3-10 桶狭間合戦 1 合戦の準備

 

信長は、1558(永禄元)年の夏から秋にかけて、守護・斯波義銀を追放、岩倉を討破り信勝も殺害して、一気に尾張の戦国大名となり、翌1559(永禄2)年には上洛も行いました。とはいえ、このときまでに信長の勢力下にあったのは尾張の半分ちょっとであったことを、前ページで確認しました。

翌1560(永禄3)年、駿河の今川義元が自ら尾張に攻め込んできて、桶狭間の合戦となります。このページでは、まず、桶狭間合戦の原因、両軍の準備状況などについて確認していきます。

 

 

桶狭間合戦 - 義元上洛・信長奇襲の旧説から大変化

かつては 『甫庵信長記』 により「奇襲戦」、今は 『信長公記』 により「正面攻撃」が通説

桶狭間の合戦と言えば、かつては、信長による奇襲攻撃戦であったと、広く信じられていました。迂回奇襲戦説の発生は、歴史小説たる 『甫庵信長記』 の記述がその端緒とされています。それが事実として広く信じられたのは、たった2千程度の織田軍が、どうやって4万5千の今川の大軍に勝つことが出来たのか(2千・4万5千は 『信長公記』・『甫庵信長記』 の数字)、非常に理解しがたいという根本的な事情があり、奇襲戦だったと言われれば理解しやすかったため、と思われます。

『信長公記』 が軍事史料としても第一級の史料であることに着眼して、『信長公記』 の記述からは桶狭間合戦は奇襲ではなく正面攻撃戦であったことを指摘した藤本正行説(藤本正行 『信長の戦争』)以来、現在の通説は正面攻撃説に変わった、と言ってよさそうです。また、その背景としては、根拠となる史料が 『信長公記』 に変わり、『甫庵信長記』 は歴史小説であるとの評価に転じたため、とも言えます。

義元の進攻目的も、上洛説から変化

もう一つの通説の変化は、義元の侵攻の目的です。かつての通説では、上洛のため、とされていました。しかしながら、この歴史館では、織田・今川間の争いが1548(天文17)年以来、ほぼ毎年続いてきたことをすでに確認してきました。それをあらためて整理しますと、以下のようになっています。

  事項 公記 甫庵
1538 天文7 信秀が那古野今川氏より那古野城を奪取    
1545 天文14 10月、今川は北条と和睦、翌年から三河攻め開始    
1548 天文17 3月、小豆坂の戦い
1549 天文18 3月、今川が岡崎を接収、9月以降の三河攻勢で、信秀は安祥城を失う  
1550 天文19 8~12月の攻勢で、尾張・三河の国境から一部尾張内まで今川が掌握    
1551 天文20 足利将軍からの和睦勧告により、現状で停戦    
1552 天文21 3月、信秀死去。9月、今川は八事まで出陣    
1553 天文22 4月、信長は、今川方に転じた鳴海の山口父子と赤塚の合戦  
1554 天文23 1月、信長は今川方と村木砦の戦い  
1555 弘治元 この年、西三河では今川勢力が後退    
1556 弘治2 3月、信長は吉良義昭支援で西尾(八ッ面)に出陣  
1557 弘治3 4月上旬、尾張・三河の守護和睦の儀式  
1558 永禄元 3月、今川勢が品野・笠寺に進出    
1560 永禄3 5月19日、桶狭間合戦

尾張の織田と駿河・遠江・三河の今川の間には、1545(天文14)年以後、1560(永禄3)年の桶狭間合戦に至る15年の間、多少の停戦期間を挟みながらも、ほぼ毎年なにがしかの対立抗争がありました。また、両者間の 対立の根源的な原因として、信秀による那古野今川氏からの那古野城の奪取という事件がありました。こうして、表に整理してみると、桶狭間合戦も、両者間の対立抗争の一環であったことは自明です。

織田・今川の対立抗争を記述していた 『信長公記』、対立を記さず上洛説を創作した 『甫庵信長記』

上の表中で、「公記」 欄に〇を付けた事項は、『信長公記』 に記事があります。織田・今川の対立に関連して史料で確認できる主要事件のうち、半数以上の項目で記事がある、といえます。これらに加えて、今川義元が鳴海の山口父子を駿河に呼び寄せて腹を切らせた、という記事(首巻 20)もあります。

つまり、『信長公記』 の読者なら、織田・今川の長年の対立関係に関し多数の記事を読んでいますから、永禄3年に義元が大軍を率いて尾張に攻めてきても、両者の対立抗争の延長線上の行動として理解します。実際、『信長公記』 には、義元の尾張出陣の理由の記述はありません。

