2-14 犬山勢・楽田勢の謀反

 

今川勢による三河攻勢で安祥城を失って間もなく、今度は尾張国内で犬山勢・楽田勢の謀反が発生します。ここでは、犬山勢・楽田勢とはどんな勢力であったのか、謀反の理由は何であったのか、どのような対応が行われたのか、を確認します。

 

 

1550(天文19)年1月、犬山・楽田勢の謀反

犬山・楽田勢の謀反についての『信長公記』の記述

信秀の末盛城時代の事件で 『信長公記』 に唯一記述されているのが、「犬山謀反企てらるるの事」(首巻8)という記事です。信秀の末盛城への引っ越しの文章にすぐ続けて書かれています。以下は、『信長公記』 からです。

正月17日、上郡犬山・楽田〔がくでん、犬山市〕より軍勢を出し、春日井原をかけ通り、竜泉寺の下柏井口へ相働き、所々に火をつけた。即時に末盛より備後守〔信秀〕の兵が駆けつけ、取合い、一戦に及び切崩し、数十人を討取り、春日井原を犬山・楽田衆が逃げ崩れた。… 備後殿御舎弟織田孫三郎〔信秀の弟・信光〕は一段の武篇者だった。是は守山と云ふ所に居城していた。

犬山・楽田勢が龍泉寺近くまでやって来て火をつけたので、即座に末盛から応戦、犬山・楽田勢は逃げていった、という記事です。続けて、信秀の弟・信光のことも書かれていますが、犬山・楽田勢に対応した主力部隊は、春日井原に最も近かった守山の信光の戦力であった、ということでしょうか。

謀反事件の発生は、天文19年1月19日

例により、『信長公記』 のこの記事には、年号は入っていません。角川文庫版および角川新人物文庫版には天文18年、と注記されています。しかし、謀反の発生日が確認できる史料が存在しているようです。以下は、横山住雄 『織田信長の系譜』 からの引用です。

この犬山・楽田の謀反は従来天文18年1月17日のこととされている。この説によれば天文17年のうちに末盛城が完成していなければならなくなる。しかし謀反は、実は1年後の天文19年1月19日の事件であったことが次の史料〔=犬山市楽田・永泉寺史料〕で証明できる。

この事件のさいに、春日井原で討死した犬山・楽田方の武将の葬儀が、楽田の永泉寺で行われていたため、この日付が判明しているとのことです。

 

犬山謀反事件のときの犬山の城主は誰であったのか?

当時の犬山城主は岩倉系

尾張国内のうち、清須衆に対しては斎藤道三との和解により対策を行ったが、今度は犬山勢・楽田勢という対抗勢力が出現した、ということになります。この犬山・楽田勢謀反の記事の意味を理解するため、まずは、犬山城の城主はどのような家系の誰であったのかについて確認したいと思います。以下は、横山住雄 『新編犬山城史』からの要約です。

● 岩倉の織田伊勢守敏広の弟・広近は、小口(現大口町)に築城して、寛正元年(1460)に入城。さらに、文明元年(1469)(一説には永享年中)、犬山郷木ノ下村に築城、これはいわば前線の砦。広近は、文明7年(1475)隠居、延徳3年(1491)年没。
● 広近以降は、『犬山里語記』 を基本にする通説に従えば、織田伊勢守敏貞―織田左馬助敏信―織田伊勢守信安―織田弾正忠信定―織田与次郎信康。しかしこれら城主は、種々の資料から、信康を除いてはその在城がほぼ否定される。
● 広近を継いだのは、子の(遠江守与十郎)寛近(とおちか)(← 広近画像讃)。
● 犬山城は、天文6年〔1537〕頃、1キロほど北の三光寺山へ移した。

犬山城は、小口城主の広近が砦として作り、その子でやはり小口城主の寛近が継いだ、というところまでは確実のようです。問題は、寛近の後どう引き継がれたかであり、その点について信頼性の高い史料が存在していないようです。本著の段階では、著者は、寛近から信康、さらに信康の子の信清が継いだ、城を三光寺山へ移したのは信康であった、という見解でした。

