このページは、一般には戦国群雄論や合戦物語という視点から見られることが多い戦国史について、「自力の村」という独自の観点から中世・戦国社会像を明らかにされた、藤木久志氏の著作についてです。
● このページの内容
中世を「自力社会」と捉え、「自力の村」の観点から見た藤木久志氏の著作
どうしても戦国群雄論や合戦物語という視点から見られることが多いのが戦国史です。織田信秀と尾張時代の信長に焦点を当てている本歴史館も、その例外ではありません。しかし、藤木久志氏は、戦国大名に焦点を当てるのではなく、戦国時代の村に焦点を当てました。戦国時代を含む中世は、領主だけでなく村も武装権・築城権を持った社会であることを指摘、「自力の村」という観点から、中世・戦国社会像を明らかにされました。
戦国時代には、たとえば農民出身の日吉丸が太閤・豊臣秀吉になったことに代表される実力主義の側面や、仕えている主君に大きな不満があれば家臣が主君を乗り換えてしまう一種の合理性など、忠義絶対の江戸時代とはかなり異なる、現代人のものの見方とある程度類似の側面が存在していて、それが戦国時代ファンの多さの理由の一つであろうと思われます。
一方で、戦国時代は、新田開発で地道に生産拡大するより、合戦して他人の所領を奪い取ることを優先する社会でした。戦国大名はいわば大強盗集団の首領であり、日本全国そこら中で凶悪な集団犯罪行為が横行した時代であったことも間違いありません。
そうした戦国時代、合戦の実体はどうであったのか、一方、戦国の村はどのように営まれ、合戦や飢饉の中でどう生き延びていたのか、そうしたことを教えてくれるのが藤木氏の著作です。戦国武将論や軍記合戦物語、歴史小説などではめったに書かれることのない、「自力社会」「自力の村」の実情を知ることで、はじめて戦国時代の全体像がより適切に理解できるように思います。
藤木氏の著作は戦国時代理解のための必読書の一つであると思われますが、同氏には多数の著作があります。以下は、本歴史館の中で引用等を行った、あるいは引用は行っていないものの、戦国時代を知る上で非常に役に立った、藤木氏の著作の内容紹介です。藤木氏の著作は多数ありますが、ここでは、とくに基本的なものだけ挙げたいと思います。
以下は、初刊の出版年順です。
藤木久志 『戦国の作法 - 村の紛争解決』 平凡社 1987、再刊 講談社学術文庫 2008
中世の村の、「村の内外にわたる主体的な紛争解決の能力や、自力の場での暴力の反復を断ち切るための様々な習俗」(本書「はしがき」) が、本書での論考の対象です。
以下の構成・内容です。
I. 村の武力と自検断
● 中世後期の惣村の自前の武力、若衆中核の自立した自検断・武装の体制
● 盗人・放火・殺人への村の検断、落書(投票)、勧賞(懸賞)・褒美付き公開捜査
● 犯人の成敗に関わる習俗
II. 挑戦・身代り・降参の作法
● 言葉戦い・悪口は挑戦の作法
● ごく普通の紛争解決手段だった人質取りとその作法
● 身代りに誰かを罪人として出す解死人(げしにん)の慣行とその作法。
● 謝罪や降伏の許しを乞う作法
III. 庄屋・政所・在地領主
● 戦国末、庄屋は庄の地元を代表、年貢の実務を領主は庄屋に任せ切り
● 荘園政所の運営は、名主・百姓が不可欠の要素
● 在地領主には勧農の義務
本書ではまだ「自立の村」という言葉は使われていないようですが、著者の「自立の村」論に関する一般読者向けの最初の1冊です。「自立の村」の実体が、村の犯罪捜査(自検断)や紛争解決(質取り・解死人など)に関して、また荘園の運営で庄屋・政所が果たした機能や、在地領主の年中行事での百姓との関わりについて、多数の史料を引用しながら論考されています。本書を読むと、中世から戦国時代にかけての村のイメージが、少し変わってくるのではないかと思います。
本歴史館では、「第3室 織田信長 3-7 稲生合戦と側室」のページで、本書から引用等を行っています。
藤木久志 『新版 雑兵たちの戦場 – 中世の傭兵と奴隷狩り』 朝日新聞社 2005
(初刊 1995)
戦国大名間の勢力争いによる戦国合戦は、雑兵たちにとっては「食うための戦争」「生きるための戦争」であり、戦争の現場は乱暴狼藉の世界であったことを、著者は史料により明らかにしています。
本書の構成・内容は以下のようになっています。内容は、とくに重要なポイントを、短い文章で要約してみました。
I. 濫妨狼藉の世界