一方、上の表中で「甫庵」欄に〇を付けた事項は、『甫庵信長記』 に記述がある事項です。織田・今川の対立抗争の中でこれだけ多数の事件が発生していたにかかわらず、『甫庵信長記』 には、小豆坂の戦いしか記事がないのです。『甫庵信長記』 だけを読んでいる読者からしますと、織田・今川の関係については、小豆坂の記事しかなかったところに、急に桶狭間が起こってしまうので、義元が尾張に攻めてくるのが唐突に感じられてしまうことになります。

おそらくはその故に、小瀬甫庵は、読者に義元出陣の理由を示す必要があると考え、「ここに今川義元は天下へ切って上り、国家の邪路を正さんとて」上洛しようとした、という上洛説を編み出したのかもしれません。同書しか読まない読者がそれを信じても、当然のことだと思われます。

江戸期以降の長きにわたり、『信長公記』 は出版されなかったので世間的にはほとんど読まれず、もっぱら、出版された歴史小説 『甫庵信長記』と、それをさらに膨らませた創作読み物ばかりが読まれてきたおかげで、織田・今川は15年にわたる対立抗争中であったことが、あまり知られずに来た、ということであったように思われます。

現代の通説は上洛説を否定

1899(明治32)に出された参謀本部 『日本戦史・桶狭間役』 は、『信長公記』 を含む多数の史料に目を通しており、まず駿河・今川と尾張・斯波/織田の対立抗争史を説明し、「以上列記する所を通観せば、この役の来由は自ずから瞭然たらん」として、基本は対立抗争の延長上の合戦と見ています。その上で、「ただ織田を滅ぼし尾張を併するにとどまらざりし」ことがあったとして、天下取り説も加えています。『甫庵信長記』 も史料と見られていた時代のことであり、やむを得ない見解であったように思われます。

藤本説以後は、『信長公記』 や 『三河物語』 には上洛をイメージする言葉は見当たらないことから、「上洛否定の立場にたつ研究の方が主流」となっていて、三河確保説(久保田昌希)・織田方封鎖解除説(藤本正行)・水野氏封じ込め説(桐野作人)・尾張今川領回復説(横山住雄)・尾張奪取説(小和田哲夫)の5説が出ているようです(小和田哲夫 『東海の戦国史』)。いずれの説であれ、長年の対立抗争の延長線上の合戦と見られているわけです。

義元が輿に乗って出陣したのは、尾張奪取の決意の表れ

上述の通り、小和田説は、今川義元出陣の目的は、単に、三河を確保するため、織田方封鎖を解除するため、水野氏を封じ込めるため、だったのではなく、尾張今川領を回復しさらには尾張を奪取するためであった、とするものですが、これに関しもう少し見ておきたいと思います。以下は、小和田哲夫 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付』 からの要約です。

● 〔義元が〕もし上洛を目ざすなら、尾張の信長はともかく、美濃の斎藤義龍や、南近江の六角承禎など、通過地点となる大名や京都の公家たちになんらかの政治工作をしていたはず。それが全く見られない。
● 永禄3年の時点では、すでに義元は三河を完全に掌握。大軍を投入、自ら出陣していることを考慮すると、鳴海城・大高城の救援だけがねらいだったのではないようにも思われる。
● 義元が輿に乗って出陣していたことは、従来はお歯黒の一件とともに、軟弱武将の証明のようにいわれてきた。しかし、輿に乗ることは、室町将軍家から特に許された特権、義元は、尾張の小戦国大名織田信長とその家臣たちに圧力をかけるため、特権を誇示し、輿に乗って出陣したものと思われる。織田方封鎖解除のためだけなら、そのような示威的行動は不必要。
● 義元が尾張侵攻を本格化させた理由は2つ。1つは、戦国大名の宿命の領土拡張。甲相駿三国同盟があるので、侵略の鉾先は尾張に向けざるを得なかった。もう一つは、那古野城の奪還。弘治3年(1557)3月の段階で、駿河に「今川那古野殿」がいた(『言継卿記』)。その城の回復を図ろうとしていたことは十分考えられる。
● 結論として、この永禄3年5月の義元の出陣は、鳴海城・大高城を足場に、那古野城あたりまで今川領に組み込むため。

