尾張国内で信長と弟・信勝とが反目していたとき、美濃では信長の舅・斎藤道三と嫡子・義龍との対立が発生していました。美濃での対立は、ついには道三と義龍との長良川合戦に発展します。道三支援のため信長も美濃まで出陣しましたが、道三が討ち死にして兵を引きます。
このページでは、道三と義龍との対立から道三の討死までの過程と、長良川合戦の行われた場所、すなわち当時の長良川の河道などを確認します。
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1555(弘治元)年秋、 美濃では斎藤道三と嫡子・義龍の対立が激化
道三と義龍の対立についての 『信長公記』 の記事
まずは道三がなぜ嫡子・義龍と対立するようになったのかについて、以下は 『信長公記』(首巻30)の記事からの要約です。
● 山城〔斎藤道三〕の子は、新九郎〔義龍〕以下兄弟3人。父子4人共に稲葉山に居城。およそ跡取りは、だいたいは心が緩々して穏当なるもの、道三は知恵の鏡も曇り、新九郎は耄者〔ほれもの=馬鹿者〕とみなし、弟二人を利口の者と尊重、三男を一色右兵衛太輔にして官位を進めた。弟たちは〔新九郎に〕勝ったと思って奢り軽蔑して扱った。
● 新九郎は無念に思い、10月13日から仮病を使い、奥に籠って臥せた。11月22日、道三は、山下の私宅へ下りた。ここで〔義龍は〕叔父の長井隼人正を使いに立て、弟二人に言づけ。重病であとわずかの命、一言いいたいことがあるので来てくれ。長井隼人正が上手く図って弟二人が義龍のところに来る。長井隼人正は次の間に刀を置いたので、兄弟も同様に。奥の間に入れ、酒を振舞い、弟二人を切り殺すと、山下の道三にこのことを申し遣わした。
● 道三は仰天、法螺貝を吹き兵を呼び寄せ、四方の町の端から放火し、井の口を裸城にして、長良川を越え、山県という山中〔大桑城か?〕へ引き退いた。
義龍と道三との不和の原因は道三による兄弟差別、そこで義龍は弟二人を謀って殺害、それを知った道三は義龍との対決姿勢を鮮明化した、と書かれています。例によって年号が入っていないため、何年に弟二人殺害事件が起こったのか、明確ではありません。
なお、「通説では、道三が隠居する形で家督が嫡男義龍に譲られ、稲葉山城を居城とし、道三は鷺山城へ退いた」(小和田哲夫 『東海の戦国史』)とされていますが、この 『信長公記』 の記事では、「父子4人稲葉山に居城」とされています。
道三の隠居は天文23年、義龍との対立原因は隠居後の道三の口出し
実際には道三は家督を義龍に譲って隠居していた、しかし隠居後も道三が口出ししたので義龍が反発した、ということだったようです。以下は、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』からの要約です。
● 天文23〔1554〕年3月に、道三は家督を〔嫡子の義龍に〕譲って隠居した。
● 道三が義龍と不和になったのは、弘治元〔1555〕年11月のことと言われている。中国で父殺しの范可という人があり、この故事に倣って、義龍は范可という名で弘治元年12月に美江寺へ禁制を出しているから間違いない。
● 天文23年3月5日、井の口道場に宛てた道三判物、同年3月10日付で同じ道場に新九郎利尚〔=義龍〕がほぼ同じ内容の判物、道三の指令を追認。このようなやり方は異例。同年10月龍徳寺文書でも、「この度山城守〔道三〕より…仰せ付け」。家督を譲るといいながら、道三は完全に隠居したわけではなく、ここに父子反目の原因があるように思える。
● 「道三が土岐頼芸から愛妻深芳野を拝領したとき、すでに頼芸の子を宿しており、生まれた義龍は道三の子ではない」という説は、江戸中期の伝承には見られない。江戸末期になって、ようやく落胤説が登場してくる。道三が義龍の父でなければ、父殺しでもないから范可とも改名しなかっただろう。
道三が美濃の国盗りを成し遂げたのが1550(天文19)年、それから4年後に隠居した、ということになります。また、1554(天文23)1月の信長の村木砦の戦いへの支援として安藤伊賀守の留守部隊を尾張に送った後2ヶ月ほどで隠居した、ということでもあります。道三と義龍が不和になった1555(弘治元)年11月は、尾張では喜六郎横死事件の半年近く後、というタイミングです。
徳川家康は将軍職を二代秀忠に譲っても、亡くなるまで大御所として権力を振るい続けましたが、義龍は、二代将軍秀忠よりもはるかに自立心が旺盛であった、ということでしょうか。なお、義龍の御落胤説は、後世の創作のようです。
道三は家臣たちの手で強制的に引退させられたとの説
