1546(天文15)年に古渡城時代に入り、翌年、岡崎の松平広忠を「からからの命」に追い込んで降伏させた時点が、信秀の一生の絶頂期でした。そこから信秀の人生は衰退期に向かいます。1548(天文17)年には美濃を失ったため、信長と濃姫との婚姻による斎藤道三との和睦という対策を施しました。
1549(天文18)年になると、信秀の人生はさらに暗転します。信秀には健康問題も生じて隠居せざるを得なくなり、末盛城を築いて古渡城から移ります。ここでは、信秀による末盛城築城と、健康問題について確認します。
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織田信秀の末盛城築城
『信長公記』 の末盛城の築城の記事
まずは 『信長公記』 の記事を確認します。末盛築城の記事(首巻8)は、ごく簡単です。
去程に備後殿〔=信秀〕、古渡の城破却なされ、末盛と云う所山城こしらへ御居城なり。
例により、時期が分かりません。古渡の城は破却して、末盛に山城を造って居城とした、というだけの文章です。
末盛城は、東山丘陵中に築城
先に、地図で末盛城の位置を確認しておきたいと思います。国土地理院のデジタル標高地形図「濃尾平野周辺」に、信秀が居城とした4つの城の位置を書き込んでみました。
勝幡城は低地中の微高地でした。ひょっとしたら、勝幡城時代には水害に襲われたこともあったかもしれません。那古野城と古渡城は、那古野城から熱田に伸びる、小高い台地の上でした。しかし、末盛城だけは、他の3城とは異なり、丘陵地に築城されました。
末盛城は、那古野城からは東へ5キロほど、名古屋市の東部、矢田川と天白川の間で南北に伸びている東山丘陵の中で、地下鉄名城線の自由ヶ丘駅方向から南西に張り出した丘陵の、山崎川の流れる谷に面した丘の南端の一つに築城されました。標高40mちょっとの丘の上で、ふもととの高低差は15mほどしかありませんが、南側は急斜面なので、南方に向かっての見晴らしは十分にあります。城址には城山八幡宮が建っています。
東山丘陵全体の中でも、三河方面からの侵入路となりそうな矢田川沿いや天白川沿いの地域ではなく、後背の丘陵に守られた谷沿い地域に築城された、というのは、今川勢の監視よりも、とにかく防御を重視した、ということだったのでしょうか。それだけ健康に自信が持てなくなっていたのかもしれません。あるいは、末盛築城の上述の経緯からすれば、末盛城は隠居用の城であった、だからこそ、山の上で守りを重視するとともに、那古野城の信長と容易に連携できる立地とした、と言えるのかもしれません。
末盛城の構造
末盛城の構造については、『新修名古屋市史 第2巻』(千田嘉博氏 執筆部分)に詳述されていますが、下は、その中の「末盛城要図」にある基本構造をトレースしてGoogleの航空写真上に表示してみたものです。同書に記された末森城の特徴は以下の通りです。
● 城山八幡宮の参道を進んで階段を登り切った橋の下は、空堀の跡。堀の上幅は15メートル、堀底と曲輪(本丸)の比高差は10メートル、直接壁面を登ることは不可能。
● 橋を渡って再び階段を登ると、広い八幡宮前の広場に出る。この広場が、信秀や信勝がくらした本丸跡。
● 馬出しは、多くの場合堀や土塁で守られた小さな広場で、出撃にも防御にも効率的な出入り口。南側の広場の場所が、城内でより上位の空間であったことを明示。
● 八幡宮の立つ北側の曲輪を守った堀は、城の北側が尾根続きだったため特に深く、立派。
● 末盛城跡は、名古屋市内で城郭中心部の遺構をまとまって観察できる唯一の城跡。城山八幡宮の境内として保護されてきたため、奇跡的に城郭遺構がよく残っている。現在残る遺構は、天正12年の小牧・長久手の戦いにかかわって最終的に整備された姿。
敵が攻めてくるとすれば、傾斜が厳しく登るのが困難な南側からではなく、尾根道の北側からとみて、南側に本丸を置き、北側の防備を厚くした構造であったようです。
末盛築城の時期、通説は1548(天文17)年、横山説は1549(天文18)年
では、この末盛城への移転はいつであったのか、横山住雄 『織田信長の系譜』 は、1549(天文18年)の末、という説です。以下は同書からの要約です。
● 『名古屋城史』・『日本城郭全集』など、天文17年築城説が主流を占めている。しかし、『信長公記』の記事は、信長と道三息女の婚約のあと。この婚約は天文17年末なので、末盛移転が天文17年のうちではあり得ない。