実質的に、横山説と小和田説には余り差がないようです。信秀が今川那古野氏から那古野城を奪ったのは、桶狭間合戦のわずか22年前、もともと尾張の愛知郡は今川の領地であったのが、その時織田に奪われた、という強い記憶があったものと思われます。とりわけ、その時の那古野城主は義元の弟である氏豊で、しかも氏豊は現に駿河に住んでいたのですから、その領土回復を目的に行動を起こした、というのは、良く理解できる説明です。

義元率いる今川軍の尾張侵攻の目的は、
① まずは鳴海城・大高城を織田軍の包囲から救い出す (主目的達成のステップ)
② さらに那古野今川氏の旧領を回復する (ミニマム主目的)
③ ことがうまく運べば、さらに尾張のできるだけ多くを奪取する (マクシマム主目的)
ということであったと整理できそうです。

たしかに、那古野城まで取れば、義元になびく尾張勢がたくさん出てきて不思議ありません。②の旧領回復 を主目的に、できれば ③の尾張奪取まで実現することを目指したものの、主目的に至るステップであった①の包囲救出の途中で義元自身が討たれてしまった、という結果になりました。

 

桶狭間合戦の直接原因 - 今川方の鳴海・大高城に、信長方が付け城

鳴海城主・山口左馬助父子の最後

今川義元の出陣の理由は、那古野今川氏の旧領の奪還しさらに尾張を奪取することではありましたが、そのステップとして、まず手始めに、鳴海・大高両城を織田側の封鎖から救い出そうとしたことは間違いありません。そこで、赤塚合戦後、鳴海方面の状況はどうであったのかについて、確認したいと思います。

1553(天文22)年の赤塚合戦では信長と勝敗のつかなかった山口左馬助父子ですが、最終的に桶狭間合戦以前に、今川義元から切腹させられています。以下は、『信長公記』(首巻20)からの抜粋です。

● 〔山口左馬助は信長への〕逆心を企て、駿河衆を引き入れ、大高の城・沓掛の城両城とも乗っ取り。
● 〔今川は〕鳴海の城には駿河より岡部五郎兵衛城代として立てこもり、大高の城・沓掛の城番手の人数たぶたぶと〔たっぷり〕入れ置く。
● この後程あって、山口左馬助・子息九郎次郎父子駿州へ呼び寄せ、忠節の褒美なくして、情け無く親子共に腹を切らせ候。

これだけ読むと、山口父子は今川から城を取られてしまい、いいように使われただけ、という印象になりますが、山口左馬助は信長の策略によって今川方に討取られた、としている史料があるようです。以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。

〔江戸時代の史料に〕山口左馬助は戸部城主の山口愛智が信長に打ち取られたのを見て、鳴海城から逃れて吉田(豊橋)に至り水野新左衛門と改名していたところ、信長輩下の佐久間信盛の発案で「信長出陣のときは山口左馬助も味方する」との偽書を作り、吉田城主の家老が拾うようにした。案の定、家老が拾って左馬助は切腹させられた。

この山口父子の最後はいつの出来事であったのか、『信長公記』には年月が書かれていません。『新修名古屋市史 2』(下村信博氏 執筆部分)は、次のように見ています。以下は同書からの要約です。

● 弘治元年(1555)2月5日付信長の判物、鳴海に同心した星崎・根上の者の領地の調査を指示。弘治3年(1557)12月3日付今川義元朱印状、鳴海東宮大明神祢宜に同明神を安堵、近年横領の祢宜の不法は在城衆に申付くべし。
● この弘治元~3年の間に、山口父子が滅ぼされ、今川氏の派遣した城代岡部五郎兵衛が置かれて、鳴海城近辺は今川氏の直接支配下に入ったと推定される。
● 当時今川氏の最前線は、天白川東岸の鳴海・大高両城であり、同西岸の笠寺・中村砦は信長方が奪回したと推測される。そうでなければ、 信長は、鳴海城の周囲に付け城を築くことは無理と思われる。

山口父子は、赤塚合戦から2~4年のうちに切腹させられたようです。今川方が鳴海城を完全支配するために切腹させたのか、策略が背景にあって切腹させられたのか、いずれにしても山口父子には同情したくなります。戦国時代、力のある者同士の間に挟まれていた小領主は、どちら側と組んでも、生き延びるのはなかなか困難であったと言えそうです。

今川方の鳴海・大高両城への信長の対抗策 - 付け城

一方、山口父子の切腹以後、3~5年ほどの間は、鳴海は今川の直轄地となっていた、ということになります。信長側からすれば、鳴海・大高を奪回するために手を尽くして当然であり、信長が打った手は、両城を包囲するよう付け城を構えることで、両城を封鎖すし音を上げさせることでした。以下は、『信長公記』(首巻23)からの要約です。

