織田信秀の那古野城時代、ここまで、安祥城の攻略や、伊勢神宮や皇居への寄進などについて確認してきました。三河では安祥城を取って大成功の信秀でした。安祥城奪取から2年後、信秀は、三河とは方向が正反対の美濃攻めに乗り出し、大柿城を取るという成果を上げる一方、斎藤道三から5千人が討ち死にするという手痛い反撃を喰らいます。
このページでは、信秀の美濃攻め開始の経緯や、美濃攻め1年目の経過について確認していきますが、まずは当時の美濃の状況から。
● このページの内容 と ◎ このページの地図
美濃の状況 - 土岐氏の同族争い
1536(天文5年)まで15年間の同族争い - 土岐頼武・頼充父子 対 土岐頼芸
この当時、尾張・三河・美濃3国の国内は3者3様、それぞれ異なる状況にありました。既に確認してきました通り、尾張では守護・守護代体制が維持されていました。三河は守護・守護代体制が崩れ戦国化、松平一族が急伸した後、一族内部の対立が激化していました。一方、美濃では、守護土岐氏の同族争いが起こっていたようです。
信秀の美濃攻めには、美濃の守護職をめぐる土岐氏中の対立が背景にあったことから、まずは、その状況を確認したいと思います。以下は、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 から、その要点だけを列記します。
● 永正16年(1519)、守護・土岐政房が死去、その前から、嫡子・次郎頼武とその弟・頼芸との間で対立。頼武は、越前・朝倉氏の娘婿。
● 頼武が守護職、しかし永正16‐17年の争乱、朝倉氏が北近江の浅井氏または南近江の六角氏を頼んで援兵。結局、頼武の支配域は美濃北半に限られ、美濃南半は頼芸が押さえていたらしい。頼武は大桑(おおが)に築城。
● 大永3年(1523)、頼武の依頼で尾張守護の斯波氏が援軍を受諾し、守護代の織田達勝が将となって美濃に攻め入った。1ヵ月ほどで沈静化と思われる。
● 大永5年(1525)6~8月、美濃で大乱、劣勢の頼武方が巻き返しを図ったか。近江の六角氏・蒲生氏が頼武支援。頼武は、8月2日ごろに戦死か暗殺された。頼芸が守護に。
● 以後、享禄3年(1530)年に至る5年間は、頼武の嫡子・二郎頼充と、叔父にあたる頼芸との派遣をめぐる小競り合いが続く。
● 天文4年(1535)に再び兵火、翌5年(1536)には、頼充の大桑勢には六角氏と朝倉氏に加え尾張(蜂須賀一族)が援軍、頼芸陣営に斎藤道三。一連の合戦の後、頼充を大桑城主として再承認する形で平和を回復。講和の一つとして、頼芸の娘が六角氏に嫁す。
1519(永正16)年から1536(天文5)年まで15年以上も、美濃は、土岐氏の家督争いが続いて不安定な状況であったこと、それについて、周辺の越前・近江・尾張の勢力も頼武-頼充側で介入していたことが分かります。
親子2代での国盗り過程にあった斎藤道三
上の美濃の動きの中で、斎藤道三の名が出てきます。斎藤道三と言えば、かつての通説では、司馬遼太郎の『国盗り物語』にあるように、油売りとなって美濃に来て一代で美濃の戦国大名に成り上がった人物とされていましたが、今は親子2代で国盗りをした、というのが新しい通説となっています。この点について、以下は、横山住雄 『斎藤道三』 からの要約です。
● 松波庄五郎は、京都の北面の武士の子で妙覚寺で修業後、還俗して油商に出入りするうち、その娘婿となった。
● 妙覚寺修業時代のつてで美濃で商売、美濃は応仁の乱後も将軍家と対立、庄五郎の京情報は守護代斎藤家にも有用。
● 守護代家宰の長井藤左衛門に乱舞音曲堪能を気に入られ、その家老・西村三郎左衛門の名跡を継ぐ形で、西村勘九郎となる。
● 明応(1492~)年間以降、勘九郎は抜群の功績、永正15年(1518)の少し前に長井姓を拝領、長井新左衛門尉に。
● その後、左近将監を経て豊後守を名乗った。天文2年(1533)4月1日没か。
● 天文2年に家督を相続した道三は、親頼芸派の旗頭へと成長していく。
