4-9 桶狭間合戦に関する資料・研究書

 

桶狭間合戦に関する主要な資料・研究書

桶狭間合戦については、おびただしい数の書籍が出版されています。今試しに「桶狭間」を検索してみると、丸善・ジュンク堂のオンラインストア・hontoでは約600件、紀伊国屋書店のオンラインストアでは約300件、地元である愛知県図書館の蔵書検索では約190件がヒットしました。かくも多くの著作があるということは、信長とこの合戦についての日本人の関心の高さが示されていると思います。

とはいえ、その圧倒的大多数は、歴史的な事実を提供しているものではなく、事実も伝説もごちゃ混ぜでこの合戦を論じていたり、甚だしきは伝説をさらに膨らませているもの、と思われます。

ここでは、歴史的な事実を提供しているか、主に伝説に基盤を置いてはいても合戦の分析法が参考になるものについて取り上げたいと思います。

 

 

太田牛一 (奥野高広・岩沢愿彦 校注) 『信長公記』 角川文庫 1969

『信長公記』 角川文庫 表紙写真

何と言っても、織田信長の家臣であった人物が書いた、信長についての同時代の記録であり、桶狭間合戦を含む、織田信長の事績についての1級史料です。

角川文庫版以外にも出版されています。現代語訳もいろいろ出ています。研究書も多数あります。詳しくは、「第4室 4-1 『信長公記』とその研究書」のページをご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本思想体系 26 『三河物語 葉隠』 岩波書店 1974
(大久保彦左衛門忠教 (齋木一馬・岡山泰四 校注) 『三河物語』 を所収)

『三河物語 葉隠』 岩波書店 函写真

大久保彦左衛門が、大久保家の子孫へのメッセージとなるように書いた、徳川家と家康・大久保家と自身についての記録です。合戦に関する記述も多く、なかなか読み甲斐があります。

桶狭間合戦については、今川側で出陣し大高城救援を行った徳川家康 (当時は松平元康) 方の見方が記されており、今川方の内情の記述は、今川軍敗北の敗因を説明するものとして、非常に価値があるように思われます。

ただし、大久保彦左衛門が生まれたのが、ちょうど桶狭間の合戦があった年のこと、したがって、『信長公記』 とは異なり本人が直接見聞した訳では無い点は、要注意ではあります。

現代語訳も出ています。詳しくは、「第4室 4-2 『三河物語』など江戸初期史料」のページをご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

藤本正行 『信長の戦争 - 『信長公記』 に見る戦国軍事学』 講談社学術文庫 2003
(初刊 『信長の戦国軍事学』 JICC出版局 1993)

藤本正行 『信長の戦争』 カバー写真

著者は、1975年から1985年にかけて、『信長公記』 を主な典拠として、信長の戦いに関する一連の論考を執筆、それが1冊にまとめられたのが本書とのこと(同著者による 『桶狭間の戦い』 の「はじめに」)。

本書以前には、『甫庵信長記』 に基づいて語られることがほとんどであった桶狭間合戦について、『信長公記』 の記述の方が史実であり、信長は迂回奇襲などしておらず、正面攻撃を行ったと指摘して、桶狭間合戦についての見方を大転換させた、きわめて重要な研究書です。

本書についても、詳しくは「第4室 4-1 『信長公記』とその研究書」のページをご覧ください。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藤本 正行 『桶狭間の戦い ー 信長の決断・義元の誤算』 洋泉社 2010
(初刊 『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』 洋泉社 2008)

藤本 『桶狭間の戦い』 カバー写真

『信長の戦争』により、『信長公記』 の記述こそ史実という見方を新たな通説に変えた著者が、桶狭間合戦のみに焦点を当てて詳述執筆した著作です。

内容は4部構成で、以下の内容となっています。
第1部:『信長公記』が伝える戦いの実相の詳述と総括
第2部: 著者の説に対する批判への反論
第3部: その後登場した新説の当否
第4部: 『甫庵信長記』の創作内容と、それを定説確立した参謀本部の『日本戦史』
付論: 『信長公記』の著者・太田牛一に関してわかっている史実

前掲の 『信長の戦争』 は、桶狭間合戦を理解するための必読書であると思いますが、本書 『桶狭間の戦い』 については、著者の 『信長の戦争』 の見解に同意されていない方に向けた著作、という印象を持ちました。

本歴史館は、『信長の戦争』 での著者の見解に大いに同意しています。しかし、本書で展開されている 『信長公記』 の記述に関する詳細な解釈となりますと、一部に違和感を感じる箇所もありました。

