3-17 長島・北伊勢攻めと岐阜入り

 

前ページでは、信長は1565(永禄8)年に、犬山城を落城させ、犬山を拠点に、現在の各務原市東部~美濃加茂市~可児市にあたる地域である中美濃進出に成功したことを確認しました。翌1566(永禄9)年、信長は長島・北伊勢にも侵攻する一方、ついに美濃・稲葉山城を攻略し岐阜入りを果たします。このページでは、岐阜入りまでの詳細を確認します。

 

 

1566(永禄9)年、織田信長は各務野・河野島出兵による美濃攻め

『信長公記』が記す、4月の各務野出兵

1566(永禄9)年、信長は美濃中心部への進攻を開始します。まずは、現在の地名でいえば各務原市から岐南町・岐阜市南部にかけての攻勢を仕掛けたようです。4月に行った各務野出兵について、『信長公記』(首巻44)に簡単な記事があります。以下はその内容です。

4月上旬、木曽川の大河を渡河し、美濃国各務野〔各務原市〕に出兵、敵は井口〔岐阜市〕より龍興が出兵、新加納〔各務原市〕の村をかかえ、兵を揃えた。両所の間は難所で馬の駆け引きもできないため、その日、帰陣した。

この出兵について、『信長公記』には年号の記載はありませんが、1566(永禄9)年のことと見るのが通説となっているようです。

『信長公記』には記述がない、8月~閏8月の河野島出兵の失敗

『信長公記』には記述はありませんが、この年の8月~閏8月にかけて信長は河野島方面に出兵、龍興方から攻撃されて撤退した、という出兵失敗を記した史料(「中島文書」)があるようです。以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの、その史料の内容の紹介です。(漢文体の書状の原文は、小和田哲夫 『東海の戦国史』 に引用されています。)

8月29日になって、信長は河野島へ兵を進めてきた。龍興は即座に兵をさし向けたために、信長は兵を引いて河畔に陣を張った。その翌日は、風雨のため木曽川が増水して戦はなかった。ようやく水量が減った閏8月8日の未明になって、龍興が奇襲をかけたために、不意をつかれた信長方の敗残兵は、川へ逃げ込んで溺れるなど必死の思いで退却した。

この史料に関する注釈について、横山住雄 『織田信長の尾張時代』からの要約です。

この 『中島文書』 については、真偽を疑う人もあるが、京都では、永禄9年8月29日から閏8月23日までのおよそ1ヵ月間雨天が多く、風も時々吹いた荒天であった(「御湯殿上日記」)。京都の荒天はそのまま美濃の荒天につながるので、「中島文書」の記事と合致すると見てよい。偽文書とは考えられない。

永禄9年の8月29日と閏8月8日は、太陽暦ではそれぞれ9月12日と9月21日であるようです。つまり、信長が、太陽暦に直せば9月中旬に出兵したところ、たまたま台風を含む天候不順にかちあってしまった、その間に信長方は龍興方から奇襲をかけられて負けてしまった、ということであったようです。出兵した時季が悪かったということでしょうか。

河野島は現岐南町の北部

この河野島とは、現在の岐南町北部のことであるようです。以下は、『岐南町史 通史編』 からの引用です。

河野島は当町〔岐南町〕地域内の印食〔いんじき〕・三宅(高牧実著 『わが町の歴史岐阜』)である。本町の那波系図には「河野嶋ハ印食村ノコト」と記している。河野島は木曽川の中州的な存在であった。

明治22年の5万分の1地図には、上印食村・下印食村・三宅村の名がみえます。現在の岐南町北部すなわち境川の南岸に接する地域で、上印食・八剣北・八剣・三宅などの地域にあたります。この『岐南町史』の記述は、旧木曽川=境川の南に分流があり、その間にあった中州が河野島で、それは印食村・三宅村のことだった、と考えているようです。上掲の史料の文章からすると、信長は中州である河野島の北岸に陣を張った、龍興の奇襲で河野島から退却した際、島の南側の流れで溺れる者が多かった、という解釈になるでしょうか。