● 道三の史料初見は、天文2年6月。藤原規秀および長井新九郎規秀。父の活躍により斎藤家重臣の地位を引き継いだ。
● 天文4年(1535)斎藤同名衆になって、斎藤新九郎利正。まもなく入道して斎藤新九郎入道道三と自称。
父・長井新左衛門は、寺で修業してそれなりの学問もあったが、商売も上手く乱舞音曲にも堪能というすぐれたビジネスマンであり、武士となってからはそのビジネス交渉術を活用したほか、合戦でも活躍した、相当高い能力を持っていた人物だったと思われます。この父一代で、商人から、美濃の「守護の家臣の家臣」の位置に到達します。その子道三は、父の位置から出発して、すぐに「守護の直属の家臣」の位置に昇進、その後「守護の家臣No.1」から、さらに守護を追放して美濃の国主に成り上がります。
上述の美濃の守護・土岐氏の15年間の同族の争いの期間中に、道三の父・長井新左衛門が長井姓を拝領して一層の活躍を重ね、それを引き継いだ道三も活躍して斎藤同名衆になった、ということになります。
周辺国の美濃への介入
周辺国の介入状況について、地図を眺めてみますと、越前朝倉氏は頼武と姻戚関係があり北の隣国でもあるため支援したいが、国境には山間部が広がり援兵は楽ではない、そこで西から兵を送りやすい近江勢を引き込み、さらには南で長い国境を有する尾張も引き込んだ、ということだったように思われます。
美濃は、1543(天文12)年に 頼充 対 頼芸の抗争再発 - 大桑の大乱
1536(天文5)年にいったん落ち着いた美濃でしたが、7年後に再び大乱が発生します。以下は、小和田哲夫 『東海の戦国史』からの要約です。
● 通説、土岐氏では政房の家督をめぐって嫡男の政頼〔横山上掲書では頼武〕と二男の頼芸の争い、斎藤利政すなわち道三が、頼芸に取りいり、頼芸を守護の座につけることに成功、天文5〔1536〕年7月に正式な美濃守護。頼芸は守護館の川手城に、道三が井口の稲葉山城に。
● 家督争いに敗れた「土岐二郎〔または次郎〕」は大桑(おおが)城に。「土岐二郎」は政頼か、政頼の子のことかはっきりしない。このあと天文12年(1543)に大桑城で激しい戦い(『仁岫語録』)。敗れた「土岐二郎」〔横山上掲書では頼武の子・頼充〕が越前の朝倉義景のもとに。
● 翌13〔1544〕年9月、「土岐二郎」を擁して、越前の朝倉義景と尾張の織田信秀が手を結んで稲葉山城の道三に攻撃。この段階では、道三は頼芸と一体、戦い後、大桑城には頼芸が入ったようである。
斎藤道三が支援した守護の土岐頼芸は川手城に居城した、とされていますが、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 は、井ノ口に頼芸の守護館があったと見ています。ただしこの見方は、道三が天文4年にはすでに稲葉山に城を構えていたらしいこと(「長井玄佐書状」)、および、頼芸の館を稲葉山城から離れた場所に新築したとは考えがたいこと、井口に適地があったと思われることからの推定であり、史料で確証できるものではないようです。
土岐頼充から尾張守護代への支援要請で、織田信秀の美濃攻め
1543(天文12)年末の大桑の大乱で追放された土岐頼充は、越前・尾張に支援要請
1543(天文12)年、美濃で大桑の大乱が発生したことが、信秀の美濃攻めにつながったようです。大乱の当事者・土岐頼充から越前・尾張に支援要請があったためです。以下は、再び横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。
● 史料によれば、土岐頼充の母が天文13年3月、尾張犬山の寺でその父朝倉貞景の法要、さらに史料を探索すると、天文12年、大桑乱、6万人戦死。戦死者数は誇張としても、大乱が天文12年(年末)に大桑で起き、おそらく落城し頼充母子は逃れ去った。
● 公式には、美濃の守護になるべき頼充が、越前守護の朝倉氏と尾張守護の斯波氏に出兵を要請。頼充はこの時点では守護職に就任していないため、ほぼ同格の地位にある尾張守護代の織田大和守達勝に宛てて書状。一方、浅井氏や六角氏は道三・頼芸の支援の約束。
