織田信秀・信長の事績の確認に進む前に、戦国時代の尾張国はどのような領域や体制であったかを、具体的に確認していきます。まず、このページと次ページで、尾張国の当時の領域を確認します。
● このページの内容 と ◎ このページの地図
戦国時代の尾張国の領域は、江戸~明治以降の領域とは異なっていた
尾張の国というと、大多数の人は、「現在の愛知県の西側3分の1ほど」の領域のことを思い浮かべると思います。江戸時代以降の領域としては適切な認識です。しかし、戦国時代の尾張国は、少し相違していました。
非常に大きな相違であったという訳ではありませんが、信秀・信長の行動・事績を十分に理解する上では、注意を払うのが適切だと思います。たとえば、両者が所領とした熱田はなぜ重要であったのか、あるいは、美濃攻めに際してはどこで大河を渡ったのか、などが気になるところです。その点を、まず最初に確認したいと思います。
戦国時代の尾張国の領域の地図 ー 違いは、海の広がりと国境線
下が戦国期、織田信秀・信長の時代の尾張国の領域を示す地図です。研究書や論文等で示されている知見に基づいて、Yahooの地図に下記の変更を加えています。
● 名古屋市南部から桑名市長島までの範囲で、当時はまだ海の下であった地域を、青色で表示しました。
→ 名古屋市南部から桑名市長島までのかなり広い地域が、当時はまだ海でした。(知多半島の北西部・東部の埋め立て地や中部国際空港などは青色にしてありませんが、やはり当時はそこに陸地はなく海であった、と思ってください)
● 戦国時代の国境線の概略を、赤色の線で記入しました。
→ 当時までの尾張・美濃の国境線は、現在の愛知・岐阜の県境線よりも岐阜県側にかなり張り出していました。伊勢・三重県側にも少し張り出していました。この国境線は、細部まで正確ではありませんが、概略としてはこんなものであった、とご理解ください。
ただし、国境と支配領域は、一致していたわけではありません。戦国期には、美濃や三河の領主が尾張国内に所領をもっていたり、その逆の場合があったりしたました。江戸期にも、尾張徳川家の支配地域が美濃国内にもありました。
この地図から分かることは、① 海は今よりもずいぶん広かったこと、② 国境線も美濃側に張り出していたこと、の2点です。
戦国期と江戸~明治期との第一の相違点 - 広い干拓・埋立地
戦国期と江戸期以降の尾張国の領域の大きな相違点の一つは、戦国期の海の広さです。この点は、織田信秀・信長の事績・行動を確認する上でも重要です。
例えば、熱田は海岸沿いで、港湾商業都市でした。ですから、織田信秀が那古野城を奪取して熱田も手に入れたことは、信秀の経済力を大きく高めました。あるいは、桶狭間合戦時、熱田・大高間は海で、視界を遮る木も建物も全くなかったために、信長は熱田から大高方向で立ち上る煙を見て、信長方の鷲津・丸根の両砦が落ちたことを知りました。
江戸期から干拓による土地拡張が活発になった
武力で領地を取り合う戦国時代が終わった江戸期からは、尾張の伊勢湾岸では積極的に干拓が進められ、明治以降には埋立も行われて、戦国期よりも海はずいぶん狭くなりました。以下は、『新修名古屋市史 第2巻』(上村喜久子氏 執筆部分)からの要約です。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風後の中日新聞には、名古屋大学中村栄孝教授の「三百年の努力むなしー伊勢湾台風の惨禍」との一文があり、今回浸水した旧東海道以南の地域は尾張藩による干拓地であったことを紹介し、この台風が鎌倉時代の海岸線を現出させたことに注目した。
伊勢湾台風での冠水・湛水地域は中世の海岸線付近を一つの区切りとしながらも、さらにそれをはるかに超えて内陸部までがひろがっていた。現〔名古屋〕市域の南部、港区および中川区・熱田区・南区の一部は江戸時代以降の干拓や埋立によって陸地化したもので、中世にはそのほとんどが海であった。
戦国時代の人々は、少なくとも土地所有権に関しては、江戸時代以降の人々とは大きく異なる倫理観を持っていたようです。なにしろ、武力で他人の所領を奪うことが当たり前の時代だったわけですから。その代わり、農民でも太閤になれたような、日本史上類のない実力主義の時代でもありました。この時代は、当時の倫理観のゆえに、大名・武将は、自領内で新田開発をするより先に、他者の領地を武力で横領する方向に努力を向けました。その方が手っ取り早く所領を拡大できると考えられたのでしょう。
関白となった豊臣秀吉による平和令・惣無事令以降、大名が他者の領地を武力で奪うことは禁じられました。さらに徳川幕府の体制安定が最優先される江戸時代になると、自領の経済拡張の方策として新田開発が積極的に行われ、干拓地も大きく広がりました。その代わりに武士は官僚化し、また身分制は徹底されて農民が武士になることも困難な社会となりましたが。
海部郡~名古屋市南部、おおむね国道1号線の南は、戦国期には海だった
では、具体的にどれだけの地域が江戸期以降に干拓されたのか、信秀・信長の時代にはまだ海の下であった地域を、地図で確認したいと思います。やはり、国土地理院の治水地形分類図を利用し、それに干拓地・埋立地の区分と、熱田ほかの地点の情報、国道1号線と名鉄常滑線の位置を追記しました。
この地図からは、下記のかなり広い地域が、織田信秀・信長の時代にはまだ海であったことがわかります。
● 名古屋市南区・港区~桑名市長島にかけては、おおむね国道1号線より海側(西側・南側)
● 知多半島方面、東海市・名鉄名和駅以南では、名鉄常滑線より海側(西側)
熱田の地は、江戸時代は東海道・七里の渡しの出発点でしたが、まさしく海に面していて、海上と陸上の交通が出会う重要な物流結節点であったことが分かります。なお、熱田の南東方、鳴海方面は、この地図では氾濫平野の緑色で示されていますが、信長の時代までは、満潮になると海となり、干潮になると干潟になる土地であったと考えられます。(『信長公記』・榎原雅治 『中世の東海道をゆく』)
伊勢湾台風では、江戸期以来の干拓地を越えて浸水した
ついでに、1959(昭和34)年の伊勢湾台風時の浸水域も確認しておきます。
この地図は、伊勢湾台風の翌年に作成されたもので、独立行政法人・防災科学技術研究所・自然災害情報室のウェブサイトで公開されています。すぐ上の干拓地の地図と比較すると、江戸期以降の干拓地はすべて伊勢湾台風で浸水したこと、それどころか、その北のかなり広い地域まで浸水被害が及んでいたことが分かります。伊勢湾台風は、江戸時代以来の300年の干拓努力を、一時的にせよ一挙に喪失させた台風であったわけで、大自然の脅威の巨大さを再認識させられます。
続いては、戦国期と江戸期以降の尾張国の領域の相違の2点目、国境線の相違と、その原因となった木曽川の河道の変化についてです。