たとえば著者は、「熱田に立ち寄ったのは、休息と後続する人数の集結のためだが、合間に熱田神宮への戦勝祈願もしたはずだ」と解釈しています。本歴史館は、本文に書きました通り、『信長公記』の時間の記述から、熱田は通り道で通っただけ、または、馬の休息に30分使っただけで、人数の集結も戦勝祈願も行っていない、と見ています。

もう一つ、違和感を持つのは、『三河物語』 の記述についての見方。原文の紹介はなく、「織田軍の進撃に対し、今川軍の対応が遅れた様が描かれている」とだけ記述されています。この記述からは、信長軍の動きが見えているのに長評定をしているだけだった今川軍内の動きと内部連絡の悪さが見えません。

ただ、これらは違和感程度のことであり、信長が「寡兵よく勝利を得られたのは、大変幸運だったと思う」という総括には全く異議ありません。

本歴史館では、「第3室 織田信長 3-10 桶狭間合戦 1 合戦の準備」のページで、本書からの引用等を行っています。

 

参謀本部第4部 編纂 『日本戦史 桶狭間役』 参謀本部 1899

藤本正行氏は、『信長の戦争』 の中で、この参謀本部による 『日本戦史』 を次のように批判しています。

『甫庵信長記』 を増補して作った 『総見記』 をはじめとする後代の編纂物の類が、一級資料と同等の扱われ方をしており、その一方で史料批判はなおざりにされている。そしてこれが、戦前の日本古戦史のテキストとして、最も権威があったものなのである。

参謀本部 『日本戦史』 が後世に絶大な影響を与えた実例として、藤本氏は、合戦当時から明治初めまでほぼ一貫して「あるみ原」と呼ばれていた長篠合戦の主戦場が、『日本戦史』 の冒頭で中で「設楽原 (しだらがはら)」で行われたとほんの1行書いたため、現在では「設楽原」になってしまっていることを挙げています。

この藤本氏による批判を読むと、本書・参謀本部 『日本戦史 桶狭間役』 は読む価値が無いように思われるかもしれません。たしかに、参謀本部 『日本戦史』 がその後の歴史研究に与えた悪影響を考えますと、史実に反する「通説」を改めるべく戦って来られた藤本氏が、本書を強く批判されるのは、よく分かります。

しかし、本歴史館としては、藤本氏の見解を知った上で批判的に読むのであれば、それなりの価値がある、と考えています。近代軍の職業軍人が軍事のプロの視点から桶狭間合戦を分析したものであり、軍事のプロなればこその見方を知ることができるからです。

本書の構成は以下のようになっています。(カタカナはひらがなに、旧字は新字に、漢数字は算用数字に、変更しています)
第1篇 起因及び戦役前の形勢
- 第1章 織田今川2家の関係、第2章 織田の兵力、第3章 今川の兵力
第2篇 作戦
- 第1章 両軍の計画、第2章 地理、第3章 東軍の攻戦 第4章 西軍の逆撃
第3篇 戦後の動静及び結果
- 第1章 西軍の凱旋、第2章 東軍の撤去、第3章 織田今川2家の隆替
付記・付図・付表・補伝

第2篇が、参謀本部らしい見方が最も現れている箇所です。本歴史館の本文で書きました通り、参謀本部は、今川軍は2万5千の兵力を9部隊に分け、今川方の城や砦の守兵、織田方の水野氏の城の監視、織田方の各砦の攻撃など、それぞれに異なる役割を与えた、と見ています。この点、軍事のプロの見方として大変に参考になります。

この見方から分かる1点目は、織田軍は小兵力でも1点集中、その直接の相手となった今川部隊は全体の一部だけ、両者の交戦実戦力に極端な差は無かったということ。2点目は、今川軍には2万5千もの戦力があるのですから、部隊を分け役割分担を決めて効果的・効率的に攻撃を行っていくことが、大兵力の適正な活用法であるということ。

一方、本書については、軍事のプロである参謀本部への不満もあります。今川軍はどのように配置するのがより適切であったのか、実際の部隊配分・配置には、どういう問題があったために今川軍の敗戦となったのか、という視点からの分析は一切行われていません。本書の編纂は、日清戦争と日露戦争の戦間期、ここで今川軍を批判してしまうと、参謀本部自身が行った日清戦争についても反省や自己批判を求められてしまうことを懸念したのかもしれません。