頼充は、越前・尾張の2国に支援要請を行った、そのさい頼充は本来守護たるべき人物であるので、尾張国への支援要請も、守護代の織田達勝宛てに行われた、ということであったようです。つまり、信秀に直接の要請が来たわけではなく、信秀の美濃への出陣は、「守護の家臣の家臣」として、守護・守護代の指示に従ったものであったと推測されます。
また、対抗する頼芸・道三側は、近江の浅井氏・六角氏に支援要請を行っていたわけですから、下手をすると、越前・尾張勢 対 近江勢という、美濃を戦場とする多国間戦争になっていた可能性もあったようです。
翌天文13年生美濃攻めは、三河安祥攻めとは性格が全く異なっていた
土岐頼充からの支援要請の翌年8月、信秀率いる尾張勢は美濃に出兵します。この天文12年の美濃攻めを天文9年の三河安祥攻めと比べてみますと、三河安祥攻めは松平一族の内紛、美濃攻めは土岐氏の内紛、どちらも相手先の内紛状況の中で出兵が行われた、という点で、状況には共通性があります。しかし、その出兵の性格については、両者は全く異なっていたと考えられます。
三河の場合、ひょっとしたら反広忠派からの出兵要請があったのかもしれませんが、出兵判断は信秀自身によるものであり、目的は信秀自身の支配地拡大であった、と考えられます。一方美濃攻めの場合は、明らかに、美濃から尾張守護代への出兵要請に対し、守護の斯波氏まで動いて出兵判断と動員が行われたのであって、信秀自身の判断によるものではなく、目的も直接には土岐頼充支援であったという点で、出兵の性格が大きく異なっていた、と言えそうです。
本ページ冒頭で確認しました通り、大永3年(1523)には、頼武の依頼で尾張守護の斯波氏が援軍を受諾し、そのときは守護代の織田達勝が将となって美濃に攻め入りました。その20年後の今回、頼充の援軍依頼を尾張守護代の達勝が受諾したものの、今回は達勝自ら遠征軍総大将となることはせず、その役割を信秀に指示した、と理解するのが妥当かと思われます。
信秀の美濃攻めの実際 -大柿城奪取と5千人討死
『信長公記』に見る信秀による美濃攻めの3本の記事
こうして開始された信秀の美濃攻めについて、『信長公記』 には下の3件の記事があります。
① 「みのの国へ乱入し5千討死の事(織田信秀美濃へ侵攻)(首巻4)」
〔稲葉山城下で斉藤道三勢に、5千人討死の大敗北を喫したこと〕
② 「景清あざ丸刀の事(平景清所持の名刀あざ丸)(首巻5)」
〔尾張勢は美濃の大柿=大垣を取っていたこと、道三勢の大柿城攻撃時に、名刀あざ丸の持ち主は両目を射つぶされたこと〕
③ 「大柿の城へ後巻の事(織田信秀、大柿城を救援)(首巻6)」
〔道三勢による大柿城攻撃に、茜部放火で対抗し、道三勢を稲葉山に撤退させたこと、その留守中に、清須衆が広渡城下に放火したため信秀が帰陣したこと、清須衆とは翌年和睦したこと〕
ただし、これらがそれぞれ何年のことであったのかは、明確な記述がありません。
横山住雄 『織田信長の系譜』 は、この3つの記事の元になった事実の発生年について、下記のように考察しています。
● 「5千人討死の戦」とは、天文13〔1544〕年9月22日の稲葉山南方での大敗戦を指していることが明確。
● この大敗戦直前の8月頃に美濃へ攻め入った時に大柿(大垣)城を取った。(東雲寺碑文、『新修大垣市史』)
● 〔天文〕17〔1548〕年11月、道三は江州浅井氏の援助により、織田信辰を攻めて大柿城を回復した(『新修大垣市史』)。
● 天文16〔1547〕年11月にも道三が大柿に攻め寄せたとして、『美濃諸旧記』 の逸話〔=名刀あざ丸〕(旧 『大垣市史』)。
すなわち、信秀の美濃攻めは、下記のような結果となったようです。
1544(天文13)年に、美濃に攻め入り大柿城を取ったが、5千人の大敗北も喫した(『信長公記』 首巻4)。 その後、1547~48(天文16~17)年に大垣城をめぐる攻防を繰り返し、ついには大垣城を失った(同 首巻5・6)。