なお、この印食村・三宅村は、少なくとも1557(弘治3)年には、美濃・斎藤氏の支配下にあったようです。以下は、再び 『岐南町史』 からの要約です。

● 弘治3年12月の斎藤義龍が常在寺(現岐阜市梶川町)にあてた寄進状がある。
● 当町地域は、旧木曽川のすぐ南にあり、尾張国葉栗郡に属していたが、土豪の帰属関係およびこの寄進状によって、斎藤氏の支配下にあって、印食村・三宅村は常在寺領であったと推定できる。

常在寺は、岐阜公園近くにあって、斎藤道三以降、斎藤氏3代の菩提寺として知られています。印食村・三宅村は、旧木曽川の、すなわち、尾張と美濃の境界上に位置していたことから、実質的に美濃側の支配下にあったようです。

出兵の背景にあった将軍・足利義昭から信長への上洛要請

永禄9年の信長の美濃出兵については、将軍・足利義昭からの上洛要請が背景にあったとも言われています。以下は、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 からの要約です。

● 信長は永禄7年(1564)12月と翌8年12月との二度にわたり、将軍義昭から上洛するようにとの催促をうけていた(『織田信長文書の研究』)。北伊勢を経由すれば、留守を狙って龍興から尾張を攻められる恐れ、美濃を通過しようとすれば直接妨害されるのは当然。そのため、稲葉山城を攻めて龍興を屈服させる必要。
● 足利義昭としては、濃尾和親の上で上洛してもらう予定。
● 信長は、「永禄9年8月22日には尾張を発ち、義昭の御動座にお供できるだろう」との見通しを公言(『多門院日記』)。結果的にこれは美濃を油断させる作戦だったことになる。
● 美濃側も疑心暗鬼で、永禄9年閏8月に龍興4奉行が快川に出した書状(「中島文書」)、「このたび将軍義昭が入洛するにつき、信長も参陣を承諾したということで、尾張と停戦する手はずになっている。しかし、信長には一向にその気配がないように見える。やはり信長が出兵する目的は美濃侵攻にあるとしか思えない」。
● 今回の美濃攻めは、龍興の出方を探ろうとする、いわば小手調べの出兵。案の定、龍興に中立の意思はなく攻撃してきた。信長は、龍興を屈服させずして上洛することは不可能と判断したものと考えられる。

将軍義昭から信長に上洛要請のあった永禄7年末には、尾張北部は犬山城を残すだけとなっていました。2度めの上洛要請のあった永禄8年末には、犬山城を落城させたのを皮切りに猿啄城はじめ中美濃まで支配領域を拡大していました。将軍義昭からの上洛要請はあったものの、そのために龍興との和親を行おうという気は全くなかった、と理解するのが良さそうに思われます。

永禄9年、各務野・河野島への出兵の地図

各務野・河野島への出兵について、地図で確認したいと思います。国土地理院の治水地形分類図上に情報を書き込みました。この地図中の黄土色は台地、ベージュ色が山、黄色は扇状地や自然堤防あるいは微高地、薄緑色は低地でおそらくは水田地帯です。青色の横縞は旧河道だったところ。各務原台地の南から下流の木曽川は、当時は現在の河道とは異なっていて青色の横縞を流れていたらしい、と思ってこの地図を見て下さい。

1566(永禄9)年 織田信長の各務野・河野島出兵 地図

各務原市は、西部の岐阜寄りは低地、東部の鵜沼寄りは扇状地です。信長方はすでに、少なくとも鵜沼から伊木山あたりまでは支配下に置いています。信長軍は、各務野には、小牧山城から真っすぐ北上してきたのかもしれませんが、犬山あたりで渡河して東からやってきたのかもしれません。広い台地のどこに来たのか、この地図には、現在の航空自衛隊岐阜基地あたりの位置を示していますが、実際はどこにいたのか分かりません。

龍興側がいたとされる新加納ですが、江戸期になると、中山道の加納宿と鵜沼宿の間が長いため、途中休憩用の宿ができた土地のことと思われます。各務原台地の西端なので、同じ台地の東側から進んできた信長軍との間に難所があったとは思いにくいのですが。各務原台地の西側は、旧木曽川の乱流地帯であり、龍興軍はその乱流地帯を挟むようにとどまったので、馬の駆引きができなかった、ということでしょうか。

