第2室 織田信秀 - 尾張一の戦国武将

 

ここからは、いよいよ本論です。この第2室は、織田信長の父・織田信秀について。信秀が尾張一の実力戦国武将となっていなかったなら、信長の尾張統一~天下布武はなかったでしょう。

 

● このページの内容 と ◎ このページの地図

 

「守護の家臣の家臣」でも、尾張一の実力戦国武将となった織田信秀

織田信長の父・織田弾正忠信秀は、尾張国「守護の家臣の家臣」の勝幡城主でした。尾張国内有数の商業都市・津島を所領の内に持っていたことは、他の通常の城主とは異なる点でしたが、所詮は一地域の領主。その程度のままで一生を終えていたなら、彼の子である織田信長が、そもそも尾張を統一することは起こりにくく、したがって天下取りに踏み出すことなど、恐らくなかったのではないか、と思われます。

信秀は、「守護の家臣の家臣」の身分のままで、那古野城を取り、三河を攻め美濃に討ち入って、一代で尾張一の実力戦国武将となりました。最終的に三河や美濃の支配地域は失ったものの、尾張国内での支配地域は大きく拡大し、熱田・津島の尾張二大商港を所領としていました。信秀の代でこの発展を行ったことが、子の信長が、尾張を統一し美濃に進出、その後さらに天下取りに踏み出す基盤を作り出した、と言えそうです。

 

織田信秀の年表

下は、織田信秀の年表です。この年表は、第2室各ページへの入り口にもなっています。各項目末尾のページ番号をクリックいただけば、それぞれの詳細な記事をお読みいただけます。

 

 

1512 (永正9)- 信秀 1歳
● 織田信秀、生まれる ・・・→ ページ 2-1

1526 (大永6) - 信秀 15歳
● 連歌師宗長、津島で信秀と面会 ・・・→ ページ 2-2

1533 (天文2) - 信秀 22歳
● 飛鳥井雅綱・山科言継の勝幡・清須来訪 ・・・→ ページ 2-1

1534 (天文3) - 信秀 23歳 信長 1歳
● 織田信長、勝幡で生まれる ・・・→ ページ 2-1

1535 (天文4)- 信秀 24歳 信長 2歳
● 三河・岡崎の松平清康、守山で横死(守山崩れ)と伊田合戦の説 ・・・→ ページ 2-3

1538 (天文7) - 信秀 27歳 信長 5歳
● 信秀、那古野城を奪取 ・・・→ ページ 2-4
●この年、信秀、万松寺の創建に着手 ・・・→ ページ 2-6

1540 (天文9) - 信秀 29歳 信長 7歳
● 6月、信秀、安祥城を攻略 ・・・→ ページ 2-5
● この年、信秀、伊勢神宮へ寄進、万松寺を竣工 ・・・→ ページ 2-6

1543 (天文12) - 信秀 32歳 信長 10歳
● この年、信秀、皇居修理の進上 ・・・→ ページ 2-6

1544 (天文13) - 信秀 33歳 信長 11歳
● 信秀、8月から美濃攻めを開始、9月、稲葉山城下で5千人討死 ・・・→ ページ 2-7
● 11月、連歌師宗牧を那古野城で迎える。この時信長は元服済み ・・・→ ページ 2-8

1545 (天文14) - 信秀 34歳 信長 12歳
● 9月、信秀は安祥で松平広忠を撃退 、10月、今川は北条と和睦 ・・・→ ページ 2-9

1546 (天文15) - 信秀 35歳 信長 13歳
● このころ、信秀は古渡城に移り、那古野城を信長に譲る ・・・→ ページ 2-8
● 10月、今川が今橋城を攻略、三河攻めを開始 ・・・→ ページ 2-9

1547 (天文16) - 信秀 36歳 信長 14歳
● 8月、岡崎・松平広忠の嫡子竹千代を熱田に置く。9月22日以前に広忠が信秀に降参した可能性 ・・・→ ページ 2-9
● この年、信長の初陣、吉良大浜へ ・・・→ ページ 2-8

1548 (天文17) - 信秀 37歳 信長 15歳
● 3月、信秀、三河で今川軍との小豆坂の戦い ・・・→ ページ 2-9
● 8月、信秀、美濃・揖斐川方面で攻勢、11月上旬には茜部まで進出11月20日、
清須衆が離反、古渡城付近で放火
12月、信秀、大柿を失い、美濃から撤退 ・・・→ ページ 2-10

1549 (天文18) - 信秀 38歳 信長 16歳
● 2月24日、信長の婚姻、濃姫輿入れ ・・・→ ページ 2-11
● 3~4月、信秀に健康問題が発生し隠居、末盛城に移る ・・・→ ページ 2-12
● 3月6日、岡崎・松平広忠が病死、今川が岡崎を接収9月より今川の三河攻勢 、
11月9日、安祥城の織田信広が投降し竹千代と人質交換 ・・・→ ページ 2-13
● 11月、熱田8ヶ村あて制札、信長最初の発給文書 ・・・→ ページ 2-15

1550 (天文19) - 信秀 39歳 信長 17歳
● 1月19日、犬山勢・楽田勢の謀反 ・・・→ ページ 2-14
● 8月、今川義元が5万騎で尾張・三河の国境地域に出陣、12月に帰陣 ・・・→ ページ 2-13
● 11月朔日付判物、信秀が発給した最後の文書 ・・・→ ページ 2-15

