1-4 尾張の上4郡・下4郡

 

前ページまで、織田信秀・信長の時代には、干拓地はなく伊勢湾が広がっていたこと、尾張の国境線は現在の県境線と少し異なっていたこと、守護ー守護代の体制であったこと、などを確認してきました。

ここでは、尾張国内の支配体制はどのような状況であったかを確認したいと思います。

 

 

『信長公記』には「尾張国8郡なり」

『信長公記』には、尾張8郡中、上4郡を岩倉の伊勢守、下4郡を清須の大和守

まず、『信長公記』 は何と書いているかを再確認します。前ページに続き、もう一度、『信長公記』 の首巻の冒頭部(首巻1)に戻ります。現代語訳の要約だけ再掲します。

● 尾張の上4郡は、守護代・織田伊勢守が支配、岩倉が居城。
● あとの半国・下4郡は、守護代・織田大和守の支配下、清須の城に武衛様〔守護〕を置き、大和守も同じ城内。
● 大和守の家中に3人の奉行あり、織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠〔信秀〕。

守護代である岩倉織田氏(伊勢守)と清須織田氏(大和守)が、尾張8郡を、4郡ずつに分けて支配していた、と書かれています。

上4郡・下4郡が具体的にどの郡であったのかについて、角川文庫版 『信長公記』 および角川新人物文庫版(現代語訳版)は、上は丹羽・葉栗・中島・春日井、下は海東・海西・愛知・知多であったと注記、小和田哲夫 『東海の戦国史』 も同じ見解です。尾張8郡を単純に上下4郡ずつに分けるとこのような解釈になる、ということでしょうか。

『信長公記』の「尾張8郡、上4郡と下4郡」は、正確ではなかった

信秀の時代まで、尾張は9郡だった

ところが、この、8郡の尾張を4郡ずつに分けていた、という理解そのものが、どうも正確ではないようなのです。これには二つの事情がありました。

第一に、そもそも信秀の時代までは、尾張には山田郡もあって、実は計9郡でした。9郡なら、4郡+4郡では数が合わなくなります。以下は、尾張国の郡の改廃について、『新修名古屋市史 第2巻』(上村喜久子氏 執筆部分)からの要約です。

● 律令時代に定められた尾張国の8郡は、中島・海部・葉栗・丹羽・春部(かすかべ)・山田・愛智・智多。
● 平安後期、11世紀中頃までに海東郡が成立、つまり海部郡の海東郡と海西郡への分割。
● 戦国期の末期に、山田郡が愛智・春部(春日井)の2郡に分割されて、尾張はふたたび8郡に戻って近世を迎える。
● 中世の尾張、約500年は9郡の時代。史料より、山田郡の廃止は、1548年〔信秀の死の4年前〕から1570年〔姉川の戦いの年〕の間のいずれかの時期。織田信秀または信長の支配政策とのかかわりのなかで、とらえるべき事実。

太田牛一が『信長公記』を執筆した時期には、尾張国は8郡になっていたので、太田牛一が全くの誤記をしたのではありません。しかし、1548年までは確実に山田郡もあり、少なくとも信秀の時代は9郡であった、と理解するのが正しいようです。

守護・斯波氏の管轄外の郡もあった

一方、守護・斯波氏は、必ずしも尾張国全域を支配していたのではなく、尾張国内でも斯波氏の管轄外の地があったようです。以下は、柴裕之編 『尾張織田氏』 の「総論 戦国期尾張織田氏の動向」からの要約です。

● 室町幕府=守護体制下、尾張国は、はじめは美濃守護土岐氏、その後に畠山氏・今川氏が守護を務めた後、応永7年(1400)までに斯波氏が越前・遠江両国守護と兼務することとなる。
● この当時、尾張国は9郡。守護斯波氏の管轄地域は、はじめは守護一色氏が管轄する知多・海東郡を除く、中島・海西・葉栗・丹羽・春日部・愛智・山田の7郡。永享4年(1433)に将軍より海東郡が与えられ8郡となった。

尾張は9郡あったが、知多は斯波氏の管轄外、残る8郡を4郡+4郡に分けていた、ということだったなら、上4郡・下4郡という説明は成り立ちそうです。

なお、海東郡が斯波氏管轄に戻ったのは、永享4年ではなく、応仁の乱後であったのかもしれません。以下は、『新修 名古屋市史 第2巻』 (下村信博氏 執筆部分)からの要約です。