信長としては、足場の良い各務原台地上で野戦勝負をしようと思っていたのに、龍興方は新加納の西の低地側に留まったままで、各務野まで来なかった。足場の悪いところに出てゆくわけにはいかないので、兵を引き上げた、ということであったのでしょうか。もしもそうだったとすると、龍興方は、蹂躙されないように兵は出したが、合戦する気はなくて、信長方から戦いを仕掛けにくい低地にとどまった、ということだったのかもしれません。

河野島は上述の通り岐南町北部です。信長方は旧木曽川=境川の中州に陣を張ったと思われます。天候不順で合戦を仕掛けられる状況ではないと判断していたところを、龍興方から奇襲されてしまった、ということだったのでしょうか。

 

1567(永禄10)年8月、織田信長の長島・北伊勢攻め

里村紹巴『富士見道記』が記す信長の長島・北伊勢攻め

1565(永禄8)年、犬山を落城させて尾張北部全域を支配下に加えた信長ですが、尾張国内にはまだ海西郡という未支配地域がありました。「第1室 1-1 干拓地はまだ海の中」で確認しました通り、今は三重県の長島まで、当時は尾張国でした。

1567(永禄10)年に入ると、信長は、この海西郡・長島から北伊勢にかけて攻勢を行ったようです。以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約(『富士見道記』の内容は、同著者の 『斎藤道三』 および 『斎藤道三と義龍・龍興』 も確認の上修正)です。

● 『三重県史』 資料編近世1の解説によれば、信長は永禄10年(1567)2月から滝川一益に命じて北伊勢を攻撃し、4月18日に滝川一益奉行人が桑名市の大福田寺に禁制を掲げたという。
● 信長の本格的攻勢は、8月のこと。里村紹巴の 『富士見道記』、〔紹巴が富士山を見物した帰途〕8月10日に熱田へ着いて、津島へ向かい、次いで熱田へ戻って桑名へ渡ろうと思ったら、長島の一向宗攻めに「尾州太守」(信長)が出陣ということであった。それで紹巴は13日夜に大高城入り。夜半過ぎに西方を見ると、長島が落とされ、放火夥しく白日のようであった。20日に海上を楠に着いた。そこでは、尾張勢の先勢が暮れには攻めてくるということで騒がしかった。
● 信長は長島攻めを行ったが本格的な攻撃はせず、放火にとどめて通過し、桑名から楠〔四日市市〕へ攻め込んだらしい。

信長は、これまで信秀の時代にも攻め込んだことはなかった北伊勢に攻撃を行った、しかも、尾張の海西郡から徐々に順次戦線を拡大していったのではなく、一挙に桑名から四日市辺りまで攻め込んだ、ということだったようです。『信長公記』 には、この時の長島・北伊勢攻撃についての記事はありません。

長島の一向宗との交戦はこの1567(永禄10)年が皮切りで、1574(天正2)年に信長が最終的な勝利を得るまでの7年間、何度も戦われました。

なお、信長による美濃の稲葉山城攻略は、『信長公記』 では8月15日とされています。そこで、このとき稲葉山城を退去した斎藤龍興が長島ヘ向かったので、これを追って長島~桑名~楠方面を攻めたとする説があります。しかし後述の通り、龍興の退去は9月6日と見るのが正しいようであり、したがってこの説は成り立たず、先ず8月に北伊勢攻めがあって、その後9月に稲葉山城攻めが行われた、と見るのが適切であるようです。

一向宗自治圏だった海西郡

この攻撃について、里村紹巴は、長島の一向宗攻め、と聞いたようであり、当時の海西郡の一向宗(浄土真宗)の状況について、再び横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。