● 天文17年11月の清須衆による古渡放火の一件、平地の居館は敵の攻撃に弱すぎ、丘陵地への移転に迫られることになった。天文18年末までに西三河を失うと、いよいよ義元の尾張侵攻を予想、まさにこの時点で末盛城を築く必要が生じたと見たい。
● 〔末盛築城記事の次の〕『信長公記』、犬山・楽田勢に対し末盛城から出陣の記事、天文19年1月19日の事件であったこと、史料が証明。
末盛の築城・移転は、安祥城はじめ三河の拠点を次々に失った直後、というのが横山説です。
1549(天文18)年、織田信秀に健康問題が発生
村岡説は、1549(天文18)年、信秀は健康問題から隠居、末盛城に移った
これに対し、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」は、1549(天文18)年でも4月であった、との説です。以下は、同論文からの要約です。
● 伊勢内宮禰宜・荒木田守武が記した日記書簡の天文18年「卯月」〔=4月〕部分に、「長鮑千本 … 弾正忠入道」とあり、次行の一つ書きを隔てて「おハり〔=尾張〕より同道 若殿分祓」と記されている。
● 弾正忠は織田信秀を除いてはまず考えられまい。少なくとも、荒木田守武においては、織田信秀は隠居(入道)して家督を「若殿」に譲ったという認識。「若殿」とは、確証はないが、正妻の子である当時16歳の信長とするのが自然である。
● 天文18年11月の安城城陥落に先立って、すでに同年4月の段階で信秀は隠居したとする認識が定着していたと推定する。
● 信秀はこの時点で健康不安を抱え、隠居していたと推定する。信秀が古渡城を破却して末盛城に移ったのはこのころである。
● なお、小島廣次氏は、天文18年の信秀・信長の花押形態などから、同年3月段階における信秀隠居・重病説を唱えている。(『織田信長辞典』)
天文18年の3~4月に健康問題を生じて隠居を決めた、とすれば、濃姫の輿入れ(同年2月24日)からほとんど日付が経っていないときでした。たまたまそういうタイミングで健康問題を生じた、ということが一番の理由だったのでしょう。信長が結婚したことも、家督を譲っても良いプラス条件となったと思います。
ただし、結婚したといっても信長はまだ16歳、しかも「大うつけ」と言われている生活態度であり、それが18歳まで続いたわけです。家督を譲ると言っても、どこまで家臣を掌握できるか、心配されて当然の状態であったのではないでしょうか。
全くの推測になりますが、信秀は、隠居したとはいっても、信長に即座に全面的な権力移譲を行ったのではなく、信秀が権力は維持した上で、様子を見ながら少しずつ権限移譲を進めていくと宣言をした程度の状態であったのかもしれません。
天文18年、今川の三河攻勢に対し、信秀は健康問題で出陣しなかった
信秀の末盛城への移転について、同じ天文18年でも、4月とする村岡説と、年末とする横山説の相違点は、信秀の健康問題がいつから生じたのか、についての見方の差といえるように思われます。
4月から年末までの間に、今川は三河に攻勢をかけ、織田方は安祥を失い、西三河を喪失します。その時の織田軍の戦い方が、村岡説の主要な根拠の一つになっています。その点について、再び、上掲・村岡論文からの要約です。
● 安城城攻防戦の期間中、信秀は一度なりとも自身出陣した形跡がない。
● 荒木田守武が天文18年4月段階において信秀を入道と記している事実、同年中の安城遠征断念という事実からすると、病床に常時伏せるほどには至らなかったにせよ、4月ころには心臓ないし脳の血液循環障害の初期段階の発作を発していた可能性が高い。
● この段階で小康状態を得ることはよくあることで、それ以後における「備後守」としての安堵状発給の事実は説明がつく。
天文18年の今川の三河攻めへの対応の詳細については、次ページで確認しますが、その対応状況からは、はっきりと信秀の「異変」が感じられます。その点、村岡説の方が、説得力が高く感じられますので、本歴史館では、末盛への移転時期は、村岡説に従い天文18年の3~4月ころとみることにしたいと思います。
信秀に健康問題が発生し、隠居を決めたのとほぼ同時に、三河では大変化が発生します。岡崎の松平広忠が死去、それが引き金となって、今川による三河大攻勢が開始されます。次は、今川の大攻勢による三河の喪失についてです。