世間にあるおびただしい桶狭間本でも、今川軍の敗因を追求しているものにはなかなか出会わないように思いますが、その責任も、元はと言えばやはり参謀本部にあったのかもしれません。

蛇足ですが、参謀本部が本書で、兵力に勝る今川軍はどうしていたら織田軍に勝てていたのか、という視点での検討をしなかったことは、のちの昭和前期の日本軍の戦法にも悪影響を与えたように思われます。寡は衆に敵せずが軍事の基本であるのに、とくに太平洋戦争期の日本軍は、寡をもって衆を破る桶狭間式の奇襲一本槍に陥り、米軍から見透かされていました。

今川軍はこうしていたら織田軍の奇襲も防いで勝てていた、やはり大戦力の効果的配置と共同が重要である、という分析を加えていたなら、投入する戦力をケチって逐次投入に陥ったり、無駄な奇襲を繰り返したりして、戦力を無駄に消耗することはなかったでしょうし、たまに奇襲をするにしても、その前に、日本軍の奇襲に対する米軍側の対策を十分に研究してその裏をかく方法をもっと真剣に検討していたのではないか、降伏判断を早く行って将兵と国民の膨大な無駄死に少しでも減らしていたのではないか、という気がするのですが。

本書は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、インターネット上で読むことができます。

本歴史館では、以下のページで、本書からの引用等を行っています。

第3室 織田信長 3-10 桶狭間合戦 1 合戦の準備

第3室 織田信長 3-11 桶狭間合戦 2 合戦の経過

第3室 織田信長 3-12 桶狭間合戦 3 義元の敗因

 

旧参謀本部 編纂 桑田忠親・山岡荘八 監修 『日本の戦史 桶狭間・姉川の役』
徳間文庫 1995 (初刊 徳間書店 1965)

『日本の戦史 桶狭間・姉川の役』 徳間文庫 カバー写真

上掲の参謀本部篇 『日本戦史 桶狭間役』 の現代語訳本です。姉川の戦いと合わせて1冊となっています。また、巻頭には、桑田忠親による概説が付いています。

参謀本部の原典は、明治の日本語なので、読みやすいとは言えません。現代語訳 にはそれなりの価値があると思います。

また、参謀本部篇の 『日本戦史』 には、上述の通り、「補伝」というものが付されています。これは、参謀本部が参考にした「数十種の材料」から抜き出した、信長と桶狭間に関するエピソード集、とも言うべきものです。

本書は、とくにこの「補伝」部分が現代語訳によってきわめて読みやすくなっているところに、一番の価値がある、と言って良いかもしれません。ただし、元となっている「数十種類の材料」の大部分は、史料ではなく創作や伝説に属するものです。史料ではなく読み物だ、と分かって読む文には、楽しく読めると思います。

なお、本書は、参謀本部の 『日本戦史』 の篇・章の付け方を変更しています。原典では篇となっていたものを章に格下げし、原典の章は単なる見出しとしています。その一方で、原典の「補伝」を第2篇に格上げしています。そういう修正をした、という注記が無い点は、出版の姿勢として問題があるように思います。

 

 

 

小和田哲男 『今川義元 - 自分の力量を以て国の法度を申付く』 ミネルヴァ書房 2004

小和田哲男 『今川義元』 カバー写真

本書は、義元研究の第一人者である著者による、今川義元の評伝です。

桶狭間合戦については、1章をあてて、義元側からみた桶狭間合戦が論究されています。

本書について、詳しくは、「第4室 4-5 小和田哲男氏の著作」のページをご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒田日出男 『『甲陽軍鑑』 の史料論 ー 武田信玄の国家構想』 校倉書房 2015

桶狭間合戦に関する黒田日出男氏の「乱取状態急襲説」(黒田氏自らのネーミング)については、小和田哲男氏のいくつかの著作中に、興味深い説として挙げられていましたので、読んでみました。元は、2006年に立正大学史学会編 『立正史学』 に発表された論文ですが、他の論文とまとめられ、本書として刊行されましたので、読みやすくなりました。

本書の構成は以下の通り。
序 『甲陽軍鑑』のアポリア
第1章 『甲陽軍鑑』の研究史
第2章 桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』
第3章 戦国合戦の時間論
第4章 『甲陽軍鑑』の古文書学
第5章 戦国の使者と外交
第6章 武田信玄の国家構想と新鎌倉
結 『甲陽軍鑑』論の未来へ

