本歴史館の全体構成
このページは、本で言えば「目次」にあたります。
本歴史館は、以下の4室構成になっています。それぞれのタイトルをクリックいただくと、そのページに飛びます。
各ページの内容は、第1室~第4室のトップページに、より詳しく紹介しています。
● このページの内容 と ◎ このページの地図
第1室 戦国尾張
ここでは、織田信秀・信長父子が活躍した当時の戦国時代の尾張国について、基本知識を確認します。基本知識がないと、なぜそのように動いたのか、信秀や信長の行動を十分には理解できない場合があるためです。
当時は、江戸時代以降の広い干拓地はまだ存在せず海の中でした。当時、どこまでが海、どこからが陸であったのかについて確認します。
当時の尾張国と美濃国との国境は、現在の愛知県と岐阜県との県境と、実は少し異なっていました。間を流れる木曽川が、流路(河道)を変化してきたためです。木曽川がどこを流れていたのかを確認します。
信長の時代になるまで、尾張国のトップは守護であり、下に2家の守護代がいました。当時の尾張国の政治体制、また下津の守護所と清須城の位置も確認します。清須城も、現在の模擬天守とは少し異なる場所にありました。
『信長公記』 の「尾張8郡、上4郡と下4郡」は、実は正確ではなく、信秀の時代までは尾張は9郡、また、尾張国内でも守護・斯波氏の管轄外の地がありました。尾張国内の支配体制を確認します。
第2室 織田信秀
信長の父・信秀は、元は一地域の領主、下剋上はせず「守護の家臣の家臣」のままで、那古野城を取り、三河を攻め美濃に討ち入って、一代で尾張一の実力戦国武将となり、それが、子の信長の尾張統一、美濃進出、その後の天下取りの基盤となりました。
信長の父である織田信秀の家系、信秀の最初の居城であり信長の出生地でもあった勝幡城と、勝幡城時代の織田信秀について確認します。信秀の伯父である織田藤左衛門の居城・小田井城についても確認します。
織田信秀の家系である織田弾正忠家による津島支配の経緯、信秀の居城・勝幡城と津島の地理関係、当時の津島の繁栄の状況などを確認します。津島は、信秀の父・信貞が所領化、信秀・信長の時代は津島の繁栄のピーク期でした。
『三河物語』 は、若き織田信秀が、突然、尾張国外の三河・岡崎まで侵攻した、と記述しています。当時に至るまでの三河の状況を確認した上で、『三河物語』 の言う守山崩れ・伊田合戦は事実であったのかを確認します。
信秀は、今川那古野氏の居城・那古野城を奪取します。ここでは、なぜ那古野は今川氏の所領であったのか、信秀は那古野城をいつどのようにして奪取したのか、信秀・信長時代の那古野城と江戸期以降の名古屋城との関係、などについて確認します。
那古野城に移って2年後、信秀は三河に攻め込み安祥(安城)城を奪取します。ここでは、当時の三河はどのような情勢であったのか、信秀はどのようにして安祥城を攻略したかを確認します。
那古野城時代、信秀は、自らの菩提寺として万松寺を創建したのをはじめ、伊勢神宮への寄進、朝廷への進上などの莫大な出費も行ったようです。とりわけ、伊勢神宮への寄進と朝廷への進上は、織田信秀の名を京にも広めるのに役だったようです。
安祥城奪取から2年後、信秀は、美濃攻めにも乗り出し、大柿城を取るという成果を上げる一方、斎藤道三から5千人が討ち死にするという手痛い反撃を喰らいます。信秀の美濃攻め開始の経緯や、美濃攻め1年目の経過を確認します。
西三河と美濃、2つの戦線を持つようになった信秀は、新たに古渡城を築城して那古野城から移り、那古野城は信長に譲ります。信秀による古渡築城と、那古野城を譲られるまでに成長した信長の元服・初陣について確認します。