一方、道三は家臣たちに強制的に引退させられた、という説もあるようです。以下は、『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』(勝俣鎮夫氏 執筆部分)からの要約です。
● 支配者道三のもとでは国内の混乱・隣国の侵入はやむことがなく、領国は滅亡に瀕していた。
● おそらく、このような状況のもとで、道三の突然の引退・義龍の嗣立、家臣たちの手で強制的に行われたものと思われる。
● 道三時代、当時他の戦国大名がつぎつぎにうちだしている民生の新しい施策に匹敵するものは、その片鱗すらうかがえない。
尾張の信秀は他国に攻め入りましたが、道三の美濃は、国内で土岐一族の内紛による戦乱があり、それを支援する信秀はじめ他国軍に攻め入らる一方でした。三河の安城松平家3代信忠が、パワハラが過ぎるとして家臣から引退をさせられた(「第2室 2-3 三河の状況と守山崩れ・伊田合戦」)のと同様、美濃の道三も引退させられたのかもしれません。尾張では、大うつけ行動と人格上の問題点から、信長は信秀の家督全面相続がかないませんでした(「第2室 2-15 信秀の死と後継問題」)。この時代は、家臣も主家の後継問題に口を出せる時代であった、と理解できそうです。
実際、後述の通り、道三が討ち死にした長良川合戦では、家臣の大多数は義龍側につきました。道三は家臣からは良い主君とは思われていなかったことの表れでしょうか。この 『岐阜市史』 の見解は、小和田哲夫 『東海の戦国史』 も「卓見」と評価しています。以下は同書からの要約です。
● 『岐阜市史』 は、道三の引退、義龍の嗣立が、家臣たちの手で行われたものとした。卓見と思われる。
● 道三は三男の喜平次を特にかわいがり、喜平次に家督が譲られそうな気配があった(『信長公記』)。家督が弟に引き継がれることを懸念した義龍が、弟を殺してしまったわけで、戦国時代にはよくみられるケースの一つ。
● もう一つ、筆者は、道三が娘婿織田信長に肩入れするのを、義龍および斎藤氏家臣団が快く思っていなかったのも理由だったのではないかとみている。
なお、道三の死後、義龍は尾張の反信長派への支援を活発に行いますが、生前の道三の信長への肩入れを非常に意識していたため、であった可能性がありそうです。
1556(弘治2)年4月、長良川合戦での道三の死と信長の大良出陣
『信長公記』 に見る道三の死(長良川合戦)と信長の出陣
道三の義龍との対立は合戦に発展し、その中で道三は討死します。以下は、『信長公記』(首巻30・31)からの要約です。
● 〔道三は〕翌年4月18日鶴山へ取り上り、国中を見下ろして居陣。信長も婿なので、呼応して木曽川・飛騨川船渡し、大河を越えて、大良の戸島東蔵坊に至って在陣。
● 4月20日辰の刻〔午前8時ごろ〕、戌亥〔いぬい=北西〕へ向かって義龍は兵を出す。道三も鶴山を下りて長良川端まで兵を出す。一番合戦では、竹腰道薼率いる600人ほど、川を渡って道三の旗本に切りかかったが切負け、道三は竹腰を討ち取る。二番槍は義龍、多人数とどっと川を越す。双方が入り乱れ火花を散らし戦う。長井忠左衛門が道三を生け捕ろうというところに、小真木源太が走ってきて、道三のすねを切り押し伏せて首を取る。
● 〔道三との〕戦が終わり首実検をしてから、〔義龍は〕信長の陣所大良口へ兵を出す。大良から30町ばかり出て及河原で戦闘となり足軽戦で、信長軍にも多少の損害。道三が討ち死の由、大良の本陣まで伝わる。兵卒・牛馬から撤退を開始、しんがりは信長がすると言って、全員を退去させ、信長用の舟一艘を残して各自に川を越えさせたとき、騎馬武者が何人か川端まで駆けてきた。その時、信長が鉄砲を撃たせると、騎馬武者も近寄ることなく、信長も舟に乗り川を越えた。
例によって、この記事には日付は入っていても、年号が入っていませんが、1556(弘治2)年であることは、各研究書とも一致しています。
道三は、負けると分かっている戦をした
このとき道三は、負けると分かっている戦をしたようです。まずは、上掲の 『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』 からの引用です。
道三は、義龍を追放するために、得意の策謀をめぐらしたのであるが、義龍に先手をうたれ、武田信虎〔信玄の父、信玄に追われた〕のごとく流浪するか、戦って死をえらぶかの選択にせまられ、後者をえらんだのである。道三の挙兵に応じたのは、わずか二千余、義龍軍の約十分の一で、勝敗の帰趨は戦わずしてわかっていた。美濃の武士は新主君義龍の方を選んだのである。
横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 も、同様の見方をしています。以下は、同書からの引用です。
