2-3 三河の状況と守山崩れ・伊田合戦

 

ここまで、勝幡城を居城とする信秀は「守護の家臣の家臣」であったこと、商都津島を領有し経済的には豊かであったこと、1533(天文2)年、まだ若い信秀は、守護代や3奉行の一人と対立したこともあったものの、京から山科言継卿らを呼んだ機会に和解したこと、などを確認してきました。

その若き信秀が、突然、尾張国外の三河・岡崎まで侵攻した、と記述している史料があります。大久保彦左衛門忠教の 『三河物語』 です。当時に至るまでの三河の状況を確認した上で、『三河物語』 に記述されている守山崩れ・伊田合戦は事実であったのかを確認します。

 

 

西三河での松平家の勃興と一族内の対立

三河は応仁・文明の乱末から戦国化、西三河では松平家が勃興

戦国時代の三河、とくに西三河情勢については、のちのち実際に信秀が三河に攻め込むときにも関連する内容ですので、少し詳しく確認したいと思います。以下は、松平家がどのようにして三河で勃興したのか、『新編安城市史1 通史編』(水野智之氏 執筆部分)の要約です。

● 三河国では、文明10年(1478)以降、戦国期に突入。応仁・文明の乱によって三河国の守護権力はほぼ崩壊、将軍家政所執事伊勢氏の被官、松平氏・戸田氏が台頭。
● 松平氏初代の親氏は、遍歴する旅の者で、三河国松平郷・松平信重の娘婿となった。松平氏が伊勢氏の被官となって活動をしたのは、2代泰親の代からと推定される。
● 3代信光は、安城城を奪取、文明8(1476)年ころ。岩津城下(岡崎市)に信光明寺を創建。惣領は岩津、三男親忠には安城城。松平氏は信光の段階で三河国に大きな影響を持つ一族に成長。信光は、長享2年(1488)に死去。
● 安城松平家の親忠は、大樹寺(岡崎市)を創建。文明16年(1484)ころ。文亀元年(1501)年死去。安城松平氏の基盤を固め、松平一族内での安城家の地位を高めた。

尾張の場合は、「第1室 1-3 斯波氏・織田氏と下津・清須」のページで確認しました通り、応仁の乱後も、守護家・守護代家による秩序が存続していました。一方、三河では守護家・守護代家の支配秩序は失われ、応仁文明の乱の末期から、松平氏のような新興勢力が出てきていたようです。

16世紀前半、安城松平家の勢力拡大

松平親忠が祖となった安城松平家は、その後岩津松平家の衰退もあり、松平一族内での地位を高め勢力を拡大していきます。以下は再び『新編安城市史1 通史編』(ただし村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 〔安城松平家2代〕道閲(長忠)時代の最大の事件は、永正三河大乱。永正3年(1506)8月、駿河の今川氏親と伊勢宗瑞〔のちの北条早雲〕は大軍を率いて三河に侵攻。宗瑞は西三河に遠征、岩津城の松平一族を攻め、岩津松平氏は降伏あるいは〔降伏的〕和睦、宗瑞は駿河に凱旋。岩津松平家は、宗家としての実態を失うほどの戦死者。矢作川西の安城松平家は勢力を温存。永正5年(1508)10月、今川勢力は西三河から撤退、その経緯等は不明。
● 安城松平3代目は信忠。家督移譲は永正6年(1509)。『三河物語』などでは、信忠は統率力に劣った暗愚の人とされているが、発給文書から見ると額田郡にも勢力を拡大。大乱で没落した岩津松平一族らの所領を自身の領地に併呑。

永正年間には、今川は松平の大敵であったこと、今川との抗争の中で松平一族宗家の岩津松平家が没落、安城松平家は、矢作川の西岸であったため勢力を温存できたこと、また今川勢が撤退すると勢力を拡大したことが分かります。

なお、『愛知県史 通史編3』(平野明夫・山田邦明両氏 執筆部分)によれば、信忠に家督相続を行った道閲「長忠は、1531(享禄4)年信忠の死後、1544(天文13)年まで生存していた」とのことです。すると、清康の守山崩れのときにはすでに父・信忠は亡くなっていたが、その祖父である道閲(長忠)はまだ生きていた、ということになります。