このページでは、天文13年の大柿城奪取と5千人討死について、確認していきます。
1544(天文13)年8月、尾張勢はまず大柿城を奪取
大柿城の奪取について、『信長公記』 に書かれているのは、「先年尾張国より濃州大柿の城へ織田播磨守入れ置かれ候き」(首巻5)という1文のみです。いつ、どのようにして取ったのか、全く書かれていません。
大柿城の奪取について分かっていることは何があるのか、以下は、横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。
● 名古屋市西区中小田井の東雲寺の宝永2年(1705)建立の碑に、織田丹波守常寛の子の藤左衛門寛故は大柿城城主であったが、天文12年にその子藤左衛門寛継が大垣で討死し、本人は逃げ帰ったと書かれている。
● 『新修大垣市史』では、織田信秀は天文13年(1544)8月、大垣城を攻略した後、斎藤道三を稲葉山城に攻め、敗北して尾張へ帰った、そして斎藤氏に備えるため、同族の織田信辰を大垣城番とした、と述べている。
『信長公記』と東雲寺碑文と『新修大垣市史』では、大柿城奪取の年や、城主が丹波守か播磨守か信辰かなど、合わないところはあるものの、尾張勢がこの時期に大柿城を取っていたことは間違いなく、その城主は、守護代3奉行の一人の織田藤左衛門であった可能性があること、つまり信秀より格上の人物が大柿城主であった可能性もあることが分かります。
1544(天文13)年9月、『信長公記』に見る美濃での5千人討死の大敗北
大柿城奪取に引き続いて行われた稲葉山城下での戦いでは、信秀は5千人討死の大敗北を喫します。以下は、本件に関する 『信長公記』 の記述です。一つの文章も、意味の区切りごとに分けています。
● さて備後守殿〔信秀〕は国中憑み勢(たのみぜい=支援出陣取り付け)をなされ、一ヶ月は美濃国へお働き、また翌月は三河の国へご出勢。
● あるとき九月三日、尾張国中の人数をおたのみなされ美濃国へご乱入。
● 在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三居城稲葉山山下村々推し詰め焼払い、町口まで取寄せ、すでに晩日申刻〔夕刻16時ごろ〕になったのでご人数引き退かれ、諸手半分ほど引き揚げたところで、山城道三どっと南へ向て切りかかり、相支えあったが、多人数崩れたって防戦しきれず、
● 備後守ご舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門尉・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・岩越喜三郎はじめとして歴々五千ばかり討死なり。
この大敗北の記事については、『信長公記』 の角川文庫版・新人物文庫現代語訳版とも、天文16年のことと注記していますが、上述の通り、天文13年が正しいようです。
すでに確認しました通り、この大敗北の直前に、信秀は大柿城を取っているようです。すると、この年8月から美濃攻めを開始、それ以来、大柿城を取るなど、信秀の美濃攻めはうまく行っていた、と推測できます。だからこそ、信秀軍には油断があったのでしょうか。斉藤道三は、信秀軍の不意を衝いて、状況を一挙に変えた、ということでしょう。信秀は戦上手だったが、道三はさらに上を行く戦上手だった、といえるのかもしれません。
他の史料に見る尾張勢の大敗北
この尾張勢大敗北については、『信長公記』 以外の史料も多数残っているようです。以下は、横山住雄 『織田信長の系譜』 からの要約です。
● この戦を知る良好な史料として、〔斎藤〕利政(のちの道三)の木沢左馬允に対する礼状。「次郎 ・朝倉太郎左衛門・織田弾正忠の三ヶ国、城下に至って攻撃中のところ、合戦で大利を得ました」 - 美濃の次郎 (土岐頼純〔=頼充〕) と、それを支援する越前の朝倉太郎左衛門孝景(よしかげ)および尾張の織田弾正忠信秀という三ヶ国の者共が、稲葉山城下へ攻め寄せたところ、利政の大勝に終わったことを述べている。