● 長島は伊藤氏が支配していたが、明応10年(1501)に一向宗の蓮如の子蓮淳が北端・杉江に願正寺を建て(中興)、ついには伊藤氏を追い出して真宗王国となった(西羽晃 『桑名歴史散歩』)。
● 二の江(弥富市荷之上)は、ここに一向宗の荷上山興善寺があり、地元鯏浦(うぐいうら)の服部左京進と組んで自治を進めていた。
● 興善寺は蓮如の孫を養子に迎え、蟹江の盛泉寺は蓮如の第19子蓮芸が招かれ、長島の願正寺には蓮如の第13子蓮淳が招かれた。その中心に服部左京進がいて、一種の真宗王国を形成するに至った。

蟹江~弥富~長島にかけての一帯は、一向宗地域であったため、信長の支配下に入っていなかった、ということになります。通常なら、領主を打ち負かせばその所領地域を支配下に組み入れることができるのに、一向宗は自治的色彩が強く、一向宗自体を倒さなければ、所領化は困難でした。そのために対立が続いた、ということのようです。

なお、蟹江の盛泉寺は火災により(蟹江町観光協会ウェブサイト)、長島の願正寺 (願証寺) は明治期の河川改修工事により(桑名市ウェブサイト)、それぞれ信長当時の所在地から同地域内の現在地に移転、弥富の興善寺は寛永の大地震により清須へ、その後さらに名古屋市に移転した(弥富市ウェブサイト)、とのことです。

海西郡北部での一向宗対策

このとき、信長は海西郡北部でも、一向宗対策を行っていたようです。再び横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。

● 永禄10年8月付、信長の判物、佐治八郎に櫃島(ひつしま)を与えるので、支配を確立せよ。
● 櫃島は、愛西市立田町後江(ひつえ)のほかにそれらしき地名は見当たらない。立田輪中の中心。今は10戸ほどしかないが、明治の木曽三川分流工事で大幅な立ち退きが行われた結果。
● 海西郡の一角に、支配権を確立すると共に、長島・弥富の一向宗門徒の北方への拡散を防ぐ拠点として、あるいは尾張国葉栗郡の河野門徒らとの連携を絶つために、佐治八郎を入れた。また、今回の伊勢攻めでの楠まで進攻は、一向宗門徒を包囲孤立させるのが目的だったことが明らか。
● 佐治八郎信方は、知多郡大野の人。その子の為興は、信長の妹のお犬を妻に迎えていた。信長はこの佐治氏(大野衆)をもって市江島(弥富市)の服部左京進が率いる水軍に対抗させようと考えたのだろう。

信長は、この1567(永禄10)年8月に、尾張国内に残存する唯一の未支配地域だった海西郡対策に本格的に乗り出した、と言えそうです。

信長の長島・北伊勢攻めの地図

この永禄10年の長島・北伊勢攻めについて、地図で確認したいと思います。赤い四角中の水色で塗りつぶしてある地域は、当時はまだ干拓されておらず、海の中であった地域です。

1567(永禄10)年 織田信長の海西郡・北伊勢攻め 地図

この地図からは、蟹江~弥富~長島という海沿い地域の一帯が、一向宗勢の地域であったことがわかります。ただし、現在の近鉄名古屋線・JR関西線沿いの陸上地域だけで考えるのは適切ではなく、周辺の川や海を含む地域全体として理解する必要がありそうです。対抗するのに大野の佐治氏を引き入れたことからも、この地域では日常生活中にも舟が果たす役割が大きく、この地域の支配のためには海や川で舟を操れることが大きな条件になっていた、と理解できます。

なお、里村紹巴は、津島から桑名に渡ろうとしたものの長島攻めで渡れず、大高から楠に渡りました。大高から長島方向は、当時はすべて海であったので、夜中に大火の明かりが見えて不思議ありません。

 

1567(永禄10)年9月、織田信長は斎藤龍興の稲葉山城を奪取

『信長公記』が記す信長の稲葉山城攻略

長島・北伊勢攻めの最中または直後に、美濃の状況が急転し、ついに稲葉山城を攻略することに成功、信長は小牧山城から稲葉山城=岐阜城に移転します。以下は、『信長公記』(首巻44)からの要約です。