安城松平家、4代目の時代に、清康派と信定派に分裂

安城松平家は、3代目の末から4代目のころ、家中に対立があったようです。以下は、再び 『新編安城市史1 通史編』(村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 安城松平4代目の清康、江戸時代以来の通説では、13歳で信忠から家督を譲られ、岡崎に拠点を移し、戦に東奔西走して三河一国をほぼ平定した英雄的人物。ところが、歴代の安城松平当主と比べ、史料が極端に乏しい。
● 『三河物語』は清康が安城4代を継承してしばらくの間、非常な苦難と強調。清康の4代継承が、当初実態を伴わぬ虚構、安城におられず、少数を引き連れて山中城に転出、そこを拠点に安城とは独立した家中を築いていたというのが真相であろう。
● 「松平由緒書」には、松平一族と重臣は信忠が行儀(力尽くで仁義礼智を備えず)を改めなければ出仕拒否と申し入れ、引退を余儀なくされた、と。これが事実なら、人生経験の浅い清康の方が、一族の意に沿わせるのに都合がよかったからであろう。
● 清康が安城4代となったのは、大永3年(1523)から同8年(1528)の間。安城4代でも清康は山中、ついで岡崎にいた。安城家の立場・政治路線を継承すべき人物として信定擁立派が生まれたのであろう。信忠引退後の事実上の安城家4代は信定。

安城松平家3代目の信忠は、所領を拡大した実力者ではあったが、現代的に言えばパワハラがひどく、一族家臣からそっぽを向かれ引退させられた、その時松平一族は、まだ若くコントロールが容易な清康を立てたが、それを受け入れない者は、実力のある信定についていった、ということだったと推測されます。また、誰が後継となるのか、松平家内では家臣の意見も重要であったことが分かります。

実力が史料で証明されている信定・史料がなく実力の証明がない清康

清康派と信定派に分裂した安城松平家ですが、それぞれの事績について、再び 『新編安城市史1 通史編』(村岡幹生氏 執筆部分)からの要約です。

● 大永6年(1526)3月27日に尾張国守山の千句連歌会。「信定が守山に新しく知行地を与えられたお祝い」。信定は、清須守護代家から尾張国内に知行地を与えられる友好関係にあり、安城城と守山館の二拠点間を往来していた。(『宗長手記』)
● 『三河物語』は、清康20歳のとき(=享禄3年 1530)尾張に出兵、岩崎(日進市)と品野(瀬戸市)を手に入れて品野を信定に与えたという。しかしこれは、松平一族各人の尾張進出を、清康一人の主導にすりかえ、清康を英雄化した可能性が高い。
● 清康は大永7年(1527)以前に山中城から岡崎の家城に移転(『宗長手記』)。さらに享禄3年に、明大寺の地から今の岡崎城の地に新城を築いて移転した(岡崎城周辺の寺伝)とみるのが通説。尾張攻めに向かえる段階ではない。
● 清康の大樹寺へのかかわりは、天文4年(1535)の多宝塔造立まで確認できない。一方この間、安城家の人々が発給した大樹寺あて文書は多数。天文4年の大樹寺多宝塔造立の背後では、安城家一門の同意が取られていたはず。史料は伝わらないが、享禄4年(1531)と伝えられる信忠の死が和解のきっかけか。
● 『三河物語』は、尾張から三河・遠江境に及ぶ清康の華々しい戦果を記述。いずれも同時代史料で裏付けられないが、それらの戦の多くに松平信定が従軍したと。信定の清康従軍が事実とすれば、両者の和解が生まれた後でしかありえない。
● 大樹寺多宝塔の造立から半年余りのち、同じ天文4年(1535)の12月5日、清康は尾張国守山で、家臣阿部大蔵の子である弥七郎に切られて亡くなった。守山崩れ。

清康が、山中城から出発し岡崎に出て城を築き、大樹寺に多宝塔を造立したことは事実なので、それなりに有能であったことは確実でしょう。しかし、信定の活躍は史料でも確認できるのに、『三河物語』での清康の活躍は史料の裏付けがなく、信定はじめ松平家中の他の人々の活躍を、清康の活躍に仕立て上げて英雄化してしまった可能性があるようです。

