が良く分かるためです。
本書の中心主題である「犬山城移築否定説への反論」(本書第5章以降)の骨子は、本歴史館の本文中(「第3室 3-16 犬山落城と中美濃進出」)でご紹介いたしました。他にも、本歴史館中の下記のページで、本書から引用等を行っています。
犬山城にご関心のある方は、本書をぜひお読みになることを推奨いたします。ただし本書を読むには、図書館になければ、古書を入手いただくしか手はありません。
また、同著者の 『犬山の歴史散歩』(初版 1985 第3版 1989)では、本書の内容の一部が再録、または補足されておりますので、こちらもご覧いただく価値があります。
犬山城は、文献史料上はすべて移設と記されているのに関わらず、解体修理を委嘱された学者は、移築否定説を唱えました。横山氏が説得力ある反論を行ったにもかかわらず、移設否定説が今も公式見解となってしまっているのは、何とも座りの悪い感があります。横山氏の指摘に対し、移築否定説を変えなかった「修理報告書」の責任者である学者は、事実を追求する研究者であるよりも、ご自身のメンツを優先してしまったように見えます。
『犬山市史』 1997
横山住雄氏は、『犬山市史』 の執筆者の一人でもあります。とくに、「第6章 犬山城と犬山地域の社会生活」を執筆されており、この中で、犬山城が移築であったのか否かについて、再考察をされています。上掲の 『新編犬山城史』 からおよそ30年後の再論となりますが、下記の趣旨の指摘をされています。
● 解体修理工事の際、天守閣の移築は否定され、これが現在の犬山市の公式見解
● 〔その後の研究の歩みから〕天守閣は、主要材の削り・仕上げの技法から、天文~天正前期の建築と見て矛盾しないが、天守閣の石垣は天正後半~慶長7年の桃山期のものという可能性が強くなってきている。天守閣が移築であるとすれば、この矛盾点は氷解することになる。〔移築説〕も成り立つということである。
公式には相変わらず移築否定説をとっている犬山市の 『市史』 の中で、慎重な書き方ですが、その公式見解を否定しています。石垣の問題も加わって、移設説の説得力がさらに増している、という気がします。犬山市が、市の公式見解に対立する移設説の横山氏に犬山城史部分の執筆を依頼していることから、市の本音は分かるという気はしますが、そうであれば、市として公式見解を変更するのが一番適切なのではないでしょうか。
次は、信秀と信長の尾張時代でも、三河・松平氏あるいは今川氏との関係からの研究では第一人者である、村岡幹生氏の著作についてです。