● 鳴海の城、南は黒末の川〔扇川〕があり入海(いりうみ)、潮の満ち引きは城下まであり。東へ谷合が続き、西はまた深田である。これより東へは山続きである。
● 城から20町(2キロ強)を隔てて、丹下という古屋敷あり、これを砦に構え、水野帯刀ほかを置いた。東に善照寺という古跡あり、砦にして佐久間右衛門兄弟を置いた。南に中島という小村あり、砦にして梶川平左衛門を置いた。
● 黒末入海の向かいに、鳴海と大高の間を取って、砦を2ヵ所、丸根山には佐久間大学を置き、鷲津山には織田玄蕃ほかを入れ置いた。

『信長公記』 には、鳴海城対策の丹下・善照寺・中島の3砦、大高城対策の丸根山・鷲津山の2砦、合わせ5砦しか出てきませんが、他の史料(松平奥平家古文書)には、正光寺砦・氷上砦も出てきますので、少なくとも計7つほどの砦を作ったようです。

今川方の鳴海・大高両城と、織田方の5つの砦の地図

ここで、今川方の鳴海・大高両城と、織田方の鷲津・丸根・丹下・善照寺・中島の5つの砦の位置関係を、あらかじめ確認しておきたいと思います。下は、「鳴海・大高両城と織田方の5砦の地図」です。国土地理院のデジタル標高地図に、熱田神宮・笠寺観音と2城5砦、さらに加えて正光寺砦・氷上砦も含め、その位置を書き込んだものです。

桶狭間合戦 鳴海・大高両城と織田方の5砦 地図

この地図中で、熱田神宮と大高城の間の濃い青色の地域とその西側の緑色の地域は、江戸時代以降の干拓・埋立でできた陸地であり、信長の当時は海で、海岸線はJR東海道本線あたりでした。『信長公記』(首巻23)にも、「鳴海の城、南は黒末の川とて入海、城の差し引き城下までこれあり」とあり、鳴海城辺りまで入海で、満潮時には城のすぐ下まで海になる土地であったことが分かります。この2城・5砦は、いずれも海岸近くの地にあったわけです。(黒末川を今の天白川としている研究書もありますが、地元名古屋市緑区の資料を見ても、扇川の古名であるようです。)

鳴海城に対した3砦は、どれも鳴海城から600mほどの距離で、同城を北・東・南から囲みました。大高城に対した2砦は、どちらも同城から800m前後の距離で、大高城と鳴海城の間に割って入っています。これら2つの城と5つの砦ですが、現在は、鳴海城→鳴海城跡公園、丹下砦→光明寺近くの民家、善照寺砦→砦公園、大高城→城山八幡社、鷲津砦→鷲津砦公園、となっています。丸根砦跡は、公園にはなっていませんが石碑が立っています。中嶋砦跡は、住宅地の民家ですが、ここにも石碑が立っています。

なお、『信長公記』には記載のない氷上砦・正光寺砦の位置も示してあります。氷上砦は、大高城西南の氷上姉子神社の元宮あたり、正光寺砦は大高城南の大高中学校付近にあったようです。たしかに、この2つの砦がないと、大高城の完全封鎖は困難です。

 

今川方の尾張出陣の準備

義元の尾張侵攻の準備は、9ヵ月前から

合戦の詳細に進む前に、今川義元はいつからその出陣準備を始めたのかも確認したいと思います。以下は、前掲・小和田哲夫 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付く』 からの要約です。

● 少なくとも弘治3年(1557)正月には、義元から氏真に家督が生前相続されていた(新年定例歌会始および『言継卿記』)。支配がしやすい駿河を氏真に任せ、三河から遠江には義元の文書。義元自ら、三河から尾張への侵攻を具体化していく。
● 従来、永禄2年(1559)年の義元の「戦場掟書」は、義元が1年も前から〔尾張侵攻の〕準備を進めてきた証拠といわれてきたが、内容や花押の形から、偽文書の公算が大。
● 同年8月8日付義元の文書、皮革は軍事物資、来年納める予定だった皮革をすぐ揃えよと命じた。この段階ではいつになるかはわからなかったとしても、大動員をかける意向を持っていたことは確実。

桶狭間合戦の9ヵ月前から、尾張侵攻の準備を始めていたようです。

桶狭間合戦前年の10月、今川方は大高城に兵粮搬入

義元自身が大軍勢を率いる尾張侵攻の準備には時間がかかります。一方、鳴海・大高両城の封鎖への対抗策は実施する必要があり、桶狭間合戦の前年である1559(永禄2)年10月には、今川方が大高城に兵粮を搬入したとの史料があるようです。以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』からの要約です。