信秀は、美濃では5千人討死の大敗も喫しましたが、三河では安祥城を確保し続けていました。古渡時代の信秀は、岡崎の松平広忠を追い込んで、竹千代を人質に差し出させたようです。しかし、三河に今川勢が出てきて小豆坂の合戦となります。
三河での小豆坂の戦いの年、美濃戦線でも大きな変化が生じます。一度は斎藤道三を撃退したものの、尾張国内では清須衆が離反、美濃では最終的に大柿を斎藤道三に奪い返されて、同年末までに美濃から撤退します。
尾張国内では清須勢が離反、斎藤道三に敗れて美濃から撤退した状況で、信秀は、道三と和睦して尾張国内も安定させます。和睦の証である信長の濃姫との婚姻と、当時の信長および濃姫について、確認したいと思います。
斎藤道三との和睦の翌年、信秀の人生はさらに暗転します。健康問題も生じて隠居せざるを得なくなり、末盛城を築いて古渡城から移ります。ここでは、信秀による末盛城築城と、健康問題について確認します。
信秀の健康問題の発生とほぼ同時期に、三河では岡崎の松平広忠が亡くなり、今川が岡崎城を接収します。これをきっかけに三河情勢は急展開、信秀は安祥を含め三河を喪失、翌年以降はさらに尾張国境地帯も侵食されます。
今川勢による三河攻勢で安祥城を失って間もなく、今度は尾張国内で犬山勢・楽田勢の謀反が発生します。犬山勢・楽田勢とはどんな勢力であったのか、謀反の理由は何であったのか、どのような対応が行われたのか、を確認します。
信秀は、今川方の攻勢に有効な手を打てずに講和、健康も回復せず、1552(天文21)年3月に死を迎えます。晩年の権限委譲の状況、信秀の葬儀、信長と弟・信勝との分割相続、万松寺と桃巌寺の2箇所の信秀の墓、などについて確認します。
第3室 織田信長
第3室 織田信長 トップページ (尾張時代の織田信長 年表)
この第3室では、織田信長について、父・信秀の死から尾張を統一するまでの約15年間を見ていきます。嫡子ではあったものの弟・信勝と分割相続で織田家内の反目、清須勢や岩倉方との対立、今川からの脅威など、大変な状況からの出発でした。
3-1 今川の八事出陣
父・信秀の死から1年ちょっとの間に、どういう事件がどういう順番でいつ起こったのか、そしてその最初に起こった、道三から信長を気遣った書状と、今川の八事出陣について確認します。
3-2 政秀の諌死・道三との会見・赤塚合戦
信秀の死の翌年に起こった事件である、守り役・平手政秀の諌死、舅・斎藤道三との会見、今川方との赤塚の合戦について、詳細を確認していきたいと思います。
3-3 清須クーデター~清須城乗っ取り
父・信秀が亡くなってから2年少々の間に、尾張国内では清須衆関係の事件が多発します。深田・松葉両城の争奪戦や清須衆による守護へのクーデターなど、清須衆関係の事件を整理し、清須城を乗っ取って信長が清須城に移った経緯を確認します。
3-4 村木砦の戦いと西尾(八ッ表)出陣
清須衆関係の諸事件に前後して、三河方面では、今川方との村木砦の戦いが起こり、その翌年には、信長が西尾まで出陣しています。村木砦の戦いから西尾出陣までの三河情勢の展開について確認します。
3-5 信勝との反目と喜六郎横死事件
村木砦の戦い後、尾張国内では、信長と弟・信勝との反目が激しくなります。信勝との反目状況、その過程で発生した喜六郎横死事件の詳細、信勝との争いの対象となった守山城、などについて確認します。
3-6 舅・道三の死(長良川合戦)
同時期に美濃では信長の舅・斎藤道三と嫡子・義龍との対立が発生、ついには道三と義龍との長良川合戦に発展します。道三支援のため信長も美濃まで出陣しましたが、道三が討ち死にして兵を引きます。当時の長良川の河道も確認します。