『三河物語』 の著者・大久保彦左衛門忠教(ただたか)は、1560(永禄3)年生まれで、家康・秀忠・家光の3将軍に仕えた人物です。『三河物語』 は、1622(元和8)年ごろから執筆を始めた著作といわれており、清康の時代は、彦左衛門が生まれる20~30年も前、執筆開始時点からは1世紀近くも前のことです。彦左衛門が聞いていた清康に関する伝承は事実通りでなかった、という可能性は十分にあります。少なくとも清康に関する記事については、注意を払って読む必要があるようです。

ここまで、『新編安城市史1通史編』 によって松平氏の状況を見てきましたが、上記の要約は同書の内容のほんの一部です。詳細は、ぜひ同書をお読みください。

守山崩れまでの松平家関係地図

ここで、松平家に関しこれまで確認してきたことについて、地図で確認しておきたいと思います。

1535(天文4)年 守山崩れまでの松平氏関係地 地図

松平氏の拠点は、おおむね矢作川流域にあったことが良く分かります。安城は矢作川西岸ですが、他は東岸でした。松平清康が最初に拠点とした山中城は、松平氏の拠点全体の中では東寄りであったこと、そこから西進して岡崎に出てきたことが分かります。

一方の松平信定ですが、安城に加えて守山も持ち、さらに品野も手に入れていたとしたら、非常に広い地域で活躍していた人物であったことが確実です。尾張清須の守護代家とも好関係を持ち、連歌師宗長とも付き合いがあったのですから、軍事的にも政治的にも外交的にも有能な人物であったと言えそうです。

この地図を眺めているだけで、この時期の松平一族のリーダーは、名実ともに信定であったのではないか、という気がしてきます。家康の時代になって、家康は信定の直系ではなかったため、家康の血統を神聖化するために清康が英雄化され、その手段として信定の事績を清康のよるものと偽った伝承が作り出されていったのではないか、それが『三河物語』などで広められたのではないか、と疑いたくなりますが、いかがでしょうか。

 

1535(天文4)年、守山(森山)崩れと伊田合戦

守山崩れと伊田合戦、『三河物語』 の記述

ここまで確認してきた状況の先で、守山崩れという事件が発生しました。清康に関する記述は信用できないとはいえ、まずは、『三河物語』 の記述自体を確認したいと思います。以下は、同書からの要約です。適宜現代語訳をしています。

森山崩れ

● 松平清康は、安城城主松平信忠から13歳で家督を相続、山中城を奪い岡崎城を獲得。若年で西三河を攻め取り、20歳の頃に尾張の岩崎〔日進市〕・品野〔瀬戸市〕を攻め従える。さらに吉田〔豊橋市〕の牧野信成を滅ぼし、東三河も従える。
● 〔清康の勢いを見て〕甲斐より同盟しようとの使者。美濃3人衆からも「早くご出馬されよ」。尾張の森山〔守山〕城主も案内をするというので、美濃を攻めようと考えた。
● 1万余りで岡崎を出発、岩崎で陣、翌日は森山で陣。織田弾正之忠〔信秀〕は清須にいた。美濃3人衆は、「すぐに墨俣を越え出発しご対面したい」と言って寄越す。
● 松平内膳〔信定〕は〔清康を〕恨みがましく思い、上野の城〔豊田市〕にいて、仮病を使って〔森山出陣の〕共をせず。内膳が織田弾正之忠と同盟して裏切った、と森山に知らせが入るが、清康はことともしない。弾正之忠が向かってくるなら合戦して打ちやぶれ、と言う。
● 馬が逃げ出し人が騒いでいるのを、〔家臣安部大蔵の長男弥七郎は〕父の大蔵を処罰するのかと思い、清康を切り殺した。上村新六郎は、弥七郎をその場で切り伏せ、足で蹴り殺した。新六郎は〔主君への忠義として〕追い腹を切ろうとしたが、皆は若君の先陣として討ち死にすべきとさとし、皆で森山から落ちていった。