● 永禄2年10月には、〔今川方の〕奥平監物や菅沼久助が大高城へ兵粮を搬入、その際に大高城を取り巻く正光寺砦・氷上砦を攻略。両砦を潰したことは明記されていないが、10月23日付で義元は両名に感状。(松平奥平家古文書)
● 正光寺砦・氷上砦は、伊勢湾への通行や三河との連絡上、たいへん目障りなのは確か。

信長がいつ、鳴海・大高両城への付け城群を作ったのか、例によって 『信長公記』 に年号は書かれていませんが、上記の松平奥平家古文書からすれば、少なくとも永禄2年の10月以前のことであったように思われます。 信長は、すでに永禄元年の秋までに、岩倉および信勝という主要な尾張国内敵対者を滅ぼしていたので、それ以後は今川との戦いに集中できる余裕と兵力を得ており、実際に鳴海・大高両城対策に乗り出していた、ということなのでしょう。

なお、正光寺・氷上の両砦は、このときの戦いで潰されていたために、『信長公記』 の桶狭間合戦の記事には書かれなかった、と考えておくのがよさそうに思われます。だからこそ、実際の桶狭間合戦で、今川方は、まず救援しやすい大高城に救援を行ったのでしょう。

こうした経緯からしますと、信長が、尾張国内の敵対者の一掃後に、今川方の鳴海・大高城の攻略に乗り出す気になり、両城に付け城を作って包囲攻勢を仕掛けたため、その対応として義元が出陣することになった(江畑英郷氏や藤井尚夫氏の説- 小和田哲夫 『東海の戦国史』 に紹介あり)と見るのが、妥当のように思われます。

信長側も、付け城群を作った時点で当然、今川方は両城救援軍を派遣してくるとの読みがあったはずであり、救援軍の規模がどうなるかは別にして、今川方との合戦を予想していたものと思われます。その意味で、桶狭間合戦はもともと信長側が仕掛けた戦い、と言えるかもしれません。

 

桶狭間合戦での今川軍・織田軍双方の戦力

陸軍参謀本部の推定 - 動員可能は、今川は2万5千、織田は4千

桶狭間合戦の経過を具体的に見ていく前に、両軍はどれだけの兵力を動員したのかについて、確認しておきたいと思います。『信長公記』(首巻24)の桶狭間合戦の記事には、「御敵今川義元は4万5千を引率し」、一方信長方は中島砦に移った時「2千に足らざる御人数」であったと書いています。まず、今川軍4万5千人という大戦力が本当に桶狭間にいたのか、というポイントを確認したいと思います。

参謀本部 『日本戦史・桶狭間役』 は、近代軍の参謀本部に相応の戦史研究であり、織田・今川両軍の戦力や配置について、どこまで正しいかの議論は当然ありうるものの、方法としてはそれなりに合理的な推定を試みています。まずは、双方の兵力について、「当時に近き所の石高を標準とし、もって兵数を測定」するという方法で、以下のように推定を行っています。

● 1万石ごとに兵250名の比例をもって計算 ← 慶長5年の会津の役は1万石ごとに300人、元和元年の大坂の役では同200人
● 織田は、尾張の5分の2程度を領有として16~17万石 → 織田の兵力は4千内外
● 今川の領地は、駿河・遠江・三河と尾張にもまたがり、100万石以上 → 今川の兵員は約2万5千

すなわち、『信長公記』には4万5千とあっても、参謀本部は今川軍の実数を2万5千程度と見たわけです。

なお、参謀本部は、織田方5砦の守兵の兵員数は、いずれも「兵力不詳」としつつも、鷲津砦は400人、丸根砦は400~700人の説ありと紹介しています。織田方は、今川軍の尾張侵攻の報を聞いて、5砦の守兵を、合わせて1000~2000人程度にまで増強していたのかもしれません。

小和田説 - 今川は陣夫も含めて2万5千

現代の研究者は、この点をどう見ているのか、以下は、小和田哲夫 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付く』からの要約です。