3-7 稲生合戦と側室
舅・斎藤道三の死で尾張国内の反信長派が一気に活発化、家臣も離反し、信長の勢力圏が急縮小します。しかし信長は、4ヶ月後には稲生合戦で信勝派を破り、信勝に対する優位性を確立します。また、道三の死で、信長は側室を持ちます。
3-8 岩倉落城・守護追放・信勝殺害
稲生合戦の翌年は比較的平穏でしたが、翌々年は再び大激動の年となります。岩倉勢には浮野合戦を経て岩倉を落城させ、守護も追放し、弟・信勝も殺害して、尾張の第一人者となります。稲生合戦後の2年間の動きを確認します。
3-9 信長の上洛と桶狭間合戦前の状況
尾張の第一人者となった翌年早々、信長は上洛します。第一人者とはいえ、信長勢力圏は、尾張の国の半分をちょっと超えた程度でした。その信長の上洛の詳細と、桶狭間合戦前の尾張の状況を確認します。
3-10 桶狭間合戦 1 合戦の準備
信長上洛の翌1560(永禄3)年、駿河の今川義元が自ら尾張に攻め込んできて、桶狭間の合戦となります。まず、桶狭間合戦の原因、両軍の準備状況などについて確認していきます。
3-11 桶狭間合戦 2 合戦の経過
桶狭間合戦前夜の信長の様子、当日早朝の信長の出陣~善照寺砦への到着~合戦の開始~義元を打ち取るまでの経過の詳細について、確認をしていきます。
3-12 桶狭間合戦 3 今川義元の敗因
桶狭間合戦の総括として、義元の敗因および今川軍の撤退状況などを確認したいと思います。義元の敗因としているのは、この合戦の勝敗の最大の決定要因が、義元側の不手際にあったと思われるからです。
3-13 家康との清須同盟
桶狭間合戦での今川義元の討死により、松平元康の岡崎への帰還と今川からの自立、信長との清須同盟、元康の家康への改名などの展開が起こります。尾張と西三河での変化の状況を確認したいと思います。
3-14 森部・十四条合戦 - 美濃攻めの開始
家康との清須同盟の成立から間もなく、美濃の斎藤義龍が亡くなると、信長は、直ち美濃攻めに踏み出します。その森部・十四条の戦いの詳細に加え、木下藤吉郎による墨俣一夜城説が、史実ではなく創作であることも確認します。
3-15 小牧山城への移転
美濃攻めからはすぐに撤退、信長は、尾張北部の反信長派対策を優先する方針に切り替えます。信長による小牧山城の築城と清須からの移転、小牧山城とその城下町、小口城・黒田城の犬山からの切り離しについて、確認します。
3-16 犬山落城と中美濃進出
小牧山城築城で、尾張北部に残る反信長勢力は犬山城だけになりました。犬山落城は永禄8年に入ってから、そして、引き続いて中美濃攻略が行われます。その前年、美濃では竹中半兵衛らによる稲葉山城占拠事件が起こっています。
3-17 長島・北伊勢攻めと岐阜入り
犬山落城と中美濃進出に成功した翌年、信長は長島・北伊勢にも侵攻する一方、ついに美濃・稲葉山城を攻略し岐阜入りを果たします。岐阜入りまでの詳細を確認します。
第4室 資料室
第4室 資料室 トップページ
本歴史館の第1室~第3室では、多くの資料・図書から引用・要約を行っています。引用等は行っていなくても、内容を参考にした資料・図書も少なくありません。参照した研究書や資料について、それぞれどういう内容のものか、ご紹介します。
4-1 『信長公記』 とその研究書
織田信秀・織田信長に関する同時代史料として、必ず真っ先に挙げられるのが、太田牛一『信長公記』です。『信長公記』そのものに加え、概要紹介書、研究書について、内容を紹介致します。
4-2 『三河物語』・『松平記』 など江戸初期史料
同時代史料でも、軍記ものの類であれば、研究者でなくてもある程度理解できます。軍記ものの中で、江戸時代の初期までに成立していて史料性のあるものや、当時の紀行文などについて、内容を紹介いたします。