● 8月朔日、美濃三人衆、稲葉伊予守〔一鉄〕・氏家卜全・安東伊賀守〔守就〕申し合わせて、信長へ味方に参るので人質を受け取り候え、と申し越してきた。
● まだ人質も参っていないのに、にわかに兵を出し、井口〔稲葉〕山の続きの瑞竜寺山へ駆け上った。〔龍興方が〕これはいかに、敵か味方か、と言っているうちに、早くも町に火をかけ、即時に裸城にした。その日は意外に風が吹いていた。
● 翌日、工事分担を指示して、四方に鹿垣を結びまわし、取り囲んだ。そうしたところに美濃三人衆も来て、肝を冷やしてお礼を言った。
● 8月15日、いろいろ降参してきて、飛騨川〔長良川〕の川続きであるので、舟で河内長島ヘ龍興が退散した。
● 美濃国全体を支配するとして、尾張国小牧山から濃州稲葉山へ引っ越した。井口というのをここで改めて、岐阜と名付けた。

斎藤龍興を支えてきた幹部たちが内応してきたので、城下の井口を焼いて裸城にした上で、稲葉山城を鹿垣で取り囲んで包囲した、そうしたら龍興は降参してきた、ということであったようです。つまり、まずは調略による切崩し、出兵して包囲しても攻城戦までは行わず、後は交渉を行って、命は助ける代わりに降参させた、と読めます。

龍興方が、「これはいかに、敵か味方か」と本当に言ったとすれば、龍興方に気づかれないように木曽川を渡り、瑞竜寺山までも気づかれないように行軍した、ということなのでしょう。そのためには、龍興領外かつ伊木山の陰になる犬山あたりで渡河し、そこから瑞竜寺山までおよそ16キロほどの道は夜間行軍した、という可能が高そうですが、いかがでしょうか。

信長の稲葉山城攻略は、1567(永禄10)年8月ではなく、同年9月

上述の 『信長公記』 の記事ですが、年号は入っていませんが、美濃三人衆の内応が8月1日、龍興の退去が8月15日と、日付が明記されています。このため、かつては稲葉山落城の日付は8月15日、また、その年は、永禄7年とする見方が定説とされていたようです。

ところが、この定説の日付も年号も正しくなく、実際は永禄10年9月の出来事であったようです。以下は、『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』(勝俣鎮夫氏 執筆部分)からの要約です。

● 永禄10年(1567)9月、信長は、稲葉山城を急襲し、一挙にこれを占領した。
● 同年9月から10月付の信長の禁制・安堵状が集中。この地域に信長の下付した禁制類が集中的に残存している事実は、信長の軍隊がこの地に侵入してきたこと、また、この地の支配者が、新しく信長になったことを何よりも確実に物語る。
● 「瑞龍寺紫衣輪番世代帳」に、「永禄十丁卯九月織田上総乱入」とある。
● なお、美濃では、江戸時代から今日まで、根強く永禄7年落城説が主張されている。この主張の根拠史料は、主として江戸時代の軍記物・家譜・系図などであって、信頼しうる古文書・古記録は一点もない。今日の歴史学研究からは支持しがたい。

ここに挙げられている「瑞龍寺紫衣輪番世代帳」は横山住雄氏が発見された(横山住雄 『斎藤道三』)ということですので、同氏も同じく永禄10年9月説です。

横山住雄 『織田信長の尾張時代』 には、上記 『岐阜市史』 記載の根拠に加えさらに、関市平の龍福寺の「年代記」の「丁卯十 信長入濃九月六日」の記述も挙げています。また、横山住雄 『斎藤道三と義龍・龍興』 は、8月11日頃、信長は伊勢攻めに出陣、13日に長島をたたいて桑名へ、20日頃までに楠、22日には河曲郡へ迫っているので、「8月15日に稲葉山城が落城したとする説は成り立たないことが確実」、また 『信長公記』 は堂洞城攻めの段でもちょうど1ヵ月間違えているので、稲葉城攻めを「9月1日とすべきなのに、8月1日と書いた可能性は十分考えられる」としています。

「太田牛一が斎藤龍興の降参した日を間違えるとは考えられない」とする谷口克広説もあるようですが、『信長公記』 は桶狭間合戦の年をはじめ、いろいろな年月日が間違っています。また、現に9月から10月付の禁制類が集中的に残存している「事実」の方が、「間違えるとは考えられない」という「定性的判断」よりもはるかに強力であり、9月説の説得力は高いと思われますので、本歴史館も、永禄10年8月に長島・北伊勢攻め、9月に稲葉山城落城、との見方に従うことにいたします。