● 毛利元就の最盛時、中国地方10ヵ国を支配した段階すら、最大動員兵力は6万。駿河・遠江・三河の3ヵ国に尾張の一部が加わっただけの義元に、4万5千もの動員力があったとは思えない。
● 今川方が織田方を圧倒するため、4万5千と宣伝していた可能性。また、勝った方〔織田方〕は、いかに少ない兵力で相手を打ち破ったかを自慢したくなる。
● 同盟者の史料、『北条五代記』によると、このときの今川軍は2万5千、『甲陽軍鑑』では2万余。
● 近世大名の軍役基準、1万石につき250人。義元は石高換算すれば90~100万石で、2万2500~2万5000人。
● この2万5千人をすべて専業武士と考えては早計。大多数は挑発された百姓。史料によると、戦場で1000人の死者があれば、そのうち侍は100~150人。この比率は、兵農未分離の今川軍団にもあてはまり、2万5千のうち2万数千は百姓だった。
● それとは別に、小荷駄隊などのため、百姓を陣夫として徴用。今川軍2万5千には、陣夫も多数含まれていた。

1万石あたり250人という計算は参謀本部と同じですが、兵農未分離だった今川方の場合、その大部分は専業の侍ではなく農民であり、また陣夫も含まれていた、というのが実情であったようです。ただし、陣夫がどの程度いたのかは、示されていません。

陣夫を除く実兵力は2万以下

陣夫は、近代軍でいえば軍夫で、主には輜重の実働を担った輜重輸卒ということになるかと思われます。参考までに、世の中にまだ自動車・トラックというものがほとんど存在していなかった時代の戦争であり、中世・近世とほぼ同様に内陸部では馬力・人力に頼らざるを得なかった日清戦争の例を挙げますと、参与した軍人・兵卒は合計約24万人、一方、雇用軍夫は10万人以上でした(「日清戦争の戦費と戦死・戦病死者 - カイゼン視点から見る日清戦争」)ので、比率としては、将兵が約7割・軍夫は約3割であった、ということになります。一方、江戸時代の史料に、戦闘員(武士・足軽):小荷駄隊人夫(馬の世話係を含む)の比率はおよそ3:1であった、という数字もあったようです(ウィキペディア 「小荷駄」の項)。

戦国時代の戦闘員と非戦闘員の比率について、以下は、鈴木眞哉 『戦国軍事史への挑戦』 からの要約です。

● 戦国時代の軍隊の構成はよくわからないところが多い。戦闘員と非戦闘員の比率がどうなっていたか、見当がつきかねる。そもそも、両者の線引がはっきりしない面がある。
● 〔史料から〕朝鮮出兵にあたり立花・高橋部隊の例、士分が300人、旗持ち・鉄砲足軽・槍足軽などの兵卒が1100人、両者合わせて1400人〔47%〕を一応戦闘員と見る。馬丁、小者、小荷駄などの雑卒が非戦闘員、合わせて1600人〔53%〕。
● 元和5年 (1619) の「毛利家文書」の人数書、総人数3150人のうち、騎馬の士から馬丁までが1576人〔50%〕、輸卒の類が1574人〔50%〕。ただし、馬取 (馬丁) は非戦闘員にカウントすべき、それを加えた非戦闘員比率は62.2%となる。
● 芸州浅野家が宝永6年 (1709) に定め直した「50騎1備」、総勢848人のうち119人いる「手明 (てあき)」をどう見るかが問題だが、これを戦闘員とすれば、戦闘員が52%、非戦闘員と見れば、戦闘員は38%。

史料が乏しくよく分からないし、戦闘員・非戦闘員の定義にもよりますが、戦闘員比率は6~4割程度であったようです。

定義による、というのは、実際のところ、戦国時代の軍の中には、戦闘員とも非戦闘員とも決めがたい、槍担ぎ、旗指馬印持ち、持ち筒担ぎ、持ち弓担ぎ、草履取り、挟み箱持ち、馬取り、沓持ち、矢箱持ち、玉箱持ち、などという役割の人々がいたからです。彼らは、鉄砲足軽・弓足軽・槍足軽と同様に、主人である侍に従って戦場には出るものの、その主任務は戦闘ではありませんでした。しかし現に戦場に出ていたので、敵が自分の前に出てくれば太刀をもって闘うことがあり、準戦闘員とも呼ぶべき存在であったと思われます。詳しくは江戸前期の史料である 『雑兵物語』 をご参照ください。

桶狭間合戦の場合、織田方は尾張の地元なので、小荷駄隊の必要はありませんが、今川方は遠征軍であり、また封鎖されていた鳴海・大高両城への兵粮供給も行う必要があったため、それなりの人数の陣夫がいたものと思われます。今川軍の総員の25%は小荷駄隊の陣夫であったと見ると、今川軍は、総員2万5千のうち、戦闘員1万9千弱程度(小荷駄隊以外の非戦闘員を含む)+陣夫6千強程度であった、ということになるかもしれません。