● 信秀の場合、尾張一国の兵を動員できる権限がないので、守護の斯波義統に頼み、その号令で動員。義統がこれを実行した根拠として、一宮市の妙興寺へ掲げた禁制。
● 『美濃国諸旧記』には、「天文13十三年八月十五日、織田信秀は道三の逆心を憎み、朝倉吉景(ママ)と美濃へ南北から攻め入る。信秀五千余人にて斎藤を責め立てける」
● 『定光寺年代記』の天文13年、「九月廿ニ日未刻(午後二時頃)、の濃州於井ノ口、尾州衆二千人打死、大将衆也。」
● 道三の重臣長井秀元の水野十郎左衛門信近への手紙。「こちらは少数ながらも城から出て一戦に及び、織田弾正忠の陣へ切りかかり、数時間戦って数百人を討ち取りました。… このほか敗けた兵は木曽川で二・三千人溺れました。信秀は六七人をつれただけで逃げ帰りました。」
● 織田軍が前線を引き払って野営地へと向かった時、戦力を温存していた道三は、数千の兵を突進させて総崩れへと持ち込んだ。敗戦場となった場所は、岐阜市柳ケ瀬のすぐ南東、織田塚と称する史蹟が残る。
実際に越前・尾張の共同出兵があったこと、尾張軍の将は信秀であると相手方の斎藤道三が認識していたこと、尾張軍の動員は守護の斯波氏の指示であったこと、などが確認できます。また、稲葉山城下に出ていた尾張勢の総勢が5千人程度、そのうち稲葉山下での戦闘で討取られたのは数百人で、人員損失の大部分は撤退時の木曽川で出た、そこで溺れたのが2~3千人もいたらしい、ということも分かります。
天文13年の美濃攻めは、斎藤道三最大のピンチ
この天文13年の美濃攻めは、斎藤道三にとっては最大のピンチだったとのことです。以下は 『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』(勝俣鎮夫氏 執筆部分)からの要約です。
● 天文13年(1544)斎藤利正〔道三〕は最大のピンチを迎える。土岐次郎〔頼充〕を支援して、隣国越前の朝倉氏、尾張の織田氏の軍が、南北より呼応して国内に侵入してきた。連合軍合計2万5千の兵が井口城下に攻め入った。
● 利正は、この戦に大勝利をえ、危機を脱したのであるが、井口城下まで侵略軍に攻め入られ、井口城下は朝倉軍の放火により大きな被害をこうむった(『朝倉宗滴話記』)。
『信長公記』には尾張側のことしか書かれていませんでしたが、実際に越前・尾張の共同作戦であり、越前側も井ノ口の城下まで侵入していたことが分かります。
美濃攻めでの信秀は、守護斯波氏の指示による尾張連合軍の総大将
この『信長公記』の記事で、戦死者の中に、守護代大和守の3奉行体制の筆頭者である織田因幡守の名がみられます。また前述のとおり、大柿城の城主に任じられたのは、やはり3奉行体制の次位者であった織田藤左衛門だった可能性を示す碑文も残っています。また、実際に越前朝倉軍との共同作戦であったことも明らかです。これらより、出兵指示は3奉行末席の信秀本人レベルではなく、尾張国守護の斯波氏から行われたと推定されます。岩倉の伊勢守方からも出兵しているようですので、美濃攻めの織田軍は、まさしく守護斯波氏の指示による尾張連合軍であった、といえそうです。
本ページの冒頭で見ました通り、この20年前の大永3年(1523)、土岐頼武の依頼で尾張守護の斯波氏が援軍を受諾したときは、守護代の織田達勝が将となって美濃に攻め入っています。前例を踏襲するなら、今回も守護代織田達勝が総大将となって尾張連合軍を率いるのが妥当であったでしょう。
しかし今回は、安祥城の攻略という、尾張国外での大きな軍事作戦に成功した信秀の実績が買われ、守護代に代わって信秀が尾張連合軍の総大将を任された、ということであったかと推察されます。尾張連合軍総大将信秀の下には、信秀直属の家臣ではない将兵が多数おり、あたかも信秀が「たのみ勢」を行ったかのような形となった、と理解するのが適切かと思われます。5千人討死の敗戦は、信秀直属ではない将兵が多く信秀の指示が浸透していなかったため、かもしれません。