伊田合戦

● 守山崩れの10日後には、織田弾正之忠が三河に討ってでて、大樹寺〔岡崎市〕に本陣。
● 皆は、岡崎を半里程出て、伊田の郷で敵を待ち受けていたが、雑兵ようやく8百。伊田の郷は、上は野原で下は田んぼ。弾正之忠は、野の方へ4千、田の方へ4千攻め入った。岡崎衆も、8百を二つに分けて、野の方へ4百、田の方へ4百とし、迎え討つ。
● 野の方は、広い野原で4百が4千に取り巻かれ、一人残らず戦い死んだ。〔田の方は〕百四五十人が一団となって突きかかり、防御線を突破、しずしずと押し寄せる。敵はかなわないと思ったか、我先に大樹寺に逃げ帰った。敵は河〔矢作川〕を越え、味方は岡崎へ、敵味方とも撤退した。三河で伊田合戦というのは、ことのことだ。

守山崩れ~伊田合戦がいつのことであったのか、清康が25歳を越える前、とされています。

清康は美濃攻めで1万の兵力で守山出陣とか、わずか4百が4千を逃げ帰らせたとか、ホラ話にしか聞こえないような内容すら含まれていますが、研究書はどう見ているのでしょうか。

伊田合戦も事実とみる横山説

守山崩れから伊田合戦に至る経緯について、横山住雄 『織田信長の系譜』 は、その概略を事実とみているようです。以下は、同書からの要約です。

● 『宗長手記』から、大永6年(1526)には、守山城は、松平与一(信定)の居城。守山領有はごく最近のことで、領有は斯波・織田氏にも承認された一件。
● 松平信定は守山城主で、那古野城の後詰めの城として今川竹王丸を背面で支えていた。信秀は、那古野城攻略に当たって、松平信定の娘と〔信秀の弟〕信光の婚約という条件で、松平信定と密約していたかも知れない。
● 天文4年の11月ごろに信秀が那古野城を占領すると、駿河今川氏は岡崎の松平清康に那古野城奪還を命じ、それをうけて清康が松平信定の守る守山城へ出陣したという一連の因果関係があるのではないか。
● 信秀は、守山崩れを知って、10日後には岡崎へと軍を進めた。十倍の兵力の信秀は大敗して追い返されてしまったが、尾張から今川の勢力を一掃し、さらには三河の矢作川以西の豊田市一帯を占領することに成功した。信秀は、豊田市上野を本拠とする松平信定に新領土の支配を任せ、守山城を信定の娘婿で信秀の弟の孫三郎信光に与えて、広大な領地の支配を確定してゆく。

1535(天文4)年の段階で、岡崎松平氏が今川傘下になっていたとは思われませんし、その他この見解の中核となっている、信定と信秀の密約や、那古野城奪還のための守山出陣については、史料の裏付けがない推測、と言わざるを得ないように思われます。

この横山説の場合、守山崩れを信秀の那古野城奪取と関連付けて見ていて、那古野城奪取は1535(天文4)年の11月ごろ、との見解となっています。しかし、信秀の那古野城奪取の詳細については次のページで確認しますが、1536(天文5)年には今川那古野氏はまだ健在であった可能性が高く、そうなると、そもそも那古野城奪還のための守山出陣、という推測は成り立たなくなるように思われます。横山氏は、もともと信秀の那古野城奪取・天文7年説を最初に提起された方であり、なぜ本書では天文7年説を捨てておられるのか、理解に苦しむところです。

守山崩れ・伊田合戦に疑問を呈する『新修名古屋市史』・『新編安城市史』

横山説のように、伊田合戦を事実とみる見方に対し、『新修名古屋市史 第2巻』(下村信博氏 執筆部分)は、下記のように疑問を呈しています。

● 松平清康の尾張侵攻に際して、清須守護代織田達勝をさしおいて信秀の名があげられる一方で、那古野城に関しては関係史料に何も言及されていない。
● 『三河物語』のいう「1万余騎」は信じられない。
● 信秀が、那古野城をはじめ尾張東部も獲得できていないこの時期に、三河岡崎まで進攻できる力があったかは疑問。
● 「守山崩れ」から「井田野〔伊田〕合戦」に至る経過については、『三河物語』など松平氏関係史料には詳しいが、尾張側の史料の記述は全く乏しい。

また、『新編安城市史1 通史編』(村岡幹生氏 執筆部分)は、上述の通り松平信清の事績として『三河物語』に挙げられていることの全般に疑問を呈していますが、さらに伊田合戦は「架空の話」とみています。以下は同書からの要約です。