藤本正行 『桶狭間の戦い』 は、根拠を説明してはいないものの、「今川軍は鳴海城と大高城の人数も含めて2万弱」と見ています。本歴史館も、今川軍の陣夫を除く実兵力は2万弱程度であった、と見ることに致します。ただし、これが正確な想定とは全く考えておりません。4万5千もの兵力ではなかったことは確実であること、ではどのくらいと言えば、概略この程度であったのではないか(±数割程度の誤差)、と見ているだけです。

信長軍の動員可能な戦闘員数は4000程度

一方、信長軍の兵力は、『信長公記』 の記述からある程度見当がつきます。桶狭間合戦に至るまでの信長軍の動員数は、『信長公記』 中に、以下のように記されています。

● 1553(天文2)年: 道三との会見 700~800、赤塚合戦 800
● 1556(弘治2)年: 稲生合戦 700 (敵方は、柴田権六 1000・林美作 700)
● 1558(弘治4)年: 浮野合戦 ? (敵の岩倉方 3000)

道三との会見・赤塚合戦時は、父信秀が亡くなって弟信勝と分割相続をした直後であり、その時の信長の兵力は800人ほどしかなかったことが明らかです。稲生合戦時には、林兄弟が離反して信勝側に回っていましたから、元々の800人から林兄弟分を引いてさらに小さくなっていたところを、何とか募集・動員を強めて700を確保した、というところだったのでしょう。一方、このとき信勝方は、柴田・林の両兵力を足して1700ありました。稲生合戦で勝利したので、信長は、大変に概略ですが、元々の自戦力700に旧信勝方の1700を加え、2400ほどの動員が可能になった、と見ることが出来るように思われます。

従って、浮野合戦時には、3000の岩倉方に対し、信長方も少なくとも2400ほどはいたものと思われます。岩倉方は、この合戦で1250人以上が討取られました。浮野合戦後は、岩倉方の生存者相当数、およそ1700が信長の兵力に加わったとして、2400+1700で、桶狭間合戦時には4000人強の兵力が動員可能になっていた、と見て良いのではないでしょうか。この数字は、たまたまですが、参謀本部の推定とも一致します。なお、これらの合戦はすべて地元での合戦なので、荷駄要員等は不要でした。

本郷和人 『戦いの日本史』 は、「尾張1国を平定していれば2万の兵を動員することも可能だが、まだその支配は成熟していない … けれども、おそらく1万は超える兵は用意していたに違いない」と書いています。この時点の信長は、まだ尾張の半分ちょっとしか確保しておらず、最大可能動員数が1万人程度というところまでは本郷説に合意できますが、下記の引き算が必要になろうと思われます。

最大動員可能数: 1万
△ 荷駄要員: 4千 (今川軍と異なり、地元での合戦なので荷駄要員は不要)
△ 参集困難: 2千 (当日夜明け頃の突然召集のため、清須より遠くに居住していた者は間に合わなかった)
△ 砦の戦力: 1千~1千5百 (すでに砦内に配置)
野戦投入可能な戦闘員数計: 2千5百~3千

桶狭間の野戦で使えたのは、2500~3000程度であったのではないか、と思われます。

 

今川義元の出陣・行軍

義元の行軍日程

およそ2万の今川軍は、どれだけの日数をかけて尾張に来たのか、以下は、再び小和田哲夫 『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』 からの要約です。

● 今川軍の先鋒が駿府今川館〔静岡市〕を出陣したのは永禄3年5月10日。先鋒軍の大将は遠江の井伊直盛、この先鋒軍には松平元康〔家康〕が1000の兵を率いて従軍。
● あとに続くように、2万5千の大軍が続々と出陣、義元本隊の出陣は12日、その日は藤枝、13日は懸川〔掛川〕城、14日には引馬〔浜松〕城、15日は三河の吉田〔豊橋〕城、16日には岡崎城、17日に池鯉鮒〔知立〕、18日〔合戦前日〕に沓掛城に入城。

義元本隊は、桶狭間合戦の1週間前に駿府を出発したこと、先鋒軍は義元本隊の2日前に出発していることが分かります。

今川義元本隊の行軍路の地図

義元本隊が進んだ行軍路を、地図上で確認してみたいと思います。なお、駿府は現在の静岡、懸川は掛川、引馬は浜松、吉田は豊橋、池鯉鮒は知立です。

桶狭間合戦 今川義元本隊の行軍路 地図

現代の鉄道路線でいえば、吉田(豊橋)まではおおむねJR東海道本線沿い、その後は名鉄名古屋本線沿いのルートをやってきた、ということになります。1日どれぐらいの距離を進んだのか、鉄道各駅間の距離数でみてみますと、下記のようになっています(小数点以下4捨5入)。