「第1章 『甲陽軍鑑』 の研究史」では、研究者からは、従来は「怪しげな軍学の書」とされてきた 『甲陽軍鑑』 について、これまでの研究史を整理することによって、「16世紀史を考察・記述するのに最も良質の史料の一つ」との見方への大転換を迫る内容となっています。本章は、慎重・緻密で説得力のある記述になっていて、大いに読む価値あり、と感じられました。

では、その 『甲陽軍鑑』 の記述からは、桶狭間について何が言えるか、というのが「第2章 桶狭間の戦いと 『甲陽軍鑑』」です。しかしながら、率直に申し上げて、本章では、第1章の慎重さ・緻密さと説得力が全く失われていて、極めて荒っぽい残念な内容になってしまっている、という印象を持たざるを得ませんでした。

本章での著者の論旨の最重要部分だけ、以下に要約します。まずは、『甲陽軍鑑』 の史料としての価値について。

● 太田牛一は、中嶋砦から「山際」までの間の信長軍の行動を書かない。意識的に省略されたと見るべき。
● 今川軍の行動や情報を物語る良質の史料に 『三河物語』 があるが、成立は1626(寛永3)年、あくまでも徳川方の視点、松平元康の行動を合理化し高く評価した叙述で、一定のバイアスがかかっている。
● 『甲陽軍鑑』 は、1573(天正元)~1585(天正13)年まで書き継がれ、1621(元和7)年に写された、『信長公記』 と比べても遜色がない史料。武田氏内部の事情についてはかなり疑問のある記述がありうるが、今川義元の敗死については、変な尾鰭をつけたり、虚偽の記述を付加しなければならない理由・動機はない。永禄3年当時の武田氏と今川氏は友好関係、情報がもたらされたはず。

本書・第2章の一番の問題は、『信長公記』 『三河物語』 『甲陽軍鑑』 3書の、情報の信頼性に対する検討・評価がフェアとはいえない点にあります。一言で言えば、『信長公記』 については言いがかり的に辛く、『甲陽軍鑑』 については、ひいきの引き倒し的に激甘の評価がされている、という印象を持ちました。

まず 『信長公記』 についてですが、「太田牛一は桶狭間合戦には参加していなかったのではないか」〔根拠提示なし〕、「もしも参加していたとしても、体験できることは限られており、多くは後になって得られた情報なのである」として、定性的に信頼性が低いと決めつけています。不公平な言いがかりとしか思えないのですが。

両軍合計数千人以上が広い地域に広がって動く合戦では、参加者の誰も、自ら「体験できることは限られており、多くは後になって得られた情報」は当たり前のこと。信頼できる合戦記録作成には、合戦の各所に参加した多数の人に幅広くインタビューを行って、全体像を明らかにすることが重要です。太田牛一は、たとえ自身が合戦参加者でなかったとしても、信長の家臣であり、桶狭間合戦の直後、記憶の新しいうちに、信長方の多数の合戦参加者に幅広くインタビューを行うのに間違いなく有利な立場にいましたが、著者はその点には全く触れていません。

『三河物語』 については、著者の大久保忠教は永禄3年にはまだ生まれたばかりで、『信長公記』 ほどの信頼性はないが、「今川軍として参加した徳川方の諸武将らによって語られてきた桶狭間合戦を示してくれている」、として比較的フェアな評価です。

一方、『甲陽軍鑑』ついては、成立時期について『信長公記』と遜色がない、義元の敗死に対し尾鰭や虚偽記述を付加する理由・動機はない、当時の武田・今川の友好関係で情報がもたらされたはずという、非常にマクロな定性論・「はず」論だけで信頼性ありと結論していて、乱暴な判断と思わざるを得ません。

実際のところ、『甲陽軍鑑』の方は、今川方の合戦参加・生き残り者に自由に面談してインタビューができたはずがありません。ほとんどの情報は、断片的な又聞きやそのまた又聞き、伝言ゲームの繰り返し状態で伝わってきたもので、バイアスはなくても、入手できた情報の信頼性自体がかなり低かった可能性が高いのではないか、と思われます。その点の検討をせずに、『甲陽軍鑑』 も信頼性のある良質の史料である、とは言えないでしょう。