謀反事件当時の犬山の城主は、織田宗伝であった

その後、著者の史料発掘が進むにつれ、見解が変化していきます。同氏の 『織田信長の系譜』 では、天文19年の謀反事件の「当時の犬山城主といわれる織田十郎左衛門信清は、天文6年(1537)頃の生まれとしても、満13歳になるかならないかの幼少の身」として、誰か後見役が謀反を仕掛けた可能性を論じ、謀反事件は、なぜ発生したかを示す史料はないが、弾正忠家の内紛と考えられる、との説でした。

同氏 『織田信長の尾張時代』では、さらに史料の探求が進み、もう一度見解が変わります。以下は、同書からの要約です。

● 飯田市開善寺過去帳より、犬山城主一族は、珎岳常宝・本英貞光・夫信宗本・梅岩常秀・心甫宗伝の5人。別史料から、珎岳常宝は織田広近、本英貞光は、広近の子である寛近の母、夫信宗本も女性で宗伝の妻、また、寛近と心甫宗伝は同一人物ではない。
● 村岡幹生氏は、〔健康問題発生後の〕信秀の対外職務を代行したのは、織田与十郎寛近とした。寛近は末盛城へ移って職務を代行、犬山城主は宗伝に譲らざるをえなかった。

天文19年の謀反事件のときの犬山城主は、寛近の一族で、宗伝という法名を持つ人物であったようです。

当時の小口城主・織田寛近は、親信秀だった

宗伝に犬山城を譲った小口城主の寛近ですが、大変に長生きをした人物でした。上述の通り、1475年に隠居した広近を継いだようです。一方、1551(天文20)年11月5日付け書状により、重病の信秀に代わって美濃の土岐頼芸の子の小次郎に書状を書いています(横山住雄 『織田信長の系譜』)。元々は岩倉の伊勢守系であったのに、信秀と親しい関係になっていたようです。

織田寛近は、1544(天文13)年の、5000人討死となって失敗した信秀の美濃攻めのとき、美濃の立政寺(岐阜市)に禁制状を出していて、美濃攻めに参加したことが確認されています。「織田寛近は小口城にあって、信秀とは縁の薄い尾北の伊勢守系であったが、信秀軍の中核となって出陣」(横山住雄 『犬山の歴史散歩』)したので、その時に信秀との関係が出来たようです。すでに確認しました通り、美濃攻めは、守護が尾張国連合軍の派遣を決定し、信秀はその司令官に任じられたものです。尾張国連合軍であったからこそ、守護の指示により、岩倉の伊勢守系の諸将も参加、その結果として信秀との交流が生じたものと思われます。

1544(天文13)年の美濃攻めは、1475(文明7)年の広近隠居から69年、1491(延徳3年)の広近没後でも53年、経過しています。隠居時ではなく広近没後に継いだとしても、この美濃攻め時には「少なくとも70歳を超えて」いましたが、合戦時に「この年齢においても現役であったということから、男子に恵まれなかったということも考えられ」るようです(横山住雄・同書)。

天文20年頃には、少なくとも80歳前後となっていた計算になります。長生きしたと言われる家康でも享年75歳であった戦国時代、正直なところ広近と寛近の間にもう1代あった可能性が高そうに思われるのですが、80歳を越えての活躍もあり得ないわけではなく、実際に大変に長寿の人物であったことを確証する史料が発見されることを願っております。

楽田城主は織田寛貞?

楽田の城主が誰であったのかは、さらに史料が乏しいようです。以下は、再び横山住雄 『新編犬山城史』(同著者 『犬山の歴史散歩』にも再出)からの要約です。

● 楽田城の創築は永正年中〔永正元年は1504年〕織田弾正左衛門久長によると伝えられている。久長は永正の頃はおそらく故人で久長築城説は怪しいが、史料より永正14年〔1517〕頃にはすでに楽田城が存在していた。
● 降って永禄の頃〔永禄元年は1558〕は久長の子孫という織田寛貞が居城していたが、犬山城主織田信清に永禄初年ごろ攻め落とされたらしい(「塩尻」)。

永禄初年となると、この謀反事件の約10年後、ということになります。織田寛貞は、謀反事件のときにも楽田城主であったのか、何とも分かりません。

なお、『愛知県史 通史編3』(村岡幹生氏 執筆部分)は、妙興寺(一宮市)の史料から、1517年の楽田城主は、岩倉守護代・織田寛広の弟である「織田広遠本人かその後継者と比定できる」と見ていて、1537年には広高が継承した、と見ています。