今川本体の進軍距離
1日目 静岡 - 藤枝 20キロ (JR東海道本線)
2日目 藤枝 - 掛川 29キロ (同上)
3日目 掛川 - 浜松 28キロ (同上)
4日目 浜松 - 豊橋 37キロ (同上)
5日目 豊橋 - 東岡崎 30キロ (名鉄名古屋本線)
6日目 東岡崎 - 知立 13キロ (同上)
7日目 知立 - 沓掛 7キロ (直線距離)

沓掛城の場合はすぐそばには鉄道駅がないため、Google Mapの距離計測機能を使っています。なお、8日目は、沓掛城 → 大高城への行軍予定であり、直線距離で8キロの移動予定でした。この行軍路を見てみますと、岡崎城までは1日30キロ前後の快速で行軍してきたものの、それ以後は行軍速度を1日7~8キロまで落としていることが分かります。

では、この今川大軍団の進軍情報が、いつごろまでに信長に届いていたか、ということになりますが、今川の先鋒軍は本隊より2日間先行していたこともあり、いくら遅くとも合戦の2日前、すなわち義元本隊が岡崎を立って知立入りした17日ごろまでには、信長の元に義元の大軍団襲来の報が届いていたのではないか、すると、砦の守兵増強などの手を打つ時間はそれなりにあったのではないか、と思いますが、いかがでしょうか。

沓掛での今川軍の軍議

沓掛まで進んだ義元は、そこで今川軍の軍議を行ったようです。以下は再び、小和田哲夫 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付く』 からの要約です。

● 徳川家康関係の史料に、「18日、今川義元、池鯉鮒より尾張国沓掛に至り、諸将を集めて軍議あり」。そのときの軍議でどのような相談がなされたのかは、史料がなく不明。
● 義元は、翌19日、沓掛城から大高城に進む予定で、あらかじめ松平元康〔家康〕に大高城への兵粮入れを命じた。元康は、その夜大役を果たしそのまま大高城にとどまり、19日未明にはじまる丸根砦・鷲津砦攻めのうち、丸根砦攻めに参加。これも18日の沓掛城での軍議で決められた予定の行動と思われる。
● つまり、19日の午後に義元本隊が大高城に到着する前に、丸根砦・鷲津砦を陥落させておく必要があった。

すなわち、18日昼間の沓掛軍議では、尾張侵攻の目的中の最初の目的である鳴海・大高両城の織田方封鎖からの解放について、まず大高城の封鎖解除を先行し、18日夜に兵粮入れ、19日未明に丸根・鷲津両砦の攻略、そして19日午後には義元本隊の大高城入りが決定された、とみられるようです。

沓掛軍議で生じた義元の最初の敗因

ここに一つ、義元にとって最初の敗因が生じたかもしれません。この沓掛軍議で、鳴海・大高両城の同時解放のため、丸根・鷲津・中島・善照寺・丹下5砦への一斉攻撃を仕掛けるように決定しなかったことです。

上に確認してきました通り、今川軍は2万弱、織田軍は最大でも4千程度(実際に5砦にいた人数は合計でおそらく千~千5百)と、きわめて大きな兵力差がありました。攻城戦では守備側の3倍の人数が必要と言われますが、今川軍は織田軍の砦兵力の実数に対し、10倍以上の兵力がありました。次ページで確認しますが、実際に、大高城を救援し丸根・鷲津両砦の攻略を実施したのは、今川軍の一部だけ、丹下・善照寺・中島3砦も同時に攻略するのに十分な兵力がまだいたのに、使わなかったのです。

同時に5砦を落としていたなら、そもそも信長が善照寺・中島砦から桶狭間合戦を挑んでくるなどあり得なかったことになりますし、織田軍に与える心理的なインパクトははるかに強く、那古野城攻略まで一気に進んでいた可能性もあるように思われます。あるいは、合戦1日目は丸根・鷲津の2砦攻略だけとしても、続けて2日目に丹下・善照寺・中島3砦を攻略する方針を明確にして、織田方に圧力をかけるために1日目の午前中にそのための兵の配置を完了する手配としていれば、信長は今川軍への挑戦を控えざるを得なかった可能性があると思われるのですが、いかがでしょうか。

 

 

いよいよ合戦が始まります。次は桶狭間合戦の経過についてです。