信秀の死後15年間で、ついに濃尾2国の戦国大名

1552(天文21)年に信秀が亡くなった時、尾張国「守護の家臣の家臣」で尾張第一の戦国武将の嫡男であった信長は、それまでの「大うつけ」ぶりが災いして分割相続となり、弾正忠家の半分、つまり尾張のおよそ4分の1だけを継承したところから出発しました。そして信秀の死から15年後の1567(永禄10)年、ついに濃尾2国を支配下に置く戦国大名になりました。

信秀の死の年を出発点として、この間の大きな流れを整理してみると、下記のようになるかと思います。
● 信秀の死の年 - 弾正忠家の約半分を継承
● 信秀の死から2年 - 清須城を奪取、守護代格・実質的には守護の保護者になる
● 同4年 - 舅・道三の死、直後に那古野・守山両城を喪失、しかし稲生の戦いで信勝に勝利、弾正忠家の全体を掌握
● 同6年 - 守護を追放、岩倉を滅ぼし、信勝を殺害して、尾張国の第一人者となる
● 同8年 - 桶狭間合戦で今川義元を破り、尾張国内から今川勢を駆逐
● 同9年 - 松平家康との清須同盟成立、三河方面は安定化
● 同11年 - 小牧山城に移る、小口城・黒田城を奪い尾張の大部分を掌握、犬山城は孤立化
● 同13年 - 犬山落城し、海西郡を除く尾張のすべてを掌握、さらに中美濃進出
● 同15年 - 長島・北伊勢攻め、稲葉山城奪取で濃尾2国の戦国大名となる

こうして整理してみますと、信長は、父・信秀の死後、ほぼ2年ごとにステップアップしてきた、ということが分かります。最も苦しかった時期は、信秀の死から4年目、良き支援者であった舅・斎藤道三が亡くなり那古野・守山両城を失った時と、その4年後に駿河の今川義元が大軍を率いて尾張攻めにやってきた時の2度であったでしょう。それぞれ、稲生合戦と桶狭間合戦に勝つことで活路を開いてきた、というのは、いかにも戦国時代です。運も味方したことは間違いありませんが、信長の軍事面での優れたリーダーシップが、苦境からの脱出に寄与したと言えそうです。

稲葉山城を取った信長は、井口を岐阜に改名、また「天下布武」の朱印を使い始めたことは御承知のとおりです。そして、次の15年間、1582(天正10)年6月に本能寺の変で倒れるまで、天下統一に邁進していきます。

 

信長の岐阜城と城下町

最後に、織田信長が、美濃攻略の成功の結果として新たに居城とした岐阜城と、その城下町について確認しておきたいと思います。岐阜城については、発掘調査が進んでいることもあり、いろいろな発見がなされているようです。

 

稲葉山城~岐阜城の歴史

まずは、稲葉山城~岐阜城の歴史について、岐阜市教育委員会・岐阜市教育文化振興事業団 『岐阜城跡3 ー 史跡整備に伴う発掘調査』 (岐阜城の山麓遺跡の発掘調査の報告書)からの要約です。まずは、斎藤道三による築城から、関ヶ原合戦での落城まで。

● 天文8年(1539)ごろ、斎藤道三によって伊奈波神社が丸山から現在の地に移されたと伝えられ、このときまでに稲葉山に築城が行われたと考えられる。
● 斎藤道三 → 義龍 → 龍興と継ぐ。永禄7年(1576)、竹中半兵衛と安藤守就が一時奪取。
● 永禄10年(1567)、信長が龍興を追放、小牧山から居城を移す。
● 天正3年(1575)、信長は、家督を嫡子・信忠に譲って岐阜城主とし、翌年安土城に移る。
● 天正10年(1582)、信長・信忠父子が本能寺の変で死亡した後は、城主は転々と変わる。〔織田信孝→池田元助→池田輝政→豊臣秀勝→織田信秀。ー 千田嘉博 『信長の城』 より補足〕
● 最後の城主・織田秀信は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍、そのため岐阜城は東軍の標的となり、落城。