 

犬山謀反事件の原因と対策

犬山・楽田勢の謀反は、今川義元の策動が原因か

謀反事件当時の犬山城主が織田宗伝であったとすると、なぜ謀反を起こしたのか、また、どのような対応策がとられたのか、以下は、横山住雄 『織田信長の尾張時代』 からの要約です。

● 犬山市楽田の永泉寺史料より、犬山勢の出兵は天文19年〔1550〕1月17日のことで、春日井原から森山口(守山口)で合戦があったとみられる。
● 犬山織田氏単独は考えられない。道三と組むこともない。残るは、今川義元が信秀を攻略するため、背後の犬山と手を組んだという見方である。
● 宗伝は、今川義元の軍師である太原崇孚〔雪斎〕と妙心寺の同門。別史料から、宗伝は犬山城主として天文19年1月に挙兵したものの失敗、京都へ落ちのびて亡くなった。
● 信秀は、〔宗伝追放後の〕犬山城主として弟の信康の子である信清を送り込んだのではなかろうか。

犬山城主となった織田宗伝は、たまたま太原崇孚と臨済宗の同門であったので、今川方はその関係を利用して信秀への謀反を仕掛けさせた、ということであったようです。

天文17年の美濃攻めの際には、斎藤道三が清須衆をけしかけて、信秀の古渡城下を攻めさせました。そして天文18~19年の今川の三河攻勢期には、今川方が犬山城主宗伝をけしかけて謀反を起こさせた、ということで、戦国時代にはよくある手口の一つであったと言えそうです。

謀反鎮圧後、信秀は甥の織田信清を犬山城主とした

なお、謀反事件後に犬山城主となった織田信清は、信秀の弟で天文13年の美濃攻めのさい戦死した信康の子であり、さらに信秀の二女と結婚しています。つまり、信秀にとっては甥であり娘婿である、(信長にとっては、いとこであり、姉の夫である)という関係になりました。

しかし、のちに信清は信長と対立し、謀反事件からは15年後の1565(永禄8)年、信長に犬山城を攻略されて、甲州の武田信玄のもとに逃げ出します。一方、妻の信秀二女は同行せず尾張にとどまり、「犬山殿」と呼ばれて甥の信雄から所領をもらいます(横山住雄 『織田信長の系譜』)。

 

1550(天文19)年の犬山・楽田勢の謀反に関する地図

犬山・楽田勢の謀反についても、地図で確認しておきたいと思います。

1550(天文19)年1月 犬山・楽田勢の謀反 地図

当時の犬山城は、現在の犬山城の西南の隣山(三光寺山)にありました。一方、楽田城(犬山市)は、名鉄小牧線楽田駅から南に300m弱、その跡には楽田小学校が建っていて、その正門脇に楽田城址碑が立っています。上述の史料に出てくる永泉寺は、楽田駅から北に300m強のところにあります。

犬山城から楽田城までは南に向かって直線で7キロ弱、楽田城から竜泉寺までは南に12キロほどでした。一方、守山城から竜泉寺までは北東4キロ強、末盛城から竜泉寺までは北7キロ弱、という位置関係でした。

地図からすぐわかることは、もしも犬山・楽田勢が本当に末盛城(信秀)を目指して出撃していたなら、まずは守山城(信光)を相手とせざるをえず、そこを通り越せたとしても、那古野城(信長)・末盛城(信秀)からの軍勢も加わって、包囲される可能性がきわめて高い位置関係であった、ということです。

謀反事件は、今川勢による信秀方への攻勢と攻勢の間のタイミングで起こりました。今川勢の攻勢と連動していれば信秀陣営側でもあわてたと思われますが、そうではない独立の事件でした。これでは、軍事的にはつぶされるべくして潰された謀反であった、今川方も、何のためにこの時期に謀反を起こさせたのかがよくわからない事件であった、という気がしますが、いかがでしょうか。

 

 

三河を失い、尾張国内からの謀反事件も発生した天文19年でしたが、その2年後の天文21年、信秀はついに死を迎えます。次は、信秀の死と後継問題についてです。