では、『甲陽軍鑑』 の実際の記述については、著者はどのように評価しているのか。以下は再び、本章からの要約です。

● 『甲陽軍鑑』 中の「桶狭間の戦い」に関する記述は20箇所。これらのそれぞれについて詳細な検討を行うスペース上の余裕はないので、信長と織田軍がどのようにして義元に接近できたのかを中心として検討すると、
① 5月19日は、梅雨の晴れ間の日差しの強い蒸し暑い日
② 今川軍2万ばかり、信長は700~800ばかり
③ 義元軍は合戦に勝利後、諸方へ「乱取」に散っていた
④ 義元は桶狭間で西三河の法印らと朝御膳のところへ、信長が800ばかりで押しかけ、辰の刻の終わりに討ち取った
⑤ 信長は「乱取」状態の今川軍の散開中を味方のようにして入り混じって義元の本陣に近づき、首を取った。
● 朝合戦で鷲津・丸根両砦を陥し、佐々らとの足軽合戦にも圧勝した今川軍が、「乱取」状態に入ったところを、信長と織田軍は、それらの今川軍の兵にまぎれて、義元の本陣近くに接近した、ということではなかったか。

著者は、20箇所の記事の「それぞれについて詳細な検討を行うスペース上の余裕はない」として、個々の記事の信頼性確認を端折っています。実際のところ、20箇所の記事(記事A~T)中、4つの記事には、
● 松平元康は「15歳にて三河国岡崎の城へ帰城」〔実際には19歳・桶狭間後にはじめて帰城〕し、「大高の城を攻め落とし」た〔実際には大高は味方の城〕
● 岡部丹波守は「尾州星崎の城」にいた〔実際には鳴海にいた〕
など、明らかに事実に反する記述があるのに、著者はその点には触れていません。

『甲陽軍鑑』 の20記事中で合戦の具体的な内容を記述しているのは、義元が「乱取」状態で討たれたと記述したAの記事と、義元が桶狭間で「朝御膳」のところを攻められて討たれたとするSの記事の2つだけ。このA・Sの2つの記事を見てみましょう。

まず、記事Sについて、内容は以下のとおりです。

義元は「日の出6つ〔卯の刻〕過ぎ、5つ〔辰の刻〕初めになる」ときに、西三河の法印たちが持ってきたお見舞いの「朝御膳」を食し、「辰の刻終わり」に信長軍の800ばかりの人数で討たれた。

『信長公記』 の信長は、辰の刻にはまだ熱田の源太夫殿宮〔熱田神宮摂社〕前にいて、従っていたのは、馬上6騎、雑兵2百ばかりでした。『甲陽軍鑑』 のSの記事が成り立つためには、辰の刻終わり、つまり、そのわずか1時間ほど後に、信長とその将兵は、熱田から8キロ以上離れた桶狭間に行き、しかも義元の居場所を探し当て、そこまで行き着いていて、人数も4倍に膨れ上がっていなければなりません。物理的に無理です。

現実に、辰の刻終わりに、800人の兵を従えた信長が桶狭間で義元を討つことができるためには、『信長公記』 より少なくとももう1~2時間は早く、つまりは、今川方による鷲津・丸根両砦への攻撃のご注進が来る前に清須を出陣し、丹下・善照寺・中島の各砦にも寄らず、義元が朝御膳を食している場所に向かってまっすぐ進んでくる必要があります。しかも、辰の刻終わり、すなわち、『信長公記』 の信長ならようやく善照寺砦に着いたころには、もう義元を討ち取ってその日の合戦は終わっていた、ということになります。

つまり、『信長公記』 と 『甲陽軍鑑』 の記事Sは両立できるところがなく、もしも記事Sが正しいなら、『信長公記』 はすべて虚偽記載であった、という事になります。『甲陽軍鑑』 側は、どう見ても、『信長公記』 の存在を知らず清須と桶狭間の距離も知らない作者による創作話、としか思えません。しかし、この記事Sの信頼性について、著者は全くコメントしていません。

もう一方の記事Aの内容は、以下のとおりです。

人数700ばかりの信長軍が、「駿河勢の諸方へ乱取に散りたる間に、〔駿河勢の〕味方のように入り混じり、義元公は、三河の国の出家衆と…酒盛をしてまします所へ、〔信長軍が〕切りかかりて…義元の御首を取り給う」

この記事は、時間の経過は全く書かれていないので、時間が合わないということはありません。ただ、「義元公は、三河の国の出家衆と…酒盛をしてまします所へ」という記述は、記事Sと一致していますので、本来、記事Sに信頼性がないのなら、記事Aも信頼性がない、と判断するのが適切と思います。そこを一歩譲って、記事Aのそれ以外の記述を見てみると、駿河勢が乱取りで散っている中に信長軍が紛れ込み、義元の首を取った、という記述が残りますが、これが成り立つでしょうか?