稲葉山城~岐阜城は、1539~1600年のわずか60年ほどの歴史であったことが分かります。
● うち、最初の30年近くは斎藤氏3代の居城
● 本能寺の変までの信長・信忠父子時代は15年、うち信長自身が居城としたのはわずか8年ほど
● 本能寺の変~廃城までは18年ほどで、その間に5人の城主
ということでした。

続いては、落城後の岐阜城について、同上書からの要約です。

● 家康は、岐阜城を廃し、南方の平地に加納城を築いた。
● 岐阜の町は、徳川直轄領→尾張藩領に。金華山は尾張藩主の「御山」として一般の立入禁止。江戸時代を通じて、〔岐阜城の旧跡には〕大規模な施設は建設されなかったと考えられる。
● 明治に入り、一転して土地利用が進むようになった。〔旧跡地は〕その多くが公園・施設整備がなされ、地下の遺構は大きく影響を受けたと考えられる。
● 昭和59年(1984)、山麓部で発掘調査が始まる。調査によって、信長は斎藤氏時代に造成された地形をベースとして利用しつつ、再造成と施設の建設を行ったことが推測された。以後、第2次~第4次調査が行われている。

家康が加納城を築いたため廃城となった岐阜城の旧跡地は、江戸時代は尾張藩によって保護されていましたが、明治以降は主に公園として整備されてきたようです。

信長時代の岐阜城と城下町、江戸期の加納城

下は、信長時代の岐阜城と城下町、そして江戸期の加納城との関係を示した地図です。仁木宏・松尾信裕編 『信長の城下町』 中の「岐阜の空間構造」の地図中の情報を、Googleマップの航空写真上にトレースして作成したものです。できるだけ合わせていますが、多少のズレはあるかもしれません。ご容赦ください。

斎藤道三・義龍・龍興の斎藤氏三代の時代の稲葉山城と井口城下町は、そのまま信長時代の岐阜城と城下町に引き継がれたようです。

斎藤氏から信長に至る時代、金華山より下流の長良川は、現在よりも北を流れていました。(詳しくは、「第3室 織田信長 3-6 舅・斎藤道三の死(長良川合戦)」のページをご覧ください。上の地図上の「早田馬場」から下流(西方)には、現在の長良川の位置には大河はなかった、と理解して地図を眺めてください。

岐阜城・岐阜城下町と加納城 地図

 

斎藤氏時代の稲葉山城・井口城下町から、信長時代の岐阜城・城下町へ

斎藤氏の時代から信長の時代にかけて、以下は、上掲の仁木宏・松尾信裕編 『信長の城下町』 (内堀信雄氏の執筆部分)からの抜粋要約です。上の地図をご覧になりながら、下の記述をお読みください。

● 今の金華地域がかつての井口・岐阜城下町にほぼ相当する。
● 城下町復元のための最重要の絵図は承応3年(1654)成立の「濃州厚見郡岐阜図」、これに文献史料、近世地誌類、絵図・地籍図などの情報を加えることで城下町の景観復元等が試みられてきた。
● 井口・岐阜城下町は、町場や寺社地を包括した惣構を備えるもの。武家屋敷や町場全体を惣構が取り囲む構造。
● 惣構の外では、ほぼ東西に並ぶ小熊、美江寺、西野の3つの居住域が存在。
● これまでの発掘成果からは信長段階で城下町を大規模に改造した形跡は認められていない。信長は道三以来の都市基盤が整えられていた井口城下町では小牧城下町のような独自の都市建設を行う必要がなく、岳父道三の遺産を継承したのではないか。

斎藤氏時代の井口城下町は、惣構で囲まれた都市であり、それを信長がそのまま継承して、地名を井口から岐阜に変えた、ということであったようです。(本書中には、景観復元の詳細や発掘調査の成果なども詳述されていますので、詳しくは本書をお読みください。)