● 斯波氏が尾張の守護になったのは応永の乱 (1399年) の翌年、それ以前から有していた越前・信濃に加えて尾張守護職に。
● 海東・知多両郡は〔応仁の〕乱前には一色氏が分郡守護、尾張守護史斯波氏の管轄を離れていた。
● 一色氏が西軍方となったため、応仁2年 (1466) に幕府は両郡を没収したと推定される。
● 知多郡は幕府御料所 (料郡) として政所執事伊勢貞宗に預け置かれた。
● 海東郡は分郡守護が解消されて、尾張守護の管轄に戻ったと推定。恐らく、文明10年〔1478〕の織田敏定の尾張進行の際。

清須と岩倉の二人の守護代は、実際にはどう尾張を分けていたのか

では、岩倉の織田伊勢守信安・清須の織田大和守達勝の二人の守護代は、実際には尾張をどう分けていたのか、となると諸説あるようです。

鳥居和之説 <同氏 「織田信秀の尾張支配」(柴裕之編 『尾張織田氏』所収)>
伊勢守系〔岩倉〕が葉栗・丹羽・春日井・山田4郡
大和守系〔清須〕が中島・海東・愛知3郡を支配
海西・知多2郡は両家の支配から脱した状態。
柴裕之説 <同氏「総論 戦国期尾張織田氏の動向」(柴裕之編 『尾張織田氏』所収)>
伊勢守系〔岩倉〕が葉栗・丹羽・春日井3郡
大和守系〔清須〕が山田・中島・海東・愛智4郡 + 海西〔庶家弾正忠家の勢力下〕
横山住雄説同氏 『織田信長の系譜』
〔伊勢守系〔岩倉〕上4郡〕丹羽・葉栗・中島・春日井東の4郡
〔大和守系〔清須〕下4郡〕春日井西・海東・海西・山田
愛知郡は天文6〔1537〕年頃までは今川氏が確保しており、知多郡も斯波・織田両氏の力が及んでいなかった。

各研究者の説の根拠となっているのは、二人の守護代が出した発給文書がどれだけの範囲に及んでいるかという点です。さらに、いつの時点のことかという定義も完全同一とはいえないようで、そのため、並べるとずいぶん相違があるように見えます。尾張9郡のうち、少なくとも知多郡を除外、というのは3者の共通見解のようです。

尾張には9郡あったが、そのうち守護・斯波氏の支配下にあったのは7~8郡だった、この7~8郡を、岩倉と清須の両守護代が、各3~4郡ずつ支配していたが、その分け方には諸説ある、というのが実態のようです。

二人の守護代体制外だった知多郡について、以下は 『愛知県史 通史編3 中世2 ・織豊』 (村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 知多半島は、尾張国内でありながらも当時独自の世界を形成していた
● 〔知多半島北部〕 水野一族は、刈谷、緒川 (現知多郡東浦町)、常滑、大高 (現名古屋市緑区) で一族が分出
● 〔知多半島南部〕 大野、常滑、野間、羽豆岬、河和各城に、佐治、水野、戸田、岸上、中村の国人が割拠

尾張9郡の地図

下の地図は、「第1室 1-1 干拓地はまだ海の中」で示した地図に、更に山田郡を含む尾張9郡の郡境を記入したものです。このうち山田郡は、戦国末期に分割されて消滅しましたので、どう分割されたのか、その概略の分割線も示しています。(山田郡のより正確な領域については、上掲の『新修名古屋市史 第2巻』をご参照ください。)

なお、明治以来の市町村合併で、郡をまたがった合併もしばしば行われたため、現在の自治体の境界線は、戦国時代の郡の境界線通りにはなっていない箇所が各所にあります。市町村合併前の昔の境界線を知るための努力は行いましたが、限界があります。また、それを正確に地図上に示すことも困難です。この地図上に表示した郡境は、おおざっぱな目安に過ぎない、とご了解ください。

尾張の9郡 地図

 

地図を眺めてみると、葉栗・中島・海西3郡にとっては、天正大洪水後の国境変更で、美濃国に取られてしまった部分の領域が小さくなかったことが分かります。一方、伊勢湾北部にまだ干拓地がなく広い海が広がっていた戦国当時、知多半島は、付け根だけでつながっている愛知郡・尾張北部方面よりも、湾の狭い三河方面との交流が多かったのかもしれません。

清須城と岩倉城の間は直線距離で約7 km、清須城と勝幡城の間は同じく直線距離で約9 kmでした。清須から岩倉・勝幡まで、どちらも徒歩2時間以内でいける距離であった、と言えそうです。

 

 

ここまでで、「第1室 戦国尾張」は終了です。次からは、「第2室 織田信秀」です。