「乱取」について、以下は、藤木久志 『雑兵たちの戦場』 からの要約です。

● 乱取りは乱妨取りともいい、人の掠奪・戦場の物取り。牛馬の掠奪や田畠の作荒し。人の生捕り。
● 戦場に押しかけた兵士たちは、放っておけば、勝手に敵地の村々に放火し、百姓の家に押し入って家財を乱妨取りする、戦場では放火と物取りは一体。
● 戦場の乱取り・乱妨取りの世界を、ひときわ大らかに活写するのが、『甲陽軍鑑』。
● 雑兵たちには、御恩も奉公も武士道もなく、たとえ懸命に戦っても恩賞があるわけでもない。彼らを軍隊につなぎとめ、作戦に利用しようとすれば、戦いのない日に乱取り休暇を設け、落城の後には褒美の掠奪を解禁せざるを得なかったに違いない。

すなわち、「乱取」とは、雑兵たちへの褒美代わりに、戦いのない日に敵地の村々への略奪を許すこと。『甲陽軍鑑』 と武田軍にとっては当然の行動であったようです。その日の早朝、鷲津・丸根両砦を攻略した部隊はいました。しかし、善照寺・中島・丹下の3砦攻略と鳴海城解放の鳴海作戦はまだこれからです。乱取りを許すのなら、鳴海作戦も終了したあと、あるいは熱田あたりまでの攻略が済んでから、というのが通常ではなかったかと思われます。

たとえ鷲津・丸根両砦の攻略参加部隊には乱取りを許容するとしても、彼らは今川軍中の一部だけ、鳴海作戦を控えている2万の軍勢の過半数は、乱取りに参加する権利はなかったでしょう。さらに言えば、その日兵たちがいた鳴海-大高-沓掛の一帯は、「敵地」ではなく、前から今川方となっていた味方の地でしたし、とくに鷲津・丸根両砦周辺の地域は、1947年の航空写真を見てもあまり家が建っていない地域なので、その点でも乱取り対象地とするには適切ではなかったと思われます。

乱取りをするなら、少なくとも鳴海作戦を終えて、丹下~善照寺の一帯から織田軍を追い出さないと、乱取りの対象となる敵地に進出できず、実施は困難だったのではないでしょうか。つまり、この日の昼間には、今川軍は兵に「乱取」を許容できる条件には達しておらず、兵も乱取りのし甲斐がある地域にはおらず、したがって、兵が乱取で諸方に散った、という記事Aの記述も、信頼性がないと思わざるをえないのです。

なお、織田軍の動きは見えていたのに、今川軍側が長評定で対応方針が決まらず、その間に織田軍が来て、今川軍は我先にと逃げ出した、と書いている 『三河物語』 の記述は、『信長公記』 と矛盾がないのですが、織田軍は今川軍の味方のように入り混じったという 『甲陽軍鑑』 の「乱取」説とは矛盾します。著者は、『三河物語』 の信頼性をそれなりに評価していながら、「乱取」説はそれと矛盾する、という点にも全く触れていません。

上掲の藤本正行 『桶狭間の戦い』 中で、藤本氏はこの黒田氏の「乱取状態急襲説」について、『甲陽軍鑑』 の記述から分かることは、「『甲陽軍鑑』 を書いた人間が、桶狭間の戦いに関して、太田牛一が 『信長公記』 に記したような開戦に至る経緯も、戦場の地理も、時間的経過も、全く知らなかったということだ」と評しておられます。誠に同感できる評価です。

この藤本氏からの批判に対し、著者は本書第2章の末尾の「付記」で、「その内容を検討してみると、〔藤本氏の〕従来の持論の繰り返しであってとくに新味があるわけではなく、したがって反論の必要はないと判断した」とコメントされています。藤本氏からの批判の中には、持論の繰り返し部分も確かにありますが、黒田氏の説に即した「新味」の部分も、明らかに入っています。それを無視されるというのも、また研究者らしくない姿勢、という印象を持たざるを得ないのですが。

 

 

次は、当時の木曽川をはじめ、長良川や揖斐川、庄内川・矢田川など、信秀や信長が渡河した川の河道は現在と異なっていたか否かという河道変遷問題について、本歴史館が参照した研究書や資料についての内容紹介です。