家康の時代になると、岐阜城より4キロほど南に加納城が築かれ、岐阜城は廃城になりました。上の地図で赤色で示しましたとおり、加納城の北には中山道が通り、加納宿も置かれました。

近代になると、中山道の北に鉄道が通ることになり、1887(明治20)年に加納駅が設けられます。これが現在のJR東海道本線・岐阜駅になっています。

なお、現在は名鉄岐阜駅となっている美濃電気軌道笠松線の新岐阜駅の開業は1914(大正3)年、木曽川に鉄橋ができて名岐間の全線が開業したのは、1935(昭和10)年で、東海道本線の名岐間よりも50年近くも後のことでした。(以上の鉄道情報は、川島令三 『全国鉄道事情大研究 名古屋北部・岐阜篇1』 より)

岐阜と加納の2つの町が合わさって、現在の岐阜の町になっている、ということのようです。

岐阜城の山麓御殿

上の「岐阜城・岐阜城下町と加納城」の地図中で、金華山の山上には岐阜城が、その西の「山麓館エリア」と書かれている箇所、つまり現在の岐阜公園の地には、岐阜城の山麓御殿がありました。山上の城と麓の御殿について、以下は、千田嘉博 『信長の城』 からの抜粋要約です。

まずは麓の御殿について、下の地図をご覧ください。これは、同書中の「山麓館復元図」の情報を、やはりGoogleマップの航空写真中にトレースして作成したものです。これも、元の図にできるだけ合わせましたが、多少のズレはあるかもしれません。ご容赦ください。

岐阜城 山麓館復元図 地図

上の地図中の①~⑦の各曲輪について、本書は、発掘調査の成果を、1569(永禄12)年、つまり信長の岐阜入りから2年後の宣教師ルイス・フロイスの岐阜城訪問時の記録と照らし合わせた上で、それぞれの曲輪に、信長時代にはどのような目的のどんな建物が建っていたのかを考究しています。以下は、その内容の抜粋要約です。

● 曲輪① 御殿の「表」(正式の対面行事を行った主殿あるいは広間)に、「中奥」 (信長が執務を行った)が接続。
● 曲輪②a 「奥」空間の入口。「奥」には、重臣といえどもなかに入ることは基本的になかったと考えられる。
● 曲輪③a 巨石を並べて厳重に防御した出入口(虎口)と城門(櫓門)。本当の「奥」空間は出入口を超えてから。
● 曲輪③aから曲輪⑤aをつないだ階段全体が、段石垣を利用しつつ建物で覆われていた可能性。フロイスの記述から、曲輪③aが「奥」の御殿の1階、⑤aが2階、⑥が3階、⑦が4階。曲輪⑤aには庭園も。
● 曲輪②・③・⑤は、水路(堀)を挟んでほぼ同じ高さのaとb、a側が、対応したb側より上位の曲輪。

本書には、山上の城についても、もちろん考究されています。

● フロイスは、山上の城に来るよう招待された。フロイスの記録は、信長が山麓館ではなく、山上の城に家族と共に暮らしたことを明示。
● 公家の山科言継も、〔フロイスと同年に〕岐阜城の山城の見学を許可された。〔その記録の記述も〕フロイスが信長は家族とともに山城の御殿に住んだと記したのと一致。
● 二人の訪問者の記録から、岐阜城は山麓と山城に信長の御殿。
山麓の御殿は信長が使者や家臣たちと公式に対面する主殿的建物を中核、国政的支配を担う場。
これに対し、山城の御殿は、信長と家族が日常的に居住した常御殿としての機能を中心に、選ばれた人とのみ、人格的な関係を醸成した会所機能。

信長は、濃姫や信忠・信雄・信孝ら家族とともに山上の城に住んで、麓の御殿に「通勤」していたようです。岐阜入りした1567年、信長の息子たちは、信忠が11歳、信雄・信孝は10歳でした、

 

 

「第3室 織田信長による尾張統一」はこれで終了です。宜しければ、「第4室 織田信秀・信長 関連資料室」にも、ぜひお立ち寄りください。織田信秀と尾張時代の織田信長に関する読書案内を兼ねて、本歴史館を制作するにあたり参考にした研究書等をご紹介しています。