道三ほどの人が、このような天険の要害〔鶴山〕に籠らず、あえて山を下りて長良川を渡るような無謀なことをしたかというと、「もはやこれまで。潔く義龍に打たれて最後を迎えよう」との考えがあったに違いないと思う。
信長は、西尾への出陣を打ち切って、美濃に道三支援の出兵をした
信長側の事情についていえば、「第3室 3-4 村木砦の戦いと西尾(八ッ面)出陣」のページで見ました通り、三河で反今川の戦いを開始した吉良氏を支援するため、前月に西尾まで出陣したところでした。吉良氏支援よりも、舅・道三支援の方が優先である、と判断し、急遽、三河から撤退して美濃に出陣を決めた、ということだったのでしょうか。
この時点について言えば、美濃では道三を助けられず道三は討死、三河でも吉良氏を助けられず、信長撤兵後は今川が吉良氏を制圧して、どちらも信長にとって不本意な結果となりました。わずかな兵力しか持っていなかった当時の信長には、やむを得ない結果であったと言わざるを得ないように思われます。
長良川合戦と信長の大良出兵の地図
長良川合戦の地図
道三が討死にした長良川合戦に関する地図を確認したいと思います。例によって、青い太線で表示してあるのが当時の尾張・美濃の国境=古木曽川の流れであり、現在の木曽川の位置には当時は大河はなかった、と考えてこの地図をご覧ください。
隠居後の道三が、稲葉山城にそのままいたのか、鷺山に移ったのかは、今一つはっきりしていません。鷺山は、稲葉山(金華山)のふもとから北西に2.7キロほど、標高68メートルの小さな独立丘です。いずれにしても、義龍に追われた道三はいったん大桑城に移りますが、義龍との合戦のために鶴山に出てきます。鶴山は、稲葉山のふもとからは3.5キロほど北、標高180メートルの丘です。
『信長公記』 は、義龍軍が稲葉山から、「戌亥(北西)」に向かって兵を出したとしています。鶴山に真っすぐ向かうなら北方向であり、北西方向だと鷺山方向になります。鶴山から下りた道三軍は、鷺山近くに展開した、ということだったのかもしれません。
道三が信長の援軍を本当に当てにしていたなら、信長軍の到着までは道三は鶴山に籠り、信長軍の到着に合わせて、南北から挟み討ちにする形で義龍軍に攻撃を仕掛ける、という手もあったと思います。それをしなかったということは、信長軍が来ても勝てる条件は作れない、と見たからでしょうか。当時の信長の動員力は8百~千人程しかなく、信長軍を加えても、少数過ぎて義龍軍に勝てるわけがない、それなら信長軍に損害が出る前に早く討死してしまう方がよい、と判断した可能性が高そうに思われます。
当時の長良川は3本の川筋
ところで、本歴史館の「第1室 1-2 国境と木曽川の河道」で確認しました通り、当時の長良川は、現在の岐阜市内では、3本の川筋に分流していました。しかも、現在の長良川筋は、この当時の主流ではなかったようです。そこで、その点について地図で確認しておきたいと思います。古川・古々川の河道は、筧真理子「長良川「古川」「古々川」の名称について」に従っています。
1939(昭和14)年までは古川・古々川に水が流れることもあっただけに、1947~48(昭和22~23)年の航空写真で見てみると、どこのあたりに川があったのかは、かなり明瞭です。この長良川合戦当時は、古川が長良川の本流であったようです。道三と義龍との合戦は、おそらくは古川の河原であったのでしょう。
信長の大良出兵、及川まで来たが、そこから先には進めず
一方の信長ですが、『信長公記』 には「木曽川・飛騨川舟渡し、大河打越し、大良の戸嶋東蔵坊構に至りて御在陣」とあり、現羽島市の大浦に陣を張ったと思われます。当時は、下の地図中の現在の木曽川の位置には大河は流れておらず、その代わりに木曽川の枝川の一つで本流並みの大河であった及川~日光川が流れていて、信長軍は舟で川を渡った大浦側に陣を敷いたと思われます。
信長軍が大浦から先に進む前に、道三は討ち死にをしてしまいます。道三を打ち破った義龍軍は、信長のいる大良口にも兵を送ってきた、と書かれています。おそらく義龍軍は北から来たのでしょう。信長は大良から30町ばかり駆け出した及河原で足軽合戦をしたが、損害を出して撤退を決めたようです。信長軍は、やはり及川を舟で渡らないと撤退できないので、撤退に十分な時間が取れるよう、損害が大きくなる前に撤退行動に踏み切った、ということだったと推測されます。
信長の良き支援者であった斎藤道三の死は、尾張国内での反信長派の動きを大きく刺激し、信長と信勝の反目をさらに激化させることになります。次のページではそれを確認します。