『愛知県史 通史編3』 も「尾張勢が守護斯波氏によって編成された軍であった」としています。ただし、織田寛近が立政寺(岐阜市)に出した禁制状を根拠に、「このときの尾張勢の大将は織田寛近であったと考えられる」、もっとも「尾張勢の主力は信秀軍であった」としています。(この箇所は、平野明夫・村岡幹生両氏 執筆部分で、二人の執筆区分は明示されていないものの、内容から平野氏執筆と推測されます。)
禁制について、以下は、藤木久志 『飢餓と戦争の戦国を行く』 からの要約です。
● 禁制は、戦火を免れるための道であり、その軍に味方することを誓い、大金を払って手に入れるのが戦国の世の習い。
● 敵味方の優劣をしっかり見極め、優勢な敵軍には進んで味方し、制札銭といわれた大金を払った。
● 敵方の大名も制札銭を稼ぎ、「敵地」に「味方の地」を広げるため、大量の制札や禁制をばらまいた。
立政寺は、JR西岐阜駅の近くにあり、井ノ口からは4キロほど。尾張軍強し、美濃軍は守ってくれないと見たのでしょう。禁制発給者は、敵軍中の最高位者であることが望ましいことは間違いないので、その点からは 『愛知県史』(平野氏?)の見方も理解はできなくはありません。
しかし、美濃側の大将であった斎藤道三自身が、尾張軍の大将は織田信秀であると認識していた史料が現にあるのですから、「このときの尾張勢の大将は織田寛近」という断定は困難と思われます。また、安祥城攻略の実績のある信秀と違い、織田寛近にはおそらく他国軍との実戦経験もありませんから、寛近が総大将では、頼み勢の武将たちが素直に指示を聞いたとは思われません。「信秀の頼み勢で出陣したのだろう」(横山住雄 『織田信長の系譜』) という見方の方が説得力がはるかに高いように思われます。
信秀の美濃攻めの地理的条件
天文13年の信秀美濃攻めの地図
例により、下の地図で、地理的な関係を確認しておきたいと思います。那古野城(名古屋)と稲葉山城(岐阜)・大柿城(大垣)の間には、濃尾平野が広がっています。
ただし、「第1室 1-2 国境と木曽川の河道」のページで確認しましたとおり、当時の尾張・美濃の国境は現在と異なっていました(下の地図の濃い青の太線)。当時の木曽川は枝川が多く、その中には本流並みに大河化していたものもあったようで、濃尾国境近くの川の流れ方は、現在とはかなり異なっていたようです。少なくとも、現在の地図に示されている木曽川の河道の位置に当時は大河はなかったとらしい、と理解して地図を眺めてください。
那古野城から清須城までは直線で6キロ強、そこから稲葉山城・大柿城まで、北方と北西方で方角は少し異なりますが、どちらも約25~26キロの距離です。現代の鉄道線路でいえば、稲葉山城に向かってはJRの東海道本線が、大柿城に向かっては東海道新幹線が、それぞれほぼ最短ルートを通っています。
信秀の那古野城から美濃の稲葉山城・大柿城まで、また三河の安祥まで、どちらへも30数キロでした。安祥城を攻めるには、自領外を長く通る必要がありましたが、大河を渡る必要はありません。一方、美濃の稲葉山城・大垣城は、濃尾国境からの距離は5~8キロと近かったものの、国境までには木曽川の大河があり本流並みに大河化した枝川もあり、大垣城の場合には更に揖斐川がありました。
この時の美濃攻めについて、『信長公記』 は、信秀軍がどの地点で渡河して美濃に攻め込んだのかは書いていません。しかし、美濃攻めには西三河攻めとは異なり、攻め入るにも退却するにも、兵力輸送に多数の舟の確保が必要であったことは明白です。大河を渡河せざるを得ない制約が、「5千人討死」という大敗戦の原因となったようです。