● 戦場では、乱取り (人の掠奪・物取り)、牛馬の略奪や田畠の作荒らし。
● 恩賞のない雑兵たちを利用するには乱取りを認めざるを得なかった。
● 武田信玄領は、略奪した人・物を持ち帰るので、民百姓までみな豊か。
● 3~5月には「麦薙ぎ」、7~9月には「稲薙ぎ」、冬は収穫後の穀物の掠奪。
● 秀吉は九州平定や小田原攻めの際に、人身売買停止令。
● 朝鮮侵攻での人の掠奪連行は、日本国内の戦場での人取り習俗の持ち出し。
● 大坂夏の陣でも、徳川軍の兵士たちの人の掠奪の記録。
II. 戦場の雑兵たち
● 上杉謙信の関東出兵の2パターン、晩秋から年末の短期年内型と、晩秋から春に帰る長期越冬型、関東で食いつなぎ乱取りの稼ぎを手に国に帰る。
● 戦国大名の戦争、必要な傭兵を大勢集めるには農閑期に戦うほかなし。
III. 戦場の村 ― 村の城
● 戦争が避けられないと見るや、村々は領主の城や自前の避難所に籠もった。
● 勢力の境目の村では、半手・半納の習俗、どっちつかずの両属。
● 戦火を免れるには、大金を払って制札を手に入れる。
IV. 戦場から都市へ ― 雑兵たちの行方
● 戦国の終わり、各地の築城・町造り・鉱山開発が、戦場稼ぎの人たちを吸収。
各事項について、多数の史料が引用され、論考されています。本書を読むと、戦国時代の合戦への見方が変わります。物どころか人の略奪連行すら横行していたという事実は、ショッキングでもあります。本書は、戦国期の合戦の実体を知るために、読む価値が非常に高い一書である、と思います。
以下は蛇足ですが、本書を読んだおかげで、織田信秀・信長の合戦の時期を、改めて確認する気になりました。信秀の場合、合戦の時期は8月以降、が通常のパターンでした。天文13 (1544) 年の美濃攻め、天文14 (1545) 年の安祥での松平広忠撃退、天文16 (1547) 年の松平広忠の嫡子竹千代の人質取り、天文17 (1548) 年の美濃攻め、すべて8月に開始されています。天文9 (1540) 年の安祥城の攻略は6月、天文17 (1548) 年の今川軍との小豆坂の戦いは3月で、この2件は例外でした。
城主を置いて所領化した安祥はともかく、尾張連合軍として出陣した美濃攻めの場合は、憑み勢の合戦参加者にもメリットと満足が得られるよう、食物などの掠奪・稲薙ぎを大きな目的としていたのかもしれません。そうであれば、美濃の斎藤道三は、信秀が指揮する尾張軍による掠奪を大変な迷惑に感じていたために、尾張軍を美濃から追い出した後も、二度と掠奪されないように、濃姫と信長の婚姻による和睦に同意したのかもしれません。
同時期の今川方でも同様で、天文15年 (1546) の三河攻め開始、翌年の田原城攻略、天文18年 (1549) の三河攻勢、翌年の尾三国境地域への出陣など、すべて8~10月に行っていて、やはり出陣の季節がパターン化していたと言えそうです。
その点、尾張時代の信長が仕掛けた合戦の時期は、赤塚合戦が4月、村木砦の戦いは1月、稲生の戦いは8月、浮野の合戦は7月、高橋郡攻めは4月、西美濃侵攻は5月、小口城攻めは6月、犬山城攻めは2月…、などと、パターンがありません。尾張国内の合戦が多かったためなのか、兵農分離が進んでいたためなのか、何故だったのでしょうか。
藤木久志 『戦国の村を行く』 朝日新聞社 1997
前著『雑兵たちの戦場』は、合戦の現場についての論考でした。本書は、視点を変えて、村から領主を見る「自力の村」論に焦点を当てた本です。内容の一部は、上掲の2書、『戦国の作法』 『雑兵たちの戦場』 と重なっていますが、それぞれ、論考をさらに深められています。
本書は、以下の構成となっています。
I. 村の戦争
- 1 戦場の荘園の日々・2 村人たちの戦場・3 戦場の商人たち
II. 村の平和
- 4 荘園の四季・5 村から見た領主・6 村の入札
III. 中世都市鎌倉
- 7 鎌倉の祇園会と町衆
「I 村の戦争」では、前著 『戦国の村を行く』 の「III 戦場の村」で取り上げられた村の城・村の自衛に関する論考がさらに発展されているのに加え、戦場での兵粮支給システムの実体と、それを支えた戦場の商人が論考されています。「II 村の平和」では、上掲 『戦国の作法』 での「村の主体的能力」に関する論考が、さらに発展されています。
したがって、本書は、先に 『戦国の作法』 および 『雑兵たちの戦場』 を読んでからお読みになることお勧めします。