●天文4年(1535)の12月5日、清康は尾張国守山で、家臣阿部大蔵の子である弥七郎に切られて亡くなった。この事件のことは守山崩れとよばれる。
● 〔守山崩れの〕真相を伝える同時代史料は伝来していない。『三河物語』がいう美濃攻め入りは現実性がほとんどない。
● 織田信光(信秀兄、信長伯父)が守山城主となったのは、天文7年(1538)の織田信秀が那古野に進出して以降のことと考えられる。それ以前に守山をめぐる情勢に大きな変化があったことを示す史料はない。守山まで遠征できるには、信定との和解が前提となる。信定と友好関係にあった清須守護代織田氏を攻撃する理由も考えられない。出陣ではなく、清須守護代勢力との友好を深めるために出向いていたのかもしれない。
● 〔伊田合戦について〕信秀がこのとき三河まで進軍することは想定しづらい。この戦闘は、清康死後の松平家臣団の結束を強調するために作られた架空の話であろう。

谷口克広 『天下人の父・織田信秀』 も、「近年、清康の事績を裏付ける確実な史料が乏しいことから、その活躍ぶりに対する疑問が投げかけられている」、伊田合戦については「伝説にすぎないであろう」として、『新編安城市史』 の見方を支持しています。『三河物語』には、他にも、4百が4千を打ち負かしたなどとホラ話としか思われない記述もありますので、本歴史館も 『新編安城市史』 に従い、「伊田合戦」はなかった、とみることにいたします。

ついでに言えば 『松平記』 は、清康の守山出陣について、総兵力は書いていないものの、「雑兵1千余騎にて駿河よりもご加勢有りて」と、今川兵も参加したように書いています。つまり、『三河物語』 にさらに尾鰭が付け加えられていて、ますます信用ならなさそうであることも付け加えておきます。

 

守山崩れ~伊田合戦の地図

勝幡~守山~岡崎・伊田の距離

守山崩れから伊田合戦までの関係地を、地図上で確認したいと思います。一目で、勝幡~守山~伊田の距離の遠さが分かります。

1535(天文4)年 守山崩れ~伊田合戦? 地図

 

地図から見る守山崩れ

まずは、守山崩れですが、松平清康は、岡崎から岩崎経由で守山に行ったとされています。岡崎城から岩崎城までは、直線で約24キロ、岩崎城から守山城までは、直線で約10キロの距離です。ようやく大樹寺に多宝塔造立ができたばかりの清康です。信定なしの単独で、大軍を率いて布陣するような力はなかったと思われます。『新編安城市史』 が言う通り、なにか別の事情で守山に来た、というのが実態であったのではないでしょうか。

一方、尾張側ですが、守山城まで、清須城からは約10キロですが、勝幡城からはそのほぼ倍の距離です。もしも三河勢から守山を守る必要が生じたなら、地理的には清須勢が中心となって対応するのが適切であり、勝幡の信秀は主戦力ではなかったと思われます。

地図から見る伊田合戦

『三河物語』 の通りに、伊田合戦が本当に行われていて信秀が出陣していたなら、信秀はかなりの長距離行軍を行ったことになります。勝幡城から大樹寺まで、那古野今川氏領を迂回して守山方面から進めば、総距離50キロ以上、途中で1夜の野営が必要で、全行程の半分は敵地内です。余程の大軍を率いていない限り、岡崎にたどり着く前に松平方の武将と遭遇戦になったりするリスクが十分にありますので、動員力のない当時の信秀がそんな無謀な行軍をしたようにはとても思われません。

上野城の松平信定から頼まれて援軍を派遣したならまだ理解できないこともありませんが、実績によって実質的に松平一族のリーダーであった信定が、清康死去後の岡崎を武力攻撃する理由もなく、ましてや、隣国から援軍まで呼ぶ必要はなかったでしょう。やはり単純に、伊田合戦はなかった、と見るのが妥当と思われます。

なお、大樹寺は、岡崎城の北約3キロ、その中間の大樹寺寄りの地域が伊田(井田)です。

 

 

次は、信秀による那古野城の奪取と、那古野城時代の信秀について、です。