道三の稲葉山城は今の岐阜城の位置、そのふもとに城下町井ノ口がありました。織田軍の惨敗で作られた織田塚は、井ノ口の町から1キロ半ほど南になります。頼芸の守護館があったかもしれない川手城跡は、稲葉山城からは南5キロ弱、岐阜市正法寺町で済美高校の敷地となっており、石碑と案内板が立っています。当時の木曽川(現境川)からはわずか600mほどの距離でした。大桑城は現在の山県市、稲葉山城からはほぼ真北に15キロ弱、標高408メートルといいますから、稲葉山城よりもう80メートルほど高い山の山頂の城でした。今はミニチュア城まで作られているようです。
軍事常識に全く反した信秀の美濃攻め - 2正面作戦と突出地
守護方針による美濃攻めによって、「守護の家臣の家臣」である信秀は、西三河戦線と美濃戦線の二正面を持つことになってしまいました。
西三河戦線は自領から遠隔の地であっても自らの意思で始めたものでした。一方、美濃も那古野城からは遠隔地で、しかも西三河とは正反対の方角でした。美濃攻めについて、信秀は自ら望んで総大将を引き受けたのか、命じられたのでやむを得ず引き受けたのか、どちらだったのでしょうか。
信秀は、先に西三河戦線を開始し安祥を確保しましたが、岡崎の松平広忠派との講和や妥協が成り立ったわけではありません。反広忠派は信秀支持でも、安祥は信秀の所領中遠隔の突出地であり、継続確保にはリスクがありました。続いて開始した美濃戦線でも、大柿は濃尾国境から近いとはいえ、大河によって隔てられた突出地となったと言えるように思います。
余程の大国でない限り、同時に2正面作戦を行ったり、突出地を持ったりすることが、大きなリスクであることは、軍事上の常識であると思います。信秀は、美濃攻めの総大将を引き受けた時点で、軍事常識に反する行動を引き受けてしまった、と言えるように思われます。
信秀は、2正面作戦を実行しても良い条件にはなかった
もちろん、2正面作戦は絶対に不可、ではありません。信秀陣営が格段に大きな態勢を持っていたなら、例えば、天下統一過程での信長のように、信秀の下に有能な武将が何人かいて、各方面の将として任せられるなら、2正面作戦も可能です。
しかし信秀の場合、本人自身が「一ヶ月は美濃国へお働き、また翌月は三川の国へご出勢」せざるを得ない状況でした。人材も資力も豊かな大企業なら2正面作戦の実施に困難はないが、どちらも乏しい中小企業レベルの信秀にはとんでもなく困難であった、と考えれば分かりやすいかと思います。
西三河で広忠派との講和が成立すれば美濃に攻め込んでも良いのですが、西三河で対立が続いている限りは美濃にはさわらない、というのが軍事的な常識と思います。それに対し、信秀は軍事常識に反した無理を行っていた、といわざるをえないように思われます。
那古野城奪取時の守護・守護代からの支持への恩義から、二正面作戦には無理があることを認識しながら、美濃攻めも引き受けたのではないか、と推測するのですが、いかがでしょうか。
美濃攻めは信秀のその後を暗転させた
実際、美濃攻めを開始後、一時期は何とかなったものの、最終的には、美濃もうまく行かず西三河も失う、という結果になります。「軍事常識に反した無理」の当然の結果であった、と言わざるを得ないように思います。美濃攻めは、信秀の運命の転換点となり暗転を招く原因となった、と言えるようにも思われます。
信秀はあくまで「守護の家臣の家臣」、生涯その枠から脱することはありませんでした。これは勝手な推測なのですが、信秀は、その身分・立場から、2正面作戦を強いられてしまったように思います。守護や守護代が朝倉氏から持ち込まれた話に乗り気になってしまえば、信秀は守護・守護代に反対できなかったどころか、安祥攻めの実績から尾張連合軍の総大将に任命されてしまい、軍事上の無理は分かっていても、美濃攻めをやらざるをえなくなってしまった、という可能性が高そうに思うのですが、いかがでしょうか。
ここまで、那古野城時代の信秀を見てきました。信秀にとって、この時期は、美濃攻めでの失敗という事態はあったものの、西三河に進出して安祥城も取り、伊勢神宮や朝廷に寄進・進上して名を高めるなど、その人生のなかで最も華々しい活躍を行った時期であった、と言えるように思われます。次は、信秀の古渡城への移転について、です。