本歴史館では、「第3室 織田信長 3-14 森部・十四条合戦 - 美濃攻めの開始」のページで、本書から引用等を行っています。
藤木久志 『飢餓と戦争の戦国を行く』 朝日新聞社 2001
本書は、上掲の3著とは少し視点が異なり、「飢饉」がテーマとなっています。保元・平治の乱から関ケ原合戦までの450年間、前半(鎌倉・室町時代)には3~5年に1回、後半(戦国時代)には2年に1回の割で、飢饉と疫病が起きていた、とのことです。
本書は、以下の構成となっています。
一 中世の生命維持の習俗
- 1 飢饉奴隷の習俗、2 飢饉出挙の習俗、3 自然享有の習俗、4 田麦の習俗
→ 飢饉の年だけは超法規的に餓えた人を奴隷にすることが認められていたこと、飢饉時は貸し渋り禁止、私領の山野河海の開放が当然であったこと、二毛作の裏作の麦作はもともと課税対象外だったことが明らかにされています。
二 応仁の乱の底流に生きる
- 1 首都を目指す飢饉難民、2 首都に迫る徳政一揆、3 首都を襲う足軽
→ 応仁の乱以前には、飢饉 → 周辺から京への飢餓難民 → 徳政一揆という流れだったのが、応仁の乱では、土一揆が足軽に吸収されたこと、応仁の乱時の東西軍は、兵に賃金や兵粮を支給する代わりに市中での乱入・略奪を公認していたこと、土一揆や足軽は飢餓の世をい生き抜くための中世社会の生命維持装置であったことが明らかにされています。
三 戦場の村
- 1 飢饉の戦場、2 村の制札・村の避難所、3 武装する村・一揆する村
- 4 凶作と戦禍を生き抜く
→ 上掲の前3著での論考と重なりつつ、「自力の村」論が更に究められています。
四 村の武力と傭兵
- 1 ある村の乱世、2 村の禁制と手柄、3 武装する被差別民、4 近世の村の武力像
→ ここでも、上掲の前3著での論考と重なりつつ、「自力の村」論が更に究められています。
五 九州戦場の戦争と平和
- 1 九州の平和から日本の平和へ、2 奴隷狩り・疫病・飢饉
- 3 武装し自衛する戦場の村、4 大名滅亡の惨禍
→ とくに奴隷狩りがひどかった薩摩・島津軍による豊後・大友攻めの実体や、朝鮮出兵時のの大友滅亡時の豊後国内状況などが論考されています。
六 中世の女性たちの戦場
- 1 中世戦場の女性論によせて、2 戦場の女性の奴隷狩り
- 3 戦場の城に籠もる女性たち、4 奪われた女性たちの行方
→ 戦闘に参加した女性、戦場での女性の略奪、城に籠り男たちの戦いを支援した女性、奴隷狩りにあって売られた女性の行方、などが論考されています。
上掲3著とは異なる視点となっています。なお、本書の末尾には、1150年から1600年までの450年間の「日本中世の旱魃・長雨・飢饉・疫病年表」が付されています。『雑兵たちの戦場』 に付されている「戦国期の災害年表」よりも更に詳細な年表となっています。この450年間の出来事を確認する際に、飢饉の影響があった可能性があるかをチェックするのに役立ちます。本書も、やはり価値ある1冊だと思います。
本歴史館では、以下のページで、本書から引用等を行っています。
● 第2室 織田信秀 2-7 美濃攻め・大柿城奪取と5千人討死
藤木久志氏のその他の著作
藤木氏の著作は、上記4冊以外にも多数ありますが、基本的な論点はこの4著に現れているように思われます。
例えば、同氏の「刀狩り」論の骨子、すなわち、中世では村人も刀は当たり前で成人した男子の名誉の標識であったこと、秀吉の刀狩令は刀だけが焦点で、槍はほぼ、弓矢・鉄炮は全面的に対象外で、刀もごく形式的であったこと、徳川幕府はもっと緩やかだったこと、などは、『戦国の村を行く』 にすでに出ていて、『刀狩り ー 武器を封印した民衆』(岩波新書 2005)についていえば、この「刀狩り」論だけに焦点をあてて詳述している本、と言えるように思います。
あるいは、『土一揆と城の戦国を行く』(朝日新聞社 2006) では、『戦国の村を行く』 および 『飢餓と戦争の戦国を行く』 の2書に現れている論点が再論・発展されています。
その意味で、藤木氏の著作については、まずは上掲の4冊をお読みいただき、さらに興味を感じられたら他の著作で詳論を読む、という読み方が良いように思われます。
次は、日本の戦国時代当時の軍事状況と、同時代のヨーロッパのそれとの比較についてです。比べてみると、日本とヨーロッパで、傾向についてはかなり一致しているものの、詳細につてはいろいろな相違があることが分かりました。