1551 (天文20) - 信秀 40歳 信長 18歳
● 6月、将軍足利義藤から今川との和睦勧告あり、今川と停戦 ・・・→ ページ 2-13
● 9月、熱田座主へ、信長の弟・信勝の証文 ・・・→ ページ 2-15

1552 (天文21) - 信秀 41歳 信長 19歳
● 3月3日、信秀死去
葬儀で信長の抹香投げつけ事件、信秀家督は信長と信勝が分割相続・・・→ ページ 2-15

 

 

年表にしてみると、織田信秀という人は、永正年間に生まれ、大永年間に成長し、天文年間に活躍し亡くなった人である、と分かります。

上記の年表中で、事件の発生年がご自身の記憶と相違していて、おや、と思われた方があるかもしれません。例えば、小豆坂の戦いは天文17年となっているが、天文11年ではなかったのか、というように。その場合は、ぜひその事項のページをご覧ください。小豆坂の戦いの時期をなぜ天文17年とみているのか、主要な研究書の見解も説明しております。もちろん、本歴史館の見方が必ず正しいとは考えておりません。間違いがあればぜひご指摘ください。

 

第2室の各ページの内容

第2室の各ページは、下の内容となっています。それぞれのページタイトルをクリックいただけば、そのページに移ります。

2-1 勝幡城の信秀
● 織田信秀の家系(弾正忠家)
● 勝幡時代の信秀
● 信長は勝幡城生まれ
● 信秀の勝幡城・織田藤左衛門の小田井城

2-2 弾正忠家の津島支配
● 弾正忠家が津島を支配
● 三宅川が結んでいた長福寺~勝幡城~津島
● 当時の津島は地域の物流中心地として繁栄

2-3 三河の状況と守山崩れ・伊田合戦
● 西三河での松平家の勃興と一族内の対立
● 1535(天文4)年守山崩れと伊田合戦
● 守山崩れ~伊田合戦の地図

2-4 那古野城の奪取
● 今川領だった那古野の地
● 1538(天文7)年、信秀が那古野城を奪取
● 勝幡・清須・那古野の位置関係
● 信秀・信長時代の那古野城と江戸期以降の名古屋城

2-5 三河攻め・安祥城の攻略
● 守山崩れ後の三河の状況
● 1540(天文9)年、信秀の安祥城奪取
● 那古野と安祥の地理関係
● 尾張国内での信秀の地位向上

2-6 万松寺創建、伊勢神宮・皇居進上
● 万松寺の創建
● 1540(天文9)年、伊勢神宮への寄進
● 1543(天文12)年、皇居修理の進上

2-7 美濃攻め 大柿城奪取と5千人討死
● 美濃の状況 - 土岐氏の同族争い
● 土岐頼充から尾張守護代への支援要請で、信秀の美濃攻め
● 信秀の美濃攻めの実際 - 大柿城奪取と5千人討死
● 信秀の美濃攻めの地理的条件

2-8 古渡城の信秀と信長の元服・初陣
● 信秀の古渡城築城
● 信長の元服
● 信長の初陣

2-9 三河攻め 竹千代奪取と小豆坂
● 織田信秀による安祥城奪取後の三河の状況
● 1546(天文15)年秋、三河情勢の大転換 - 今川が三河攻めを開始
● 信秀は、岡崎を「からからの命」で、人質に松平竹千代(徳川家康)
● 1548(天文17)年、信秀対今川の「小豆坂の戦い」

2-10 美濃攻め 西美濃攻め後の大柿落城
● 1548(天文17)年8~11月、信秀は美濃で攻勢
● 1548(天文17)年11月、尾張国内で清須衆が離反
● 1548(天文17)年12月、美濃は急変、大柿落城・美濃撤退
● 1548(天文17)年の美濃攻め地図

2-11 道三との和睦 信長の結婚・濃姫
● 信秀の対斎藤道三戦略の大転換 - 婚姻による和睦
● 濃姫との結婚直後は、信長の「大うつけ」時代
● 信長の正室・濃姫

2-12 末盛城の信秀と健康問題
● 信秀の末盛城築城
● 1549(天文18)年、信秀に健康問題が発生

2-13 今川の攻勢・三河の喪失
● 1549(天文18)年3月、松平広忠の死で岡崎を今川が接収
● 1549(天文18)年秋、今川の本格攻勢・安祥の喪失
● 1550(天文19)年、今川の尾張国境地帯への進出
● 1549(天文18)~1550(天文19)年、今川の三河・尾張攻めの地図
● 1551(天文20)年、今川との和睦

2-14 犬山勢・楽田勢の謀反
● 1550(天文19)年1月、犬山・楽田勢の謀反
● 犬山謀反事件のときの犬山城主は誰であったのか?
● 謀反事件の原因と対策
● 天正19年の犬山・楽田勢の謀反に関する地図

2-15 信秀の死と後継問題
● 隠居した信秀の、信長・信勝への権限移譲
● 信秀の死
● 信長と弟・信勝との分割相続
● 信秀の墓 - 万松寺と桃厳寺

 

 

ご興味のあるページに直接飛んでいただけますが、もしも宜しければ、次ページの「2-1 勝幡城の信秀」から順番に読んでいってください。