4-3 横山住雄氏の著作
本歴史館の主題である織田信秀と尾張時代の織田信長に関する研究の第一人者と言えば、横山住雄氏であろうと思います。本歴史館でも、同氏の著作を大いに参考にさせていただいています。横山住雄氏の著作についてです。
4-4 村岡幹生氏の著作
信秀と信長の尾張時代でも、三河について、松平氏あるいは今川氏との関係からの研究となると、村岡幹生氏ということになろうと思います。村岡幹生氏の著作についてです。
4-5 小和田哲夫氏の著作
戦国時代研究の大家として大変に高名な小和田哲男氏の著作は、本歴史館でも大いに参考にさせていただきました。本歴史館で参考にした小和田氏の著作についてです。
4-6 自治体史 (県史・市史・町史)
特定地域の歴史に焦点を当てる場合、その地域の自治体史(県史・市史・町史など)は、歴史情報の宝庫です。一般的な歴史書には出てこない情報もしばしば含まれています。本歴史館が参照した県史・市史・町史についてです。
4-7 織田氏に関する資料・研究書
織田氏と信秀・信長に関する資料・研究書で、『信長公記』などの同時代史料、横山住雄氏・村岡幹生氏・小和田哲夫氏の著作、県史・市史・町史などの自治体史以外で本歴史館が参考にしたものをご紹介します。
4-8 当時の城に関する資料・研究書
織田信秀・信長を知ろうとすれば、信秀・信長が居城とした城、味方や家臣の城、攻撃対象にした城など、当時の城に関する情報は欠かせません。信秀・信長と関わりのあった城についての資料・研究書で、本歴史館が参考にしたものをご紹介します。
4-9 桶狭間合戦に関する資料・研究書
桶狭間合戦については、おびただしい数の書籍が出版されていますが、事実も伝説もごちゃ混ぜのものが大多数です。ここでは、その中で、歴史的な事実を提供しているか、伝説に基盤を置いてはいても合戦の分析法が参考になるものについてです。
4-10 当時の河道に関する資料・研究書
河川は流れが変わります。木曽川を始め、長良川、揖斐川、庄内川・矢田川など、織田信秀・信長父子に関わりがあった河川の当時の河道について、本歴史館が参考にした資料・研究書を整理しています。
4-11 地理に関するその他の資料・研究書
県史・市史・町史などの自治体史や、城や木曽川の河道といった個別テーマに関するもの以外の、織田信秀・信長に関わる地理関連資料について、本歴史館で参照したものを、紹介します。
4-12 戦国軍事に関する資料・研究書
戦国合戦を正しく理解しようとすると、武器や武具、軍の組織や戦法など、当時の軍事の詳細についての知識がある程度必要になります。当時の武器や具足・その他軍事関係の諸々に関して、本歴史館がとくに参考にしたものを、ご紹介します。
4-13 藤木久志氏の著作
このページは、一般には戦国群雄論や合戦物語という視点から見られることが多い戦国史について、「自力の村」という独自の観点から中世・戦国社会像を明らかにされた、藤木久志氏の多くの著作の中で、基本的なものについてです。
4-14 戦国当時の日欧の軍事比較
戦国時代の日本と、同時代・16世紀のヨーロッパとを比較して、合戦の仕方その他や、軍事の状況などに大きな相違があったのか否かを、確認してみたいと思います。傾向としては共通点が多いものの、意外な相違点があったことが分かりました。
4-15 創作物・偽書とその批判
実際には史料もどきの歴史小説であったり偽書であったりしているのに、史料として扱われることもある著作と、それらが史料ではないことを指摘している研究書についてです。
もしも宜しければ、第1室から順にご覧ください。